カオスの弁当

中山研究所blog

緋毛氈

 Uは竹馬の友であり、彼此二十年来の知己であるが、現実には七、八年音信を取り交わしていない。

 然し、何かといえば肝心な時に顔を出して来る奴であって、今日もまたそんな例によって夢から醒めた自分の話を一頻り聴いた後で、

「それは面白いから、そのまま漫画にせえよ」

と、薄ら笑いに掠れた声を発しながらケタケタと笑った。その顔が伎楽面の胡人の相に瓜二つで、眼鏡の底の抉った様なカーブを描く眦は箆で削いだ跡みたいにくっきりとしていて、それがまた元通りに直る内に空が茜色から紺色の更に深い水色の深いグラデーションに転じて、レイヤーの置く順番を間違えたかの如く、七つ白い星が突き出た天際の山の端に凭れ掛かっていた。それを見て、これは屹度書くべき啓示に違いないと察知した。

 

 部屋は歪んでおり、幾つかの小胞に分かれ、絶えず移動していた。その中を歩むと自分を避けて部屋自体が異物を排雪しようとしてむずかっている様にも思えたが、確証はなかった。

 まず初めに、右側の壁に子供が一人凭れ眠っていた。次にその向こうの部屋に腹這いになって寛ぐ、もう少し幼い子供達が二、三人、此方の気配に気付きながらも、なおも蠕動する床の上で転がりながら笑っていた。

 今にも押し潰されそうな部屋の中で、蹲るようにしてただ一人、話の判りそうなのが直ぐ足元にいるものだと分かり、話し掛けようとしたが、間もなくその目の胡乱な事に気が付いて、自分はその場から離れて、取り敢えず、奥の二人だけでも助けようかと躊躇した。

「お客さん」

と、それだけ娘が口に出すと、唇の先に薄ら笑いの紅色が少し恥ずかしげに歪んで見えた。それから自分は、自分が何しに此処に来たかを知らないのに漸々気付いて、後退りした。ドアは直ぐ背後にあった。

 自分がそこに用事がない事に気が付くと、案外直ぐに出る事が出来た。逃れた先で、一段高い部屋のドアを閉める寸前、幼い首がゆっくりと又元の位置に戻ろうとするのを見て、未だ何か自分にも出来る事はあるのではないかと思ってドアを元の位置に少し戻すと、同じ様に又正気付いた頭がゆっくりと此方に向き直る様な挙動を見せた。奥では相変わらず、小さい頭や手足がゴロゴロと戯れ合って動いているのが覗けた。

 自分はその侭、ドアを開け放しにして目を醒ました。

 

 個人的に、Uとは好みの合う奴でーー少なくとも自分はそうだと思っているーー奴に話したのは正解だったと星を見て改めて思った。

 そして今一つ、これは彼が見た夢だったのではないか、と何とはなしに考えた。

 

 ーー若しかしたら、あの部屋の奥にUが居たのではないか?

 若し、そうだとしたら自分が彼処に行く理由も何とはなしに見当が付くものであった。

 ただ、そうであったとしたら、自分はそこに踏み込まなくて正解だった、と考えた辺りでゾッとして目が醒めた。

 北斗星は爛々と空に犇き輝いていた。

 

(2022/04/04)

 

ネットの都市伝説からみた「自己責任」概念について

 2000年代のインターネットを介して広まった無数の都市伝説が広めた概念が「自己責任」である。

 都市伝説“が”広めたーーという言い回しには物語を擬人化する意味合いもないものだが、恰もそれは時同じくして1990年代末からブームになったホラー映画に出て来た怪物の様に、自身のコピーを様々な怪談を宿主として増殖していった。

 

 所で、所謂通俗日本語に於ける「自己責任」なる語の意味する所は、ヨーロッパ圏に於ける「追放」に近しい。

 近年では、一部のライトノベル、ファンタジー作品でも取り沙汰される語句となったので見知った人も少なからずあるだろうと思われるし、又此処で話題にする、専ら刑罰として処置された結果としての平和喪失状態についても、以前よりか知る人が多くなったろうとも推量される。

