カオスの弁当

中山研究所blog

写り込んだ景色(アニメ電線・電柱考)

 「神は細部に宿る」というが、詰まりは「こんな細かい所まで作り込まれているとは、とても人間ワザとは思えない」という感想が、何やら本当にお米の一粒に七人の神様が宿っているような意味合いで捉えられるようになったりしたのだとしたら、言葉とは矢張り中々に面白いものだと思われる。

 けだし、その様な理屈で行くと、やたらと力の入った背景に描き込まれた電線と電柱にも神は宿っているのかも知れない。ただ、それは思うにまじまじと電線と電柱を、普段あまり見ていない所為で、余計にそう感じられるのかも知れない――という事を、まず最初に述べておきたい。

 上を向いて歩こうとは歌にあるものの、そんなことは普段する人は少ない上に、況してや自身の直上ともなると、首都上空を戦闘機が編隊を組んで曲芸飛行するというのでもなければ、先ず向けない角度である。

 電線と電柱は否が応でも果たして視界に入るものかもしれないが、そうであっても――否そうであればこそ、人の意識の焦点からそれらは無意識の内に排除されるものであろう。だから、敢えて指摘されたら疎ましいこと、この上なく感じられるようになることも果たしてあるかもしれない。そして同様に、それとなしに、しかし確かに見せ付けられて、思わずその趣深さを発見することもあるのではないか――と筆者には考えられる。

 電線と電柱は複雑である。だからそれをきちんと描こうとすると、自ずと手の込んだ絵になる。背景に、手の込んだ絵が好まれる状況が反映してもいるのだろうが、果たして絵描きが己の技量を細部で発揮して、見る者が見れば気が付ける署名代わりに残すとしたら、電線・電柱は格好の画題、「遊び」なのかも知れない。

 それは有り触れた景色の一部であり、人が普段、気にも止めないモチーフである。故にそれは却って分かり易い見所となるのではあるまいか。また、その細部のやたらと微を穿ち細に拘った絵というのが、場面と場面の間で際立った印象を、観客の印象に差し挟んだとしても不思議ではないだろう。

 しかも、観客にとって極有り触れたモチーフであるから余計に馴染んでしまうのだろう。そこが東京だろうと、大阪だろうと、架空の都市であろうとも、電柱と電線の姿は大同小異である。図らずも普遍的景観になったモチーフは、平生、人々が気にも止めなかった構造物だったからこそ、その地位を築いていったと考えられる……。

 

 とはいえ、指摘されたら気になるのが人情である。そして、それらに注目が集まるようになったらば、これまで電線と電柱がモチーフとして帯びていた性質は、徐々に廃れていくだろう。通の見所だった場所での「遊び」が公然と物されるに至って、変質を来すのは避けられない運命だろう。それら顔の無い、無個性の電線と電柱は、それ故に様々な意味を代入することも出来るし遍在することも可能なのだが、それがまじまじ凝視されるようになった日には、それらは器としての地位を失ってしまうだろう。

 だが、幸い人間は忘れっぽいものであり、且つ、新しい事を見付けるのが好きな生き物である。偶さか、ある時、気に止まった所でそれに何時までも拘り続けるのは異常である。故に、何度でも不思議な緻密さを湛えた構造物を発見しては、都度に感銘を受ける事も出来る「健康な」幸福を大抵の人間は享受出来るものだろう、と筆者は思う次第である。

 誰か故郷を思わざる――。しかしてその故郷は都度に新しき風景に塗り替えられるのであるが、その再帰性メディアがその桎梏を克服し得た瞬間においても、「日常」が維持されるとしたら、それはその景色の中で最も味気なく些細な末節、即ちフレームによってだろう。

 物語が完結したその後に取り残されるのは、哀れ視聴者ばかりではないのだ。その無慙な形骸に寄り添うように、有限の物語に対し、終わりのない日常として真に虚構の権化として電線と電柱は路傍に立ち尽くし続けている。

 

(2020/5/31)

 

追記:文中にある「戦闘機」は正確には「練習機」である。(2020/5/31)