カオスの弁当

中山研究所blog

 電車の窓に映った景色を片端から全部描いていこうとした時に、描いているうちに全部流れ去っていくものだから、いつまで経っても絵が完成しない。

 そんな時に、傍で見ていた人が

「借してみろ」

というので、筆を渡したら、長い長い奉書紙に一本線を引いて、

「これでいいだろう」

と言ったので、自分はすっかり参ってしまった。

 

 今にして思えば、その人が言ったことや描いてみせた図は随分正しかったと思われる。

 しかしながら、それでも納得がいかなかったから、以来、いつかまた出会した時に驚かしてやろうと思って、電車に乗る度に景色を眺めては紙に写していた。

 それから大分日の経った折に、途中駅まで人を送る用事があった。

 夜も遅くて、窓の方を眺めていても、自分と隣に座ったその人くらいしか見るものはなかった。

 

 別段話す用事もないから、ただ黙って窓の外を眺めていると、徐に相手の方から口を開いた。

「線が見えるでしょ、ジグザグした」

 相手も窓の方を向いたまま、そこに映った自分に向かって話かけるので、自分も其方に相槌を打った。

 

「あれ、学校の試験思い出す。あれで、どんな病気か答えんの」

「心電図ですか」

「そう、ーーああ、あの線、あれはーー」

 

 何だろ、と言ったきり、それから相手は又話すのを止めて、自分も話さなかった。

 列車は相手の最寄駅に着いて、其処で確かに降車したのを認めて、自分はまた窓の方に向き直った。

 当然だが、その時、窓の外にも内にも線はなかった。

 ただ、それから度々、海が見たいと思いようになって、ついに去年の夏、藤沢から江ノ電に乗って鎌倉の由比ヶ浜が一望出来る駅まで行った。唯それだけの為に行った、という訳ではなく、その近くにある有名な岩場まで、物見遊山に行くつもりであったのだが、途中であんまりに人が多いので、砂浜にも降りず、駅に戻って、そこでぼんやり海の方角を眺めていた。

 

 海は絵で見たよりも波が大きくって、眩しく、正視に耐え難かった。

 それでも見ている内に網膜にきちんと焼き付く像が出来るのではないか、と期待して眺めていたが、果たせるかな、その願いは叶わなかった。

 小学校の校庭の、一段高い所にあった南瓜の畝の網目模様は、今でも確り記憶されている。だのに何故だか海はそうはいかなかった。

 考えたら、それは畝が静止していたからで、海はずっとじっとしていなかった。

 青とも黒とも付かない光の帯が重なり合って、互いに潜り抜けながら、前進したり後退したりしていた。その行き先がよく分からない内に痛くなって来て目を瞑ると、また元通り、最初からの景色になってしまった。

 

 慣れない潮風に全身がギシギシになった。その日の帰り、近所の古本屋に寄ったら、百円のワゴンに古い子供向けの図鑑が詰め込まれていた。

 中には読んだことある巻も挟まっていて、函から出して開いていったら『海』の巻もあった。余り期待もせずに取り出したら、『海』の巻の表紙は、浜に寄る波を横から撮った航空写真だった。そんな図は生まれてこの方、見た事がなかった。

 そういえば、海にも奥行きがあるんだった、と答え合わせのように気付いたのは、その巻を買って家に帰り着いてからだった。

 

 それから、今更のように紙の厚さを気にするようになった。それで思い出した、昔描かれた一本線は、現物はなく、ただの遠い昔の記憶でしかないのであった。

 当時はただ、描いていた絵を台無しにされた、という嫌な感じしかしなかった。だから、確かな事は覚えていないが、直ぐにでも新しい紙に、或いはそこで切り離して続きを描き出していたに相違ない。

 だが、断片は切り離せたどころか、延々と目の前の今ある紙にも連なっていたのである。何処からでも切り離せるのだから、何処からでも繋げてしまえるのは、ちょっと考えたら道理であった。 

 

 そうして我に返った所で、自分は未だ電車の中にいて、窓の方を向いているのであった。

 我に返って直ぐ、何処へ行くのやら、確かめずに乗った事を思い出した。しかし今更確認しようにも、今、手のうちにある巻子には来し方のみ記してあるばかりで、行き先は絶えてない。

 奥行きの方角に向かおうとしても無理である。取り敢えず、次の停車駅まで待つしかない。

 待っている間、窓を眺めているとチラチラ光が見え始めた。大体は球である。それがやがて線になって、波になって、突如としてプツリと切れた。すると又直ぐ次の線が現れてフツリと消えた。

 紙を巻く速度が追い付かないので、絵をどんどん小さくする事で余白を稼ごうとするのだが、それでも全然追い付かない。

 到頭、面倒臭くなって、いつぞやの「借してみろ」みたいな線を、思いっきり太いのを擦り付けて筆も紙も放り投げて、不貞寝を決め込んだ。不貞寝している間にも電車は止まるもんだと考えた。

 だが、それでも電車は止まらなかった。それも当然、仕方がないので、渋々又、紙と筆を拾い上げて、一本引いた線の部分を切り離し、今度は綺麗に筒に丸めた。鼓を打つみたいに指で鳴らして遊んでいると、漸く電車はゆっくりとだが、速度を落として登り坂に差し掛かった。以前として、駅までは未だ随分あるようである。

 

 それから今は景色と全く関係ない絵を描いて過ごしている。

 

(2022/01/14)

 

ジェネレーターに入力したキーワードは秘密

 三が日前後から、AIに色んなお題を入力して絵を出力させる遊びが流行っているようだ。

 これは石を割って出来た断面にある模様を、風景とか事物に見立てて遊ぶ、パエジナストーンのようなもんだと思ってタイムラインを眺めている。

 すると、このような機運に乗じて、そろそろクリエイターの中から、AIが描いたような絵を描いて発表する猛者も出て来るのじゃないかと思い、期待するようになった。

 ただ、今少し、そんな猛者達の筆致よりも、この機運に託けた全く異なった作品を見てみたい気持ちも湧いて来たので、その事について少し書いてみようと思う。

 

 絵のような模様のある石が評価されるようになれば、自ずとそんな石の贋物を作り出す者が出て来たりするのが、人の世の常である。

 だから、AIの描いたイラストがもっと世の中に増えれば、人間がそれを真似し出すだろうーーと思うのは無理からぬ話だろう。

 果たして、自分にはそんな絵を描く技量はないから、いつかそんな画像とタイムラインで出会す日を楽しみにしていたりする。

 

 大体、「絵に描いたような風景」を求めて、他人の土地だろうが耕作地だろうが、道路の真ん中であろうが陣取ってカメラやスマホを構えるようなのが人間の性である。

 だから、

「人間か描いたかのような画像を生成するコンピュータ・プログラム」

が作られるようになるのは、何の不思議もないものであるし、そんなのは、カメラが普及し出した辺りで、人類が一度経験した事である。

 また、人間よりも人間が描いた風な絵が、石をハンマーで割ったり、言葉をバナーに入力したりする事で見られるなら、それにハマるのは全然おかしな事ではない。それを何か文化芸術の衰退だなんて言おうものなら、言う方が多分、野暮なのである。

 寧ろ、この様な画期的なツールを使って、如何なる画像を人間が生成するかが、例えば今後詩人の腕の見せ所になるのではないかとかーーそれ位、考えない事には「批評家」を気取るのも難しいのではないか、とか想像する。

 

