カオスの弁当

中山研究所blog

『件』より『真実はかく佯る』まで

 人偏(亻)に牛と書いて、件(くだん)と読む。

 依って件の如しーーとかいう言い回しがあるくらいだから、何とは無しに誰しもが意味を把握しているだろうかと思われるものだが、その辞書的内容はどんなものか?

 試しに手元の紙の辞書を開いてみると、次のようにある。

くだん【件】(くだりの音便)

①「くだり(件)」2に同じ。「依ってーの如し」②(「ーの」の形で)いつものきまりの。例の。保元「ーの大矢を打ちくはせ」

広辞苑』第六版より

 ただ、本稿で扱おうというのは、上の件の件の方ではなく、怪談・くだん(件)と、そのネタ元になったであろう妖怪・くだんである。

 要するに、それは「誰も知らない怖い話」という意味のタイトルだけの怪談なのであるが、偶々同じ名前の妖怪(アマビヱみたいなご利益がある、元ネタは中国の怪獣・白沢)がいたものだから、それと合体してさまざまな物語のネタにされている。

 

 先に話をすると、妖怪・くだんのビジュアルは、人面牛である。より詳しくいえば、人面仔牛なのであるが、これは最近だと奇形の牛の胎児だと考えられている。実際、奇形の仔牛は長生き出来ずに、生まれてすぐに死んでしまう。

 くだんもそんな仔牛と同じく直ぐに死んでしまうのであるが、その前に人の言葉で予言をして死ぬのだとか言われている。そして、その予言というのが、「私の姿を描いて家に飾れば、厄除けになり」とかいう、完全にチェーン・メールの元祖とも言うべき内容なのであるが、その辺りに触れだすと、前置きに過ぎない話が余計に長くなるので割愛する。

 

 この奇形の仔牛が「くだん」と呼ばれるようになったのは、恐らく「件」の字がそれを表すのに適していたからであろう。或いは、この妖怪自体が、子供を揶揄う大人の悪戯のように、今ではすっかり忘れ去られた昔のストーリーテラーが「件」の字から着想を得たのかもしれない。

 

 奇形の仔牛や仔羊の誕生、といった事例は古今東西を見ても、何某かの兆候として捉えられる向きがある。「あった」と書かないのは、それが現在も見られる一種、人間の本性的な傾向であると思われるからである。

 人の顔に見える模様や造形をその体に宿した異様の動物の出現を何かの変化の前触れか、或いは現在まさに起こっている変化の兆として結びつけるのは人間の癖であろう。それが、妖怪・くだんの設定の今一つの起源だろう。

 所で、この妖怪譚とは別に、二十世紀の中頃から語られるようになった「誰も知らない怖い話」『件』の方は、この予言獣・くだんの物語を下敷きにして、更に杳として知れない体を成している。

 ーーただ、そもそも「体」と呼べるような確固とした筋や由来自体が定かではないので、杳としているもしていないも、それは空虚としての真っ暗闇そのものに相違ないのかも知れないが、兎も角、その怪談というのは、

「タイトルだけは伝わっているものの、その内容のあまりの恐ろしさに、知ってしまった者は死んでしまったり、語る事を恐れるので誰も内容を知らない」

と言う、ちょっと考えてみたら、全く人を食った、少しばかり手の込んだ悪戯であると容易に知れるものである。

 

 ただ、その手の込んだ悪戯は、一種の寓話として甚だそのタネに気づいた者に不安を抱かせる。

 果たして、世の中には本当にそんな風な物語が実在するのではないか、という不安である。

 実際、私たちが普段生きていて、それ自体ちゃんと読めていると思っている物語も、実の所は表層に過ぎないのではないかーーという、この不安は、「胡蝶の夢」とか「夢応の鯉魚」とかに著された古典的な不安である。

 無線装置の回路がトランジスタやICチップになった所為で、その回路の仕組みが感覚的によく分からないような若者が増えたのではないかーーという文章が、果たして2000年代初頭の初心者向けの無線通信の参考書に載っていたりするのを見かけた事があるが、それも現代版「胡蝶の夢」とでもいうべき“寓話”であろう。 

 2000年代というのは、程度の差こそあれ、常に此の不安がサブカルチャーの主軸であり続けたものだろうと筆者は漠然と感じているものである。

 ただ、それが2000年代に限定されたものかといえばそうではなく、遡れば本邦では19世紀の末頃から、此の手の不安というのに苛まれていたものと思ったりもするのである。勿論、そのきっかけや背景は千差万別に違いないのであるが、振り返ってみると、辿り着いた先には何かそんな、空虚がポカンと口を開けているような、そんな気がしてならないのである。

 

 所で、亻に動物を意味したりする一文字を加えた字として、「件」と似たような「佯」(ヨウ)という文字がある。

 普段使いはされない上に、今だと単体では更に用いられる事が少ない。

 これを使った熟語に「佯狂」という語がある。先のと同じ辞書に依れば件の如し、である。

ようきょう【佯狂・陽狂】

(「佯」はいつわる意) 狂人のふりをすること。また、その人。

 「佯狂者」というのが、正教会における聖人の称号の一つにあるが、そこでは狂人を装って神理を説く者の意味として使われる。これに近い印象の語としては、禅宗の「風狂」が挙げられよう。

 共通しているのは、狂っているも、真理を語っている・悟っているというのも、いずれも傍目の評価であるという事である。本人が別にそうだと示している訳ではないのが、恐らく、これらの概念を考える上で重要であろう。

 殊に、本邦では風狂的な態度が、(実際それを体現する者が現実にあったかはともかく)理念なり美意識としても好まれる向きが、特に都市社会の一部に於いて認められ、継代今日まで培養せられて来たものである。

 その一部界隈の価値観を拾い上げて、殊更に発揚した運動が二十世紀後半の好事家を中心に担がれたのが、幸か不幸か、今日、「思いやり」だとか「まごころ」だとか「おもてなし」とかう世俗意識に名残を止めていたりするものであると推測されるものである。

 そうした世俗意識はさておき、佯の話を戻すと、これと先述した件の話とには、うっすらとした関係が実はあったりするのではないかーーというのが、本稿の漸く提示する所のテーマであったりする。

 

 一説に依れば、怪談・件の震源地の一として目される人物に、今日泊亜蘭が挙げられる。

 日本SF界の長老であった彼は画家・水島爾保布を父として、その父の縁故で繋がりがあったとされる人物の中に、日本のジャーナリズム界に於いて重きをなしたが、いまいちそのポジションがよく分からない人物・長谷川如是閑がいたりする。

 本稿のタイトルに掲げた今一つのキーワード、『真実はかく佯る』は長谷川如是閑の随筆集の代表的著書のタイトルである。一見すると真実が何をどう佯るのか分からないものであるが、その序文(戦後に出版された版の「まえがき」)も謎めいていて、これを読み解くには穏当な手段としては出版当時の種々の状況や、個々の随筆のコンテキストを踏まえる事であるが、その煩瑣である事は言うまでもない。

「真実」は、それみづからを啓示するに、「ことば」をもつてせずして、「歴史」をもつてする。しかし、それに表裏あり、矛盾あること、恰もいつはり多き「ことば」の如くである。その「真実」が、歴史のレンズを通して、私の心に映つた影を捉へようとしたのがこれなので、『真実はかく佯る』と題したのであつた。

ーー著者のことば、朝日文庫版「まえがき」

 この、何処か預言者や霊視者じみた書き振りが、随筆家・長谷川如是閑の文体というか、作者として演じていたキャラクターを物語る端的な証拠である。

 何か言わんとしている事は明らかにするが、その正体は決して見せずに包み隠す。それが文筆家としての長谷川如是閑のキャラクターである。

 

 文章も漢文読み下し的な面持ちを保つながらも現代文として体裁が整えられているのは、流石に明治から昭和の三代にかけて健筆を奮った新聞記者の面目躍如とも言えるところであるが、兎も角この、敢えて櫛の歯を抜いたが如き“観念的”文章は彼の若かりし頃からの文章スタイルであり、それが何か、明治末の反政府的(文字通りの意味で)メディアの中で持て囃されたのである。

 怪しげな、とか、胡散臭い、という言葉は、殊にエッセイなど文芸作品の筆致に対しては相応しい評価であろう。勿論、それは後世の、一々の記事の受容されたその時々の趨勢というのが分からなければこその見には違いないのであるが、それを差し引いても、彼が易者か何かのように敢えて物事を寓話的に語っていたのは確かな事である。

 「当たらぬ的」という、如是閑の執筆業に対する戦前の同時代評は正鵠を射たものであろう。その意味する所は、何とかその記事から尻尾を掴んで、当局が彼を検挙して筆を挫こうとするのであるけれども、その攻撃を巧みに如是閑は躱すーーという褒め言葉である。勿論、それには比較的親しい味方からの贔屓目もあってのものであるが、直接社会運動には携わらず、飽くまで思想的支柱であり続けようとした彼の立ち居振る舞いは、文学界からは正当とは見做されず、又彼自身も所謂相手方の創作活動と自身のそれとを区別して憚らなかった。

 

 話を戻す。『真実はかく佯る』は随筆集であるが、それぞれの作品には共通するモチーフやテーマは見出し難い。その為、個々のテキストについても、戦前出版された版では序文もない為、余計に「何が言いたいのか分からない」ーーという感想を、恐らく現在の読者の多くには抱かせる代物であろうと思われる。

 勿論、書名には「真実は」とあるので、それを手掛かりに、そこに書かれている内容は、何がしか、この世界の真理ーー著者の後年の語る所の言葉に置き換えれば「常識」「コモンセンス」ーーを現した寓話であると読み解く事は出来るのだけれども、此処で問題となるのは、彼・如是閑自身に信頼性、況んや正気である。

 長谷川自身も、此の問題ーー即ち、自身の正気/狂気を巡るパラドクスについては相当思いを巡らせていたようである。小説『奇妙な精神病者』では、自己観測のパラドクスに陥った男性精神病患者を主人公にして、最後にその狂気が伝染したような不安を見学者である物語の語り手に吐露させている。また、これを日本最初期のSF小説とする向きもあるらしい(曰く、それを提唱したのが先掲の今日泊だとか)空想科学小説『無線電心機』では、「他人の精神を変じて、それを他人自身に代つて言語にする機械」"Wireless Telepathophone"によって、被験者同士の精神が混ざり合ってしまう顛末を、男女の恋愛模様も織り交ぜながら喜劇仕立てに描写している。(此のあらすじ自体は、二十一世紀の現在においても十分、通用するアイデアには違いなかろう)

 極め付けは、寓意的記号が頻出し、その為に最早、伏字だらけの文章と左程変わらない小説『幻覚』である。

 新聞記者として翻訳も度々こなしながら、同時に苛烈な時局批判とそれに応酬する検閲、その他商業誌に掲載するに当たっての諸々の配慮などを日常茶飯事として観察していたであろう如是閑の文芸作品におけるその反映や実験的試みは、手品の様な奇抜さも相俟って読者に内容まで没入させる事を阻む傾向がある。正に手を変え品を変えーーと言った具合であるが、又、その深みに沈んだ物語の主題自体も、一般に彼の記事を読むような層には埒外にあるものだと言えそうである。

 大体、その深底にある動機は容易に取り出せないように沈められているのである。検閲者も読者には違いないし、又読者をして何か霊的に感化せしめるようなものというのは後述する理由から、彼が回避したものである。

 

 要するに、長谷川如是閑という人間個人の正気を問題とするのは、一般の読者ではないという事である。それを気にするよう読者は、他ならぬ彼のステイクホルダーに留まるのであるが、それこそ彼の利害関係者というのは限定された極少数だ。

 ただ、長谷川如是閑の正気ーー理性を彼自身が問題としていた、と捉え直した時に、彼の小説や随筆というのは、時局風刺という皮層が捲れ上がり、惑乱する問題意識を露出するものである。即ち、自己の何がしか拠とする所の、彼自身の素となる何かを彼は長らく探り当てようとしていた事が見えて来るのである。

 それは彼自身が態々表現する程でもないと軽視した、彼個人の内面の問題である。ただ、その代わりに彼が重視したのは、彼を取り巻き、彼自身に影響を及ぼす世界であり、又、彼自身がその中に埋没していると認識していた歴史であった。

 それらと切り離され、全く彼個人の中で完結して、又彼個人の内に起源を持つ事への関心は彼の中で封印されていた、というか、彼自身が把握出来ていたかは怪しい所である。

 然しながら、自ずと彼が社会や人間、文明や歴史を批判しようとすれば、その背後には自身の影が長く長く尾を曳くようになり、それらの影響を取り除いて彼が何かを語ろうとすれば、自分の影を小さくする為に愈々彼は自分を批判の対象として語り尽くし、分解してしまわなければならなかったのである。そして、自分というものの由緒を社会や歴史と結び付けて語り尽くす内に、自身を恰も小英雄かの如く歴史のタペストリーに織込む事に彼は成功してしまったのである。それが牽いては彼自身の世間的信頼を増す原因にもなる一方で、彼自身が自己の内奥に押し込めた何某かの存在を特定する縁となったとも考えられるのである。

 又、そうした“織り込み”の過程で彼の自身とそれ以外の境界は却って堅固なものとなり、個性が際立ったのだった。

 それが後世、「叛骨のジャーナリスト」とか呼ばれる由縁ともなったのだとしたら、如何にもな皮肉であろう。

 

