カオスの弁当

中山研究所blog

ピグマリオン・ジェネレータ

 適当なキーワードを入力して機械に生成・出力させたデータをそれ以上のものだと捉えて享受するまでには、一跳躍の歩み出しが必要である。

 昔、坂田靖子の漫画にピグマリオンの伝説をモチーフにした短編作品があったのを今朝ふと思い出した。パソコン・インターネット黎明期の只中で描かれた坂田の諸短編作品は、正に今、読まれるべき作品郡であろうと思うのだが、それはさておき、同作の(タイトルは失念してしまったが)主人公は天才芸術家(男性)で、自身によっての「最高の女」を欲するのだが、その衝動のままに鑿槌を振るうと、その芸術的衝動が表現されてしまって、一向に「女」自体には辿り着けない。

 そこで彼が相談に向かうのが、コンピュータの研究開発を行うラボである。出迎えた研究者らも「ここはコンピュータのラボなのですが」と困惑するのであるが、札束で頬を叩かれた研究者は諾々とアーティストの注文を受けてしまう。

 そして(ネタバレになってしまうが)、ラボの面々が考案したのは、一種の催眠プログラムであった。具体的なその描写は芸術家のセリフで止まるが、如何やら延々と幾何学的図形の画像やら、所謂、当今私たちが「ヴェイパーウェイブ」とか聞いて思い浮かべる様なシュールな映像みたいなもの(動画なのかは不明)がモニターに表示されるプログラムとして描かれている。

 そして、この催眠導入プログラムの最後に表示される画像の女性を「理想の女」として満足する様に作られたプログラムが、ラボが開発した『最高の女』なのだーーと、担当者は助手の若者に語って物語は終わる。その画像というのがボッティチェリの『ミロのヴィーナス』とダ・ヴィンチの『モナリザ』と後2点くらいあった筈だーーが、何分読んだのが随分前なので思い出せない。『裸のマハ』か『オランピア』であった気がしないでもないが、確証はない。

 

 兎も角、この漫画が描かれたのが1990年代(自分が読んだのは2000年代の後半であったが)であった様だが、当時これを読んだ人もそうであったろうが、それから十数年後に読んだ私も、この男の愚かさを滑稽に感じたものである。

 だが、それから更に十数年経って、俄かにその滑稽がフィクションの装いを失して自分の目の前に現れた時には、一週間程、件の物語を思い出すまでに時間を要した。

 

 別に、画像生成Botで遊ぶのに水を差すつもりもないが、それが生成した画像をすわ「絵」だと即座に反応するのは、如何にも20世紀後半の「コンピュータ万能論」じみた愚かさと滑稽さを感じさせる。ただ、そんな感想自体も2020年代には時代錯誤的でもあるだろう。

 

 例えばだがーー、丸山健二の小説が原作で、そこにオリジナル要素としてコンピュータが弾き出した結果に従って任務を遂行するーーという(見方によっては稍SFチックでもある)オリジナル要素を加えた1984年のクライム映画『ときめきに死す』(主演・沢田研二、監督・森田芳光)が、詰まるところ当時の世相に滞留していた「万能機械」への「期待」を批判する内容になっていた事は、映画諸共、文字通り、遠い過去の出来事として忘れ去られている。

 その割に、2010年代には、P・K・ディック的な世界観のクライム・アクション作品がアニメを革切りに小説化もされて色々マニアの間で持て囃されたりしたが、いざ、そういう予行練習でもって繰り返し注意を呼び掛けられていた事象に関して、初めて接するに際しては中々機敏に反応するのは困難の様であった。

 

 Botの生成する文章(それを文章と呼べるかは分からない)や画像を、何か詩や絵なのだと捉えるのは詰まる所が芸術家の男の様に「最高の女」に対する欲望とそれに基づく行為とが伴っていればこそであったろう。ただ、目の前のタイムラインに流れてくるだけの画像を見るだけでは、これまでも、またこれからもそんな理想の記号さえ認識するのは出来ない事であるだろう。