 それが、近々十余年の間に浸透・進行していった“新自由主義”の名の下に行われた「改革」の根底にある「思想」と何某かの連関があるのか分からない。

 ただ、少なくとも「自由」と「責任」を結び付けて語る文脈自体は啓蒙時代以降のそれと見るには些か難のある印象は惹起するものであり、それに対する違和感が一方で「意識高い系」という揶揄嘲弄の含意を伴う称で呼び習わされる事が同時に存在していた時期について、両者の不気味な同期を単に偶然と見做すよりも、これらの要素を合わせて今世紀初頭の「空気」を観察する方が妥当であろう。

 

 話を戻すと、都市伝説が齎す「自己責任」もとい「追放=平和喪失」とは、物語が読者に突き付けた“真実”によって、それまで彼等が過ごしていた日常が崩壊する事態を指す。

 20世紀末葉の日本語に於いて、語としての「平和」は常に「専門用語」乃至「ジャーゴン」であり、今日もその状況は往時より衰威したとはいえ依然継続中である。そして、この特殊な語の意味を代理する語として用いられるようになった言葉が「日常」であった。故に今日、日本語で「日常」という場合、それが指す状態は即ち、平和と解してほぼ問題ない。

 

 一般に、ネットの都市伝説や怪談の枕に置かれる「自己責任」の文言は、スレ主やそのコピーを貼り付けたユーザーが、自身の書き込みや投稿を読んだ他人の不利益に対する何らの義務を持つものではない事、そして仮に不利益が生じた場合にも読んだ人間がスレ主や投稿者に対して何らの訴訟を起こさない旨を確認する一条として解されている。

 翻せば、その様な文言を冠さないではいられない様な危険性を、果たして発表者は認識しているのではないかーーとも思慮が及びそうなもので在る。だが、そんな慎重さはネット・サーフィンという「スポーツ」に興じる多くのユーザーにとっては、多くの場合は交通規則の様に煩わしく、決して実際的ではない。いちいちそんな事を気にしていてはとても生活が出来ない、という訳である。

 ただ「自己責任」の文言は、そうした注意喚起をする位にはユーザーにモラルが備わっている事を示す仕草にはなるものである。

 それは一応の警告であり、「一時停止」であり、相手に対する注意喚起なのであるが、そんな取って付けた様な「怪しい文言」を前置きしないではいられないのは、これから何かを伝えようとする者が、自身の行いが何処からか誰かによって監視されているのではないか、という恐怖を内包している為である。

 

 所謂「ネチケット」やモラルが文字通り、多くのユーザーに警察的機能を果たしていた事が「自己責任」という枕詞からは伺い知れる。

 ただ、それをして、ネット・ユーザーの多くが自身の犯し得るかもしれない「罪」に怯えている、と解釈するのは流石に空想に過ぎており、専ら人々が恐れるものは罪よりもそれが理由となって何らかの権力から加えられる「罰」に恐怖しているーーと解するのが妥当である。

 他方、罰を「与える」側からすれば、その口実としての自己責任は、自身の統治や支配を冒涜して違反したものに対して、彼等に対する保護・救済の義務を最早自身が有さない事を表明する文言として重宝し得るものである。

 

 「自己責任」という語は、市民間の、或いは市民と国家の間の、平和もとい「日常」に関する暗黙の了解を、一方が一方的に破棄乃至放棄しようとする時に便利な語である。

 だが、それは都市伝説の「拡散」……それは「増殖」や、もっと言えば「繁殖」の言いが相応しい……過程に於いて、投稿者と、それを受け取る読者の双方を、謂わばモラルという日常の埒外にお互いを追放する際の「合言葉」として機能する。

 それによって得た自由は、果たして人間のそれとは全く異質のものであり、其の状態には当然ながら、現代に於いて私達が想像する人間らしい平和も日常も、その内容としての安全も存在しない。無論、「責任」の意味合いも其処では大きく異なっている。

 

 そんな、のっぴきならない剣呑な「自由」(平和喪失状態)を、昔の人は「自己責任」なんて味気ない言葉では語らず、次の様な“詩的”な表現で示している。

 「汝は審理と法によって、殺人追放に処せられる。故に私は、汝の身体ならびに財産を保護から引き離し、これを無保護のもとに置く。また汝には名誉もなく権利もないことを宣言し、汝が空に放たれた鳥となり、森の中の獣となり、川の中の魚となることを宣言する。」