 惑乱自体を狂気と呼ぶなら、如是閑は全く初めから正気ではない。だが、その狂気を核の一部としながら、半世紀以上に渡る言論活動を展開した長谷川の技量というのは、矢張り常人の域を優に超えている。然しながら、彼の業績に於いては、此の狂気の齎した部分は左程多いとは言えず、彼自身の評価も決して風狂や佯狂といったものではなく、寧ろ、毅然として自己の主張を困難な状況にあっても貫徹した、然し同時に巧みに処世をこなした賢人としてのそれである。それが彼の職業人としてのキャラクターであり、それも彼の創作物の一つ一つである。

 故に、彼が真理という言葉を仮に括弧付きで語ったとしても、それは文字通りの意味として受け取られ、又、それを何かの比喩として受け取るにせよ、矢張りその場合に於いても、その括弧の中身は棚上げされ、彼の実験の手順が模倣されるのである。怪しげな、その括弧で括られた神秘的な中身については、読者は立ち入って覗こうとはしない。或いはその格好の中に読者は銘々のイメージを代入する。

 

 此処で巻き戻して『真実はかく佯る』のまえがきを改めて読むと、その預言者語りの癖は只管に自身を世間から韜晦するものであり、それは彼が彼自身の心裡を解明されるのを阻んだ為であったと考えるのが妥当であろう。

 そして、此処で阻止されているのは、英雄や“救世主”としての彼のイメージの出来である。謂わば、預言者長谷川如是閑の出現を彼自身が拒んだのである。それは恐らくは彼の否定したい世界観に自身が与する事になると同時に、彼が実際政治や活動に舞台に押し上げられる事を意味していた。また、それが実際的問題として彼の生命を危うくする事を彼は拒否したのである。

 あくまで彼は自分を自分でコントロールしたがったのである。だがそれが自由ならなかったのは史実の示す通りである。

 最晩年の長谷川は、遂に力を付けた取り巻きやオーソリティによって英雄に祭り上げられてしまった。既にして老境に至った彼は、敢えなくその境遇に迎合したものと思われる。コントロールを失った彼は最早、それ以前の彼自身ではなく、周囲から慕われ、尊敬されるべき人物として栄誉に包まれて過ごす事を彼は余儀なくされたのであった。

 此の関係に回収される事から彼が逃げ回った理由は自明である。何となればそれは自由が余計に窮屈になるからであった。

 

 『真実はかく佯る』に見られる韜晦は謙遜や、自己に神秘のヴェールを被せる事によってよりその魅力を増そうとする権力志向、その為の広告術としても評価し得る。或いは、そうする事で私人としての自己が誹謗中傷の的になる事を防ごうとしたとも考えられる。

 兎も角、それは言いようだが、呪術的武装でもあった。

 その場合は「当たらぬ的」には、数多のデコイもあったと見るべきだろう。そして、仮に韜晦が偽装工作だったとしても、それ彼が固持したかった自己というのはそれ自体対象として興味深い。

 彼がくだんの様にこの世界に出現する事を拒んだのには、自身が信頼される事を拒否した為でもあろうと筆者には思われるものである。それは、彼が飽くまで最晩年に至っても、周囲の息子や孫ほど年が離れた者たちを「弟子」と称されるのを嫌がり、「友人」と呼び続けた事にも端的に現れている。今日では甚だ“無責任”とか呼ばれそうな態度ではある。然し見方によっては、それは己の面倒の見られるキャパシティーの範囲内で誠実に対応した結果とも評価出来るものだろう。

 彼が新聞記者として駆け出しの頃、彼自身が薫陶を受けた界隈の新聞記者気質というのは、彼自身にとっても内的な他者である自身の立場や信条というものに基づいて言論活動に携わるというもので(建前であっても)あった。故にそこから言える事は、人間よりもその抱懐している信条や価値というものが優位に立っており、それが記者の信頼の源泉であった訳である。

 現実には然し、そんな単純には割り切れないのであるが、飽くまでも記者それぞれが独立して何某かの「志」とかを持っている事が理想とされたのである。ただ長谷川の場合は自身の求心力を自覚しつつも、その現実的な問題として、自身に周囲から寄せられた期待に応え得る資本や能力に乏しい事も自覚していた。指導者としての彼の能力は、彼に寄せられた量に及ばなかったのではないか?

 期待は彼を生かす「生ける財産」であると同時に、稍もすれば彼を拘束して疲弊させる絆しであった。彼を業界に引き揚げた陸羯南三宅雪嶺といった新聞人も大きなカリスマ性を誇ったが、為に多年、他人の面倒を看る義務によって窮窮とする事になった。フリーランスを目指した彼の立ち居振る舞いは、終始、過度の要求を自らの上に置かないようにするものであった。にも拘らず、彼には相応の「義務」が度々発生した。これは失敗というよりも、彼一人を個人事業主として見た場合の、その事業の拡大に伴う必然だったといえよう。

 

 ラジオのマイクの前に座り、或いはテレビのカメラを前にして対談したりするようになった彼の最晩年は、その外見に似合わず、新規事業に着手したフリーのジャーナリストであった。肩書きや経歴、容貌は如何にも古めかしいが、彼がその都度始めた事業は新規のものが多かった。その中で彼は期待されたキャラクターを演じた訳である。

 悩める市民のリーダーとして嘱望された彼だったが、彼自身は飽くまで「ひとりもの」であった。

 そうして考えてみると、長谷川の韜晦は今風に言えば「社会人として当然の嗜み」だったと結論づけられてしまうだろう。実際、それに尽きるのである。

 だが、その嗜みの内に個人的な見解や感情ーー傍目にはそれは(乱暴な言い方をすれば)“陰謀論”とか映るようなものーーを、完全に自己の内部に窒息させてしまうのではなく、あの手この手で巧みにその輪郭をヴェールの膚に浮かべて示しながら、一方で読者をその向こうへ立ち入らせる事を躊躇させ立ち入らせず、更に「去る者追わず、来る者拒まず」を貫きながら、それでいて孤立して餓死してしまうようなことのない塩梅に自身の価値を調整し続けられたのは、物凄い、の一言に尽きる。

 それを「そんなの社会人としては普通で、大したことではない」と今日日一部では片付けてしまう事も出来てしまうのであるが、何事も「普通」は「当たり前」ではなく、何なら、その上で業績の評価が云々されるというのは如何にも大変な事なのであると筆者は此処で声を大にして主張したい。別にそれは如是閑を顕彰する理由からではなく、思うに一般論として捲し立てるものである。

 

 直接に、今日泊の流布したとかいう件の話と、長谷川の佯の話を結び付けるエピソードというのはないのであるが、『真実はかく佯る』で長谷川が随筆という形で示した寓話で数々、世に発表したのは、昨今巷を賑わす言葉で言い表せば、数々の陰謀論である。

 この陰謀論と、そもそもその容れ物としては格好のモデルケースとでも言えそうな怪談・件は筆者の中で、今一つの観念連合を形成するものである。

 

 そもそも如是閑というペン・ネームからして人を食っている命名で、本名は萬次郎であった。「如是我聞」とは経の唱え出しによくある起首の句で戸張竹風はニーチェの「ツァラトゥストラは斯く語りき」を「如是我聞」と訳したことがある。この「ニョゼガモン」を少しもじって「ニョゼカン」としたのだろうが、「かくのごとき閑かなり」という意を通せたものであろう。

ーー『長谷川如是閑のファース』、『悲劇喜劇』1982年2月号

 この、劇作家の飯沢匡が書いているような「如是閑」命名の由来も、見方・言い方によっては、陰謀論とでも呼べそうなものだ。

 確かに如是閑の寓話的な筆致に触れていると、そういう宗教的な印象も否定しがたく、そこからそんな由来も想像したくなるものだ。

 だがしかし、長谷川自身が回顧する所、1939年6月23日の東京朝日新聞夕刊3面に掲載された『雅号の由来』に依れば、それは先ず『日本及日本人』時代に友人の井上亀六(藁村、丸山眞男の叔父)が付けたもので、「余り忙しそうにしているから、少し閑になる呪いに『如是閑』はどうだ」というのが謂れなのだという。

 故に飯沢の説は誤りなのだが、この長谷川の記事には続きがあって、その後、同誌で名前を連ねていた花田比蘆思が「如是閑」の典拠を探し出して来たと長谷川に告げた所に依れば、それは伴蒿蹊の『近世畸人伝』に収められた世捨て人になった僧侶の作った詩の文句である、というのである。

 これは井上がそう後から主張した、とか、井上がそれを認めたのではない点が勘所である。

 その詩を紹介された長谷川が、これを典拠にしたのである。詰まり後付けの典拠なのである。これは花田説が正しかった訳ではなく、長谷川如是閑が公式にそう認めたに過ぎないので、実際は典拠不明のままなのである。

 寧ろ経緯から言えば、井上が付した由来の方が正当であろうが、此処で如是閑の例によって巫山戯る癖が表れている。茶目っ気と言ってもいいかも知れない。

 此処で如是閑が重きを置いているのは、井上の掛けた呪(まじな)いである。即ち「少しでも閑になるように」という験担ぎを重んじていて、そのコンセプトに叶うなら、後付けでも、寧ろ御利益のありそうな世捨て人の畸人に肖ってしまえ、という思惑が看て取れる。

 注目すべきは此のエッセイの中で、彼がそれとなく自身が重きをなしている価値観を示した点にある。それを此処では深く掘り下げる事は割愛する。勿論それは傍目には一見して他愛のない事なのであるが、彼の生涯や他の文章を読み解いておくと、矢張りその後付け設定は彼自身にとって軽くはない価値を有するのだという事が推し量られるのである。だが、それは飽くまでも彼の内なる宇宙の中で通用する価値観であって、他人にもすわ融通出来るものであるとは限らない。

 飯沢が感じた如是閑の印象は果たして彼の外に出てもある程度通用するものであるが、それが彼の発見した根拠に基づく訳ではない事は既に示した通りである。

 然し、此処で重要なのは、飯沢の印象も長谷川の拘りもそれぞれに「真実」と呼べるだろうという事である。

 

 妖怪・くだんの話す「言葉」は、未来の「歴史」に関する予言であり、それは「真実」とされるが、これがそもそも妖怪の発する言葉であり、それに纏わる言い伝えであるという留保が大前提である。

 然し、多くの人がその実在を信じていないか、或いは知らない妖怪の様にではなく、実際に存在するらしい誰か個人が、言ったとか言わなかったとかになると、その留保は存外脆く崩れ去るのである。

 

 唐突に、此処で押井守の映画の話を引っ張って来て論じる力量は筆者にない。だが、歴史という装置を通じて影を落とす真実は、もしかしたら存在しないのかも知れないーーという様な不安は、今、ネットに典拠も未記載で漂っている図像を彷彿とさせる。即ち、テレビカメラの前で追いかけっこをする二人の人間のシルエットが一部分だけ切り取られて、追っかけている人間と追いかけられている人間の関係がアベコベに報道されるーーという寓意画である。

 巷に溢れる報道に真実はないーーというような事を暗に長谷川が示したがっていたと考えるのはそれこそ陰謀論であろうが、真実というものをジャーナリストとして自分はとうとう示し得ないのではないか、という問題意識があったのではないかと考えるのは強ち遠からずではないかというのが筆者の見解である。所謂、ニュースなどは余り書かず、「探訪」と呼ばれた事件記者のような事もしなかったという長谷川であるから、その執筆活動には余計にそんな悩みが尾いて回ったのではないかーーというのは邪推である。

 だが、一人の人間が、世界情勢や人類史の推移などを分析しようとすれば、自ずとそうした限界に行き着きそうなものである。寧ろ、そこで「真理」の方向へ突き抜けてしまった人間の意識の広がりがどんな方向へ進んでいるのかは、怪しからんものである。ただ、それだから個人の限界なんてのは高が知れていると侮るのも拙速であり、その落とし所としての長谷川の見解は、最晩年のラジオ連続講義『私の常識哲学』に於いて縷縷述べられている所だが、それは要するに各々の生活の中で形成され、出来するものとして終始繰り返し説かれるものである。

 講談社学術文庫版の裏表紙にある紹介文は簡潔にして本書の内容をよく纏めている。

日本の代表的ジャーナリストである著者は本書の中で、氏一流の説得力ある常識哲学に照らして、真の哲学とは観念的ではなく、経験的、経済的なもの、つまり「人生いかに生きるべきか」でなく、「まず生きなさい」とその本質を説き、人間らしい生き方とは何か、真に創造的な文化とは何かを簡明直截に述べている。

ここでは真理という語は用いられず、「文化」や「哲学」が用いられている。そこでは矢張り、彼個人の真実が話の内容として語られる事はないのだが、その論旨は彼にとっての真実に相違なく、その意味で今日では大分怪しい内容に思われる。巷の自己啓発本の一に数えられるそうな印象も否めない。

 最早、誰に憚る事のなくなったーー否、憚る所のなく振る舞う事を要請された彼の論舌は、己が真実を事実として語る事に躊躇はないのであった。その内容への躊躇や批判は聴・読者に委ね、彼は残された時間の中で「斯く語った」のである。(然しその講演の後も、彼は十余年存命したのであるが……)

