カオスの弁当

中山研究所blog

山と如是閑(3)

 私自身は針ノ木峠という名に一種の憧憬を持っていた。

(中略)

 この荒廃の感じは、この峠が明治の初年に加賀藩の士によって一度開かれたことがあるにもかかわらず、その狭いつとはなしに荒廃して、初期の外人山岳家などは多くこの峠を登山術を超絶した険路のように記載しているというような話と一致して私の幻想は薪を添えられた。けれども、私の幻想は、いつでもそうであるごとく、ここでも山と人とがはじめて出くわして出来た、いわゆる山のロマンスに酔うという質のものではない、私の山はまだロマンスの技巧を知らないただの山でなければならない。私はヒストリーのない国に行きたいのである。荒れて廃れて人間がその上に作った歴史の頁がズタズタに裂かれて打ッちゃられたところを、私は針ノ木に見出そうとしたのである。

――『日本アルプス縦断記』(1917)、前記(一)より 

  本人はかく記す事によって、彼自身の「ドイツ嫌い」の機微を此処でも鮮明にしているようだが、果たしてそれが何処まで成立しているのかそれは怪しいところだ。

 長谷川が「科学欲からでもなく、審美欲からでもなく、また世間にいう山岳家と称する人々のようにこの二つの欲望に合致した動機からでもな」く、山に抱いた憧憬は果たして人間が容易に存在しえない苛酷な領域としての山であった。

 

 1917年と言えば、欧州大戦の真っ盛りである。陸海空の新兵器が膨大な人命を消耗して、20世紀の文明の仇花を咲かしていた只中に彼が憧憬を抱いた山は、そんな戦争も人間が展開出来るか怪しい極限の環境であった。彼の遠征は、厭世気分に因むものだが、その発想の根源には、時代人らしい冒険欲・征服欲も孕んでいる。

 彼自身がその後、大衆を相手に言論の場でも味わう失望は、彼自身が果たして冒険者として臨んだ結末であったが、此の当時、未だ旺盛な新聞記者である長谷川が独身貴族的な陶酔を感じていなかったとは考え難い。又、真に彼が自ら言う「ひとりもの」という境遇は、実際そうあり得たものと考えるのも早計だろう。寧ろ、そうして一人であろうとし、「歴史の頁がズタズタに裂かれ」るような場所に行こうとしたのは、彼がそうではいられなかった事の裏返しではないか。

 

 長谷川の独身者としての評は、事実上の妻帯者でもない事を意味に含んでいる。

 80歳になった如是閑は、雑誌『文藝春秋』が企画した元・陸軍大将の植田謙吉との対談の中で独身を通した理由を簡潔に述べている。

  私は若い時分に結核をやりまして、そのために独身なんだけれども、すっかり治ったときに、お医者さんが、もう結婚してもよろしいと言った。結婚したら困るだろうと言うと、いや、むしろ結婚したほうがよろしい、細君が世話をするからというのだ。ところが私の友人で、この病気を持って結婚したものは、みんな死んじゃってる。もちろん結婚しなくても、ほとんど死んでるけれどもね。(笑)これはつまり節欲生活が足りないのだ。結婚してもよいから、節度を守ればよい。医者もそう言った。しかし、私は節度を守れそうもないから、結婚しないと言った。

――『女を避けて八十歳』、『文藝春秋』34巻11号、1956年11月

 「節度が守れそうもないから、結婚しないと言った」という明け透けな言は彼自身のものなのか、それとも編集者の手を経たものなのかは定かではない。だが、ここで示された長谷川の結婚並びに女性観は、彼の生命を奪い取るものとして示されている。ただ、それは女性による一方的な簒奪ではなく、男性の節欲の不十分さにあるという考えを示している。

 誘惑する女性にその因を求めるのではなく、男性である自身の節度の無さに長谷川が独身者たる理由を求めるのは、彼が自身の生命を自身の支配のもとに置こうとして、それに並々ならぬ注意を払っているからに他ならない。

 彼の生への執着は、就中、一個の人間としての卑小さに対する抵抗の色が鮮明である。ただ、己の運命に対する抵抗と同じく、彼は今一つの未来への抵抗を見せる。それが、女性とその誘惑に応じた帰結としての死に対するそれである。

 

 登山が長谷川にとって健康法となり、その後、長らく愛好された事は既に述べたが、彼の健康法は登山だけではなかった。取り分け知られているものの中には弓道があるが、其れ以外にも日々の食事や嗜好品、社交においてもそれは徹底されていた。それは単なる身体的配慮だけではなく、精神的修養の色も濃いものである。

 酒もタバコも吸わず、女性を身近に置くことなく、万巻の書物に囲まれて暮らす「芦屋聖人」の異名を与えられた大阪朝日新聞時代の彼が、当地に於いて異質であった事は想像に難くないが、其の異質さは彼が相当意識して固持し続けたものである。

 だが、それが下町と職人に代表される価値観へのノスタルジーに強く裏打ちされたパフォーマンスだった、という見方は、独身という態度で示された女性を巡るもう一つの抵抗に触れられていない点で今一つ及ばない感がある。

  

 長谷川の前に、女性は彼の健康を損なう、精神的危険として現れる。これに対して、彼はその狂気に抗う為に、彼はその魅力の解体を試みる。その代表例に、最初期の文芸作品である『如是閑語』(1907、『日本及日本人』に連載)がある。滑稽とサタイアの内に、それを単に冷笑にふすのではなしに、読者へ暗に反省を促す。だが、筆致は箴言というにはナンパであり、寧ろそれは諺が似つかわしい。そして、諺の体裁を取る事は、著者の権威に依拠して影響力を持つ箴言に対して、そのメディアの読者に対する影響力を借りる事を意味する。