 ここで、更に余計な事を付け足して言えば、AIの画像ジェネレーターの妙味は、人工知能の生成した画像に人間が「ツッコミ」を入れられる所にある。

 どっかの画像大喜利のように、人間が「ボケ」に回って頭を捻ってタイトルなりキャプションを付けるプレイヤーの側に回るのではなく、お題となる言葉と引き比べて、その回答の出来を審判する側に立てるのがAIによる画像精製の面白さの醍醐味であると言えるのではあるまいか。

 

 「機械」が描いた絵には前以て正解が用意されており、それを踏まえて人間が機械の出した回答を採点出来るのは、人間にとって絶対的に優位である。それは人間の描いた絵に対して、人間が抱く煩わしさが、初めから取り除かれているからでもある。

 その判定は、スポーツ観戦にも近いが、此処ではそれよりも更に一歩進んだ審判役を人間が演じられる点に於いて、オモチャとしての画像ジェネレーターは優れている。

 ただ、スポーツの試合にプレーヤーに相当するAIは審判である人間の指示には必ずしも従うものではない。というか、先ず理解しているのかも怪しいのがAIである。多分理解しないのであるが、そういう見た目の上で愚かなプレーヤー然としている機械に対しても、恰も人間を「指導」するかの様に振る舞える事で得られる優越感こそが、審判役を任ずる人間の得られる面白さの醍醐味と言えるだろう。

 人間はただ、AIのプレーに対して、口に咥えたホイッスルを鳴らすだけで良く、それも自分の好きなように鳴らして良い。そしてそれは、自分が思うがままに試合を厳粛にも寛容にも振る舞える事を意味している。

 笛の音に合わせて何かが動くのであれば、それが鉛の兵隊だろうが、生きた人間であろうが究極的には関心がなくなるのが、笛を吹く係になった人間の心理が落ち着く感情である。

 詰まり、ルールなんてない状況で、ルールがある前提で振るわれる暴力の、権威だけを擬似的にでも生成するのがオモチャとしての画像ジェネレーターなのである。

 

 刑事ドラマごっこ(何だか妙な言葉だが……)をするのなら、捜査をし取調べをし、犯人を追い詰める警察の側に回って、権力を振りかざす快感を味う方が、追われる犯人側でいるより安逸であるという事は、違いの分かる大人の方が子供よりよく弁えている事項である。

 というのは、大人は手続きの煩瑣な事を子供より分かっていればこそ、一足飛びに、その手続きを経た上で得られる権威や、その効能を得る為の知恵というのに精通した者だからである。

 そんな「知ったかぶり」人間が、果たして子供の格好のオモチャになるのは容易に想像出来る顛末だろう。

 

 斯くして、次々とタイムラインに投稿される画像を眺めては、意気揚々と棍棒を振り回して「鑑定ごっこごっこ(矢張り、妙な日本語だ……)に興じる人間の足下を掬い揶揄うのに、人間がAIに成りすます事程、優れた手はないと思われるものである。

 現実的には「AIに成りすました人間に成りすますAI」が拵えられる方が有り得そうだが、何れにせよ、そうした応酬は、ジェネレーターにキーワードを入力して、出て来た画像を楽しむーーというような、ゲームセンターのコインゲームや、或いはスマホのガチャガチャに興じてしまうような人間の性に端を発している。

 

 その性は、何かを知りたいと思って調べ物をする人間の基本的な習性のあらわれの一つである。

 だから、若しーーそんな大人と子供の戯れに関係したくない、と思えば、大前提として、調べ物をするのに際しては、検索してヒットした情報の中に、その様な「成りすまし」の生成した情報が相当程度、含まれている事を承知しておく必要がある。そして、その有象無象を取り除く篩を沢山用意しておく必要がある。

 そして、それは別に画像ジェネレーターで遊ぶ際だけの留意事項では全くないーーというのは敢えて言うまでもない。

 

 

 お題を入力して、それに応じて提示された絵を見て楽しむーーというのは、果たして普段人間が人間に対して行っているプロセスを、少しく改変しただけに過ぎないので、この大枠自体を何か批判しようとすると結構面倒である。

 そして、この大枠に則った上で、その過程に人間ではない機械を持ち込むのがいかがなものかと思う向きに対しては、次の様な想像をして貰えればーー、と個人的には思うものである。

 

 それは、誰か身近にその様に気軽にお題を振って絵を描いて貰って、その絵を見て、楽しむーーというような環境にいない人達にとって、ジェネレーターがその代替となる手段足り得るという事が先ず挙げられる。

 そして、何よりかこれで、先にも少し触れたが、絵を誰かに依頼するのが難しい詩人や作家達が、自分の著作に挿絵を添えて発表する事が出来るようになったならば、それは全く素晴らしい事だと思うものである。

 これについて、筆者の寄せる期待は甚だ大きいものである。

 

 自分としては、この機運が如何か、「ドラマごっこ遊び」の具にとどまらず、種々の試みに使用され、その成果物に関する情報が随時タイムラインで見られる日が早い所来る事を願って止まない。

 

 なお、ここで「それで、お前自身は何を作るんだ?」という様な質問は、全く野暮であると言える。

 誰が一体、そんな問いに正直に答えるものだろうか?

 

(2022/01/12)

 

 

カラスの遠吠え

 カラスの遠吠えは電柱の上によく冴え渡る。真下で聞く分にはさほど声量もないように聞こえるのだが、離れてもなお聞こえるので、その声は優に数百メートル先まで届く。

 普段買う牛乳が少し多く盛られているような気がしたので測ってみたらば気の所為であった。また、少し水っぽいような気もしたので調べたら冬場の牛乳は淡白な味になるという。これは気の所為ではなかった。

 拍子木の音も鳴り止んで静かな夜に戻って来ると、普段視覚に頼りがちな人間はいよいよ距離感というものを掴めなくなる。仕方なく、それで昼間はぶらつくがてら、歩調を速めたり弛めたりして、融通出来るようにしておく。

 

 カラスの遠吠えは、「アー」でもなければ「カー」でもない。「ワー」と書くには角張っているし、濁った「アー」よりずっと丸みを帯びている。

 すると、雨戸の閉まった事務所の中から、小犬が応じて吠えるのが聞こえた。それで、カラスの遠吠えは犬の咆哮に似ているのだと気付いたりした。それなりに図体のでかい鳥類だから、犬くらいに声が出せていても不思議はない。

 とはいえ、雨戸越しの犬の吠え立てる声なんぞは、数歩進んだらすっかり鳴りを潜めてしまった。カラスの声は自室に戻っても尚、聞こえていた。数分間、鳴き続けていた事になる。それは全く大した事だと感ぜられた。

 

 寒さと伝染病からの生活の萎縮とから、此処の所、極早い時間に隣近所は雨戸を閉ざし、皆家に引き篭もって過ごしているものだから、夜は星がよく見える。無論、高の知れた程度ではあるが、田舎に行くと天の川を始め、見え過ぎて空が星で霞んで見えると聞くから、この程度で却っていいのかもしれない。

 日中の交通量も減り、夜中は尚更減ったものだから、塵埃も光も目に見えて減った気がする。それを賀して良いのかは分からないが、兎も角、確実にこの数日は例年よりずっと色々なものが冴え渡って感受されて良いものである。

 鳥の声は確実によく通るようになった。今に家の前を猿や猪が散歩するようになる日も遠くはない気がする。

 

 年寄りは早寝だから、だとか、いい若いものが外にも出歩かんとは、とかものの言いようは色々にあるだろうが、何にせよ尤もらしく言えるのなら、幾らか面白味のあった物言いというのが果たして好ましいーーと思うのは、随分斜に構えた態度であって、そんな事も考えずに来る七日の粥が炊けるのを指折り日を数えて待つのが睦月正月には相応しく思えてならない。