--堅田剛『法のことば/詩のことば ヤーコプ・グリムの思想史』p.83(第四章 ヘルダーとグリムの言語起源論)より

 上の例は歴とした判決文の翻訳文ではあるものの、その表現は今日の日本人にとっては(恐らく現代のドイツ人にとっても)馴染み薄く、稍もすればそれこそ本当に厨二臭い、ファンタジックな、作り物めいた表現であるとしか映らないものであろう。だが、相対的に見るならば、今日に於ける、いかにも何か「法的」な言葉使いというのも同程度に奇妙さを有する可能性はある。

 その意味で、「自己責任」も文学上の位置付けは『空に放たれた鳥となり、森の中の獣となり…』のくだりと対等なものであると言えようが、飽くまで一方が公式の判決文で用いられたものであるのに対して、「自己責任」は飽くまでネットの都市伝説の枕詞に過ぎない事は、留意される必要があるだろう。

 

(2022/03/26)

 

 

現代怪獣ショーが見たい。

 ニジンスキーのバレエの話を方々で読むうちに、それは宛ら大人の鑑賞にも耐えうる一種の怪獣ショーだったんじゃないかしら、と思うようになった。

 実際、有名な『春の祭典』の「生贄の踊り」や、『牧神の午後』なんぞは音楽も相俟って非常にグロテスクである。

 伊福部昭の音楽がストラヴィンスキーの影響を受けている事、そしてそんな伊福部昭が劇伴を手がけた映画『ゴジラ』の影響の下にある今日の本邦のアニメ映画(テレビアニメーション含め)の経緯を考えると、そこから少しの飛躍をして、いっそこれだけVRとか生配信が流行っているのであれば、何処かの劇団や劇場や映画会社が本気を出せば、巨大なシアターをそのまま配信用のステージにして、怪獣ショーの生配信が出来るのではないか……とか妄想してしまう。

 

 内容はそれこそ、ペルセウスアンドロメダでもいいし、本邦の文典中に求めるなら素戔嗚の八岐大蛇退治でもいいかもしれない。

 動く活人画を観てみたいと思う気持ちは、それ自体がやや時代遅れかもしれないが、その企画自体の面白さは実際、百年やそこらでは古びるものではないと思うから、何処かの誰かが此の記事を目に留めて、こんな企画を通してくれた暁には少なしく手許の小銭を叩いてチケットでも買おうかという気分になる。

 どうせ銀行に持って行っても手数料にしかならないのなら、投げ銭にするのが吉というものだろう。

 

 『シン・ゴジラ』以来、少なからず怪獣の中に誰が入っているのか、という事も世間の関心の範疇に収まりつつあると思われる下で、それとは別に、所謂「中の人」と着ぐるみ・コスチュームというものが混同されて等しい時勢に於いて、それが如何いう風に影響するかは未知数であるが、自分はこれで今まで人間が人間を演じるより致し方なかった時代の技術的制約を仮想と仮装の空間の中が取り除かれる事を期待していたりする。

 具体的に言えば、人間が尻尾や角や翼を生やしたり、腕や頭を幾つも持てる様になれるのなら、その方が余程面白いと思われるものである。それらを人間がその意思で操れる様になる舞台と装置が漸く揃いつつある中で、世界の作家達もそろそろ今の人間の肢や目玉の数に捉われず、種々の怪物を今一度想像する支度をしてもいい頃合いである。

 

 神話の時代の空想を、果たして仮想の空間上なら現出せしめ得るのであれば、その様にすれば面白いのにーーというのは、全く思うだけの勝手、言うだけ勝手なものとは百も承知だが、もし人体というのが一種の手枷足枷となっているのであれば、それらに見切りをつけて捨てて、精神と感覚の世界に飛んでいってしまう前に、今一つの方向に目を転じては如何だろうか。

 もしかしたら、二本足で演ずるよりも八本足で走ったり踊ったりする方が上手という人も実は世間には少なからずいるかも知れない。

 

 デパートの屋上や吹き抜けの仮設ステージで演じられていた仮面劇の可能性はこれよりもっと広がるべくあるやもしれない。

 そうこう書く人間は、因みに子供の頃から通じて一度もそうした舞台を生で見た事はない。そういう機会に偶々恵まれなかった、という事もあるが、これから可能であれば自宅でそうした驚異を目の当たりにしたいものである。その為の出費なら果たして吝かではない。

