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中山研究所blog

日本アニメ電線・電柱考(1)「エヴァ」と「lain」(前)


日本のアニメで電線・電柱(その他の架線・鉄塔も含む)が「効果的」に用いられている作品といえば、発表順に『エヴァ』と『lain』が挙げられる(と思う)。
前者では専ら、作品世界に空間的な広がり(奥行き)を与え、後者においては理念的な作品世界観の展開に貢献している。
前編となる今回は、「エヴァ」での電線・電柱の齎した効果について見ていきたい。

 

(1) ものさしとしての電柱

これは「エヴァ」に、というよりも、特撮映画に通ずる古典的な使用法であるといえよう。

だが、この用途で電線と電柱を用いようとする場合、予め視聴者がその大きさなど既知でなければならない。とは言え、巷にありふれた規格品としての電柱は、見知らぬ人こそ稀である。

だが、今次、視聴者が海を越え、諸外国にも得られる様になった時点で、電線及び電柱は、セミ、コオロギの鳴き声と並んで、風土的なシンボルになってしまった。

 

(2) 広がる領土(ランド)を繋ぐ暗喩(メタファー)

他方、空に架かった電線は全国津々浦々に至るまで張り巡らされており、それは無数の経由地を経て、遠く離れた端と端も繋いでいる。

国土の多くを山地が占める本邦において、高圧電線は聳える山塊も跨いで、文字通り、一つの「組織」を形成している。

アニメではないが2006年ごろに放映されたNTT東日本のCMでは、そのCMソング(梶原敬之『遠く遠く』)で歌われたは人間同士の関係のメタファーとして、その「網」を演出してみせたりしていた。

とはいえ、そうした「有線」的イメージは衰退の一途にある。果たして今次においては矢野顕子の『電話線』も最早「懐メロ」の内に数えられる程であり、「(電子)メール」も最早歌われる事少ない。代わりに、より抽象的な“絆”という言葉が用いられるようになったが、矢張り、具体的に形に見えないものであるからか、これと言ったシンボルも無さそうに見える。

 

余談だが、昨年流行した『君の名は。』では、この絆に相当する作中のシンボルとして「紐」が登場したが、果たしてそれは文脈的には適切であったにしても、なまじ、古典趣味的に過ぎた感が否めない。同監督が以前に採用した諸々のメディアが、(但し、いづれも少し許り旧式である)同時代的に観客に身近であった事を踏まえると、今次において果たしてより適切な同時代的シンボルを見出し得なかったのか、疑問の余地が残る。

 

エヴァ」TV放映時(1995年当時)から、新劇場版が公開(2007年)されるまでの凡そ12年の間にも、人々を取り囲む(というのは実は不適切で、寧ろこれは人と人との間にあって、宛らATフィールドの如く、壁としても機能している)通信状況は大きく変化したが、この間、最近も言われてはいるものの、電線の地下埋設化は遅々として進んではおらず、幾分か解消されたとはいえ、あいも変わらず混沌としている。

この「ナワバリ」が縮小する事は今後、各地の状況に応じて考えられない事もないが、果たして主要な電線網は、例え町が無くなろうとも維持されるだろう。

更に言うなら、屡、「エヴァ」劇中に登場する街中にあるような電線や電柱は、都市や全国規模の巨大な「網」の一部に過ぎないから、例えその末節が千切れたり折れたりした所で、それは極々局所的な事象に過ぎないのである。

 

(3)送電網と「ヤシマ作戦

ここで、少し許り整理しなければならないと思う。

というのも、筆者はここまで「送電線」と「電話線」を一緒くたに「電線」と呼んで論じていたからである。

今まで論じて来た「電線」の話は専ら「電話線」についての話である。以下では、もう一つの「電線」ーー送電線に注目したいと思っている。

電話線と送電線は、前者が「霊」、後者が「魂」であると言えよう。(些か、気取ってみてはいるのだが) 無論、両者を分けて考えるのは、「エヴァ」作品を踏まえての事である。が、しかしこの比喩を作品に結びつけて論じようとは、幾分も強引なこじ付けである。

本稿では、本稿の筋があるので、それに沿って論じようと思う。

 