 

 だからと言って、端からそんな理想や対象を渇望しない者程こそ、「これでもう絵描きなんて仕事は不要になった」と嘯くのだろうーーとは決めつけてはならない。

 それは鑿や槌を握るまでもなく、大理石の塊に向き合う事もせずに漫然と過ごしている人間がアーティストを気取って垂れ流す戯言かもしれないが、一方では、これまで散々大金を彼等に支払って来たにも拘らず、その衝動の表現しか見せ付けられて来なかったパトロンが、漸く理想の奴隷を見付けた時の満足な溜息に伴って出た一言かも知れないからだ。

 それは「理想の買い物」ではないかも知れないが、少なくとも、これまでうんと敷居が高く、おまけに全然自分の言う事を飲んでくれない人間よりもずっと理想に近付ける夢のマシンであった。

(しかもBotであれば、注文主である自分を陰で嘲笑する様な事も絶対にしないから!)

 

 実際、他人を使って何かを得ようとしなければならない人程、真摯に己の「最高」に向かって邁進するのかも知れない。そして、存外自力で何とかしてしまおうという人間程、「最高」ではなく「最善」を尽くそうとするのかも知れない。そこには自ずとズレがあり、「最善」を尽くすが故に「最高」に一歩及ばぬーーという事も起こり得るのかも知れない。

 画像生成Botは、強いていうならその「最高」と「最善」の間を取って「最良」を目指す手立てかも知れない。それは人間が描いた絵ではないかも知れないが、人間が描いた絵では満足出来ない人にとっては、それらを元にした「最良」の選択肢かも知れないのだ。

 また、芸術家からしてみれば、その画像は所詮、顧客を満足させる“だけ”の信号に過ぎず、“そんなもの”を描くのに時間を割きたくない芸術家の作業を随分軽減してくれる福音として評価し得るものになるのではないだろうか。絵描きが画像生成Botを活用する利点は何よりか、その様な面倒に割く労力を減らす点にあるだろう。今時便利なツールを使うのに抵抗のある絵描きなんてのは廃業するしか道がないものである。蓋しいつの世にも「クリエイティブ」な仕事をする者程、新しい道具を直ぐに使い熟せるようになる能力を必要とされるものであるーーと言えるかも知れない。

 

 ピグマリオン・ジェネレータとは、正しくピグマリオンを生成する装置であり、「理想を実現する装置」ではない。飽くまで、その願いを叶える道具は願い自体を創造するものではないのだ。

 故にだが、この装置を用いるのは半ば神懸けた誓いを立てる様な行為が出力の際に必要となるのではなかろうかーーと思われるものである。

 無論、冒頭に紹介した、坂田靖子の漫画に出て来るアーティストの様にーー本人としてはそれに不満を抱いているのだがーー自身の仕事としては「芸術的衝動の具現化・作品化」を創作する事を旨としたい人々にとっても、ピグマリオン・ジェネレータは「マシン」として活用可能である。

 何せ、ピグマリオンは自分の為に創作を行ったに過ぎないのであって、決してそれは仕事ではないのであった。別に彼は彼自身に対価を支払うでもなく、ガラテアをピグマリオンは何かで買った訳でもないのだった。

 その意味では、画像生成Botは全く、誰かの提供するサービスであり、それは仕事として成立しているものだから、正しい意味では「ピグマリオン・ジェネレータ」とは言えぬかも知れない。だが、それが「絵描きが失業するかも知れない」と、だからこそ、言われるが由縁である。

 

 何か理想とか人間の求める対象というのは、それ自体、永遠不滅の様に人間には感じられるかも知れないが、その知覚というのは同時に、渇望する人間に己が有限性を無慈悲に示す事柄でもある。

 人間はそれに気が付いたら、早々にそれ自体を求めるのを止めて、手近な所にある「最良」を見付け出す必要があるに違いない。

 ただ、それに際して最も重要なのは機械の性能や渇望の高ではなく、意外と美神への加護の誓願、切実なる信仰と絶えざる期待なのかも知れないーーが、その滑稽と悲惨に耐えられる人間というのはいつの時代も逸材と呼べる希少なものであるだろう。