 

 

 『真実はかく佯る』は、所で、そのまえがきに示された「真実」や「ことば」「歴史」などのキーワードから、戦前に於ける彼の日本でのドイツ思想への傾向ぶりを批判しまくった文集であるとも例えば評価出来そうなものである。(ただこれは終始一貫した彼の自国に対する批判の骨子である)

 ただ今回はそうした視点はさて置き、幾つかの比喩を用いて雑駁な文章を記す目的から書き下ろした次第である。

 況やそれは個人的には退屈から倦んだ頭の中身を整理する目的から、そして他に対しては昨日今日の話題から触発されて、何かその疲労困憊した上に鬱積した鬱憤なりモヤモヤの幾らかの発散、気晴らしに供さんという考えから認めたものである。

 結論らしい事は何もない。それは全く本稿が最初に掲げた通りである。

 

(2021/01/12)

馬鹿馬鹿しい事柄について

 概して馬鹿馬鹿しい話というのは、必ず「語り手が」言わんとするところのものがあって、結局、それに誘導される事への不快さの元である。ただ、注意されたいのは、聞くところ見るところ、馬鹿馬鹿しい話の感想というのは、「語り手」の浅ましさに起因するものであるという事だ。

 果たして、往々にしてそんな浅ましい語り手の下心、意図する所とは別に、物語は物語として語られるものとしてあるものである。それは丁度楽器と同じようなものである。

 客は別に話者や演奏者に関心があるのではない。話や楽器の音色が好きなのである。話者や演奏者も含めて客が求めるとするならば、その時は話者も演奏者もその物語や楽器の構成要素として含まれている。

 語り手だけではなく、作者と作品の関係もこれである。結局、作者の表現としての作品も、その主従関係は作品が主であり、作者がそれに従うのである。

 

 結局、何が言いたいのかーーというと、人間は自ら作り出したものに服従しないではいられない、というだけの事である。

 

 多分、似たような事は既出であろうが、これは一応、筆者の言葉、という事にしておこう。

 わざわざこう書くのは、以前、だいぶ前になるが、Twitterを始めたばかりの頃に知り合ったばかりの人から「なんだかお前のツイートは何処からか引いて来たような事ばかりで、てっきりBotだと思っていた」と言われて大いに傷ついた事がある為である。

 自分でも何でそんなに心傷を負ったのか不可解であったが、未だに忘れられないので余程悄気たのであったろう。

 思うに、それは「何処からか聞き齧ったか読んだかしたのを、パクって来たんだろう?」という風に聞こえたからであろう。が、それは相手がどういうつもりで言ったかは関係なく、又、その事を私自身が何処か自分でもそうなのではないかと考えていたかも知れない事とも関係がない。

 ひとえに、その時、その瞬間に、その言葉は筆者自身の何か自身の実在に対する深刻な批判として成立したのである。それは今にして反省すれば、言葉を自分が全く思いのままにコントロール出来るものだという自信に対する、一穴だったのである。

 

 所で、自己啓発本というのを自分で読もうと思って手に取ったのは、つい最近のことだ。

 セネカの『人生の短さについて』は、今まで読まされたその手の怪しい本の元祖たらしく、いかにも、ご最も、と思われそうな、耳障りのいい言葉がひしめいている。その所為で遅々として読み進める事ができない。いちいち躊躇せずにはいられないからだ。

 だが、そのまどろっこしさが、却ってこれまで自分がスラスラと(感じながら)読んでいた本に対する疑念を喚起するに至って、なかなか自己啓発本というのも、悪くないものだな、と思ったりもした。本の内容と丸で関係ないが、果たしてそれだけでも十分読んだ甲斐はあったというものである。

 

 正直なところ、世の中にこれほど蔓延っている割には、ただの一冊も読もうという気さえ起きない類に対しての自身のありようというものに、この所、幾らか反省する気持ちを催していたりする。

 無論、結果としてそれは後から「寄り道」とか「道草を食った」とか思われそうなことなのかも知れない。ただ、これまで少なからずそうした、“何処の誰が、どんな経緯で何を根拠に言ったのか丸で定かではないが、しかし何処かしら最もらしく聞こえる文句”というものに自分が関心を惹かれた経験があるにはあったことを思えば、なるほど、幾らかこれは省みるのも決して無為ではないだろうーーという気にもなるのである。

 

 話は変わるが、多分にこの手の自己啓発本や名言・格言・俚言(ことわざ)に対する自分の価値観に変化をもたらした個人的な経験について今ひとつ記したいと思う。 

 先月、たまさか自分は所用からーータイトルは伏せるがーー見る気持ちもなかった映画を見て、大変「どハマり」した。今でも大した狂いようであるにはあるのだが、端的にどうなったかと言えば、原作小説を買う為に近隣の書店を駆けずり回った挙句、オリジナル・サウンドトラックまで買った始末である。

 何がそんなに自分を「感動」させたのかーーといえば、単刀直入にいうと、その映画を自分は心底バカバカしく感じたのであった。ただ、あんまりにその感じ方が大きかったので、そうだと把握する迄に一週間くらいかかったのであるが、その時には流石に、素直にその感想を口にするのは憚られた。

 しかし、ひと月経っても、矢張りその感想は変わらず、寧ろ頭が冷えて来るに従ってますます確かにそうだと感じられるようになったのである。

 だからーー仕方なしにーーこう書くのであるが、それは、内容がーーというよりも、それを見ている自分が心底馬鹿馬鹿しく思われるくらいに真摯に、自分が馬鹿馬鹿しい、と平生思って端から頭の片っ端からも掃き出してしまうような事柄について、人力の在らん限りが費やされた映画だったからであった。

 果たして、自分がその馬鹿馬鹿しいと感じる事柄は、何故に馬鹿馬鹿しいーー即ち無為であるかというと、自分の知り及ぶ所の外で起こっている事柄だったからであった。信心のない人間ーー詰まり、筆者自身の事であるがーーにとっての来世の様に、それは自分にとり考える必要もないし、その必要さえも持つ事が果たして煩わしいと感じられるような事柄だったのである。

 

 であるからして、うっかりそんな事柄について、延々、説教をされるような羽目に陥ったと気が付いた時には、反射的に映画館のシートの肘置きを鷲掴みにしてしまった。然し映像は大変に素晴らしいもので、それを見たいという欲望と、同時に「こんなのは凝視したくない」という相反する感情でどんどんと口元も引き攣ってしまった。幸いソーシャル・ディスタンスが守られていたお陰で、この痴態を誰かに見られる事は免れた。

 

 映画は素晴らしいものであった。

 上映中、自分は観念して座席の中に沈没するより仕方がなかった。

 結局、三度見て、漸く三度目に内容が理解出来た気がしたが、矢張りそれでも“批判”してみたい気持ちが昂ってしまうのだったが、それも結局は、決して間に合いそうにもない列車に乗ろうとして駅まで駆け出すようなものであった。久々に、虚無の只中へ突き放された感覚をひしひしと味わう事が出来、それが思えば久しく忘れていた、何か「すごいものを見た」という感覚であった。それは、全く自分が置いてけぼりにされる感覚であった。

 これもたまさか、先日ある展覧会を見に行った時に得た感想であるが、公園の敷地の中にあるミュージアムの前で、子供が駄々を捏ねて、入り口前の広場で突っ伏して泣いているのを見た。既に母親は、その指導的見地からか、或いは怒り心頭に発したか、その子を無視して駐車場へと歩き去っていがのであるが、この時、その様子を見ていた自分の中に起こった感情は、親が子供に対して抱いている、無根拠な信頼よりも、寧ろ子供の中で今まさに生じているであろう、母親と世界の一切に対する失望と、自身がそれらから見放されたという一事に対する深刻な悲痛に対する拒絶反応であった。

 自分はそれを見て、何事が起こったのか解釈した途端に無関心になったのである。

 

 批判というのは信頼と対になる行為である。信じられない事柄に対しての躊躇が、より激しく、然し譲歩する気持ちのある時に起こる、ギリギリの交渉である。

 批判は否定ではなく、寧ろ対象を肯定する為にあり、何かしらの主張であれば、それが是とされる前提を理解しようとする試みに他ならない。それはそうした虚構をおかなければ、全く受容し兼ねる事柄について、しかしながら、なお期待を喪失し得ない浅ましさの発露でもあるが、さもなくば、自身の存在が危ぶまれる状況において開始される、一個の人間が己の存否を賭けて行う極々小規模な闘争である。

 

 偉そうにアレコレ書いてしまったが、率直な感想は、改めて記しても「心底バカらしいもの」に相違ない。

 子供が公園で駄々を捏ねている様子やそれに腹を立てている母親の様子、スクリーンいっぱいの巨大な花火をぶち上げる映画の大団円の演出も、何もかもがバカらしくて煩わしくて仕方がない。

 然し、それらは結局、花鳥風月、折々の景色と同じ程度に崇高なものであるーーと、筆者個人としては認めざるを得なかったりするのである。

 脅威に他ならない、忌まわしいテレビやラジオから流れてくる音声、電車の中吊り広告、人々の会話などなど、これら全てが果たして、その深底に湛えている何某かは、子供がよく使う、まさにその言葉通りの意味での「凄いもの」なのである。

 果たして、ここでラブクラフトの台詞を引いても構わないだろうが、それこそが果たして彼の語り手としての素晴らしさであり、且つ作家としての陳腐さの核かも知れない。

 彼の小説は全体、既存の物語の様な内容ではないが、多分に説教臭いものである。結局は古今東西の神話に取材したものであるから尚更その効果は絶大で、それ故に一々の文句も箴言めいているが、結局はそれが言いたいが為の壮大な見せ物ーーと言ってしまえばそれまでであろう。だが、敢えてこの作者の陳腐さ、バカバカしさを讃えるつもりで引用する。

 これから先は、春の空も夏の花も、ぼくへの毒となることであろう。

(「クトゥルフの呼び声」、『ラヴクラフト全集2』(東京創元社)から)

 果たして、子供時代の思い出、懐かしさや未来への予感に思いを馳せる暇も持たせる事なく、由無し事で煩悶する人間を軽々と跳躍して奈落の底へと叩き落とす存在は、ラブクラフトの小説に出てくるような「邪神」ではなく、しっかり履かなかった靴下や、数センチの段差、歩きスマホであって、それこそどこぞの漫画のオチではないが『殺人事件に巻き込まれる心配よりも、交通事故に気をつけろ』というのが実際である。

 ただ、要するに、一言「凄い」という感想を表現する為に(或いは叫ぶ為に)長口舌を著述する、その技術と熱量はそれ自体が一種の凄みを持つものであり、昨今流行りの馬鹿馬鹿しい小説群もこれに並ぶものと言えるだろう。

 トラックとぶつかって一度死ぬまでの数行の行で、日常に於ける崇高なるものとの接触の瞬間を見事に描いている、という点で興味深いし、その後の一切の行は果たしてどうか、と言えばそれこそ、正に筆者にとってのそれらは「物凄いもの」に他ならない。話がただ読んで聞いて見て面白い、というのは刹那的な快感に過ぎず、飽きるものである。

 

 朝礼やら新聞のコラムなど、有り難いお説教じゃ結局、そんな馬鹿馬鹿しい部分を全部削ぎ落とした上に、小一時間か十分かそこらの演説を聞かせる為の申し訳程度の馬鹿らしさを振りかけたに過ぎないものであるが故に聞くに耐えない不愉快さが芬々と漂うものになっている。

 ただ、それは新聞ならその記事だけを、朝礼ならその口舌だけを摂取するから十分な馬鹿馬鹿しさを享受するに至っていないーーという可能性もなきにしもあらずであると考えられる。

 即ち、それら不快な代物でしかないものがあるという事実は、自身では計り知れない価値基準の存在を示す揺るがない証左であり、その馬鹿馬鹿しさに気付き得た時に、我慢するより仕方のなかった人間は、その苦痛の向こうにそれらと自身とが両存してしまう広大な領域を感知する事が可能となるのである。それが世間であり世間なのであろうが、その途方もない広大さ加減には、思わず自身の卑小さと含めて、「馬鹿馬鹿しい」という念を抱かずにはいられないものである。

 その広大さに対しては、信頼も批判もあったものではない。所詮それは人間の作り出したものに対しての人間の働きかけに過ぎないからである。人間もまた、そんな得体の知れない世界の一部である。

 

 そんな一部の更にごく一部の狭い狭い世界での全能感も満足に味わえないーーというのは何とも物悲しいものであるが、そんな物悲しさの克服方法はない事もないようで、その一例が、かの有名な『淫夢語録』であろう。

 歌の文句にある「言葉にすれば消えてしまう関係なら、言葉を消して仕舞えばいい」を地でいくような界隈の運動は、ジョージ・オーウェルもタイプライターを床に叩きつけるより仕方ないものであろうが、筆者はこの遊びを未だに心底笑う事が出来ないでいる。出来の悪い脚本も、素人芝居も、それを面白がる人間も、果たしてそれらは自分が映画館で得た経験の対にあるものであり、同時にそれらは、その「馬鹿馬鹿しさ」に感動した自分と同じ次元にいる存在なのであった。