 

(2022/02/13)

 

箸の智慧

 「箸が転んでも可笑しいお年頃」といったり、「箸の上げ下ろしにも兎や角言う」といったり、指の先の爪の先の、更に先にある箸は、極めて些細な事柄の代表例として今日も認知されている。ただ、それは現実に於ける関心度合いの裏返しで、箸の先、使い方や持ち方ほど、その瑣末さに比して注意関心の払われる事は余りない。

 でも、所詮箸の話である。それでも関心がいくのは、ひとえにそれが食事に関係する道具だからであろう。

 

 とはいえ、今日、それがあんまり如何でも良い話であるのは、他人の食事に然程関心を持たずとも良い程度に、人間の腹が満たされているからだろう。例え、一寸の間、気になったとしても、それは相手の手許をずっと見ていたからではなく、目端に留まったからに過ぎない。

 だから、大騒ぎしても「所詮、箸如きに何を馬鹿な」と冗談で済ませられる程度の話題で済んでいる。それは随分おめでたい話である。

 

 故に殊更、そんな状況で瑣事に係り騒ぐ面々もその針小棒大さ加減を承知していて言うに過ぎないものと了解して良いだろう。

 そして、それは単に当て付けや、いちゃもんをつける口実で、目端に捉えた箸について言及しているに過ぎないのである。それは随分、呑気で宜しい事だと一笑に伏して結構な事態である。

 だが、それにしたって、他人が物を口に運ぼうとする端から、やおら嘴を挟むのは甚だ如何わしい事、此の上ない。

 食事の邪魔をするのは、人間に限らず動物一般、生物一般に通用する数少ない嫌がらせの典型である。

 人間の場合、箸の上げ下ろしに物を言うのは、食事の邪魔をする行為に他ならない。人が物を口に運ぼうという手を止めさせようとする行為は、動物的に考えたら、その手を掴んで物を食べさせないのと同じである。

 そんな事をされて、若しされた方が暫時黙っているとするなら、それは制止した人間や動物の威力を恐れて渋々従ったーーというよりも、本人が自制心を働かせて一旦様子を見ているだけである、と云う風に見るのが妥当である。

 

 だから、此処で若しやそんな状況で、誰が間抜けや阿呆か確かめようとするならば、それは他人の食事を邪魔して意気揚々としている人間の方だろう。

 そんな事をして、タダで済むと思っているのは、全く相手が人間を全く人間だと侮っているからに他ならない。或いは、端から動物というものを侮っていれば、

「高が箸如き、何のもんだ」と高を括れるものなのかも知れない。

 

 存外、箸の先にあるのは、それを叩き落とそうとする者の考えている以上に重たいものが控えている。それは一言にして、尊厳である。

 他人の食事を蔑ろにする者は余程の覚悟をしておいた方が無難である。

 ただ、そんなものを支えて掴んでいるものであったとしても、普段は「転んで可笑しい」ものとして人が一笑に付すのは、全く叡智人を自認する人間の余裕を示す意味に他ならない。

 その余裕を、単に側の人に張る見栄だとしか思わない者にとっては、その智慧を簡単に擲って平気である。

 或いは、人間にとってその余裕と尊厳とが如何に重要か分かっていればこそ、その側で羽音を立てるのに余念がない。人間から智慧を奪い、尊厳も根刮ぎにして単なる動物それ以下に(人間は何も尊厳なくして生きられるような動物ではない)してしまおうという輩は、他人の手から箸を奪って、叩き落として、笑うか或いは説教をして平気である。

 そうされても黙っている人があれば、それはその両者の何方が人間の称に相応しいか、既にして瞭然だからである。語るに及ばず。或いは、言っても伝わらない。故の沈黙である。

 

 人間は動物である。その動物に対して、その化けの皮を剥ぐような事を、若し人間が仕向けるなら動物を人間扱いするのが滑稽なように、正しくそれは滑稽である。

 それが滑稽で済む内は全く幸いである。

 その幸いは人間の手指の上に、箸やフォークやスプーンが摘まれている間は保たれるものだが、然し、事情が少しでも変わるとこの話は全然冗談では済まなくなる。

「箸がなければ手で食えば良いじゃない」

なんて台詞は、例えば箸が容易に手に入る状況であれば成立する洒落である。

 