「新劇」では、物語終盤に置かれた、第五使徒ラミエルに対する二子山からの陽電子砲による超長距離攻撃ーー作中のコードネームにならえば『ヤシマ作戦』は、TV版では源平屋島の合戦に於ける那須与一が扇の的を射た故事になぞらえて、との事であったが、新劇場版においては国土の古称である「八洲」にもかけた、コードネームであるーーという設定があるとかないとかいう。

 果たしてこの(個人的には、「エヴァ」屈指の名場面である)エピソードが今一つ、人気を集める理由というのが、果たしてその作戦内容にも求められるのではないか、と筆者は考える次第である。

 

この澄んだ青色の正八面体の使徒を殲滅するに当たって採用されたポジトロン・ライフルであったが、その実用に当たっては莫大なエネルギーが必要となり、そこで緊急立案された作戦内容は、日本全国津々浦々総ての電力を箱根・二子山に集約するというものであった。

ここで注目したいのは、その作戦の物語中に於ける「現実味」(リアリティ)である。果たして、汎用人型決戦兵器(人造人間)の非現実性と肉薄するかのように、この『ヤシマ作戦』自体が存在する点である。

 

幾ら周囲から隔絶された、谷間の新都心(第3新東京市)であるとはいえ、その電線は全国各地と連続しているのであった。

勿論、フィクションの世界の中の事であるから、どんな無理でも通せるのである。が、しかし、それでも「全国同時総停電」という演出した事によって(果たしてこれが意図したものなのかは不明だが)、この物語の外でも、描かれないにせよ、きちんと世界が存在するのだ、という事がそれなり気に示されたのであった。

 

(4)『ヤシマ作戦』と計画停電

映画の中で作戦が決行されたのは、物語時間で2015年の事であったが、果たして2011年3月に発生した東日本大震災の後に、ヤシマ作戦よりかは小規模・限定的ではあったものの、電力消費の節制の為に「計画停電」が実施された。当然ながら、この時、この計画実施に当たって、その《当番》が如何に決定されるのかと言った議論が沸き起こったが、中でも、果たして其れだけの措置を断行するだけの「非常事態」であるのか、という批判も多々見受けられたものであった。

 

エヴァ』の中では、失敗すれば人類滅亡という、引くに引けない事情があって、更に「全国一斉」という事もあって、同じような事情で停電せざるを得なくなったとしても、現実的に考えて、『背に腹』の損得勘定から計画はすんなり通った(?)事であろう。

しかし、2011年の状況と言うのは、果たして全国的と言うには余りに局所的な事情があった。

殊に、原発の問題については、首都圏に電力を供給していた発電所の割を、東北が食うーーという構図であった。冗句であるとは言え、この計画停電を『ヤシマ作戦』と呼ぶのは甚だ、それによって割りを食い、そして救われる「セカイ」が狭過ぎた。「東京」は確かに日本である。だが、所詮はその一部に過ぎない。「日本」は「東京」ではない。

 

果たして、計画停電が『ヤシマ作戦』足り得なかった所以は、此処にあると言えよう。

発送電分離電力自由化が漸く敢行されたのは、莫大な負債を抱えた電気事業者を救済する為であったが、それによる恩恵が「全国」規模に普及したとは果たして現状評価するのは尚早であろう。

事態は収束しておらず、未だ未だこれからなのである。

 

(5)『ヤシオリ作戦』と『ヤシマ作戦

(......話が随分と散漫してしまった。)

 

電線は、一度途絶するとその機能は失われてしまうが、それを支えていた骨格に当たる電柱や鉄塔は果たしてその役目を終えた後も残り続ける。

「旧劇」冒頭の、変圧器を抱えた電柱の残骸は最早「電柱」と呼ぶにも機能喪失している上は、ただの「柱」なのであるが、それは嘗てそこに在って、営まれていた生活の痕跡として在り続けるのであった。

 

此処で先程の、電話線と送電線の比喩を今一度蒸し返すと、電柱は「身体」と言えそうである。また、電気や信号を通す電線もまた身体の一部には違いない。霊的なもの、魂はおいそれとは目に見えないのである。

 

失われた電気、喪われた通信という二つの亡骸を担いだ「柱」は、都市の残骸即ち墓標と呼ぶに相応しいだろう。

これも随分、牽強付会な見立てではあるが、果たして別にこの見立ては、『エヴァ』に限らず、凡ゆる廃墟に残る電柱に於いて見出せるものである。

 