 

 カラスの遠吠えがしている間は、森閑としてそれ以外、鳥の声らしい声はとんと聞こえなかった。だが、やがて家に自分が帰り着いた辺りになって、応答らしい声がするようになって、それも止んだらヒヨドリか何かのピーチクパーチク喚く声が聞こえて、それも直に止んで又、車とバイクのエンジン音が聞こえるばかりとなった。

 初春の午後とは果たしてこんなものである。

 

 所で、牛乳を買いに行ったのは、豊島屋の鳩サブレを食べるのに備蓄がなくなっていた為であった。矢張り、鳩サブレも新鮮な内が香ばしくて美味である。だが、そう一度に何枚も沢山食べるようなお菓子ではないし、又食べられるような大きさでもない。それで結構満足してしまう程に、しっかりとしたおやつである。

 それでお目覚にも食べる事にした。今年は初めから、ハトばかり食べている。

 そろそろ羊羹も食べ頃であるから、こちらもこれから切り分けて食べる予定である。牛乳の減りが果たして尋常ではない。骨が強くなりそうで結構である。

 

(2022/01/05)

柳と電柱

 柳田國男がどこかの村と村とに相似形を見出し、それを何か「美しい」景色として称揚した理由が、何でも村の中程にシンボル・ツリーとして植えられていたカワヤナギの大木を発見した為であったとか言う話を聞いた。

 又、東北の雪深い村の戸口に、人がいる標の竿を立てていたーーという習俗にも触れつつ、そこに人の住んでいる事の証として植えられたカワヤナギの木とかそういう事物に感動したとかいう話は、ものは大分違う訳だが、表象としての電線・電柱にも通ずる風情を見出せると感じて、個人的に随分興味が惹かれた。

 

 川瀬巴水の新版画は多くが風景画であるが、中でも「モダン」と評される作品の内には電柱が描かれているものが少なからずある。

 それらは当然、お約束として絵の中では伝統的に街道沿いに植えられたマツやらヤナギになぞらえれ描かれているものであるが、また一方で当然ながらそれらは街路樹ではないのだから、それらには特殊の意味があるーーはずである。

 この、巴水の電柱を考える上で、柳田の日本文化論・風景論というのは同時代のものでもあるから、当然避けては通れないのであるが、本稿は何か学術を気取るものではないから、一寸こうして留意するに留めて先に進もうと思う。

 

 柳田國男の話に戻るが、東北の各地で伝わっていた小正月の儀式の中に、カラスに餅を与え得る儀式があったというのに彼が痛く感動したーーという話も併せて聞いた。

 所謂、「鳥追い」の儀式であろうが、餅を人間が与えるという話は自分は初耳だったので、なかなか気前の良い風習もあったものだな、と感じた。併せて、さっきの標の竿の話といい、村落のシンボル・ツリーの話といい、そしておまけにカラスといい、自分の中ではそれが何やら、「電柱のある風景」にそろそろ肉薄している事に気が付いて妙な感慨を抱いた。

 

 先日、『電柱広告六十年』(亀田満福・著)という本を入手した。これは数年前に興味を持って、一度は入手したいと思っていながら、概ね高価で取引される為に手が出せなかった品が、偶然、千円足らずで出回っていたのを発見して急ぎ押さえた品である。

 その本が出版されたのが、昭和35年(1960年)の事であり、末尾に付された解説がなかなか読者を感発するアジテーションとして優れていると感じられたので、ものは序でに引用しようと思う。

 街頭に立つ電柱は言わば枝も葉もない枯れた立木とも言うべきもので、極めて無味乾燥なものである。故にこれに化粧して美化することが、都市美の高揚であり、それが電柱広告の真の使命なのである、この点より言ふも、警視庁が公安委員会云々を口にして電柱広告を排撃せんとすることは当らざるも甚だしい。また電柱広告の広告主は、主として医師、質屋等の小企業者が多い、つまり“庶民のための広告”である点を重視せねばならない、庶民は国の宝である、庶民は健実で健康である、ここに真の文化の花が咲く、都市美高揚の声は実に喧しい実に耳を聾するものがある。しかも来るべきオリンピックのために都市美を斎正せよとの声が高い、しかしわれらの住む東京都の都市美の高揚は、決してオリンピックのためでなく、ここに棲む都民の日常生活の内容充実のための都市美でなくてはならない。

ーー「あとがき」松宮三郎

 『電柱広告は我国独自のものである、電柱広告を育成し、その美化の高揚をわたくしに絶叫してやまない。』という文で締め括られた、この檄文まがいの後書きは、半世紀以上後の読者には、本文とは独立した、独特の魅力を放っているものに映った。

 

 農村のヤナギなり竿なりというのが、都市部の広告を帯びた電柱や、或いは各戸に掲げられた表札等と同じく扱われる筈もなかろうが、その両者いずれ共廃れた後の代に生きる者としては、カラスやムクドリやハトらが止まる電線や電柱を見る眼差しの源流といいものが、こうした今や失われた風景の中にかつて懐胎されていたものではないかーーという夢想を甚だしくする愚を、致し方なく行うのに少なからぬ嬉しさを感じるものである。

 

 柳田にせよ巴水にせよ、そして先の松宮の檄にせよ、何となれば、これはそういう「ありきたり」の心情に基づく見立てなのである。そこにあるのは、甚だ情けない人恋しさと切なさであり、それが何か自身が木枯らしの風のさんざめく木立の動揺するのを見て、群れ成して羽撃くカラスの鳴き声を聞いて感じる何がしかというのが、正にそれなのではないか、という「気付き」の手がかりを得て、ひと心地付かないと言い張ろうとするのはなかなかに難しい。

 今ではすっかり変容してしまったけれども、未だ未だその風景の命脈は保たれているのではないかーーという気分を抱かせる。それに十分な、彼らがあちこちに残した文なり画を継ぎ接ぎしていく事で、出来上がるのは不恰好で不様な、そして何より学問的手続きには背くものではあるかもしれない。けれども、それは端から学問の為にある景色でもなければ、生活でもない訳だから、何かそうした倫理や道徳にそぐわないから卑しいとは思われない。寧ろ、思う方が強引であるーーと幾らか強い調子でものを書く気持ちも昂然と起こって来る。

 それに自分は、何も過去の景色を追おうというのではない。今目の当たりにしている景色を風景として扱おうというのである。

 

 さて、そんな調子というのを、同時代の同世代人の諸氏は概ね冷ややかに受け止める事であろうとは思う。けれども、それを含めてそんな態度というものを無視して、自身は電柱と、そこに止まったカラスの鳴き声に耳目を傾注して、そこに人間の切なさの後始末を見出そうとするのである。何ぞ、ヤナギが立ち枯れて朽ちようとも、装飾を引っ剥がされて電柱が無味乾燥な立木と成り果てようとも、未だ人間はそこまで枯れてもいなければ、乾燥もしていない。

 そこに都鄙の別は無い筈である。

 

(2021/11/30)

 

機械と英雄と職人と――如是閑の英雄論について――

 ジャーナリスト・長谷川如是閑の年譜*¹の内、1914(大正3)年から1918(大正7)年にかけての5年間は、専ら勤務先の大阪朝日新聞社(通称・大朝)内外を巡る種々の揉め事に関する記事で占められている。