 所詮、箸についての兎や角話をするのは瑣事である。だが、これ程、企図して己の信を損ない、評判を貶め、愚を喧伝する方法も他にはない。

 ーー然すれば誠、箸の話を瑣事に収めている人間の智慧と努力こそ世に讃えられるべきではないか?(以上、馬鹿の戯言。)

 

(2022/01/17)

  

 電車の窓に映った景色を片端から全部描いていこうとした時に、描いているうちに全部流れ去っていくものだから、いつまで経っても絵が完成しない。

 そんな時に、傍で見ていた人が

「借してみろ」

というので、筆を渡したら、長い長い奉書紙に一本線を引いて、

「これでいいだろう」

と言ったので、自分はすっかり参ってしまった。

 

 今にして思えば、その人が言ったことや描いてみせた図は随分正しかったと思われる。

 しかしながら、それでも納得がいかなかったから、以来、いつかまた出会した時に驚かしてやろうと思って、電車に乗る度に景色を眺めては紙に写していた。

 それから大分日の経った折に、途中駅まで人を送る用事があった。

 夜も遅くて、窓の方を眺めていても、自分と隣に座ったその人くらいしか見るものはなかった。

 

 別段話す用事もないから、ただ黙って窓の外を眺めていると、徐に相手の方から口を開いた。

「線が見えるでしょ、ジグザグした」

 相手も窓の方を向いたまま、そこに映った自分に向かって話かけるので、自分も其方に相槌を打った。

 

「あれ、学校の試験思い出す。あれで、どんな病気か答えんの」

「心電図ですか」

「そう、ーーああ、あの線、あれはーー」

 

 何だろ、と言ったきり、それから相手は又話すのを止めて、自分も話さなかった。

 列車は相手の最寄駅に着いて、其処で確かに降車したのを認めて、自分はまた窓の方に向き直った。

 当然だが、その時、窓の外にも内にも線はなかった。

 ただ、それから度々、海が見たいと思いようになって、ついに去年の夏、藤沢から江ノ電に乗って鎌倉の由比ヶ浜が一望出来る駅まで行った。唯それだけの為に行った、という訳ではなく、その近くにある有名な岩場まで、物見遊山に行くつもりであったのだが、途中であんまりに人が多いので、砂浜にも降りず、駅に戻って、そこでぼんやり海の方角を眺めていた。

 

 海は絵で見たよりも波が大きくって、眩しく、正視に耐え難かった。

 それでも見ている内に網膜にきちんと焼き付く像が出来るのではないか、と期待して眺めていたが、果たせるかな、その願いは叶わなかった。

 小学校の校庭の、一段高い所にあった南瓜の畝の網目模様は、今でも確り記憶されている。だのに何故だか海はそうはいかなかった。

 考えたら、それは畝が静止していたからで、海はずっとじっとしていなかった。

 青とも黒とも付かない光の帯が重なり合って、互いに潜り抜けながら、前進したり後退したりしていた。その行き先がよく分からない内に痛くなって来て目を瞑ると、また元通り、最初からの景色になってしまった。

 

 慣れない潮風に全身がギシギシになった。その日の帰り、近所の古本屋に寄ったら、百円のワゴンに古い子供向けの図鑑が詰め込まれていた。

 中には読んだことある巻も挟まっていて、函から出して開いていったら『海』の巻もあった。余り期待もせずに取り出したら、『海』の巻の表紙は、浜に寄る波を横から撮った航空写真だった。そんな図は生まれてこの方、見た事がなかった。

 そういえば、海にも奥行きがあるんだった、と答え合わせのように気付いたのは、その巻を買って家に帰り着いてからだった。

 

 それから、今更のように紙の厚さを気にするようになった。それで思い出した、昔描かれた一本線は、現物はなく、ただの遠い昔の記憶でしかないのであった。

 当時はただ、描いていた絵を台無しにされた、という嫌な感じしかしなかった。だから、確かな事は覚えていないが、直ぐにでも新しい紙に、或いはそこで切り離して続きを描き出していたに相違ない。