 「語録」の真のタチの悪さは、自分自身の吐いた言葉とそれによって作り出した世界への陶酔と、その後の虚無感と自己嫌悪の中で割腹自殺した作家の存在と同じく、それらが唯一の事柄ーー即ち、冒頭に示した「人間は自ら作り出したものに服従しないではいられない」という事を否応なしに示されるからだろう。

 そして、その事が次に人間に示すのは、思わずそこから目を逸らし、関心を無くさざるを得ない現実の物凄さにある。子供はどれだけ泣いても公園には居られない事に絶望し、母親は子供が結局は自分を選ぶものと信じている。そこにあるのは完全な断絶であり、その断絶を成立せしめている領域が人間を取り巻いている事を、かの馬鹿馬鹿しさの一つの極みである悪巫山戯は、市ヶ谷台の作家と対立した学生への勧告と同じく、ネットの海に流布して憚らない。

 諸君らは完全に包囲されている。無駄な抵抗はやめ、速やかに武器を捨てて出てきなさい。

 ここで速やかに投降出来ないのは、子供も作家も、それを責める大人もひとえにユーモアが欠乏しているが為にであろう。然し、ユーモアは元より現実のペーソスを圧倒出来る程の力はない。それは所詮、人間の作為と努力に他ならないからである。

 但し、だからこそユーモアは必要であろう、というのが筆者の見である。何故なら、ユーモアはそれがそうなのだと気付き得ない内にこそ、効果を発するものであるからだ。

 

(2020/11/26)

如是閑の犬、或いは…

(初出:同人誌『XIMAIPA/キマイラ』2020年11月22日号)

 

【記者=サグ・ンペンペ/胡韻】

 『ニーチェの馬』というタイトルの映画がある。未見だが、別にニーチェが出てくるとか、そういう訳ではないらしい。彼の最期に纏わる逸話に触発されて制作された、彼の思想的世界観を監督タル・ベーラが映像化した作品であるそうだ。

 

 漱石の猫、百閒の文鳥、鏡花の兎、(龍膽寺)雄のサボテン、澁龍のドラゴンーーというように、ある人物と縁の深い生き物の組み合わせというのは数え上げると切りがない。

 そして、長谷川如是閑の場合は大抵の場合、犬が挙げられる。

 

 犬好きの作家や随筆家のアンソロジーが編まれる時に、如是閑の文章も又、屡々数えられる。

 

『犬のはなし : 古犬どら犬悪たれ犬』(日本ペンクラブ編、角川文庫、2013)
国立国会図書館オンライン | National Diet Library Online

 

 本田喜代治(1896-1972、社会学者(フランス))は如是閑の犬好きを次のように揶揄っている。

 如是閑翁は、よく知られているとおり、人間よりも犬のほうが好きである。犬のほうが人間の気持をよくわかってくれるという。わたしにいわせれば、そんなことはうそっぱちである。犬はこちらの思うように慣らすことができる。つまり条件反射である。それを翁は犬との人間の心の交流にすりかえているのだ。

(『犬の好きな如是閑』)

また、同じ文章の末尾でも、彼は的確な如是閑評を記している。本田は、自分の息子の為にわざわざ凧を作ってあげた如是閑のエピソードを紹介しつつ、「こういうところを見ると、人間よりも犬のほうが好きだと先にいった『翁の人間嫌い』と矛盾してくるようであるが、それはそうではないのである。」と断った後に斯う続ける。

 彼はわずらわしい人間関係によって、自分一個の世界を撹乱されることを極度に嫌ったのである。だから、争うことは本来、大嫌いである。

 しかし、聡明すぎるくらい聡明な彼には、ことがらの先の先までがよく見える。したがって人間や社会の欠陥なども遠くから見えてしまう。そこから彼の透徹した批評眼が成長した。それが往々論争の種を播くことにもなったのであるが、そういう場合、さきにもいったとおり巧みにしゃれやウィットでその鋒先をそらせ論争の尖鋭さを和らげたのである。

 

(『犬の好きな如是閑』)

 

 人付き合いの得意ではなかった長谷川は、若い頃から犬を飼育しており、生涯に渡って相当数を可愛がっていたーーと姪の山本幸子は証言している。

 又、如是閑は

いぬねこに心はあれど言葉もてかざらざるなり人とことなり

 という歌を詠んだ事も山本は伝えている。これは犬好きと並んで彼の傾向である所の、人間嫌いの癖が端的に表れた歌としても読めるだろう。

 省みられる事少ないではあるが、長谷川如是閑は生涯に渡り、小説や戯曲、短歌、箴言などを作する文学者としても活動を続けた。中でも白眉とされるのは随筆方面での活躍である。

 そんな彼の犬好きを語る上で看過し得ないのは最初の随筆集『犬・猫・人間』(1924)である。

 

 此の随筆集の中に収められてある「猛犬ジャックの話」は“K兄”という人物に宛てての返信書簡の体裁を取っている。前半部で、長谷川はKからの往信への逐次的回答を寄せた後、「少し話を転じたいような気にな」ったので、と断って、嘗て大阪朝日新聞社時代に芦屋に住んでいた頃飼育していたブルドック犬のジャックの思い出話を綴っている。

 ジャックは良種の室内犬であるが、他の犬に対して容赦なく襲いかかり、「大抵の場合は、相手を噛み殺してしまわなければ承知しない」という程の凶暴さで飼い主達の手を焼かせていた。縁あって如是閑が引き取った所、飼い主である人間に対しては「すこぶる分別があ」り、如是閑を見ると大喜びしながら直ぐに懐いた。然し、先住犬であるポインター犬のペチに対して矢張り牙を剥き、如是閑達を困らせるのであった。

 このジャックの心理(「サイコロジー」)を如是閑は次のように分析する。 

 彼は自分に対して優越と感じている人間には、あくまで従順で、自らがそれに対して優越であろうと感じている生物に対しては、それが同種であろうと猫であろうと、暴虐をほしいままにするのでした。

(「猛犬ジャックの話」)

 

 ところで、この「猛犬ジャックの話」は、その前半分の往信への返答内容から、“K兄”と称されている人物は、前段で紹介した本田喜代治(きよじ)その人と推測される。

 往信の中でKは数々の話題を提示している。如是閑はそれらを逐一、拾い上げて「ーー私には、一々諾かにはおられません。」という風に一応は調子を合わせている。その内容はという

 

・「新しい思想は古いものを破壊する、破壊は即ち危険である、という意味で一切の新思想は危険思想である」

・「新思想家はなるべく酷く扱って、死刑にでもなんでも処するがいい、そうすればいい加減な付焼刃が引込んで、命懸けの新思想家だけになるだろう」

・「本国を追われたマルクスクロポトキンに棲家を与えている英国には革命が起こらないで、これらの人々を追い払ったドイツやロシアに革命が起こった」

・「「歴史」の車輪が、おびただしいその挽手を轢き殺しつつギーギー廻って行くのを見ると、つくづく悲哀を感ぜられる」

・「人間に付き纏うお互いの誤解の宿命、それからのがれる道は言論自由のほかに何があるだろうか」

・「けれども相互の誤解のほかに、人間の間には、利害衝突の宿命のあるのを悲しむ」

 

と言ったものであった。

 加えて如是閑はKがその手紙に認めた様な内容を、去る専門誌に寄稿した旨をその誌名を示しながら記している。これによっていよいよ読者に対しては、此処で公然と槍玉に挙げられている、Kが何者かを知り得る手がかりを提示されている次第である。

 Kが投げかけた話題に対して、如是閑は仔細なコメントを廃して、気分転換と称して以前の飼い犬の話をするのであるが、当然ながら、それは言葉通りの意味での閑話ではなく、果たしてそこには並一通りではない彼の怒りが冷然と湛えられているのだった。

 

 如是閑の諫言や諷刺は基本、本田の記した通り、洒落やウィットに富み、それ自体小噺や寓話としての体裁を湛えるものである。ただそれは、決してやんわりとした調子ではなく、素知らぬ顔で思い切り相手の後頭部を叩き飛ばす勢いで振り下ろされるが如き調子を持つ。

 「猛犬ジャックの話」は、その激烈さを示す好例である。折角なので。長くなってしまうが、同文の結末部を引用する事にする。

 

 「ジャック、お前は、ほんとうにおかしな犬だ。お前たち犬の生存は、犬の兄弟どもの幸福のうちに見出されるはずではないか。ほかの犬をことごとく虐げて、お前一人だけが、お前の兄弟ではない人間に悦服して、無上の満足を感ずるとは何のことだ。人間はお前の兄弟ではない。人間のうちの誰一人だって、お前たち犬それ自体のために、犬を愛しているものはない、彼ら人間は、みんな自分自身の満足のためにお前たち犬を飼育しているのだ。〔中略〕何がお前に一番大切なものだと思う。それはお前の兄弟である犬たちではないか。それを片端から噛み殺そうとして、お前はどうして生きて行けると思うのだ。生きて行けたところで、お前に何の生き甲斐があるのだ。」

 「お前は言うであろう。『私は、優越者である人間に対する私の法悦に満足するのだ。それでいいのだ。ほかの犬どもには、その悦びはわからない。彼らは噛み殺された方が仕合わせなのだ。人間に対するこの法悦を感ずる犬のみが生存に値するのだ』と。」

 「そうか、それもよかろう。けれどもお前の帰依する優越者のうちには、お前が、人間にばかり悦びを見出して、お前の兄弟には噛みついてばかりいることを嫌ってお前を殺させようとしたH大佐のような人間もいる。お前が兄弟を噛み殺すことを許している優越者ばかりはない。人間がほんとうに思い返した時、お前は、人間からどんな扱いを受けるか知っているか。お前はさぞ安心だろう。」

 私はそんなことをジャックに言っては、彼がオットセイのような顔をして、ポカンと私を見ているのを大変可哀そうに思いました。

 

 こんなことが、あなたへの返信になるかどうかは知りませんが、もうあんな話にはアキアキしましたから、うんと見当はずれの犬のことを申し上げたのです。

 ご自愛を祈ります。

 

(「猛犬ジャックの話」)

 

 

 随筆集『犬・猫・人間』はしがきで彼はタイトルを当初「人間・家・犬猫」にするつもりだったと記している。だが、そうすると「人間否犬猫」と聞き違えて怒り出す人間もあると困るので、同題に改めたーーと断っている。

 此処からでも明らかなように、彼自身これが実際退っ引きならない文章である事を自覚しており、それを自嘲する体で公然と其の旨を示している。

 如是閑の癇癪は屡々、の取り巻き、基、「友人」(これは如是閑の言いである)達を大いに沸き立たせるものであると同時に、心胆寒からしめるものであった。

 先の「猛犬ジャックの話」と、後年の本田の回想を併せ読むと、果たして本田の記した如是閑の“犬好き”にも、異なった解釈が可能になる。すると途端に、本田と長谷川の此の「犬」を巡る両エッセイが剣呑桑原な様相を呈してくるものである。ただ、その剣呑さを敢えて此処で記すのは無粋というものだろう。

 

 この時期、即ち大正中後期に於ける如是閑の舌鋒の荒ぶりようは、今日なお瞠目せられるものがある。それは、検閲制度の敷かれていた戦前の言論界にあって培われた徒花と見ることも出来ようが、何より自由と解放の機運を以て明け透けな方面に直走っていた時流に棹差すものであったと読めるものであるが、その苛烈さは同時に相当に技巧的でありながら、稍もすればパロディじみた紋切り型の形式性を保持して、寧ろ一時代も二時代も古い芸風を纏っていた。それは、先端をいくよりも寧ろ稍遅れた形式の方が、より多くの人々に需要し得るだろうという目算の上に行われたか如何かは定かではない。

 しかし、結果として、著作を介してジリジリと交わされる、凄まじい緊張関係を読者は垣間見る事が出来たのであったが、これについても如是閑は自覚していたようで、はしがきで釈明している。

 一体、興に乗じてしゃべった言葉を、ほど経て本人に蓄音器で聞かされたら、冷汗をかかない本人はなかろう。これもそれと同じ化学的成分の冷汗を著者にかかせる。しかしすべて書物は著者に読ませるものではないから、よかろうということであった。そうである。読者が冷汗をかくことは、著者はある程度まで我慢し得る。

 すべて漫談である。強いて責任を取れといわれれば取らぬこともないが、根が漫談であるから、読者もまた著者と同じ態度で漫読されんことを希望する。

  大正十三年五月 著者

 スウィフトしかり、デ・フォーしかりだが、言論に対する規制が制度として敷かれていた時代にあっては、ウィット、基、頓知・機転が相当に発達するものであるようで、それは二十世紀初頭の本邦でも矢張りそうであったように観察される。

 当然ながら検閲は当局の担当者が実際に書物に目を通す作業であるから、従って、彼ら担当者は須く如是閑の読者であった訳であり、丁々発止渡り歩いた如是閑の敵役は、同時に彼の稀有の理解者であった訳であった。果たして一般読者はそんな事情も踏まえて読む訳だから、これをして彼の「文学者」としての活躍ぶりは、スリリングなショーとしても人口に膾炙していったと見て間違いないだろう。今でいえば、アニメ作品を、その制作現場の事情まで把握した上で観る様なものであろうが、官憲の取締りが行われる下にあっては、そのスリルたるや今日の比ではなかったであろう。

 