 ただ、その愚かさを治さずにはいられない、余計なお世話を焼きがちなのが、いつの時代・地域に於いても見出せる一面としての人の性であろう。

 モニターの前で催眠術にかかっている間は、全く世界の半分は見えていないのだ。

 

(2022/08/11)

 それはよくある光景だった。電車の中でひたすら窓に向かって口角泡を浮かべて喚き散らしている、大抵は年齢よりも随分と老け込んだ男が一人、周囲に無視されて放置されていることへの当て付けからか、列車が速度を増すに連れて愈々声量も大きくなる。

 周囲の沈黙が男を押し潰し、磨り潰して消し去ろうとするのに彼はなかなか居なくならない。それどころか、靴の中に入った小石の様に、いつまでもそこにいて自らは動こうとしない。だが知らぬ間に彼は居なくなっているものだ。単に声がしなくなっただけなのだが、男の特徴はただその支離滅裂な言語、耳障りな独言しかない。

 こういう手合いの奴は、実際何処にでもいて何処へでも出没する。そうと気付かない、気付かれないのは彼らがいつでも声を発している訳ではないからだ。各自それぞれの事情と判断によって彼らは信号を発し、啓発する。彼ら自身が何かを受信しているのではなく、彼らはひたすら受け取り手のいない情報を発信しているに過ぎない。彼らの一言は長く、冗漫で、要領を得ない。故にいつまでも送信が終わらない。「更新中」と「交信中」のアイコンが彼らの頭上には見えずとも常に回転し続けている。その負担が彼らを余計に苛立たせる。結果として暴れ出す時、彼らは自身が草した文章を喪失している。宛先は勿論、送り主も判明ではない。

 

 その壁がユーザーの一人だと気付くのにはそう時間は係らなかった。然し、その中に人が入っている事、何かのバグで埋まってしまっている訳ではない事に気付くまでには数十秒を要した。全く詰まらない冗談だと思った。

 そういう、一発芸的な面白さを求める奴が屯するには未だ少し敷居が高過ぎるーーが故にそういう事を仕出かす、自己満足的な奴が出て来るのは、いつ何処で何が流行っても起こり得ることだった。

 壁には文字が浮かんでは消え、そして端の方からビッシリと今までにそれが表示した文言が一覧となって表示されていた。その一つひとつにリンクが貼られていて、そこから個別の「記録」にアクセス出来る。掲示板と伝言板の合いの子みたいな、然しそこには壁以外、誰も書き込めないし、別にルームの記録を付けている風でもなかった。

 

 > なんでここにいるんだよ。

 

ーーと屡々、煽るユーザーに対しても壁は沈黙していた。その内、この「壁」はチャットの監視用のアバターで何者かが延々と個人情報を抜き去る為に設けたロボットではないか、という嫌疑が自然生じたが、通報され、凍結されたと思いきや、直ぐにも解除され、相も変わらず「無害」な文言を表示し続けた。

 

 すると、次にこの真似をする輩が現れ始めた。もうその頃には、サービス自体が新鮮さを失って、新規が続々と押し寄せて来るタイミングに移行していたから、見切りを付けた「古参」連中からさっさと退場して次の遊び場を見付けていった。

 果たしてそこにも彼は出現した。最初に気付いたのは、イヌになり切って遊んでいたユーザーだった。用を足そうと、隅の方に並んだ電柱の一本に狙いを定めた所、その根元によく出来た三色スミレの花が一株植わっているのを認めた。

 これに関心を示したイヌは直ぐ様、友人らを連れて此の花を観察した所、その花弁のテクスチャーにはビッシリと犇くアブラムシのアニメーションが投影されていた。然も、この虫達の姿はいちいち何か文字らしき画像を浮かべては瞬間々々に消えていった。