 その中に、大正5(1916)年の出来事として『大朝(だいちょう)』が『米人ナイルスを聘して宙返り飛行を催した』旨が差し挟まれている。これは年譜が、彼の著作集の付録である事を考えると、特筆に値する事項であると見て先ず、問題ないであろう。

 

 年譜に於ける此の「米人ナイルス」の曲芸飛行は、当時、大阪朝日新聞に向けられていた世間の「嫌疑」を一層堅固にするのに一役買ってしまった事項として記載されている。その「嫌疑」とは、曰く『「大阪朝日」が秘密に外国と通信する』という内容のものであった。

 ナイルスの飛行の前年、大正4(1915)年の記録は先ず、大阪朝日新聞が今日にも伝わる、「全国中等学校野球大会」――所謂、「甲子園野球」――の第一回大会の記事から始まる。

運動競技の奨励のため橋戸信氏を社会部に招聘して、全国中等学校野球大会の計画を立て、第一回を豊中グラウンドに開催したのが、今日全国を騒がしてゐる野球大会の初めである。その他極東競技大会予選会、東西対抗競技大会等、大朝社のスポーツ界への進出の基礎は全く橋戸氏の努力に拠るものである。

 東京朝日新聞が、その紙上で『野球害毒論』を掲載したのが1911(明治44)年の8月から9月であった事を考えると、大阪朝日新聞社の進出は、既に国内で全国的に相当な流行を見せていたスポーツ界に満を持して参入した感がある。因みに、長谷川は此の頃、大阪朝日の社会部長の席に在ったが、東京朝日の社会部長は実兄・山本松之助、こと笑月であった。

 

 同4年の記事は次のように続ける。

此月〔原文ママ、全国中等野球大会の開催月が8月であることから、8月か〕「大朝」主催で白耳義(ベルギー)救恤の慈善音楽会を北浜帝国座に開いたが、その時警察から刑事二名を派し、出演者のうちに犯罪嫌疑者があるので舞台裏で警戒するといったのを余は拒絶したが、後年に至って、それは「大阪朝日」が秘密に外国と通信するという嫌疑からであるといふ説を聞いた。「大朝危険思想説」はこの頃から胚胎されてゐたのであるといふ。

「白耳義救恤の慈善音楽会」というのは、当時、ヨーロッパで膠着状態に陥っていた、第一次世界大戦に於ける西部戦線の構築された現地・ベルギーに対してのチャリティーコンサートであったと推測される。さて、そのチャリティーイベントに際して、当日、会場となった劇場「帝国座」に警官2名が捜査の為に張り込もうとしたのを長谷川が拒否した、というのであるが、こうした行為が後々彼自身に捜査機関並びに当局の嫌疑が向けられる謂れとなった、とも果たして考えられよう。

 記事では単に「慈善音楽会」とだけあるから、その演目次第は不明ではあるものの、同劇場が果たして1910(明治43)年に新派の拠点として川上音二郎により建築されたことを考えると、所謂、現在、我々が想像する音楽会、即ち西洋音楽を主とするものであったと考えるのが妥当であろう。

 

 スポーツに音楽、そして航空ショーなど、急激に成長した「小新聞」が興業分野へもビジネス展開していく目覚ましい様子は、明治期の「大新聞」の記者からキャリアをスタートした長谷川ら”古参”の新聞記者達にとり、肯定しかねる舵取りであった。然し、それは時代の風向きでもあり、最終的に長谷川らベテラン記者達は、大正7(1918)年10月に大阪朝日新聞社を去る事になる。

 この大正7年10月の出来事は、世間では一般に「白虹事件」の名で知られる、大阪朝日新聞社に対する当時の寺山政権下にあった当局の筆禍・弾圧事件の余波として認識されている。だが、事はそう簡単に片づけられるものではなく、既に以前から内部に生じていた新しい時代の経営陣と、明治以来の「新聞記者気質(かたぎ)」を体していたベテラン達の乖離が、それを期に破裂した側面もあるものである。

 

 さて、そんな事件の2年前に挙行された大朝の航空ショーがどんなものであったのか。

 先ず、年譜の内容を抜粋して確認していきたい。

「大朝」は米人ナイルスを聘して宙返り飛行を催したが、後に至ってナイルスは、その頃では無謀と考へられた東京大阪聯絡飛行の計略を提議して来た。これは余等社内の一二人の間で協議されたのみで、つひに実現されなかったが、これも後年に至って「大朝」は外人が軍事上の機密を探らんとするものに協力したといふ嫌疑の原因になったといふことをきいた。時代の幼稚さ加減思ひやられる。

 長谷川は果たして、この年譜の書かれた昭和初年に於いて、当時の様子を回想して「幼稚さ加減」に呆れた旨を明記している。だが、取りも直さず、こうした航空機の主な役割が、軍事上の重要性も大きな地形の探査や測量であった事、又実際にこの計画がナイルスより大阪朝日新聞社に持ち掛けられた当時、ヨーロッパ大陸の戦場では、これら飛行機が新兵器として登場して、着々と成果と知見とを日々人類に齎していた事を考えると、一概に彼の見解が宜なり――とは、本稿筆者には思い難い。

 寧ろ、当時、そうした嫌疑が生じるだけの脅威として、一部に飛行機が認識されていた事を、此処では窺い知る事が出来るだろう。

 

 その後の日本の航空機産業の進捗は既に巷間に知られる所である。

 そして、その機運の醸成に一にも二にも役立ったのが、取りも直さず、この1910年代の欧州大戦と並行して日本国内で行われた、外国人飛行家による航空ショーであった。

 『日本・民間航空の曙 1910年から1920年、民間のパイオニア達』(2021年11月6日20時閲覧:

日本の民間航空界の夜明けを翔ぶ人たち)によると、年譜にある「ナイルス」こと、チャールス・ナイルスは、1915年12月、東京・青山の練兵場で10万人の観衆の前で宙返り飛行を行い、大歓声を受けたという。その翌年、今度は弱冠24歳の気鋭、アート・スミスが同じく青山の練兵場で有料公開飛行を開催し、ナイルスを上回る20万人の観客を集めた。

 このスミスの曲芸飛行は静岡県浜松市でも行われ、これを観に行った少年時代の本田宗一郎は、将来の夢をパイロットに定めた、というのは広く知られた話である。そして、今一人、1916年のスミスの曲芸飛行に触発され、愈々飛行機熱を高めた人物に円谷英二がいた事も、よく知られた話である。

 

 ただ、こうした逸話が人口に膾炙したのは、その起承転結の判明さも去る事ながら、此の話が「腑に落ちる」人々が相当数いた為であり、そうした伝播の土壌失くして、彼等の物語は後世に伝えられる事はなかったであろう。

 

 時代のシンボルというのは、意外にも瓢箪から駒を振り出すものであり、それから紆余曲折を経て日本に特撮映画の泰斗として君臨する事になる円谷英二然り、彼の後世・今日への主にサブカルチャー全般に残した影響は計り知れない。

 そして、それが果たして元を辿れば、片や欧州大戦、片や曲芸飛行という二つを載せた新聞が撒いた「特ダネ」であった事は、振り返れば、時代の必然とでも言えてしまうのかもしれないが、その効果の波及する過程には深甚妙味が感ぜられるものである。

 二度の大戦後、テレビの登場が人類の宇宙航空研究・開発の進捗をより身近に人々の生活に報道するようになった頃から、この「瓢箪から駒」が実際に起こるのだ――という事は、殆ど常識”になったかに思われた。