 並べて種々の時代状況や議論の経緯を踏まえなければ、如是閑の文芸作品の妙味というのは鑑賞する事は困難である。勿論、単に寓話や小噺として、エッセイとして読むのでも十分含蓄もあるからそれに著作は耐えられるものであろう。

 しかし、それは矢張り、片手落ち以下の消費に止まるであろうーーというのが筆者の見解である。

 1933年から刊行された『如是閑・文芸全集』に寄せられたジャーナリスト・千葉亀雄(1878-1935)の評ーー

ユウモアと諷刺のカクテルが、心憎いほど澄みきつた叡智に統一されて、一切の社会悪が、残膚なく暴露される。痛快といふ形容詞は、氏のためにのみ創り出されたか。氏の小説、戯曲は、断然、時代の斬奸状である。

(「社会性と力と知性と独創性の文学」)

を鵜呑みにして、文章も同じように嚥下するばかりでは仕方のない話だ。何故に彼が“反骨”と称されるに至ったかについて、今日理解される所の文脈に照らしても、結局はこれらの文芸作品群のウィットを抱握する迄に至らないであろうーー。

 だが、それは果たして筆者の預かり知らぬ所の話であるから、これまでにして本筋に戻る事にする。

 

 

 本田の如是閑評の一文は相当練りに練ったものではなかったかと筆者には推察されるが、果たして真相は歴史の大暗黒に霧散して久しい。蓋し、こうした、謂うなれば「内輪のノリ」を正にその研究対象とする事になる如是閑文芸研究は、近年、いよいよ隘路も狭まった感がないでもない。

 彼の文芸作品は、如是閑名義で最初に刊行された小説の原題『?』(『額の男』、1909)通り、徹頭徹尾、メタファーで占められており、それ故にその受容も含めて、今日からその謎を解明しようとすると晦渋煩瑣と感じられる所が山積している。

まさかに如是閑自身の「人間嫌い」は果たして、そのテキストの形式にも、明白な迄に示されているという印象さえあるものである。

 しかも、この作業を通じて得られる成果は、「ジョークの解説」に他ならないのであって、それは夏目漱石が『?』の書評に於いて、同作の弱点として示した所の正に通りである。

然し一言如是閑君に忠告したい。あの意見(オピニオン)は、世の中を傍觀する、頭腦的(インテレクチユアル)な遊藝に似た所がある。ヰツトは無論あり餘る程あるが、惜しいかな眞正の意味に於いての眞理、摯實なる觀察としての概括とはどうも受けとり惡い。
 いくら社會上人事上重大な問題に渉つても、派出で華奢な感が先へ立つてならない。無論さう云ふ場所も場面も必要には相違なかろうが「額の男」はあまりに其の色彩で蹂躙されて居る。
 だから讀者の方では、難有い教訓を得て啓發されたと思ふよりも、やあ又面白く地口(ぢくつ)たな才子だなと感ずる。又警句を吐いて人を驚かさうとして居るものと考へる。
 尤も此警句の中には決して安つぽいもの許はない。且君の學問の範圍、知識の領域に至つては我々老生をして眞に感服せしむる丈の素養は十分認められるが如何にせん一面から話すと以上の弊を帶びてゐる樣な氣がするから己むを得ない。

 

(夏目「額の男を読む」1909)

夏目漱石 「額の男」を讀む

 正直、長谷川に対する此の夏目の論難は、少なからず彼自身にも跳ね返って来るであろう難点であろうが、特に注目すべきは、曰く“地口たな才子”という評である。

 地口とは洒落の一種で、元々あるフレーズに音の似通った別の言葉を当てる、「文字り」「語呂合わせ」の事である。広辞苑なんかを引くと、例としては「着た切り雀」(元「舌切り雀」)、「年の若いのに白髪が見える」(元「沖の暗いのに白帆が見える」)が挙げられている。替え歌や、SNSで出回る「コラ」なども、広く括れば地口の仲間だろう。それの上手な、頭のいい奴ーーという印象がどうしても如是閑君の場合、前傾化してしまっているよ、というのが漱石先生の助言であった。

 

 真面目に聞いていたのに、最後の最後で肩透かしを喰らわせて相手を驚かす。或いは、最後の最後で突然、ブラックユーモアを披露して場をシーンと白けさせてしまう。そうかと思えば、笑い話が途中から人情噺になって……という様に、実際如是閑の小説や戯曲というのは、此の手の仕掛けが一つの作品の中でいくつも登場する。

 大体、物語というのはそういうユーモア=カラクリ=ネタは一つでも十分なのであるが、それを彼は幾つも仕込むものだから、その技巧性が目立って物語世界に鑑賞者が没入出来ない、というのが漱石の指摘である。意味慎重な会話やメタファーを数々登場させ観客を翻弄した上に、明確な伏線回収の演出もしないーーというような芝居の作り方は、何も彼ばかりではないが、それが結果的に「マニア受け」の域に止まってしまうーーというのは、大正でも昭和でも平成でも、そして令和の御宇に於いても変わらないのだろう。

 さて、それ故に、如是閑文芸作品の研究者は、恐らくは文章の中でも最も面白くないであろう文章というものを執筆せねばならなくなるのである。況やそれは「ジョークの解説」に他ならないからである。然も、大昔に流行った、今では殆ど知る人のいないようなネタの解説をするものであるから、居た堪れなさがないと言ったら嘘になる。

(そのむず痒さがどれ程、その志を砕くのに寄与するかについては、敢えて言うまでもないだろう。)

 今日でこそ、思想家の称号も冠せられた如是閑であるが、同時代的な、正に切歯扼腕するその活動の軌跡を追う内にあっては、如何にもそのトリッキーと評し得る言論活動の振れ幅の大きさに、百年後のフォロワーは翻弄されるのである。

 そんな長谷川の持っていた激烈さは、同じく記録される事のなかった往時の「機関銃の続け打ち」(富田砕花)と評された弁舌同様に、当時の人々にとっては相当、面白がられると同時に畏怖の念を抱かせたものであった事は、彼についての同時代人の評を読みにつけて察せられるものである。

 勿論、それには識者其々の粉飾が施されているのであるが、そうした界隈において活況を見せたコミュニケーションの資料として省みる事は十二分の価値があるだろう。又、その死後に於いて度々回顧される事のあった彼の評価は、特殊社会の活動の痕跡としての価値も有するものなのである。

 なお、こうした視点の有効性は、例えば、今日よく知られたエピソードであろう、府立高等学校の生徒だった丸山真男が警察の取り調べを受けた際に、彼を「目玉が飛び出るほどぶん殴」った刑事の発言を再考し得たりするのである。

 それはともかく、「貴様、何で唯物論研究会に入った」と取り調べのときに聞くから、「いや、如是閑さんは子供のときから、父が友人でして……」と言ったら、皆まで聞かずに、目玉が飛び出るほどぶん殴られて、「ばかやろう、如是閑なんていう奴は、戦争が始まったら一番に殺される人間だ」と言われた。

(丸山「如是閑さんと父と私」1984)

この逸話は、一般には完全に殴られた丸山が正しい側であり、又擁護される側として語られるものであるが、片や殴った警察官というものの当時的な「正しさ」とかいうものに対してはすっかり等閑視されていたりするのである。何故に、警察官は如是閑を斯くまでに「悪いもの」と判断していたのか、という事に対する思考というのは、いかんせん、此の強烈なエピソードからだけでは汲み取り得ない。寧ろ、それこそ、「国家の犬」と戦後のある時期に於いて盛んに揶揄された警察に対する、端から分かり合えないものとして相手を捉えるが如き姿勢を、読んだり聞いたりする者に構えさせてしまう凄みが、丸山真男を通じて伝播されてしまう嫌いがある。飽くまで個人的な経験の回顧の内に語られるのであればそれも未だそんなものだろうとして済まし得るだろう。

 然し、それが特定の印象を形成する教材として流布し始めたとすれば事情は変わってくる。そうした結果、反射的に等閑視されてしまうもう一方の論理というものに脚光を当てられる様にするための視座として、細やかながら役立つのではないかと筆者は考えていたりする。

 畢竟、全く故無くして長谷川如是閑は指弾され、弾圧されるばかりではなかったのである。彼は彼の大所高所から反撃し彼の敵を嘲弄し煩わせ続けたのであり、それが巡り巡って知人の息子が、そうであるという理由から殊更こっ酷く虐げられる因果を結んだーーという風に見る事も可能になるのである。

 なまじ、相手を鬼や犬に擬えて軽蔑する事は容易であり、そうしないようにするのはーー自分達こそ正真の人間であると自認して疑わないならば余計にーー困難であると言わざるを得ない。それは立場が逆転しても同様であろう。

 去年、2019年の如是閑没後50年に際して彼の顕彰活動に目立ったものがなかったのは、単に彼を支持していたコミュニティーの消失の明白な証拠であった。唯一、イベントらしいものは、NHKカルチャーラジオが年末12月に『NHKラジオアーカイブス 声でつづる昭和人物史』の中で全5回に渡って取り上げられた切りであったが、此の状況分析は、現在の筆者の見識では到底及ぶ所ではない。

 

 ただ、現在でもリアルタイムで長谷川如是閑の名前とその言葉は、インターネットの広大な海の中で、SNSを中心にミームとして増殖している。中でも『如是閑語』からの引用はTwitterで日々、無数のBotによって日に数十回投稿される程である。

 その中でも代表的な警句は以下のものである。

・少女の恋は詩なり。年増の恋は哲学なり。

・戦争の前は憤怒なり、戦争の中は悲惨なり、戦争の後は滑稽なり。

・女子は月経に支配せられ、男子は月給に支配せらせる。

 

(『如是閑語』)

 こうした伝播を経て筆者を含めた新たな読者を獲得して形成される「長谷川如是閑像」は、その存命中からそうであったように、見る間に肥大化して、都合良く使役せんとした読者に大いなるしっぺ返しを齎す。宛かも、物語に登場する人造人間・ゴーレムのようである。

 それは他人の言葉を嵩に着て、己が権威を増強せんとすればこその「祟り」でもあろう。

 さてこそ、自身に懐いた「犬」ですら、最終的に突き放さないではいられない彼を「古狸」と評したのはジャーナリスト・大宅壮一(1900-1970)であったが、流石にこの文章は載せられなかったと見て、彼の母校が創立百周年記念に発行した『長谷川如是閑 人・時代・思想と著作目録』(中央大学、1985)には、大宅の『長谷川如是閑論』が収録されている。

 

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(↑)偶然にも、この大宅の記事の切り抜きが「日本の古本屋」で購入した『倫敦』3版の扉に貼り付けてあるを発見して読み、膝を打った次第である。

 

 図らずも大宅が名付けた晩年の長谷川の仇名は、存外、彼に相応しいものであったかもしれないのだった。今日、二十一世紀の本邦人の間では、狸の印象は少なからぬ哀愁を喚起するものであろうが、その哀愁も引っ括めて、筆者は如是閑=狸説を支持(?)するものである。

 天狗の様に武闘派でも、狐の様に神々しくもなく、広く世間的に親しまれる身近な動物ではあるが、矢張り本質は人を化かして悪さをする。例えば、饅頭と思わせて泥団子を一杯食わせたりする様な事は平気でするし、腹が立ったら仕返しに化けて出て脅かしたりもするものである。

 その癖、その性根は臆病でそそっかしく、見た目も何やら鈍臭いーーが、何よりかユーモラスで愛嬌のある動物……、これが果たして今次的「狸」のキャラクターであろう。

 道化やアルルカンといった洋画の印象の色濃い人間に化けた悪魔的なキャラクターではなく、筆者は此の極めて日本的な動物を彼に添わせたいと思うものである。

 やや筆が滑ったところで、最後に彼の評として今ひとつ、興味深い詩人にして漫画原作者小熊秀雄(1901-1940)の詩『長谷川如是閑へ』を引用して結びに代えたい。

 

  長谷川如是閑

 

胸に手をあて

たゞ何となく

『自由』を愛しているお方

時代のハムレット

永遠の独身主義者よ、

私が女なら、

あなたの所に

押かけ女房に出かけます

飼犬どもをばみんな叩き出して

畳たゝいて

これ宿六

如是閑さん

長いこと理屈書いていて

理論の煙幕

『あの』『その』づくしで

あなたの良心済みますか

 

まあ‪/\‬隣近所のおかみさん達

ものは試しに

『あの』『その』教えて

ごらんなさい

これさ山の神

可愛い女房よ

まあ、まあ、怒るな

理論というものは

つまった時には、

あの、その、そうした、

こうした、それ自体、

然しながら、あの、その、

然し、それは、それ自体

そうしたもんだよ。

 

(『小熊秀雄詩集』筑摩書房、1953)

 

 

(2020/11/20・記)

 

【参考資料】

・『長谷川如是閑 人・時代・思想と著作目録』(中央大学、1985)

・『長谷川如是閑選集 第七巻』(粟田出版会、1970)

・『搦手から 大正名著文庫第十三編』(至誠堂書店、1915)

 

【補遺:1】(2020/11/20/02:40)

・今週末22日の第三十一回文学フリマ東京が愈々、開催されるかどうか、毎日更新される新型コロナ新規感染者数の数字を見ながら危ぶむ気持ちが、本来なら当日まで隠しておくべきだと思われた文章を公開する決心をさせたりした。無事、開催される事なら越した事はないのだが、「無事」というのは此の三連休の半月後の様子を見てから言える事なので、今からでは無事も何も言えた節ではない。