 だが、断片は切り離せたどころか、延々と目の前の今ある紙にも連なっていたのである。何処からでも切り離せるのだから、何処からでも繋げてしまえるのは、ちょっと考えたら道理であった。 

 

 そうして我に返った所で、自分は未だ電車の中にいて、窓の方を向いているのであった。

 我に返って直ぐ、何処へ行くのやら、確かめずに乗った事を思い出した。しかし今更確認しようにも、今、手のうちにある巻子には来し方のみ記してあるばかりで、行き先は絶えてない。

 奥行きの方角に向かおうとしても無理である。取り敢えず、次の停車駅まで待つしかない。

 待っている間、窓を眺めているとチラチラ光が見え始めた。大体は球である。それがやがて線になって、波になって、突如としてプツリと切れた。すると又直ぐ次の線が現れてフツリと消えた。

 紙を巻く速度が追い付かないので、絵をどんどん小さくする事で余白を稼ごうとするのだが、それでも全然追い付かない。

 到頭、面倒臭くなって、いつぞやの「借してみろ」みたいな線を、思いっきり太いのを擦り付けて筆も紙も放り投げて、不貞寝を決め込んだ。不貞寝している間にも電車は止まるもんだと考えた。

 だが、それでも電車は止まらなかった。それも当然、仕方がないので、渋々又、紙と筆を拾い上げて、一本引いた線の部分を切り離し、今度は綺麗に筒に丸めた。鼓を打つみたいに指で鳴らして遊んでいると、漸く電車はゆっくりとだが、速度を落として登り坂に差し掛かった。以前として、駅までは未だ随分あるようである。

 

 それから今は景色と全く関係ない絵を描いて過ごしている。

 

(2022/01/14)

 

ジェネレーターに入力したキーワードは秘密

 三が日前後から、AIに色んなお題を入力して絵を出力させる遊びが流行っているようだ。

 これは石を割って出来た断面にある模様を、風景とか事物に見立てて遊ぶ、パエジナストーンのようなもんだと思ってタイムラインを眺めている。

 すると、このような機運に乗じて、そろそろクリエイターの中から、AIが描いたような絵を描いて発表する猛者も出て来るのじゃないかと思い、期待するようになった。

 ただ、今少し、そんな猛者達の筆致よりも、この機運に託けた全く異なった作品を見てみたい気持ちも湧いて来たので、その事について少し書いてみようと思う。

 

 絵のような模様のある石が評価されるようになれば、自ずとそんな石の贋物を作り出す者が出て来たりするのが、人の世の常である。

 だから、AIの描いたイラストがもっと世の中に増えれば、人間がそれを真似し出すだろうーーと思うのは無理からぬ話だろう。

 果たして、自分にはそんな絵を描く技量はないから、いつかそんな画像とタイムラインで出会す日を楽しみにしていたりする。

 

 大体、「絵に描いたような風景」を求めて、他人の土地だろうが耕作地だろうが、道路の真ん中であろうが陣取ってカメラやスマホを構えるようなのが人間の性である。

 だから、

「人間か描いたかのような画像を生成するコンピュータ・プログラム」

が作られるようになるのは、何の不思議もないものであるし、そんなのは、カメラが普及し出した辺りで、人類が一度経験した事である。

 また、人間よりも人間が描いた風な絵が、石をハンマーで割ったり、言葉をバナーに入力したりする事で見られるなら、それにハマるのは全然おかしな事ではない。それを何か文化芸術の衰退だなんて言おうものなら、言う方が多分、野暮なのである。

 寧ろ、この様な画期的なツールを使って、如何なる画像を人間が生成するかが、例えば今後詩人の腕の見せ所になるのではないかとかーーそれ位、考えない事には「批評家」を気取るのも難しいのではないか、とか想像する。

 

 ここで、更に余計な事を付け足して言えば、AIの画像ジェネレーターの妙味は、人工知能の生成した画像に人間が「ツッコミ」を入れられる所にある。

 どっかの画像大喜利のように、人間が「ボケ」に回って頭を捻ってタイトルなりキャプションを付けるプレイヤーの側に回るのではなく、お題となる言葉と引き比べて、その回答の出来を審判する側に立てるのがAIによる画像精製の面白さの醍醐味であると言えるのではあるまいか。

 