 その花自体も又、暫くして枯れてしまった。ただ発見されて以降はその様子が確りとユーザーらに録画された為、その内容から恐らくアイツだろうと推測したコミュニティーの面々は、全く水をさされた気持ちになって心底ウンザリさせられた。

 

 彼らは「壁」の不届きな宣伝行為に憤慨した。喫茶店で店を開くマルチやカルトの所業であると彼ーー何故か、「彼女」ではなかったーーを非難した。「壁」は、誰かが思い出して話題に上げる度に地味にランキング入りを果たした。既に壁は壁でなくなっていたが、最初に現れたアカウント自体は依然としてそのルームに存在していたが、既に寂れた観光名所化していた。既に彼は伝説の、即ち過去の存在となっていた。

 だが、イヌが(此のイヌは、自分が用便を果たそうとした所に件のスミレがあった事に啓示を受けて、以来、フィールド内に隠れていた「壁」を次々見つけて行った)その後に見付けた彼の独言は様々な形態を採っていた。

 蜂の巣だったり、蜘蛛の巣だったり、屡々昆虫に自らを仮託しているかの様に思われたが、その次は疑似大気の密度を調整して、ある角度からライトを当てて見てみると、そこに陽炎として独言が浮かび上がる様な場合もあった。

 当然ながら、そんなだから終いには彼を本当に崇拝する連中が出て来てしまって、その中には嘗てあったサービスに早々見切りをつけて渉り歩いていった様な賢いユーザーもいた。

 最初に現れた時から既に三年が経過していた。するともう好い加減、「壁」を無視し続けるのも大概面倒だと思う人間が出て来ても無理はなかった。他方で頑なにそれを憎んで非難し続けるユーザーもボチボチ徒党を組み始めたが、これも結局は消耗した結果、その様に彼ら自身が変質したーーというべく他になかった。

 

 壁はもう壁ではなくなってしまっていた。最早どれが「本物」の壁だかも分からない程に、その模倣子とコピーとが、何処も彼処も埋め尽くしてしまっていた。

 或るユーザーはーー最近、如何やらパートナーができたらしいーー、

 

 > 如何にも、これが目的だったんだろう。

 

と分かった様な事を投稿していた。

 ただ、矢張り「専門家」から言わせると、壁はパフォーマンス・アーティストの一であり、然しながら真の狙いは虚無僧の如く、簾越しに狭い世間を観察する事であるのだそうだった。

 

 > 「壁に耳あり障子に目あり」

 

 この、恐ろしく古い諺をただ体現するだけの為に作られたアートが一人歩きした結果が今日である、というのである。

 ミームを拡散しようとする意図を感じ取るユーザーは、二番目に彼が採った形態を根拠に自説を優位に置こうとする。だが、それに対しての批判は、そうなると彼が最初に「壁」の姿をして現れたのと辻褄が合わないーーというものであった。

 

 観光名所化した壁は保存され、その更新はゆっくりではあるが長らく継続していた。

 だが当該サービスの終了が告知された翌日正午から、その更新はぴたりと止んだ。解析の結果、それは最初から「壁」にプログラムされていた、自動的な反応であった。

 無数の魚拓やアニメーションが「壁」を保存したが、最新の壁の所在は、斯界の泰斗に君臨するイヌを始め、トレーサーにも見付けるのが困難になっていた。

 フォーラム内のスペースに報告される代物が、果たして独語なのか、それとも単なるシミなのか否かの見分けはとても素人には付けられなくなっていった。最早、全くイヌ達の鼻だけが頼りという様な有様になっていった所で、七年が経過していた。此の間に、イヌは何度か入院しており、その後継者が度々内ゲバを起こしてはアカウントを凍結される騒動が起こっていた。

 

 そうこうしている間にも、惑星表面の地表はジワジワと水底に沈みつつあった。日差しは野山を文字通り焼き尽くして、炎は赤々と民家の甍を沸騰させ、丸裸になった山肌は滝の様に滑り降りて、麓の街と水源の湖とを悉く埋め尽くした。