 だが、その駒が世間に普及するに従って、その知見も単に歴史という物語に於いて示される「教訓」として単に眺められるようになった。果たして、それは「瓢箪から駒」という言葉だけではなく、その具体例の起爆剤足り得た諸々の装置も、それらに対する危険視乃至期待が、その安全性と信頼性を高める為の努力が高まれば高まる程に、それらに対する根本的な関心――或いは熱狂――は薄れる所となった。

 

 本や新聞、ラジオやテレビと言った放送もこの秋扇たる運命から逃れる事は出来なかった。それらが嘗て持っていた光輝は、後世に於いて最早、それらを目の当たりにした人間の言動からしか垣間見る事は出来ない。

 其々の時代・地域に於いて、そうした機会は様々に在り得るものであって、それらはそれらの光り輝く内に直視した人間に決定的な影響を与え得る点で、屡々物語に於ける「英雄」に準える事も出来るであろう。

 今日、21世紀は全く此の「英雄」の失われた時代である。そして、それは、往時に於ける英雄の地位を、最早人間が襲う事は有り得ず、代わりに機械が人間にとり、或る時代・地域に於いて決定的な役割を果たす――そんな事を意味している。それは恐らく今世紀前半に於いては覆る事はないだろうと思われる。

 これと同時に、それは、機械が成り代わった「英雄」の役割そのものを人間が忘れてしまう事を意味しているものと考えられる次第である。

 

 マシン、メカ、メカニズム――等々、呼び方は種々あれど、それらの名前が付される諸々の器物が人間の英雄足り得る現象は、未だ英雄が人間の職業であった時代に於いても振り返れば見出せるものであった。それが機関車であるのか、飛行機であるのか、ミシンであるのか、カメラであるのか、蓄音機であるのか、船であるのか、ロケットであるのか、自動車であるのか、バイクであるのか、コンピューターであるのか、――。それは、単に人間が其々が育った環境や遍歴等、その過程に依存しており、必ずしも一様とは言えない。

 例えば、長谷川にとってのマシンーー飛行機に相当する所の英雄――は新聞であった。だが、今一つ、彼の「英雄」は陸羯南であり、三宅雪嶺であった。ただ、長谷川は彼らを「英雄」とは呼ばずに「先生」と呼びならわした。それは、彼がその「先生」らに触れたのは新聞を介していた為であった。如是閑の中で、器物たる新聞と人間たる英雄は一致していたのである。

 その認識は彼の新聞記者としての姿勢、何よりも彼自身のジャーナリズムにその後見られる。曰く、彼が大阪朝日新聞社を退いて後行った「個人的ジャーナリズム」は彼と彼の言動を彼自身が自身の頭の先から爪先までを把握しようとするかのような、見方によっては、イヤイヤ期の子供の様な”幼稚な”活動であった。然りながら、それは彼の時代の、彼に影響を与えた「英雄」の姿を彼が真似たものであったと、筆者には捉えられるものである。

 

 彼の飛行機に対して現れた、今で言う所の科学リテラシーの「低さ」は、或る意味で彼の世代の新聞の占める地位に対する、前後の世代の感度の低さに相当するものであるだろう。

 長谷川にとって果たして飛行機は関心の埒外にあったのである。そして、彼の年譜に代わりに縷々記述されていたのは、只管に新聞というデバイス、或いは人間のガジェットと自分との関わりであった。

 だが、そうした彼と彼の英雄との関わり、自身に決定的な影響を与えた装置と自身との関係についての年譜は、後世に於いて、その装置から輝きが失われ、寧ろその魅力を何とか保持しようと権威化された時代に於いては、彼の伝えんとした時代の熱気、自身らの活況というのは伝染し難い事柄であると言えよう。それは、嘗て複翼機が見せた宙返りに浴びせられた歓声と嫌疑とが、今日にも、又当時に於いても、異なる時代に生まれた人間にとっては伝染し難かった事からも推量されるものである。

 

 如是閑自身の英雄観は、果たして未だ、機械が人間に取って代わり、その人間に対する決定的作用を齎す役割を占めるより遥か以前の、又、機械が人間に置換し得るという発想の萌芽が漸く生じた頃に形成されたものであった。

 為に、今日の我々読者は、彼の英雄が「職人」という語に代表される人間の姿である事は、その著作物を読めば一目瞭然であるが、その職人が如何なるものかを知るには、今一つ不明瞭な「英雄」という語について、それが何であるかを考えながら探る――逆説的なアプローチを必要になる。

 この如是閑の、その初期から晩年にかけて何度も繰り返し切々と彼が小説やエッセイ等の中で説いた内容について、筆者はこれを彼の、人間に対する愛着の吐露である――と乱暴に片付けてしまっている。

 

 人間に対する愛着とその吐露は、果たして彼が時代の中で取り残されていく”弱者”に対する評価・眼差しとして今日解されるものであるが、それは単に社会の中で冷遇され貧窮に喘ぐ人々に対するヒューマニズムというよりも、一ひねり加えられている。

 それは、人間の披露した仕事に対する愛着が真っ先にあり、それを成し遂げた人間の知恵と意思に対する熱狂が如是閑をして言葉を震わせるものであったと考えらえるものである。だが、そうであっても、彼が好んだのは『?』(『額の男』)や『アンチ・ヒロイズム断片』に登場させた、「煮たていんげん」とその職人や、サーカスの動物とその曲芸師、或いは言論に於いては「新聞」とその記者達――ジャーナリストであった。それは、彼等が彼の生まれ育った中で出会ったテクノロジーであり、メカニズムとしての人間であったからであり、これを彼は「職人」という語で呼びならわし、終生、彼自身が「英雄」について語る際に、これに置き換え、語ったのであった。

 

 先に、今世紀に於いて最早「英雄」はその概念すら忘却された、と書いたが、果たして如是閑が、「職人」の消失を啜り泣きしながら語ったのは、半世紀前の事である。

 今世紀に入って早二十年、久しく技術開発や基礎研究、福祉・教育の衰退や壊滅が伝えられる最中に在って、曲芸飛行の様なイリュージョンが我々の前に現れる事は、先ず以って、それらの曲芸に必要なデバイスなりを作り出し、或いは曲芸師を訓練する土壌である人間そのものを思い出す事が必要――とは、事ある毎に声高に主張されてはいるものの、果たして、一度忘れられ、失われたそれらの言葉が、再び世に現れる事はない。

 今世紀、果たして本邦の人間から失われるものは、機械の体せる英雄の像に限らず、技能、学識、並びに夥しい数の有形無形の財産であろうが、その亡失を杭い止める術は現在、全く存在しないものである。ただ、それでも此の長い長い午後の時刻に際して、可能な限り、それら諸々の所産の影が辺々に満ち、軈てすっかり暗夜に飲み込まれる、その刻限までじっくりと周囲を眺め渡し、その景色を目と記憶の裡に焼き付ける事こそが、唯一可能な現在、吾人に出来る最良の事と考えるものである。

 

 鍬をもつ すべだに知らば いづくんぞ 筆のごときものを われはとらんや

 

 鋤をとり 斧もつすべを 我しらば 筆をとらんや 筆をとらんや

 

――長谷川如是閑

 

 

*1……改造社現代日本文学全集41 長谷川如是閑集 内田魯庵集 武林無想庵集」1930年所収。p321-330

 

 