 「機械」が描いた絵には前以て正解が用意されており、それを踏まえて人間が機械の出した回答を採点出来るのは、人間にとって絶対的に優位である。それは人間の描いた絵に対して、人間が抱く煩わしさが、初めから取り除かれているからでもある。

 その判定は、スポーツ観戦にも近いが、此処ではそれよりも更に一歩進んだ審判役を人間が演じられる点に於いて、オモチャとしての画像ジェネレーターは優れている。

 ただ、スポーツの試合にプレーヤーに相当するAIは審判である人間の指示には必ずしも従うものではない。というか、先ず理解しているのかも怪しいのがAIである。多分理解しないのであるが、そういう見た目の上で愚かなプレーヤー然としている機械に対しても、恰も人間を「指導」するかの様に振る舞える事で得られる優越感こそが、審判役を任ずる人間の得られる面白さの醍醐味と言えるだろう。

 人間はただ、AIのプレーに対して、口に咥えたホイッスルを鳴らすだけで良く、それも自分の好きなように鳴らして良い。そしてそれは、自分が思うがままに試合を厳粛にも寛容にも振る舞える事を意味している。

 笛の音に合わせて何かが動くのであれば、それが鉛の兵隊だろうが、生きた人間であろうが究極的には関心がなくなるのが、笛を吹く係になった人間の心理が落ち着く感情である。

 詰まり、ルールなんてない状況で、ルールがある前提で振るわれる暴力の、権威だけを擬似的にでも生成するのがオモチャとしての画像ジェネレーターなのである。

 

 刑事ドラマごっこ(何だか妙な言葉だが……)をするのなら、捜査をし取調べをし、犯人を追い詰める警察の側に回って、権力を振りかざす快感を味う方が、追われる犯人側でいるより安逸であるという事は、違いの分かる大人の方が子供よりよく弁えている事項である。

 というのは、大人は手続きの煩瑣な事を子供より分かっていればこそ、一足飛びに、その手続きを経た上で得られる権威や、その効能を得る為の知恵というのに精通した者だからである。

 そんな「知ったかぶり」人間が、果たして子供の格好のオモチャになるのは容易に想像出来る顛末だろう。

 

 斯くして、次々とタイムラインに投稿される画像を眺めては、意気揚々と棍棒を振り回して「鑑定ごっこごっこ(矢張り、妙な日本語だ……)に興じる人間の足下を掬い揶揄うのに、人間がAIに成りすます事程、優れた手はないと思われるものである。

 現実的には「AIに成りすました人間に成りすますAI」が拵えられる方が有り得そうだが、何れにせよ、そうした応酬は、ジェネレーターにキーワードを入力して、出て来た画像を楽しむーーというような、ゲームセンターのコインゲームや、或いはスマホのガチャガチャに興じてしまうような人間の性に端を発している。

 

 その性は、何かを知りたいと思って調べ物をする人間の基本的な習性のあらわれの一つである。

 だから、若しーーそんな大人と子供の戯れに関係したくない、と思えば、大前提として、調べ物をするのに際しては、検索してヒットした情報の中に、その様な「成りすまし」の生成した情報が相当程度、含まれている事を承知しておく必要がある。そして、その有象無象を取り除く篩を沢山用意しておく必要がある。

 そして、それは別に画像ジェネレーターで遊ぶ際だけの留意事項では全くないーーというのは敢えて言うまでもない。

 

 

 お題を入力して、それに応じて提示された絵を見て楽しむーーというのは、果たして普段人間が人間に対して行っているプロセスを、少しく改変しただけに過ぎないので、この大枠自体を何か批判しようとすると結構面倒である。

 そして、この大枠に則った上で、その過程に人間ではない機械を持ち込むのがいかがなものかと思う向きに対しては、次の様な想像をして貰えればーー、と個人的には思うものである。

 

 それは、誰か身近にその様に気軽にお題を振って絵を描いて貰って、その絵を見て、楽しむーーというような環境にいない人達にとって、ジェネレーターがその代替となる手段足り得るという事が先ず挙げられる。

 そして、何よりかこれで、先にも少し触れたが、絵を誰かに依頼するのが難しい詩人や作家達が、自分の著作に挿絵を添えて発表する事が出来るようになったならば、それは全く素晴らしい事だと思うものである。

 これについて、筆者の寄せる期待は甚だ大きいものである。

 

 自分としては、この機運が如何か、「ドラマごっこ遊び」の具にとどまらず、種々の試みに使用され、その成果物に関する情報が随時タイムラインで見られる日が早い所来る事を願って止まない。

 

 なお、ここで「それで、お前自身は何を作るんだ?」という様な質問は、全く野暮であると言える。

 誰が一体、そんな問いに正直に答えるものだろうか?