 社交の宴は相も変わらず盛況であった。他方で飢えた子供達は所構わず矢継ぎ早に透明になった。穀物倉庫は爆撃され、相変わらず空は清々しく、海は満々と水を湛えて、遠目から見る分には然程変化は見られない様子であった。

 壁に書かれた独言は余りに長過ぎて誰にも読めなかった。又、余りに更新の頻度が屡々なので記録者は整理の度に困窮した。平文で書かれたそれらに読むだけの価値を見出した者は彼の崇拝者以外いなかった。それすらも読むというよりかは「占う」のに近かった。

 

 誰かがそれを「風」に喩えて、自身らを屋根の上の風見鶏に喩えたのに対して他のユーザーが揶揄し、返信した。

 

 > それはお前だけだ、気持ち悪い。一緒にすんな。

 

 さてこそ、パーティーはこれからも盛況である。壁の居場所は杳として知れない。

 

(2022/08/04)

 

 

麦わら帽子と白いワンピースの幻について

 

母さん、僕のあの帽子、どうしたんでせうね?

ええ、夏、碓氷から霧積へゆくみちで、

谷底へ落としたあの麦わら帽子ですよ。

 

ーー西条八十『ぼくの帽子』(1922年)

 

 

 12、3年前「2ちゃんねる」のまとめサイトで、

“夏に関するイラストで描かれる、白いワンピースを着た麦わら帽子の少女が向日葵畑の中に立つイメージの元ネタは何か”

というお題で立てられたスレが紹介されていた。

 

 そこでも、またその後、同様のテーマを扱ったフォーラムでも様々な作品やアイデアについて言及がなされていたが、中でもその骨子として指摘されていたのは、山川方夫の小説『夏の葬列』(1962)である。

 同作中では、少年時代の主人公の身代わりになって亡くなった女性が着用していたのが「白いワンピース」だった、という設定が見られる。国語の教科書にも掲載されていたそうで、それで作品に接したという人も少なからずいた、「特定の世代にはよく知られた作品」の一である。

 

 ただ、『夏の葬列』のみでは、ひと昔前のオタク達が妄想したミューズの図像を完成させる事は出来ない。今一つのモチーフである「麦わら帽子」まで『夏の葬列』はカバーしていないからである。

 その「帽子」は何処から来たかーーという事を考えてみると、果たしてこれは冒頭に掲げた西条八十の詩だろうと思われる。

 森村誠一推理小説と、それを原作とする映画『人間の証明」(1977年、原作は1975年発表)でもって人口に膾炙した西条の詩は、少年と思しき語り手が延々と嘗て失くした麦わら帽子について回想する内容である。

 

 『夏の葬列』と『ぼくの帽子』の共通点は、主人公・語り手が男性である点、それぞれが自身の少年時代の(或いは未だに精神的にも肉体的にも少年である主人公が近過去の)出来事を回想している点にある。

 そして、彼らが各々自身の過去の喪失体験の起点に立ち返ろうとして失敗する様子が全体に於いて縷々陳述されている点で、両者は共に個人を形成している空虚を主題にしていると言えるだろう。

 その空虚を当人が補完しようとしては失敗するのを反復している、その行為自体が主人公の個性であり、その行為までを含めてが彼そのものを規定する体験の全体であるーーという事を読者に分からしめる作品であるのも又、同様である。

 

 「麦わら帽子」と「白いワンピース」は、総合すれば何れも個人の私的なトラウマの象徴であり、後悔と罪責感の象徴でもあり、又、喪失した思慕の対象の象徴としても扱い得るものだ。

 但し、サブカルチャーの文脈では概ねこれらの「私的な夏の経験」のシンボルであって、飽くまでそれらはそのラベルとしての機能を有する過ぎない。

 固有の文脈、物語を離れて記号として用いられる様になったアイテムは、別段、そうしたものを描くのに、或いは鑑賞するのに際して消費者が何のシンボルだと気付く必要は特別なく、ただそのアイテムに相応しい物語を想像して代入する為の空白として認識されれば用の足る記号である。

