カオスの弁当

中山研究所blog

異世界の風

 

 「遠くへ行きたい」という欲動は、文学の深淵から絶えず吹き上がる突風である。

 ところで、そんな欲動とは別に、その場に留まろうと欲する気持ちもまた、地上には存在する。

 

 上野のパンダの檻の周りを想像してみれば能くそのことは分かるだろう。

 早く見たい、見たい、という気持ちに駆り立てられて進んで行く内に、肝心のパンダの姿は熟視するまでもなく、視界の端へと追い遣られていく。

 自由ならないものである。

 

 昨今の異世界系と呼ばれる一群の物語と日常系と呼ばれる物語は根本的には相容れない、水と油のような関係にある。

 今、ここではない何処か遠くを志向する異世界系が、日常として成立する状況は、移動し続ける過程のみである。冒険そのものが、日常であり、その日常が物語として描かれている。

 

 対する日常系は、待ち受ける波瀾万丈の冒険の先にある。

 とはいえ、そこに於ける日常の風景というのは、単なる前線の後方に過ぎないという事実が忘却された、退屈な冒険の様子を描いたものであるーーという事も可能である。

 ただ、その指摘は、単に日常という語を言い換えたに過ぎず、死ぬ程退屈な、詰まらない日常として冒険を描き出したい感情について、言及するには至っていない。

 

 異世界に於いても一瞬も途切れる事のない冒険物語は、読者にとって、一瞬も忘れる事の出来ない日常というものを、前提として初めて成立する娯楽である。

 その恒常的な恐慌状態に於いて、得る事の出来ない退屈な冒険を供給してくれる一群の物語というのが、仮に日常系と呼ばれるジャンルに属する諸作品であるとするのであれば、その需要が遂にそのジャンル自身で以って賄えなくなり、日々の退屈を紛らわしてくれていた異世界系というジャンルさえも、その一部を日常系のラインへと切り替えなければならなくなった状況に於いて、『異世界日常系』なる物語は成立し得るものと考えられる。

 

 折角の異世界にあっても、当たり障りの無い日常生活が求められる。宛ら、その嗜好は、古代エジプトの死者の柩の内に収められて副葬品からも見て取る事が出来る。

 但し、今日の異世界日常系と呼ばれる物語の傾向は、現世と同じ水準の生活を他界でも送ろうという消極的な姿勢よりは寧ろ、転生先を新天地と見做して、そこでひと旗挙げようという、活力に溢れた、積極的且つ意欲的な人物達の姿勢を描いて見せる所に、荒唐無稽ながらもその独特の魅力の源はあると言えるだろう。

 

 勿論、全ての異世界日常系に於いて、転生先は輝かしいフロンティアとして描かれているかと言えばそうではない。

 とはいえそこは、懸命に努力を重ねれば、例え他所の世界から移り住んで来た、何の後ろ盾もない一異邦人であっても、日常を享受する事の出来る範疇として描かれている。

 

 こうした需要の高まりが、果たして前提としている社会状況の変化については、専門家でも無い筆者が如何の斯うのと識者振りに語るのは控えたい。現状分析については、今をときめく、社会学者、経済アナリストの優れた記事が綺羅星の如く、遥か天空に満ち満ちている。

 

 但し、だからと言ってそれらの研究に阿って、筆者が小文を認めたという事は決してそうではない。また、語弊があって、命懸けの危険な冒険を描いた物語よりも、何処かに根を下ろし、そこで先ずは生活の本拠を営むという細やかな、然し困難な物語が劣っているとか、或いはそうした物を読みたがるのは軟弱だ、とか主張したいのか、と思われているようであるならば、筆者はそれについても、断じて否である。

 

 強いて言うなら、筆者はこの日常系と異世界系という二つの物語への志向が、そもそもの物語に対する読者の志向の始原であると言いたい。

 「自分とは何者で、いかに自分はあるべきか、否や」という問いは、先ずは一旦、この安定した土台が築かれない内には、それこそ、地に足のつかない、眼差しも文字の上を滑るようにしか読み取る事は出来ないであろう。道なり軌道なりが建設されない内は、またそこからの逸脱というものも有り得なかろう。

 

 窮屈で味気ない印象を甘受する事が、果たして今日、仮に現実世界に於ける日常からは望むべくもない。そう考えるのであれば、彼らの想像力が、異世界という新天地に及んで、その領域に於いて自分たちが「逸脱」を可能にする為の、確固たる安定したレールを敷設せんとするのは、果たして何の不思議もない。

 そして、そのフロンティアに於いては、先ずはその前哨基地ともいうべき、営々たる生活の土台を築かんと欲し、軈ては其処で新天地には相応しい新秩序なるものを、如何様な手段によってなされると雖も、自らが敷設したレールの上に建設せんと欲する事は、実に容易に想像可能である。 

 然も、これらの冒険は、果たして一切が架空の、謂わば机上に置かれた紙面上に於いて繰り広げられる。その限りには、読者はその冒険者としての責任は一切免れる事が出来る、絶対安全圏に身を置く事が出来る。その安全圏というのが、例え読者にとって如何にも酷薄な環境であったとしても、決して彼らはその世界で後に犯罪者として裁かれる事はないのである。

 

 想像の翼は、現実の領域に着地せぬ内には無垢でいられる。

 然し、そうしている内にも痩せ衰えていく。生身の身体と自己自身というのは、忘却されるべきではない。

 果たして嘗てに於いて説かれるべきであったは、無限の退屈に対する忍耐よりも、寧ろ有限の恐慌に対する降参ではなかったか。衰微する現実を見限るでもなく、引いた一線向こうの異世界に対する憧憬と、そこに己の有り得た可能性を投影し続けること。そして、行く行くはその眺めていた対象が喪失した後にも、残された日々の中で、その眼差しを忘れず淡々と己が生活を送ることーーそこには、ただただ見上げる許りの緩怠がある。その倦怠こそが、紛れもなく、読者の憧れた逸脱を可能にする、退屈であるまいか。

 例え虚構の空が下であったとしても、そこへ意識を運ぶ事で有終の美を飾れるーー此のことが、果たして今日読者の心を捉えて離さない物語の魅力であると言えまいか。如何に。