「lainを好きになりましょう」について

 テレビアニメ『serial experiments lain』の、最も「平成」らしさを感じさせる部分は、「けひゃっ!」おじさん、こと、主人公・岩倉玲音の父親・岩倉康男や、劇中のテレビで放送され“中継”されるニュース番組のアナウンサーの男性が登場する部分である。というのも、あの四角い眼鏡の、背広姿が様になる「おじさん」の存在こそが、20世紀末の「平成」という日本独自の時代区分を代表するものの一つだったからである。

 

 そんな「おじさん」は物語の中では際立った活躍することもないのであるが、しかしながら、その役割はそれぞれに中々重要である。

 ここでは、その重要性が明白な「父」・岩倉康男についてではなく、「アナウンサー」の眼鏡の男性について、小稿を奏したい。

 ただ、キーワードとして「おじさん」、並びに今一人の「おじさん」である岩倉康男についても、最後の方でキーパーソンとして触れるつもりではある。

 

 所でだが、彼・アナウンサーの発した名台詞の中に、

lain(レイン)を好きになりましょう」

という有名な一文がある。

 これは、インターネット世界「ワイヤード」で起こった異変が、人間の肉体の存在する現実世界にまで波及し、現実世界がいよいよ明確に変貌した瞬間を“中継”する場面で、彼が発狂したように繰り返す台詞である。(或いは彼が発狂したのではなく、彼を含めた現実世界そのものが歪み出した結果、繰り返されているだけなのかもしれない。)

 

 映画やアニメといった映像作品の中でニュース番組が枠物語的に挿入されるのは間々ある事である。が、概ね、20世紀末の劇中のニュース番組の内容の作品内での位置付けは、『ロボコップ』(1987)に代表されるように、それは「フィクション」の側面が強調される。

 「ニュースは現実を映していない」という事が屡々、そこではお約束として暗黙のうちに設けられ、その虚報の代わりに物語が「真実」として視聴者に伝えられる訳である。

 

 そして、屡々こうしたテレビ局や新聞などの報道者は、物語の最後ら辺で、自分達が好き勝手に編集して上手いことネタにしていたものによって滅ぼされる。

 『ロボコップ』もそうだが、『lain』と同時期に公開された映画「007」シリーズの『ワールド・イズ・イナフ』(1999)も、グローバルなテレビ放送網を獲得した通信社が黒幕となり、通信衛星を用いた情報操作によって国家間の戦争を勃発させようとして、ジェームズ・ボンドによって退治される筋書きとなっている。

 

 『lain』も概ね、こうした時代の産物である事から、同時代の視聴者にとっては自明の理である所の文脈というのは、果たして今更筆者が小稿を認める事柄でもないように思われる。

 だが、既に放送から20年が経過し、更に言えば筆者のような「非ーリア」勢も多くなった今日の状況を鑑みれば、ここに拙いながらも、そうした文脈が存在した事自体を記す事は幾らか読者公共体に資する事も有るかも知れないと期待するものである。

 

 さて、そうした同時的文脈の中で、『lain』でも例に漏れず、報道関係者は自分達がニュースとして扱って来た事項によって滅ぼされてしまう。

lainを好きになりましょう」

という台詞は、劇中のアナウンサーが発した台詞として今一つ、非常に知られたものとして、本多猪四郎の映画『ゴジラ』(1954)の

「いよいよ最期! さようなら皆さん、さようなら」

に並ぶものである。

 

 今日のテレビという娯楽の有する影響力は、20年前と比べると著しく低下したものであるが、故に2020年代初頭に於いて、1990年代末のテレビアニメに於ける映像ニュースの汲まれるべき影響力というものは、想像以上に大きい。

 さて、そんな訳で『ゴジラ』では生中継をしていたクルーは、その為にゴジラによって無惨にも殺害されるに至った訳だが、『lain』に於いて彼らがワイヤードからの「侵略」によって改変されてしまったのは、無線通信による報道を行っていたからに他ならない。

 

 『lain』という物語は、言うなれば、深海底や未知の大陸の奥地など、人跡未踏の、未だ多くの謎に包まれた領域として、無線通信の領域を描いた作品である。

 その領域は、人類がインターネットやパソコン(「ナビ」)、個人携帯端末、電話やテレビ、ラジオなどを通じてでしか知覚出来ない領域であるとされている。そして、それらの技術を使って漸く「アクセス」出来るようになった広大な領域の一部を開拓して、築かれたのが「ワイヤード」という訳である。

 だが、飽くまでそこは人類が現在、アクセス出来る極限られた領域に過ぎず、それ以外の領域には未だ何が潜んでいるのか分かっていないーーというような設定が基層に横たわっている。

 丁度それは、19世紀の古典的なSFである、ジューヌ・ヴェルヌの科学冒険譚や、ポーの影響を受けたラブクラフトの20世紀の怪奇文学、そしてそれらを踏まえた、特撮ホラー映画『遊星からの物体X』(1982)からの文脈を引き受けたものであろう。

 それに加えて、1899年に発表されたコンラッドの小説『闇の奥』を翻案した映画『地獄の黙示録』(1979)などの「人間心理の闇」とでも言えるような要素についても、言い換えれば、人間の内面というのを、人間自身にとり、未解明な謎の領域として措定するような考え方は、当然『lain』にも引き継がれている。

 

 『lain』の場合は、来る新世紀を踏まえて、新たに人類が進出した領域として、それまで知覚されて来なかったーーその存在すら、実在すると認められて来なかったーー“サイコ”な領域を舞台にして、そこに進出した人類を見舞った、ある種の災難、そこにいた未知の存在とのエンカウントを描いた、「古くて新しい物語」だったと呼べるだろう。

 

 絵柄こそ比較的穏便であるが、『lain』は『エイリアン』や『物体X』と実のところ、同列に扱われてもおかしくはない作品なのである。

 とは言え、ご存知の通り、『lain』という作品は比較的穏便な幕引きを迎える。が、それは例えば『ゴジラ』がそれだから内容も穏便だったかといえばそうではないように、この手の物語の一番の恐怖は、実はそんな訳の分からない、理解を超えたものが潜んでいるかもしれない闇そのものが存在するーーという事を読者や視聴者に植え付ける点に存するものである。

 

 話をアナウンサーに戻すと、古典的な冒険譚の比喩でいえば、彼は丁度、探検隊に同行して中盤から最後らへんにかけて死亡する「シーフ」の立ち位置にあると言えるだろう。

 途中までは何とか上手く立ち回れるのであるが、矢張り履いている靴が違う為に、それで身を滅ぼすーー宿命を背負った狂言回しである。

 

 ただ、彼ら狂言回しの役割は、劇中に於ける視聴者・読者のアバターという重要なものがある。それは彼らが物語の中で「嘘を嘘であると知りながら、それを本当だと白を切り通す存在」だからである。

 そして、観客は、彼らが怪物に食い殺されたり、災害に巻き込まれて破滅した後にも生き残れる、或る意味で最も狡猾な「泥棒」な訳であるが、そんな身代わりを立てる事によって、観客は、正直者にしか辿り着く事の出来ないトゥルー・エンドに到達し得る訳である。

 

 それは正に、自覚すれば後味の悪い事なのであるが、この後味の悪さーーというのも、果たして、20世紀後半に屡々、情報の消費者に自覚されたものであったと言える。

 戦争や災害、危機に瀕した場所から伝えられる情報を得て、それに接していながらなす術がない事に対する遣る瀬無さを、現地でカメラを構えて取材をしていた人間にぶつける事例が現実に於いて屡々あるとするならば、謂わばその消費者の内に潜む罪悪感というものを浄化する役割が、劇中で逆襲されてしまう報道関係者という存在に託されているのかも知れないと、筆者には想像されたりするものである。