 

 然し、矢張りその二つのアイテムを携えた少女というのは、自ずと喪失のイメージとして往々解釈されて来たものであった。

 それは、アイテムだけが模倣され反復された過程で忘失された物語のシンボルとして少女が機能しているのかも知れない。だが、そうしたイラストの「語り」(設定)に於いて、「麦わら帽子」と「白いワンピース」という“喪失”のシンボルを二つも具備している少女が、そこで暗示されている運命を自ら否ぶ力を持っている筈は、先ずないものである。

 

 “オタク”がこうした喪失とトラウマのイメージに憧れるのは、ひとえに自身がその様なイメージを形成するだけの経験を積んでいないからだーーという様な意見は、先に触れたフォーラム以降のみならず、それ以前から散々に言われて来た言説の一である。

 ただ、その指摘は不十分であると思われる。何となれば、その喪失経験は個人その人がその対象の犠牲によって現在も自身が存在するのだーーと自己規定し得る程の強度のある経験という風な修飾が付け加える必要があるだろうからである。此処で重要なのは事象の不可逆性であり、それを以て喪失と見做す為に必要な条件である。であるからして、麦わら帽子に白いワンピースを着た少女というのは、そんな不可逆性のシンボルとも解し得るかも知れない。

 

 所で、ここまでで「白いワンピース」と「麦わら帽子」までは見て来たが、意図的にはぐらかしていた今一つの“アイテム”がある。

 「向日葵畑」である。

 これについては、元ネタとして例えば、北野武の映画が言及される事が間々あったものの、それも素材の一には違いないだろうが、今まで見て来たものと比較してみれば、そうした邦画のイメージの大元も、恐らくは日本で1970年に公開された映画『ひまわり』( I Girasoli 、イタリア・フランス・ソ連アメリカ合作)であろうと思われる次第である。

 この映画の中に登場する地平線まで広がる向日葵畑のイメージが、それを意識したそれ以降の邦画のイメージを経由して2000年代のサブカルチャーの一典型の背景となった……と考える方が筆者個人としては随分しっくり来るものである。

 ただ、そうして考えてみると、実はあの“白いワンピースを着た麦わら帽子の少女が向日葵畑の中に立つイメージ”は、決して喪失だけが描かれたイラストではないように見えて来る。

 過去の出来事を踏まえて、新たに人生をやり直そうとする人間の、割合前向きな(そして稍、大袈裟な)気分の表象でもあるようにも見えて来るものである。

 それは「白いワンピース」や「麦わら帽子」だけの状態からは導き得ない意味合いであり、故にその場合、延々と連なる向日葵畑の中に立った麦わら帽子を被った白衣の少女は全く「過去の人」のシンボルとなるであろう。

 

 なお、蛇足ではあるが、果たして近時の情勢は、以上本稿で扱った画題を決定的に“過去のもの”に、歴史的事物として変化させつつあるものと言い得るだろう。だが、変わらない点があるとするならば、それはあのイメージが「喪失経験とその反復」としての図像的意味合いである点に尽きる。

 そのシチュエーションで示唆し得る出来事の時勢は、何も過去ばかりではない。過去が現在や未来に変わった時、これらのイラストのキャプションは“Carpe diem”から“Memento mori”に掛け替えられるものだろう。だが、この文句はそもそも対であり、何方にしろ同じ事しか示していない。

 

 そして、もし、それが疎ましく感じる時には、果たしてイラストの背景は別のロケーションを選んだ方が良いだろうーーというのは蛇足の上の蛇足であろう。

 そんな気分の時に、どんな風景を描くかはクリエイターが各々の裁量に委ねられている。そして、その鬱積の中から今後、新たなイメージが成立するのを筆者は密かに期待していたりする。

 

(2022/07/29)