 

(2022/01/12)

 

 

カラスの遠吠え

 カラスの遠吠えは電柱の上によく冴え渡る。真下で聞く分にはさほど声量もないように聞こえるのだが、離れてもなお聞こえるので、その声は優に数百メートル先まで届く。

 普段買う牛乳が少し多く盛られているような気がしたので測ってみたらば気の所為であった。また、少し水っぽいような気もしたので調べたら冬場の牛乳は淡白な味になるという。これは気の所為ではなかった。

 拍子木の音も鳴り止んで静かな夜に戻って来ると、普段視覚に頼りがちな人間はいよいよ距離感というものを掴めなくなる。仕方なく、それで昼間はぶらつくがてら、歩調を速めたり弛めたりして、融通出来るようにしておく。

 

 カラスの遠吠えは、「アー」でもなければ「カー」でもない。「ワー」と書くには角張っているし、濁った「アー」よりずっと丸みを帯びている。

 すると、雨戸の閉まった事務所の中から、小犬が応じて吠えるのが聞こえた。それで、カラスの遠吠えは犬の咆哮に似ているのだと気付いたりした。それなりに図体のでかい鳥類だから、犬くらいに声が出せていても不思議はない。

 とはいえ、雨戸越しの犬の吠え立てる声なんぞは、数歩進んだらすっかり鳴りを潜めてしまった。カラスの声は自室に戻っても尚、聞こえていた。数分間、鳴き続けていた事になる。それは全く大した事だと感ぜられた。

 

 寒さと伝染病からの生活の萎縮とから、此処の所、極早い時間に隣近所は雨戸を閉ざし、皆家に引き篭もって過ごしているものだから、夜は星がよく見える。無論、高の知れた程度ではあるが、田舎に行くと天の川を始め、見え過ぎて空が星で霞んで見えると聞くから、この程度で却っていいのかもしれない。

 日中の交通量も減り、夜中は尚更減ったものだから、塵埃も光も目に見えて減った気がする。それを賀して良いのかは分からないが、兎も角、確実にこの数日は例年よりずっと色々なものが冴え渡って感受されて良いものである。

 鳥の声は確実によく通るようになった。今に家の前を猿や猪が散歩するようになる日も遠くはない気がする。

 

 年寄りは早寝だから、だとか、いい若いものが外にも出歩かんとは、とかものの言いようは色々にあるだろうが、何にせよ尤もらしく言えるのなら、幾らか面白味のあった物言いというのが果たして好ましいーーと思うのは、随分斜に構えた態度であって、そんな事も考えずに来る七日の粥が炊けるのを指折り日を数えて待つのが睦月正月には相応しく思えてならない。

 

 カラスの遠吠えがしている間は、森閑としてそれ以外、鳥の声らしい声はとんと聞こえなかった。だが、やがて家に自分が帰り着いた辺りになって、応答らしい声がするようになって、それも止んだらヒヨドリか何かのピーチクパーチク喚く声が聞こえて、それも直に止んで又、車とバイクのエンジン音が聞こえるばかりとなった。

 初春の午後とは果たしてこんなものである。

 

 所で、牛乳を買いに行ったのは、豊島屋の鳩サブレを食べるのに備蓄がなくなっていた為であった。矢張り、鳩サブレも新鮮な内が香ばしくて美味である。だが、そう一度に何枚も沢山食べるようなお菓子ではないし、又食べられるような大きさでもない。それで結構満足してしまう程に、しっかりとしたおやつである。

 それでお目覚にも食べる事にした。今年は初めから、ハトばかり食べている。

 そろそろ羊羹も食べ頃であるから、こちらもこれから切り分けて食べる予定である。牛乳の減りが果たして尋常ではない。骨が強くなりそうで結構である。

 

(2022/01/05)