 

 殊に、20世紀末の1990年代後半には、通信の発達などで、リアルタイムで戦争や災害の様子がカラー映像等で克明に伝えられるようになった事もあり、こうして得られるようになった情報を、「観られるからと言って、それは本当に観て良いものか?」というような疑問を、テレビの前にいる消費者が考えてしまい勝ちな状況が存在していた。

 それも果たして、その後の大容量・高速通信技術の進歩等によって、人間の躊躇する心の方が、コンマ数秒単位で膨大に押し寄せて来る情報に流されて破壊されてしまった今日では、中々想像し難い事項ではあるだろうが、兎も角それは、急激に人間の前に多くの情報がーー今風に言えば、「情報量が多い画像・動画」がーー届くようになった時の、一時的な緊張と困惑と葛藤であったと言う事が出来るだろう。

 

 そして、その膨大な量の情報が押し寄せて来る中で、人間が最終的に自衛の為に取った行動が、一見して奇矯に映る場合、それは「発狂」と形容される事も有る訳だが、当該アニメのワンシーンについても、その「発狂シーン」を描いたものとして、多くの視聴者に印象的に記憶されいるものと筆者は見当する次第である。

 

 

 正確には時制が明らかではないものの、作品の内容と前後の関係から、『lain』のニュース番組は比較的夜遅いーー午後9時以降の時間帯のものと筆者は推量するものであるが、それでも、この物語内の不明瞭な時制は、時にアニメが放送されていた、同時間帯に放送される深夜のニュース番組であるかの様な印象を抱かせる。

 そして、こうした深夜の報道番組で伝えられる内容は、果たして「異常」なものと呼べるものが少なからず存在するのは、今日でも変わらぬ事情である。尚且つ、そもそも、多くの場合、眠っている筈の時間帯に伝えられる情報それ自体に対して、少なからぬ人間が不吉な感を抱くのは、今も変わらない事情であると推量されるものである。

 と言うのも。時ならぬ報せというものは、概ね不幸な出来事である事が屡々だからである。

 

 不意の出来事に対しても、取り敢えず、ラジオやテレビを点ける事から始める事しか出来なかった時代に於いては、屡々、深夜に於いては電話が鳴った後に、その報せを受けて電源が点けられるーーという事も屡々であった。人と人とが直に連絡を24時間取れるようになったのは、実際、21世紀に入ってからの事情である。

 加えて、その隔たりは今日も依然変わらず存在するものであるが、この隔たりを越える速度が果たして以前と比較にならない程に増大したのが、今日の状況である。

 

 そんな時代に、謂わばニュースキャスター、アナウンサーは電話交換手の様に、カメラの向こうとテレビの向こうの狭間にいる人間の象徴的に位置付けられていた。

 であればこそ、彼等のスピーチは一言一句正確に、澱みなく、一定のリズムで、感情を排した様な、「機械の様な調子で」あった訳である。

 そして、当時こうした話し方をして、

「テレビのアナウンサーの様に」

という常套句があった。これは褒め言葉ではなく、その態度をして「他者に対する同情に欠ける態度」として、相手を皮肉る言葉であった。

 

 そして、1990年代という時期において、こうした正確さと冷静沈着な対応を求められる仕事には、壮年の男性ーー即ち「おじさん」が相応しいという風潮が残っていた。

 これも今日からすれば、想像もし難く、又理解し難いかも知れない事柄かもしれない。だが、当時はなお、多くの人にとって大変な不幸を報せるかも知れない役割を担うのは、父性を有する男性が妥当だと考えられていたのである。

 

 ただ、それがどれだけ現実の報道と一致していたかは、定かではない。寧ろ、筆者自身の寡聞にして知る所であっても、多くの場合は、報道番組に於いては扇情的な語り口が採用され、それらはスポーツ中継の様に、刻一刻と更新される情報を、視聴者とその感情をシンクロさせるのに長けたアナウンサーが熱情的に捲し立てるものであった。

 故に、『lain』の登場人物である「おじさん」二人も、あれが当時のリアルな「おじさん」の姿であったかというとそうでなく、寧ろ、相当に理想的な「おじさん」であったーーと留保されるべきであろう。

 

 そして、そんな理想の典型的中年男性をしたアナウンサーが、発狂して最後に繰り返す台詞が

lainを好きになりましょう」

という、非常に扇情的で、且つ、視聴者に対して誰かに対して好意を抱くように訴えかけるメッセージであった事は、此処まで確認した内容を踏まえれば、意味深長に捉える事も可能である。

 

 此処でアナウンサーが好きになれ、と熱狂的に高らかに唱導するのは、概ね男性である偉大な指導者等ではない。寧ろそれは、謎の存在・Xなのであるーーが、視聴者の多くはそれが、孤立した一人の少女(の姿をした、人間とは異なる未知の存在)の名前である事を知っているのである。

 その、未知の存在ではあるものの、社会性動物であるヒトの、殊に十代の未成熟な少女の姿をした存在に対して、何か同情を寄せるように訴えかけるアナウンスに、視聴者は思わず、熱狂的に同調したくなるーー筈である。

 

 然し、そうしてその言葉に同調してしまえば、最後ーー果たして視聴者も、物語の中で少女・玲音を追い詰め、苦しませている圧力の一に加わる事になってしまうのである。

 

 このセリフと描写程、果たして視聴者にとって、『lain』という作品の中で残酷で露悪的な場面もないーーと思われる。

 そして、此のシーン程、同アニメ作品でインタラクティブな場面も無い、と考える次第である。しかも、そのインタラクティブなギミックは、果たして放映当時のみならず、今日視聴可能な「円盤」ーー非同期なソフトーーによっても体験出来る、優れたトリックである。

 

 発狂したアナウンサーはそこで、自分達が普段行っている事を露骨に宣言しているに過ぎない。

 即ち、それは視聴者に対して自分達が支持するように共感し、同調し、従うように命じているのである。それは、或る意味で彼らが視聴者である消費者のニーズに応じた結果でもある訳だが、この時、アナウンサーは最早、深夜にニュース番組を観る消費者の希望する、「アナウンサー」の姿をしていない。

 それは、すっかりもう父性的な面持ちを崩壊させ、自分達の利益を貪ろうとする「盗賊」の醜悪な姿である。或いは、人の不幸や大規模な災害、現実の崩壊する危機を見世物として、荒稼ぎをしようとする、ヒューマニティーの欠如した態度を、その弄している言葉とは裏腹に明らかにしている者の姿である。

 そして、繰り返しになるが、そんな劇中の報道関係者というのは、視聴者・観客の代理人にして、鏡像なのである。

 

 

 アナウンサーが発狂したシーンは、言うなれば、彼の居るスタジオ自体が、そのネット回線を通じて、ワイヤードから波及した現実改変災害に呑み込まれたシーンと観る事も出来るだろう。

 然し、そんな生々しい災害の描写ーーであるにも拘らず、恐らくは観客がアナウンサーに同情する事は愚か、寧ろ滑稽に感じるのだとするのであれば、それは、因果応報のテーゼが顕現したからではなく、幾らか頭が冷やされ、興醒めしてしまったからであろう。

 確かに、一側面としては、そこでは因果応報が実現されたのである。

 ただ、その場面で彼が狂ったように叫ぶ言葉の内容は、実際、視聴者の感想として少なからず植え付けられていたものであった。成る程、確かに、主人公の岩倉玲音は救済されるべきであり、誰からか愛の手が向けられるべき対象である。