・本稿執筆中に、雑誌『世界』1996年11月号に掲載された『如是閑と犬と喜代治と私』(本田創造)の存在を知って、泡食ったものだが今更仕方がなく消沈している。確認出来次第、内容は更新する次第であるが、22日当日頒布予定の本稿においては、現行の儘、小誌『XIMAIPA/キマイラ』に掲載予定、悪しからずご容赦願いたい。

仰熒睨寱

 自販機は夜更し人間の止まり木である。

 帯に短し襷に流し、首を括るには丁度よしという塩梅の大昔に流行った黒くて長い蛇みたいなマフラーを二つ折りにして、その折り目に端を潜り通らせて、ぐるりと巻き付けると、何やら随分と髪を伸ばしたような心地になって気持ちが良い。

 すぐそこのポストに行くのも癪なので自転車に乗って街道沿いを疾駆すると、反対側の路地にパトカーが潜んでいるのが見えた。軈てバリバリとけたゝましく音を立てて、珍しく若いのが各々二人乗ったバイクが二台、ゆかしい長い白い背凭れを欹てたのが、伽藍とした幹線を下りていった。

 ポストの前では年嵩の男女が二人でロング缶の酒を飲みながら屯していた。信号のすぐ向こうにそれが見えたので、どうしようか悩んでいるうちに、今にも投函しようと思っていた葉書に未だ切手を貼付していない事に気付いて、これ幸いにとハンドルを右に切った後、コンビニへと急いだ。

 六十三円の切手を一枚買って、はたと水気のないのに窮した。普段なら、家にいる間なら嫌でもこの時期になると、指先に染み出してくる水が、寝不足と緊張とですっかり萎縮してすっかり乾いてしまっている。

 昔、まだ郵便局の前に警備員がいた時代、その老人から「外では、直に舐めるのではなく、せめて指で濡らすのだ」と、唾をつけた指先で裏面を軽くなぞる仕草を教わったのを思い出したが、今ではそんな事も随分憚られる。

 そこで、消毒の序でに出入り口に置かれたアルコールの消毒液に沾してみた所、これがうまくいった。

 そのコンビニのポストにパンのおまけの懸賞に応募する葉書を投函しながら、雪とアルコールの相似性は共に冷感と瞬時に蒸発してしまう所だ、とか考えている間にコーヒーが飲みたくなった。

 飲んだところで碌な事はないのだが、少なからず飲んでいる間は満足する。完全に中毒者の考えに至っている事に身震いしながら、頭を冷やす為に又少し自転車を漕ぐ内に、辺りの交通量はいよいよ少なくなった。代わりに甲高い声がよく聞こえた。

 こんな時でも酒を飲んだ人間の声は透るもので、それに対してガアガアと喧しい電車の転輪の音は、曇りの日でないと余り聞こえない。切り通しの間を走る所為もあろうが、上方に向かって放出された音波は、大気圏外へ放出された熱と共に、よく晴れた夜には天上遥か奥深くへ吸い込まれてしまって、サクサクと猫の踏む薮の跫くらいにしか耳に届いて来ない。

 駅前にあった金券ショップの自販機は、五月の自粛期間中に撤去されて、礎石だけがボルトの穴を遺して放置されている。

 流石に駅に近づくと人通りも増えた。が、然し最早誰しもが黙り込んでしまって、それがいっそ清々しい。

 銭湯で水風呂に浸かっているような具合で、行き交う人間が、皆、服を着て夜風に当たって満足気に身を凍えさせているのだと思うと随分おかしな風情である。明け暮れの冷え込みは正にそうした趣味に打って付けの気候に違いない。

 もう何年も前の話だが、駅前には夜になると軽トラに野菜や果物を乗せた物売りが来て、割合遅くまで怪しい品物を販いでいた。

 その内、自分は老夫婦のリンゴのトラックの常連であったが、傷んだリンゴを齧った後からは二度と買わなかった。ただ、その時に「変な味がするな」と言った自分に友人が、「それは傷んでいるリンゴだ」と言わなければ、まだ暫くは彼らも居酒屋やパチンコ屋のライトの下で凍えていたかも知れない、と思うと、彼の無神経さが怨めしくも思われた。

 そんな事を思い出していると、両手にそれぞれ片方ずつ靴を持った、若い、パーマをかけた、クモザルみたいなメガネの男が、軽快な足取りで道路を遮った。見たところ酔った風でもないし、靴も確りとその足に履いているのに、彼の荷物は両手のそれだけであった。

 羽振りのいい者は、その着のみ着のままが一番、値打ちがあるのかも知れないが、にしても随分不用心なものだと思いながら、交差点を過ぎて、一本別の道に入ると、意外にもカウンター・バーが盛況であった。

 最近出来た店で、父親が「こんな時でもなければ、覗いたかも知れない」と通りすがりに言ったのが梅雨の前だったから、この情勢下によくもまあ生き残ったものだ、と熟感心しながら、少し速度を落として様子を伺ってみると、二間半位のカウンターの前にはズラリと客が犇めいており、そこから溢れた客が店先のピロティの前で杯を傾けているーーといった有様であった。

 兎も角、今夜はその時間、そこだけが人間の屯場であるのは明らかであった。果たしてこんな傾向の人間達が、この近所にいたのか、と思うような柄のニット帽やジャケットを着込んだ客が、当たり障りのない軽薄さで酒卓に花を咲かせている。外にいる連中は、喫煙する様子もなく、寒酒を愉しんでいる様子だった。

 自転車はギコギコ音を立てるでもなく、時折、過積載で歪んだアスファルトに乗り上げた拍子にバネが鳴る程度で静かなものだった。

 ライトがダイナモ式からLEDに変わったのはいい事尽くめであったが、ただ一つ、夜走るのに静か過ぎるという点で難があった事に気付いた。その他の音は、鼻歌を含めてただ疎ましいものであるが、必要から起こるものであるダイナモの戦慄きは、如何かすると正体を失いそうになる夜の一人道で、今自分の足がペダルを漕いでいる事を知らせてくれる器械の声そのもののようで安心させる効用があったのだ。

 段々と眠気も増してきて、そろそろ危ないと思った所で、目前の丁字路で如何やら車が停まっているようなのが分かった。曲がり角の、もう直ぐそこまで差し掛かっているのに、何故かバックする気配すらしない。客を待つタクシーでない事は確かだった。

 嫌な感じがして、止まらないように、然しいつでも停車出来る速度で恐る恐る前進すると、何のことはなかった。横断歩道のあるそこの街灯だけが、より強力な照光を放つLEDに交換されていたのだった。馬鹿馬鹿しくなって、加えて本当に眠いのだということも悟った。

 用も済ませたので本当に家に帰る事にした。そしたら、決心した瞬間にどっと疲労吹き出して来て、それが全身に覆い被さって来た。出掛けるから、と未だ風呂にも入っていないのを思い出して急に何もかもが煩わしくなり、うんざりした所で、遠くに白く輝く自販機の光が目に飛び込んできた。

 切手を買う時に確認したのだが、今小銭入れの中には十円玉がダブついていた。これを消化するにも、ここで一缶開けるのはいいかも知れない……。

 

 そんなこんなで、今夜もまた既にこんな時間である。何もかも、そこに立っていた自販機が悪いのである。値段の問題ではなく、売っているもの、それを売っていたことが問題なのである。

 実際、その自販機は、モンエナとご奉仕価格のボトルコーヒーだけが売り切れていた。詰まり、私だけではないのだ。結局、自分はショート缶を一本仰ったに過ぎなかった。

 「いらっしゃいませ」と喋る自販機も珍しくなったが、それは結局、人間が自販機というものの性質を忘却して久しくなったから、搭載されなくなった機能なのである。すっかり鈍磨した頭と舌と鼻とで、その大して美味くもなかった風味を我慢しながら嚥下する間、自分はそんな思い出せもしないような昔の事柄を思い出そうとしては捏造して、その物語に恐らくは満足しているのだった。

 詰まりは、全くこの一時の快楽の為に自分は又々端金を落としたのだった。ただ自転車に乗って走り回るだけで満足出来た昔というのは、最早遠い遠い昔の話である。

 

(2020/11/14)

口先三寸

 人間誰しも少なからず、自分の見ている世界の完璧性を疑わないものである。完璧などということは、即ち自分の見ているものの有り様それ自体なのである。そこに更に「完璧」と呼称し得るものがあるとするならば、必ずその状況には異常の出現が想定されている。詰まり、本来の完璧が損なわれた結果、「完璧」が出現するのである。

 その「完璧」は例えば「美味」である。美味いものは異常なのだ。

 

 飲食は言うまでもなく、先鋭的な話題である。文字通り、ほんの少しの匙加減が退っ引きならない衝突のきっかけとなるし、何よりか生存に直結している所為だ。

 飲食を題材にした有名無名の作品の数々は当たり障りのない所でそれぞれ読者を獲得している。漫画だけではない。SNSや雑誌、テレビでもラジオでも何でもそうだが、殊に棲み分けが如実に反映される。それが食事というものである。

 何を食べ、どんな関心からどんな風にして食べるのかーー。コミュニケーションの中でも、なまじ退っ引きならない、これ以上ない位に即物的で乱暴だ。

 飲食に限らず、コミュニケーション全般の乱暴さを忌み嫌い、多かれ少なかれ、距離を保ちたいと思う人間にとって、飲食を題材にした漫画は「下らない」ものに位置付けられがちだ。

 『美しい』だの『可愛い』だのがコンフリクトの原因のなるのだというのであるならば、どうして『美味い』もまた、そうなるのが必定だと思わないのかーーというような煩わしさである。

 

 つくづく、素朴な完璧な世界に対して小市民的な立場から、せめても寝床で位ならそういうものから離れて生きられないかしら、と思うものである。であるのに、そんな枕頭で見る夢のようなものでさえ、何やらもの憂い思考が鼻先まで漂って来て、思わず目を覚ましてしまうーー。こんな不幸が果たして、一個の人間に許容し得る筈はない。

 蓋し、悪夢は最後に残された人間の聖域に対する侵犯である。実際の効果はさておき、発想として睡眠学習なんてアイデアは沙汰の限りと言わざるを得ない。唐揚げにレモンを絞る、絞らないで大騒ぎするのに、悪夢についてーーもとい不眠についてさして関心がさして及ばない、というのは、甚だ現代の「贅沢」の特徴であろう。

 

 寝ること自体は最早、漫画だけじゃないが描きようのない題材であろう。

 しかし、昔からリラクゼーションという娯楽は山程ある訳で、今時、YouTubeでもそんな睡眠導入剤的な動画やらサービスはごろごろある位だから、一概に世間が無関心というのは、翻って筆者自身が指して重きを置いていない世間に身を置いている事の現れでもあろう。

 さて、そうして飲食や睡眠にどんどん気を遣い、その完璧性に心砕いていくとどうなるかというと、自ずと表面的には随分と世間とは没交渉になっていくものーーと推測される。

 推測されるーーというのは、自分がそうではないから、多分そうなるのであろうな、という事である。夢にも他人は出て来ない。そんな風になれば、どんなに良い事か。

 そんな風になってしまうとどうなるかと言えば、用もないのに交通しない、世間と拘りを持たない、精神的な「引き篭もり」になるーーと言えるかも知れないが、そこではたと気付かされるのは、その「引き篭もり」という言葉の流通する世間の煩わしさそれ自体である。

 閑暇の丸でない世間は、それ自体を認識していないか、或いはよこしまな連中はそれを極力御他人に意識させないように追い詰め、その余白を掻っ攫う事で維持されているものである。勿論、そうでもしなければ直ぐにも破綻する、そんな閑暇なんて持ちようのない窮迫した状勢であるのかも知れないが、であるのならば、尚更そんな簒奪者達が休む所なく、我彼の境なく暴れ狂い、劫略の限りを尽くすのも宜なるかな、と言った所である。

 

 人間の完璧な世界に大小優劣もないだろうが、少なくともその個々に於ける善悪判断の基準は取りも直さず、その完璧性であろう。詰まる所、その気密性を高めた上で、尚且つ、快適な「暮らし」というものを突き詰めることが、どうにか他と侵犯する事なく、上手く融通出来れば、わざわざ秩序なんてものは持ち出さなくとも済むのである。

 そうして、どんどん先鋭化していった先には、恐らく何も読んだり描いたりするような事はしなくなるであろうというのが想像される。

 そんなものは、取扱説明書や会員登録や契約内容の確認程度にとどまるようになるのかもしれない。世間で「実用的」と称される程度は拡張され、ありと凡ゆる所まで及んで、最後に舌先三寸まで到達して、止まるのか否かーーと言った所まで一足跳びに議論するより前に、まず既に爪先から髪の毛の枝先まで浸潤した、この煩わしさから逃れ出したい、と人は思っていたりするものである。

 それは誰しも最後に行き着く先の憂いであって、それが偶々、人によって老境に差し掛かって得るものだったりする、というーーただ其れだけの話である。一言で「生それ自体の煩わしさ」なんて言っても、其れはその言葉から想像されるようなものとは大分違って、もっと根源的なだらしのなさや、詰まらなさに親しいものであるーーと、誰にも応答出来ないような記述の仕方でしか示しようのなくなるのは、当然の帰結である。