 日本アルプス縦断も、果たして大朝という大衆紙の持つ財力によって実現した企画であった。大阪朝日新聞という大衆紙に所属していた期間の数多の「出張」は、結局、彼を買った社の彼に対する疑いもない投資であり、それに対して「プロレタリア」として彼は応じたのであった。それは、後年、インタビューの場で彼が否定した、サラリーマン的な新聞記者としての活動に他ならない。だが、こうした見方が行き過ぎて、当時の紀行文について、彼が生活の為に記したものだと一瞥にとどめてしまえば早計である。又、大阪朝日新聞に於ける長谷川の今日にも遺る“功績”には、高校野球選手権大会が挙げられる。これは社内で企画が上がった時に長谷川がその開催を推したのが開催の決定に影響を与えた、と言われているが、それが単に青少年の運動を彼が奨励する立場からなされた意見と見るのは、余りに事情を単純化しているきらいがある。

 

 女子は月経に支配せられ、男子は月給に支配せらる

と、『如是閑語』に記した如是閑であるが、彼はそれに抗う人間像を文芸作品の中で描き続けた。処女作『ふたすじ道』が長谷川文芸作品の筆頭であるとしたら、その二番手に挙げられるだろう『象やの粂さん』は、華族の子息の玩具に甘んじる象と自身の境遇に憤懣やる方ない象飼の「粂さん」が登場する。だが、運命は彼を嘲弄するかの如く、屋敷に出仕していた彼の一人娘・きいちゃんを「殿様」の妾にしてしまう。

「なんでえ、若様だって、餓鬼は餓鬼だ。……あんな餓鬼にヘイコラしねえんじゃ飯が食えねえんだ。……おれだってそうだ。ゴルさん〔引用者注:象の名前〕と一緒になって、チンチンしたりお辞儀したりしているんだ。全体あんな大きな図体したゴルさんが――れだってそうだ。これでも一人めえの人間だ――そいつが二人揃って、あんな餓鬼のめえで、チンチンしたりお廻りしたりして、堅パンの一つや半分貰って喜んでいるたアなんのこったい。(後略)」

――『象やの粂さん』(1921)、発表:『中央公論』36巻1号

 一度は象飼という天職を失った粂さんが、再び象飼としての職を得て、自身と自身の活躍の場を得た後に、その境遇の惨めさに覚醒した後の顛末は余りに残酷である。だが、そうして一人娘を運命に奪われた男は、真に覚醒のイニシエーションを経たとも言える。だが、その喪失経験は屡飲んだくれる粂さんにプラスに作用するような気配を物語は帯びていない。彼はその身の境遇にただ満足していれば良かったのである所を、つい批判したが故に罰を与えられたのである。

 長谷川の大朝退社の顛末が語られる際にはぐらかされがちな一面は、同社内の経営方針の転換が即ち、当局からの弾圧によって破裂したという側面である。だからと言って、すわ此処で如是閑と粂さんを重ね合わせるのは牽強付会というものだろうが、此処に彼の皮肉屋としての、そして道化の悲/喜劇を看取する事は可能だろう。

 

 彼のキャリアに影を落とす大衆紙での記者生活は、彼に洋行の機会を与え、且つ大幅な経費の増大をも許容して見聞を広めさせ、そして何より彼に名声を齎した。そんな大衆的関心が、彼自身の関心を知ってか知らずか峻険なる高山へと彼を向かわしめたのである。聖人然とした変わり者を極端な環境に送り込んだらどんな反応を示すだろう、という関心は今日もなお耳目を誘うのに有効な企画である。

 アンチ・ヒロイズムの新聞記者は所詮読者の玩具に過ぎない。であるが故に、彼は自らの境遇を承知して山に向かう。そして、「そんな物語の成立しない国」へと行こうとするのだったが、それが実現出来たかどうかは彼の成功から推し量りえるだろう。

 人間の足跡を拭い消して、原始に帰ろうとする自然の努力――というよりは好みは、そうした深い山国の沢の奥へでも入らなければ到底見ることができまい。私はそれを針ノ木に行って味わえると空想していた。もし私がそういう境地に入ってそういう自然の強い好みに同情することができたら、私自身も私というものを踏み躙って私の上に惨たらしい印をとどめている人間の足跡を拭い消して、そうして私のままの私、ほんとうの私を私に見出すことができやしまいかと空想していた。

――『日本アルプス縦断記』(1917)、前記(一)より 

 彼が山で求めたのは、一個の人間としての自分自身であった。山は彼自身の痕跡を破壊する場であり、それを「好み」とする場であり、そこへの没入は彼が危うんで立ち入ろうとしなかった女性に対するアプローチに匹敵するものだった。 「世間の山へ! 山へ! という声」とはかけ離れた彼の「沈みがちの気分」は「科学欲からでもなく、審美欲からでもな」い深源から発せられたものである。

 ある意味で独身者は意思が弱いのだ。細君があったら節度を守らなかろうという気分がある。そういうおそれがあるから、むしろ独身の方がよいという結論になるのだね。私はなにもそんな理論から、科学的に独身じゃないのだよ。私の友人で、結核で結婚したものはみんな死んでる。だから、生命の安全を守るには独身がよいというわけで、植田さんみたいにちゃんと節度があったらよいけれども、私などはフィロソフィー(哲学)があって、独身じゃないのだよ。

――『女を避けて八十歳』、『文藝春秋』34巻11号、1956年11月

 「科学的に独身じゃない」長谷川の態度は、若きに日にあっては、仕事とはいえ、生命の危機に自らを曝してでも山に登ることも辞さなかった――という演出を凝らす事が必要な程度に甚だしいものであった――。

 

(続く)

 

(2020/8/13)