2016年公開の映画「シン・ゴジラ」では、丁度『ヤシマ作戦』に相当する、物語終盤のクライマックスで『ヤシオリ作戦』が敢行される。

これは、使徒に替わって、ゴジラを「凍結」する為の薬剤を、高圧ポンプ車で以って直接、ゴジラの胎内に直接注入するというーー何処かで聞いた事のあるようなーー内容の作戦であった。

この時は、全国各地にばら撒かれたゴジラのサンプルとを元に、全国規模で薬剤の製造と、経口投与に当たっての機材の調達、そして「時間稼ぎ」の工作が多方面で同時に展開された。

ヤシオリ作戦』では、専ら描かれたのは「巨災対(巨大生物災害対策本部)」を中心とした裏方の人々である。『ヤシマ作戦』では、実際に現場で撃鉄を起こしたパイロットの姿がクローズアップされたのとは好対照を成す。現場で熱戦により蒸発したポンプ車隊は、「引き」でしか登場しない。

 

シン・ゴジラ」では、電線・電柱は引き千切られ、薙ぎ倒されるものである。それは別段、特撮映画では珍しい演出ではない。

だが、それはその瞬間に破壊される都市の命脈が絶たれる、極めて即物的・直接的な描写である。

また、比較的これは特徴であると言えようが、「シン・ゴジラ」では劇中、人間が怪獣に殺される直接的な描写というのが少ない事が挙げられる。「エヴァ」に於いても、疎開や避難の場面が描かれているが、果たしてそうした姿は「シン・ゴジラ」に於いても(当然かもしれないが)頻出する。大規模災害発生時のメイン・イベントは避難である。

 

蓋し、『ヤシマ作戦』の折に描かれなかった世界が『ヤシオリ作戦』前後には描かれたものと言えるだろう。

それは、果たして、アニメや特撮映画では専ら省略される、その世界の中での日常である。ポジトロン・ライフルに繋がれたコードの無数の、広大な末端の数々が随所に描かれた作品は幾分スペクタクルに乏しいものかも知れない。然し乍ら、「エヴァ」に限らず、《世界の危機》に際して、最前線で果敢に行動する人物が英雄足り得るのは、その背後にある無数の、有象無象の、光彩に乏しいかも知れない日常があってこそであろう。

 

(6)結びに代えて

エヴァ」に於いて、電線は箱根の山の中にある都市という閉鎖空間、そして自分の殻に閉じ籠る主人公の少年の居る幾分にも狭い個人的な世界と、広大な(それでも、精々がところ、日本列島程度な訳だが)外部とを繋いでいた紐帯であった。

 とはいえ、そのような紐帯的な小道具としての側面は全編を通じて強調される事は殆どなく、対ラミエル戦は例外的なエピソードであったと言えよう。寧ろ、矢張り、「エヴァ」で遺憾なく効果を発揮したのは電柱であり、寧ろそれは、電線を担いでいない、謂わば死んだように《静的》なモチーフとして登場するのであった。

 

 ただ、電柱に担がれた電線は、その全体的な繋がり、それは今日的には“絆”とかいう言葉で抽象化された関係性の暗喩として、文字通り頭上に止揚されているかのようでもある。

 それは手に届かないような高所へ、然し乍ら、極々身近な存在として、主人公の生活の中に入り込み、彼を繋ぎ、そして生かしている訳である。有象無象の、見える/見えないコネクションが一少年の望むと望まぬとに拘らず、ぐるりと隅々まで張り巡らされた世界というのは、果たして広いようでも、心理的には何処までも「内部」であろう。それらが地の果てまで続く限りにおいては、(心理的には地獄のようでも)この世からは逃れられないもののように作品内に於いては丁度檻の様に見立てる事も可能ではあろう。

 

 次回、取り上げるつもりの「lain」については、今回は余り掘り下げられなかった、このソフトな側面からのアプローチが主になる。

 「エヴァ」は飽くまでも深読みしようと思って鑑賞するよりも、極々表面的に現れる、現実にも存在する数々の事物を、現実に於ける様々な意味合いを置く事で多義的な解釈をするのが果たして吉である様に、今回考察してみて筆者は考えた次第である。