 そもそもコミュニケーションの必要がない夢の中で、敢えて言葉を叫ぶような事をしたら、其れは寝言になる。例え、その寝言の傍に起きている人間が居たとしても、これを受け止める事は困難である。又、寝言に寝言で返しても、其れは全く、会話でない訳だ。

 唯一、寝言が言葉として機能するのは、其れを発した者自身が、その声で目を覚ます時にしかない。

 その一声ーー『私は完璧だ。』というその声に思わず悪夢から目を醒ます時に、外からはもう曙光が枕元まで入り指している。

 同じ声が、又ある時には『何もない、何もないのだ。』と雷鳴の如く響いて、起きてからも又ずっと悪夢の続きのように悩ませる場合もあるにはある。だがしかし、いづれにせよその他人の声が実の所、普段はくぐもってしか聞こえない自分の声なのだと気付いた時には、もう意識はその宣言を所与のものとしてしまっているのだから、ちゃっかりしたものである。

 かくして、睡眠を経て、人はその世界の完璧性を回復するものである。それは日中受けた視線やら紫外線やら、無数のダメージを補修するだけではなく、何より重要な「記憶の忘却」と食べたものの「消化」を行う時間である。記録を破壊する事と忘却する事は丸で違う事だ。そ先に今の自分には用がないからといって、わざわざ道を破壊する必要がないのと同じように、放っておけば良いのである。

 そして、その「放っておく」事を為すのが、いとど難しいのである。

 

 所詮漫画だから、煩わしいのは仕方のない事である。どうせ昼間のせせこましい時間に読まれる事を想定してあるものであるからそうなるのだ。

 真に好ましいものは開陳されない事を以て是とする。鶴女房の反物も、箪笥の中の田畠も、皆封をせられた或る場所から、ただ恵みだけを得るに止めるのが吉なのだ。

 いかんせん、其れが出来ないーー蓋する事すらままならない、というような状況に対しては、はっきりと「貧乏だ」と言わねばならない。飛鳥・奈良時代の歌にもあるように、隙間風の吹くような荒屋では、寝る事すらままならないのである。片や、気密性能と換気性能の双方、幸にして兼ね備えた住居に住みながら、寝る事もままならない、というのは、全体碌でもないのは敢えて指摘する迄も及ばなかろう。

 剰え、其れを心・身的疲労で“補おう”としたりさせたりするのは、貧乏というよりかは最早暗愚である。水をたらふくのんで、その後、荒縄で腹を縛って腹が満たされるなら詮の無い事だが、其れで餓死しても幸福と当人が言えるなら、敢えてそういう御仁と拘わり合いになる事をしない方が賢明だろう。如何にも、自分の口は自分の胃の腑にしか繋がっては居らず、その胃の腑もその次のハラワタにしか繋がっていないのである。かくなる上は、人間あるべき姿は、その口に閂をかけ、用もないのに喋ろうとはしない動物の様に沈黙するのが何よりか賢明なのかもしれない。

 

 然し、思っている以上に言葉というのはプリミティブなものであるという人もいる。如何いう事かというと、それは結局、胃袋に入るものを其れで媒介している以上は、人間一個一個に確たる際限なぞ、ありゃしないだろうーーという説である。だから、黙っている訳にはいかないだろう、とーー。

 それはもう、ご最も、というより仕方ない。

 すると、詰まり、善悪判断は皆、下唇の僅かな刺激、或いは舌先三寸によって行われるのかーーと問いたら、相手はヘゝっと笑いながら、鼻先でも選びますよ、と応酬した。

 

(2020/11/12)

内田百閒『旅順入城式』『蘭陵王入陣曲』

 内田百閒の小説のタイトルは外連味のあるものばかりだが、全体作品は軒並み外連味しかない香辛料みたいなのばかりなのだから、却ってそれが正直であり、だからこそ受けるのだろう。

 コーヒーでいうとマンデリンのようなものだが、中でも、特に外連味の塊なのが表題に掲げた『旅順入城式』『蘭陵王入陣曲』である。

 完全に、劇場の表に掲げられた番組表からそっくり切り抜いて貼り付けただろうと思わないではいられない、人目を集めそうなタイトルである。

 両者に共通するのは、おそらく作者自身の投影であろう主人公が、タイトルに冠せられた映画なり舞台なりを観て陶酔している点であろう。が、いづれの百閒作品にも共通する不気味さだが、その陶酔する自分というのを主人公自身が幽霊の様に描写する。それが滑稽であると同時に薄気味悪い。

 何故に気味が悪いのか、といえば、正しく、意のままにならない自分自身というのがスルスルと手を抜けて動き出すからに他ならない。

 百閒と親交のあった、版画家・谷中安規に名付けた「風船画伯」という称も、果たして版画家の“繋留索の切れた風船”の如き生活態度を評してのものである。ネコにせよ、兎に角彼はヌルヌルと手から逃れようとするものを捕まえようとする。そして、どんどんその場から離れていってしまうのである。

 

「何処に行くのか、前に回ってコイツ聞いてくれ」

と、落語に出て来る鰻屋や素人ならまず、側にいる人間を捕まえて懇請するのであろうが、そこは憮然として訊かないのが百閒である。

 もっとも、彼自身は手綱を離しただけなので、その場に佇んでいるだけなので、「何処へ行くのか?」とは発せられようもない問いであろう。

 ただ、ここが恐ろしい所なのであるが、彼は彼自身、手放した手綱の先に繋がっているものがよく分からないでいるのである。要するに、彼が掴もうとしているか、或いは手放して漂流させたものというのが、鰻や風船の様な多愛ないものであるとは限らないのだ。

 なので、百閒を見ているだけなら未だ可笑しいばかりで済むのであるが、その視線の先、手の内、その先を見て仕舞おうとすると、読者は途端に容易ならざる状況に突入するのである。

 

 『旅順入城式』と『遊就館』は其々独立した作品であるが、これを対と見做して読書趣味者的には問題ないだろう。片や戦勝記念映画のスクリーンの前にあって泣いている男と、片や死者の顕彰記念館へ漂着してしまう男の話である。幽体離脱する百閒の事だから、前者はまだお笑い草で済むが、後者になると急に彼岸の住人に招き寄せられそうになってたじろいでしまう。

 『旅順入城式』が一転して不気味になるのは、単なる宣伝(記録)映画に感動してしまっている男のプリミティブさにある。幼稚さ、とか、野蛮さ、といってもいいのだが、ここではカタカナでプリミティブという語をそれらひっくるめた言葉として用いたい。

 さて、このプリミティブさが際立つ今一つの作品が『蘭陵王入陣曲』である。

 生徒の引率で観た舞楽に看過された男は、家に帰って居てもたっても居られずになり、「蘭陵王」を踊り出す。家の者が嗜めても耳を貸さず、暴れ踊った挙句に碁盤にだかに爪先を強かぶつけて我にかえるーーという筋の物語は、完全に笑い話であるが、矢張りそこにも、「取り憑かれた」話としての不気味さがはっきりと看取出来る。取り憑かれたもの、取り憑くものは『冥途』に代表される彼の作品のモチーフの一である。

 屡々、「怖くて、どこか懐かしい」と評される百閒作品の特徴は、蓋しこのプリミティブさに所以するものと思われる。だが、今一つ彼の作品が「マニア受け」に止まり、より広範な読者を得る迄に至らないのは、彼の幽体離脱癖に原因があるだろう。凧に掴まって、そのまま空を飛んだりするような、空想世界へのフライトに対して、彼は後僅かな所まで爪先立ちをして、ドスンと尻餅を搗く。その頃合いを見計らうのが、果たして巧みとも言えようが、それが小説家としてリーダーを獲得し辛いのかもしれない。随筆家としての彼の評価は、その錨の如き鈍重さが功を奏した結果かもしれない。

 果たして生活という生身の現場から離れようとしても離れられない不器用さが、物語としては中途半端な随筆ーー失敬ーーには向いていたのかも知れない。

 また、却ってその生身の不器用さが、彼岸の存在と好対照を為した面もあるかも知れない。

 話を戻す。『蘭陵王入陣曲』で主人公は、丁度戦隊モノのショーを観た子供の様に“ヒーローごっこ”に酔い痴れ暴れ回るのであるが、果たしてそんな男に対する周囲の眼差しというのは、完全に異常者を見るそれである。

 百閒のその他の作品『山高帽』などでは、周囲の人々の奇矯な振る舞いをする主人公に対する眼差しは描かれる。が、これは異常な心理に陥ってしまった人間の耳目を通じて歪んだ、半ば妄想的な描写になってしまっており、その評価は主人公の内心の表出と判別つき難くなっている。その点、『旅順入城式』『蘭陵王入陣曲』は、おかしくなっている自分自身の観察を中心とした上で、周囲の様子を付随的に観察するから却って、その断片から素に近い彼に対する反応が伺い知れるだろう。

 

 『旅順入城式』では主人公は最後、側で見ていた客からクレームを言われる始末であるが、それはその客の方が冷静に映画を見ていた証拠にはならない。また、狭い家の中を所狭しと暴れた主人公が爪先をぶつけた程度で我にかえるのも、その陶酔の浅はかさ、感受性の幼稚さを示すものにもならない。

 客の悪態も爪先への一撃も、何方もとって付けたような卑近な刺激でありオチである。然しその如何にも卑俗的な一撃というのが、却って、人間が非俗的な境地へと簡単に落ち込んでしまう事を示す、好例となっている。そしてそれは、読者が屡々忘れがちな、物語の導入部分ーー主人公が幽冥の境に転がり込む切っ掛けが他愛無い事と対になっていると見て差し支えないだろう。

 

 二つの小品の完成度は、蓋しその顛末のバランスの良さにあるだろう。

 だらしなく映画を観て、思わず感動して嗜められる。なあなあで舞台を観て、思わず感動して、真似をして怪我をした……。

 これくらい、カッコ悪くて話し甲斐も乏しい話であるから、タイトル位、大仰にしないと仕方がないーーというのが、恐らくもっとも妥当な解釈であると思われるが、その幕間劇・狂言的な完成度は、結果として妙なリアリズムを湛えるに至ってしまっていて、これが自分なんかから観たら、とても面白く、流石だなあと(偉そうに)感じられてしまったりするのである。

 蓋し、だらしなく戦勝記念映画を観て感動する主人公の高揚した感情は、それが愛国心だろうと何だろうと、それはだらしない愛国心であって、感動であって、しょうのないものなのである。

 また、しょうもない感動で他愛のない遊戯に耽る男の狂態というのは、傍目から見ればおかしなものであるほか無いのであるが、それは何かに取り憑かれて、そういう病気の様に踊っている人間と、それに翻弄される人間の関係として見た時には、如何にも興醒めする事請け合いだろう。

 総じて、読者が苦笑するしてしまうのは、悲劇の喜劇の側面を観てというよりかは、「自分でもよくわかっているんだけども、ままならずにそうなってしまうこと」としてその物語に於ける事態を、我が事として見てしまう所為だろう。

 偏見ではあるが、大抵、百閒なんか読む人間というのは、批判的に、冷笑的に、そう抑制的にあろうとする時点で、最早、自身の内にあるどうしようもなく無分別で狂暴な感受性というものが手の付けられないもので、放っておいても碌な事をしでかさない事を分かっていて、だからこそ、常にその手綱を握っていなければならない煩わしさというものに疲れてしまっている人が殆どである。

 だからこそ、「うっかり」なのか、「わざと」なのか分からないが、時々は息抜きで綱を手から放してみるような事を体験してみたいと思うのであるが、そんな危なっかしい事はなまじっか出来な訳だから、そこで、この様な安全な、詰まり他愛のない話で精々が所、擬似体験してケラケラと笑いたいと思うのであろう。

 

 なまじ、世間に溢れる娯楽というものは、大概が羽目を外させるものばかりである。だから、そういうのに対して、如何にも羽目を外せない人間というのは、彼岸からの誘惑に対して愈々、手綱を強く引き締めて硬直する百閒の作品に退避する。夢オチ上等、寧ろだからこそ安心して読めるのである。

 蘭陵王が仮面を被ったのはその美貌故にだったそうだが、果たして凡人がマスクをするのは、感染症対策と花粉症対策と、不細工な顔を隠す為である。特に最後の、だらしない選択肢は、然しそのお陰で、剃刀や筆を当てずとも外に出歩ける気楽さを担保してくれるものなので、蔑ろには出来ない。

 何となれば、世間は美人の水準で出来てはいないのだから、それに合わせて生きたり、或いは娯楽であっても自分を投影するだなんて事は覆面でもしなけりゃやっていけないものだ。羽目を外させる娯楽は、そんなマスクも引っ剥がしてしまおうとするから、果たして厄介なのである。そんなのは煩わしくて仕方がない、という人間が居る一方で、それがなくては世間を交通出来ない、という人間だっているというのに、である。

 

 常に緊張して、ノイローゼ気味で、普段生活するのに塩梅がいい人間は一定数いるもので、果たしてそれが全ての百閒マニアに当て嵌まるかは不明であるが、少なからずそのうちに居る事は確かである。