 ただ、その気持ちを言い当てた上に、アナウンサーは執拗に、「今此処で同情し、共感せよ!」というような言葉を繰り返すのである。これは丁度、よくある映画やドラマのCMやポスター、電車の中に掲示された書籍の広告と全く同じ軽挙である。

lainを好きになりましょう」

とは、最悪のタイミングで挟まれる掛け声なのである。

 それは、オペラの舞台に心底没入している最中に、突如、クライマックスで客席から放たれた、「ブラヴォー!」の掛け声と同質の、忌まわしい宣言である。その絶叫は、今まさに自分が絶頂に達した事を報告する呻吟に他ならない。気色悪い事、この上無い。

 

 

lainを好きになりましょう」

は、同作を「視聴」するという行為そのものを通じて、何か・誰かを「見る」ことの暴力性と、その暴力を(集団で)楽しみ、尚且つ、その嗜虐対象に自分達が同調して、その悲痛のクライマックスに合わせて自分達自身も示し合わせて絶頂を迎えようとしている事を、まざまざと思い知らせる名台詞である。

 

 なお、こうした集団で一緒のエクスタシーに到達しようとする試みの描写自体も、ヒッピーブームの影響を避けては通れない20世紀後半の文脈や、何よりも、1980年代から90年代にかけてのオカルト・ブーム、そして特筆すべきはカルト集団によるデモンストレーションの記憶などが色濃く当時残置されていた時代状況を踏まえて置かなければ、単に悪質な視聴者への嫌がらせーーとして解釈されてしまうシーンであるだろう。

 又、同様に、こうした「罪悪感」が意識されるような背景には、放映当時からは然程昔では無い時代に、世界各地で多くの戦争や虐殺、災害などのセンセーショナルな出来事が相次ぎ、そうした現地からの生々しい映像がテレビという媒体で「お茶の間」にまで届けられる事に対しての問題意識や、危機感が強まっていた事も十分に理解されていなければならない。

 

 所で、表現規制や自粛などの措置については様々な議論が日夜交わされているものであるが、そもそも今日の規制や自粛といった事柄が、これら前世紀末よりの経過の中で措置として設けられていった事は、議論の際、都度に回顧されても構わないーーと個人的に筆者は思う次第である。

 

 

 最後に、ーー同作の主題歌『Duvet』のレコード(!)が数年前、発売されるに当たって、プロモーションの為に或る小売店が商品紹介のページで、劇中の再現をしながら、この

lainを好きになりましょう」

という台詞を引用していたのが、筆者にはとても印象的に記憶された。

 この「lainを好きに〜」という台詞は、今どきではSNSに於いて、「ハッシュタグ」として非常に使い勝手が良い文句で、であればこそ、20年経った後にでもマーケティングに採用されたのであろう。

 

 ただ、個人的にはーー本当に、極私的な感想ではあるのだがーー、同作の代表的な台詞として、このアナウンスが人口に膾炙するのは、如何なものか、と思う次第である。それこそ、「この“不謹慎厨”が!」と言われたら、その通りなのであるが、ただ同作の最も視聴者にとって辛辣な台詞でもあり、救い容赦の無い描写の一つが「拡散」していくのにはーー、それこそ何やら気まずさを感じるのである。

 その言葉やパフォーマンスを字義通りに受け取ってはいけないーーというのが、果たしてジョークや冗談を楽しむ際の「お約束」なのだとしたらーー又もやーー、個人的にはそれは、字義通りに受け止めるのが難しいような言い回しである方が宜しいと思うものである。

 詰まり、

lainを好きになりましょう」

というのは、あんまりに字義通りに受け取ってしまいたくなる甘言だ、という事である。

 

 

 ーーで、此処まで書いてしまったなら、最後の最後に、その代替案を挙げても今更、遠慮もないであろうと思われるものであるからして、差し支えはあるかもしれないが、筆者としては、最終回・ラストシーンの玲音の台詞を推したい。

 又、余分ながら、一番好きなシーンは、同じく最終話の玲音と康男が話すシーンである。この、自分の「おじさん」好きについては、本当に旧時代の遺物であると失笑を禁じ得ない。

 

 手に余る事柄も引き受けられる丈夫さと寛容さと、何よりかじっくりと時期が来るまで確りと待つ忍耐強さ、優しさとか何やらに対する憧憬は、温い日向の陽光のように、自分にとっては中々離れ難い感じを抱かせるものである。

「いつか又会おう」

という台詞に対して、

「いつでも会えるよ」

と応答をしようと思えば、多分にそうした素地を持つ事が先決なのであろうーーとは、流石に穿った見解ではある、と反省するものではあるが、そう思いたいものである。

 

 

(2021/11/01)

 

 

 

 

栞一片

 昔、本に挟まってた栞をとにかく集めていた。大体90年台から収集していた2000年台のもので、色んな形やら内容やらがあったのを記憶している。

 久々に色々な用事が片付いたので、寝ることができた。頭の中が常時動いているので、夜中も満足に眠れない。そんな中で懸案が一つ、ごっそりとなくなった。

 建て込んだ住宅地の中では、一軒のあばら家がなくなるだけで、ぽっかり急に池が出来たように空が見える。それを自分は、何の捻りもなくポンドと呼んでいる。

 宙に浮かんだ正しく空虚なのだが、うっかり曲がり角とかでそんなものに出会してしまうと目を奪われてしまい、暫時呆然としてしまう。疲れていると余計その傾向が強い。

 空き地だけではなく、そこに何か突然飛来して来ても、ポンドは発生する。それが例えば着陸体勢に入った自衛隊の輸送機だったり、クロアゲハだったり、塩辛トンボの類だったりする訳だが、その出現と同時に見えない空虚がボカンと陥没して自分の中に落ち込んでくる。

 ただ、この上、何かしんみりと感情に波が寄るーーというような事は、ポンドについては起こらない。気付いても気付かなくても問題がさしてない、それがポンドである。水溜りとはその点、大きな違いである。

 無論、呆然としてしまう事には弊害がない事もない。ただ、それ自体が即危険かというとそうでもない。元より、彼是荷物を満載にした背中自体が危険なのである。疲労困憊した状況そのものが櫛の歯の様に間隙だらけで、そこには既に色々な塵やら汚穢などが引っ掛かって、悪臭を放っている。

 

 うたた寝の最後ら辺に、栞が一枚出て来た。固定電話の台にしている、透明な抽斗の一番上の段を何の気無しに引っ張ったら入っていた。竪型のデザインで、十四五年前の映画の栞だった。

 その映画の宣伝は、よく書店のレジに並んで絵柄を一生懸命全部揃えようとしたものだった。だが叶わず、それらは同じく集めていた弟に全て呉れてやってしまったのだった。

 所で、その映画の栞は全て横長のデザインだった筈であった。なので、竪型の、しかも白地に人物だけが一人切り取られて配置されてる様なものは、自分の記憶に全くなかった。

 その齟齬がはたと目醒めるきっかけになった。集めた栞の大部分は、その後手ずから捨ててしまった。大分惜しいと思ったものだが、同時に今でも、持て余してしまうであろう数十枚の栞は、彼に呉れてやった分だけが恐らく、処分していなければ、当時の記憶の裏付けとして存在するものであろう。

 そして、漸く思い出した事には、その初めて見る栞は、映画の新装版のポスターデザインによく似ていた。それは全く偶然なのだろうが、果たして、その栞は全く栞らしい栞だった。

 結局、いつも心当たりがないのである。

 

(2021/09/16)