 如何にも生き辛い人間の(勿論、人間どんな性質にしろ生き辛さはあるに違いないのであるが)面倒臭さを笑う作家は、その肩身の狭さを否定的に描く場合が少なくないが、それを百閒は別段何か上げるでもなく下げるでもない。それが彼の評価に繋がるものだろうが、意外とそういう作家というのは少ない。

 ただ、それに何か良し悪し判断をつけるのが、果たして普通の所謂小説家なり、就中それを生業として商売をしている人間であろう。その点、百閒は随分上手い事をやってのけていて、今回取り上げた『旅順入城式』『蘭陵王入陣曲』は、果たして彼なんかが評価しなくても、当時既に世間的な評価はすっかり出来上がってしまっていた、レディ・メイドな概念なのである。だから、彼はちゃっかりしているもので、それ故に作家としても生き残れたーーと言えるかも知れない。

 何かこの文章でも、最後に評価というか教訓めいたものを付せなければならない気がしているのだが、差し詰めーー前にも、別の文章でもこんな事を書いたかもような気がするがーー、百閒とこれらの作品から学ぶ点として強調すべきものとしては、何よりか、上に示したその世渡りの賢さ、強かさだろう。

 誰かの感受性なんかを真似た所で、果たして、他人に良い様に操られて馬鹿を見るのがオチである。世間は自分の目で見るのに越したことはないどころか、結局、それでしか見えないものだ。

 

(2020/11/10)

如是閑と文化勲章

 

 毎年自ずとこの時期になると筆者(本稿筆者)が心身共に調子良くなるのは、文化芸術の秋云々の刷り込み教育の賜物であろう。学校教育の効果を、この歳になると熟感じる。

 また、この「秋」は、自尊心の回復期に当たる。幼少期の刷り込み教育のそれと対になるのは、常日頃からなる被害者意識の鬱積であろうが、それは個人がそう意識するとしないとに拘らず、用意された環境の影響がそういう意気消沈と浮揚を齎すものだろう。さもなくば、文化芸術に無縁な自分がこんなに燥ぐ謂れはない。

 

 それ祭りの異常なのは費やされる資源の所為だろう。その使い途、高やらが全く実際的な利益を度外視していればいる程、贅沢で心地よい。

 勿論、どんな手品にもタネがあるように、例えば、軍隊が使用期限を迎えた火薬の類を処分するのに、折角だからショーの花火にして人民を楽しませようとするのは、元を辿れば家庭で死蔵されていた小麦粉やら上新粉やらを使って、パンケーキや団子を山ほど作るのとそう変わらない経済感覚で理解出来るものだ。

 

 見せる側の思惑は、結局それが遊びとして、理解し得るだろう人間の感覚に対する信頼によって成り立っている。実際的な勘定の詰まらなさと、審美的な感情の面白さを両立出来る分別の有無が人間精神の成熟度合いの指標だとしたら、この信頼の出来る・出来ないの問題は、その精神の発達に少なからず関係してくる問題だろう。

 さて、そんな信頼の問題から長谷川如是閑(1875-1969)の活動を見てみると、多分に彼はその問題でよく蹴躓いて転んでいる印象が看取される。特に文芸作品に於いて、彼はこの躓き石を執拗に蹴飛ばそうとしては、転んでいる。ただ、彼自身はその障害を取り払おうとは、文芸作品を通じては、しなかった。代わりに、よりアクチュアルな方法として、メディアを通じた民間からの政府への働きかけによって、乗り越えようとしたのであった。

 

 1948年に文化勲章を受賞した長谷川だが、この叙勲が占領統治下での新しい時代の幕開けを祝う儀式の装飾として行われたものだったーーというのは、意地が悪いかも知れないが、当たらずも遠からずだろう。もっとも、既に当時で古希を超えた老人に対して、そうした御輿的な姿勢が相応しくなかったという批判は今日からでは余計当たらないものだ。

 兎も角、既に文芸作品(随筆を除く)の執筆からも手を引いて、世間を遊歩し漠然と抱いたビジョンを創作活動で昇華していた文筆家から、文字通り諸国諸外国を漫遊する栄誉ある批評家へと変貌した彼を同じく扱う事は困難である。

 よく知られるジャーナリスト・批評家・思想家としての彼の側面は、この信頼の問題を飄々と克服しているかのようにみえる。だが、一方で文筆家、殊に作家としての彼の著作を読んでみると、良い歳していつまでも拘泥している人間像が見出される。

 勿論、作品と作家の人格は擦り合わせて理解する必要はない。

 だが、それこそ本人が否定しようとも、著者と著作を繋ぐ関係も信頼の問題である。

 また、その媒介としての言葉に対する如是閑の関心は、自分の思考を直接他者に伝えることが出来る装置を登場させた戯曲形式の小説で(『無線電心機』1920年)、わざわざ思考を「文字に起こす」という一手間を加えさせていたりする。また、小説を含めた「口語」への関心は昭和初期の日本語研究(『話言葉の文化』1941年、『言葉の文化』1943年、共に国民学術協会)に繋がり、こうした関心は万葉文学への関心と合流して、戦後、インタビューで明言するようにもなる「文化的デモクラシー」の提唱にも繋がったろうと考えられる。

 文化的デモクラシーとは、曰く、日本では昔から全階級的に文化が共有されており、ある特定の階級だけが持っていたのではないとする彼の認識に基づく、日本の伝統としての民主主義なのだそうだ。

 正直、だいぶ怪しげな主張として筆者には受け止められるものだが、これは果たして、彼なりの他者理解の終着点だったのだろうーーという風に現段階では性急かも知れないが理解していたりする。

 

 如是閑の立場として、彼が青年期に陸羯南ら、“当時の”国粋主義(曰く「トラディショナリスト」)的な活動へシンパシーを感じて、ジャーナリズムに身を投じたのはよく知られた話である。そんな青年が紆余曲折を経て、壮年期に至って日本へ「回帰」したのは、ある意味で一貫性のある行動として、今次では評価し得るものだろう。

 当然、ここでも留保は必要である。何せ彼の人生は93年にも及び、かつジャーナリストとしての活動期間も70年近い。しかし、少なくとも彼のジャーナリストとしての活動と並行して青年期から壮年期まで続けられた文芸作品の執筆活動を、ここに今一つの彼の立場を知る材料として読むことによって、その変遷の掘り下げられるだろうと筆者は踏んでいたりする。

 

 如是閑の主著として目される『日本的性格』(1938年)の当時的評価は今日中々掬くし難いものであるが、ただ、続く彼のキャリアを考える上で、これがステッピング・ストーンになった事は明らかだ。

 所で、これによって彼が占めた地位は、批評家・思想家なのか、それとも作家・芸術家なのか、については今日、前者が専ら採用されるであろうが、筆者としては後者を推したいものである。

 「性格」という言葉が使われていることにも注意したいが、ここではそれを喚起するにとどめる。

 果たして彼が如何にかして掬い取ろうとした、曰く伝統であるとか常識というものは、科学的な装いで欺瞞しようとしても困難な、情緒的な色を多分に有しており、その情緒の産物である諸々は、彼が努めて距離を置こうと試みたロマンチシズムに他ならないのではないか、と思われるからである。ただ、例えロマンス・夢幻といえども、”分別ある大人”が嗜む分には、実際的な仕事に他ならなかったのだろう。

 

 本稿筆者は、何となれば、『日本的性格』は彼の日本という他者の理解の終着点であり、以降の活動は此処で得た世界観・そこで生きる人間像に基づく思索が主となったーーというのが(性急ではあるが)、ひとまずの理解としている。そして、本書執筆と相前後して衰微した小説や戯曲などの文芸作品の執筆から、この時期を彼の変化期として目している。 

 如是閑の文芸作品は、彼自身の創作姿勢によって中々評価が難しいものであるが、今此処で仮に示したいのは、彼自身が内省と其の表現手段として小説や戯曲などを選択する事に躊躇っていた事が窺えるーーという点である。

 度々、彼自身が言及する所ではあるが、彼自身の自己評価は、取るに足らない、語るところの少ない、「歴史に乏しい生涯」というものである。「歴史に乏しい生涯」という言葉は、文化勲章文化功労者の受賞後のインタビューでの発言であるから謙遜もあるだろうが、就中注意したいのは、此処で述べられている「歴史」という語の重みである。

 中村吉治(1905-1986)が東京帝国大学在学時に卒論指導を仰いだ平泉澄(1895-1984)から『豚に歴史はありますか?』と畳みかけられたのが1920年代の後半であり、かつ世代的には二つ程上ではあるが、平泉に近い如是閑が「歴史」と言った時に、それが今日の意味合いとは異なるものであろう事は留保されるべきであろう。

 歴史に乏しい「溝のボウフラ」(『ある心の自叙伝』1950年)という劣等感が彼にあったと考えられる事は、既に指摘されている所ではあるが(『大衆社会化と知識人: 長谷川如是閑とその時代』古川江里子、2004)、それは青年期の不遇の時期にとどまらず、寧ろ、そこから継続して終生影を落とし続けたものであろう。

 それが民間人としては恐らく今日でも最高の栄誉である文化勲章文化功労者の授与を以ってしてもーー否、その栄誉が授けられれば愈々以て自覚せられたものであるまいか――? 稍ヒロイックな推測であるが、彼の意識は異なる階級との交通の中での居心地の悪さに加えて、彼自身の世間(社会)における居心地の悪さの板挟みの中で、所在ない境遇にあったと考えられるものである。今ならネットがそういう寄る辺のない人間の受け皿になるのであろうが、如是閑若かりし頃は、果たして新聞や雑誌がその機能を有していたのであろう。

 

 さて、話は変わるが、毎年11月3日・文化の日親授式が行われる文化勲章の授章者であるが、生前授与される栄典であるだけに、授章者が物故した後には、彼らの事績は文化の日に託けて回顧されることは少ないのではないのだろうか。実際、個(故)人の功績を顧みるのには他に、誕生日や命日というよりパーソナルな日が存在するので、余計に態々縁が付きづらいのであろうが、筆者は偶々、自由研究の対象としている人物が受賞している所為で、文化の日が近づくと「そういえば……」という風に思い出したものである。

 そんな風にして、文化勲章自体が顧みられる事は、受章者が受章者だという理由で顧みられる事よりも稀であろう。

 だが、一方で「文化芸術の秋」という刷り込み教育が功を奏した事を実感する身としては、何となれば、そんな制度自体に無関心でいられる自分の楽天的無意識的態度自体が、蓋し制度設計者たちの思惑通りであろう――という風にも考えられて、如何にも妙な気分にもなったりする。とはいえ、それも長続きするような代物ではない。自分は単に、このシーズンの空気と、同時に其れに合わせて行われる祝祭の雰囲気に酔い痴れ、楽しんでいるのだ。

 その分別が出来ている限りに於いて、例え見境のない人間が故無く何かを祝おうとしても、それに自意識過剰な反応をしないでは済むのである――が、然し、そんな縁故もない人間の見境のない祝祭というものを見て、何をか寂寞の情を抱く自身の性質に気付かされる季節というのが、この秋という期間である。

 蓋し、如是閑の文芸作品に通底するのは、この自意識過剰に因んださびしさやら悲しさとどう向き合おうか、というテーマである。その点で彼は、漱石とも並び得る水準にあると言えようものであるが、彼が文豪足り得なかったのは、そのさびしさやら悲しさを、乗り越えられもしなかったが、かと言って、それで大怪我もしなかった点にあるものだろう。

 確かにしょっちゅう足を取られてはいたが、それで彼は死にはしなかったのである。死にそうな程の精神的煩悶を彼は相当気遣って回避し続けたのである。飄々とするのに全力を尽くした――というのが、果たして彼の処世であろう。態々煩悶を背負わずとも、彼は十分に心身共に逼迫していたし、生活者として常に危機感を抱いていたのである。病弱であったにも拘わらず、長生きしたのも結果としては偶然だったのかもしれないが、常頃の配慮が相当に功を奏したとは十分考えられるものである。

 その意味で、彼は文学者になる余裕はなかったものと言えるかもしれない。ただ、生き様それ自体が一個の文学である、と評する事は中らずと雖も遠からず――ではないだろうか。それこそ、生活の中で作り出される諸々に重きを置いた彼自身の態度ではないが、それが彼の自己肯定であったにせよ、それが特に戦後に於いて一時期評価されたのではないか――と筆者には考えられるものである。数多世に出回っている自己啓発本の例に同じく、他人が参照して役立てられる事稀なものであるには違いないが、彼の著作を読む上では此の事は幾らか役立つ知識であるとは思われる。

 結局、反骨のジャーナリストは文芸作品に於いて、真にツッパってみせたのである。そして、それが如何、評価されたかというと、今日既に明らかである。

 

 最後に、精神を危機にさらさない老獪さを若い頃から修練して身に着けた如是閑「叟」に学ぶところがあるとするなら、何よりその賢明さにあるだろう。だが、これをあんまり強調しすぎると筆者の「性格」に悪印象が生じるだろうから、これくらいにしておく。

 勿論、そんな処世術が学び得る代物かどうかも怪しいのだが、ノーベル賞受賞者が何はさておき偉人扱いされ、手本とさるるのを良しとするのであるならば、彼をその人柄的な点で評価しようとするのは通俗的には良しとし得るものだろう。

 

(2020/11/03)