電話線の怪/『シェラ・デ・コブレの幽霊』

 大分昔にテレビ番組『探偵ナイトスクープ』で取材され、幻の恐怖映画として今日まで名前だけ本邦でも有名であった『シェラ・デ・コブレの幽霊』(1964)が、Amazonプライムで日本語字幕付きで配信されている。かと言って、この記事は別にステマでもない。

 期せずして、本作も電線・電柱映画だったので筆を執る事にした。これまでも、ホラー・スリラー作品で度々、シンボリカルに登場する電線・電柱はヒッチコックの『鳥』(1963)や、デヴィット・フィンチャーの『セブン』(1995)などを見て来た。

 

 『シェラ・デ・コブレの幽霊』は『鳥』と同時代の作品であるが、本作では『鳥』よりも露骨に、電線・電柱が恐怖を増幅する道具として登場している。

 死んだはずの母親から毎夜、電話が掛かってくるのに悩まされる男の元へ、ゴーストハンターが赴き事の真相を確かめる……というのがあらすじの『シェラ・デ・コブレの幽霊』であるが、電線・電柱はその母親が眠る墓所(冥界)と、男の住む屋敷(現世)を繋ぐ装置である。

 

 同作のオープニングは、墓場の風景が都市の風景に重なり、更にそこへ白波が押し寄せ、街を洗い流したかと思えば、浜辺の風景へと移り変わる。この辺りの表現は、恐らくはサルバトール・ダリの表現技法「ダブルイメージ」を意識したものであろうと推測されるーーその証拠というには弱いが、浜辺の構図はダリがよく描くカダケスの渚のそれに似ているーー。

 幼少期のトラウマやら神経衰弱やら何やらをふんだんに詰め込んだダリの創作活動は、そもそも彼のキャリアからして映画との親和性が高く、ヒッチコックが1945年に『白い恐怖』で彼を映画制作に招き入れるなど、後の映像作品に及ぼした影響は少なくない。

 『シェラ・デ・コブレの幽霊』もそんなダリやシュールレアリスムの影響を受けた映画の一つであろうが、故に他人によっては“難解”で退屈な表現が続く様にも感じられるであろう作品ではある。

 

 ところで、物語における表象としては、昔懐かしい黒電話の機械の方が、電線・電柱よりもずっと注目される。

 言うまでもなく、20世紀初頭から中期にかけての電話(固定電話)が芸術に与えた影響は広範に及ぶものであったが、中でもそれが一番、影響を与えたのは「人と人との心理的距離感」とその表現であった。

 ただ此処ではそれについて書くのは、筆者の能力が及ばないので割愛する。

 又、電話という装置の機能よりも、ここでは「モノ」としての電話について注目する動向について紹介したいと思っている。それは、受話器の形状と、専ら家庭でそれを使用する女性との関係云々について論じた大昔の文脈についての言及であって、そんなーー最近ではちっとも聞かなくなった(或いは、忘却刑に処されでもしたか)ーー言説の紹介でもある。

 

 テラテラ黒光りする受話器についての下世話な想像の文脈紹介はこれまでにして、今一つ、この電話機が『シェラ・デ・コブレの幽霊』で果たす役割について紹介したい。

 電話機のベルの音は、「早すぎた埋葬」によって、生きながらにして葬られた死者が、棺の中から鳴らす合図の音ーーベルの音ーーを想起させる。即身仏を目指す僧侶が生きながらにして棺桶の中に収まり、土中に埋まり、生きている間は鳴らしたという鈴の音と同じ様なものであるが、西洋の場合、その合図の信号は、火急的速やかに土中より生者を救出せんが為の合図の信号である。

 ウッカリ墓場で蘇生した人間が地上にその生存を知らせる信号を発する事が出来るような装置は、実際19世紀から20世紀にかけて措置されていたという。

 

 生きながらにして埋葬される恐怖に匹敵する話といえば、本邦では火葬場の窯の例が相当するだろうが、両者を比較するのは妥当ではないだろう。

 兎も角、そんな生き埋めの恐怖に応じて実際、地上との通信装置が設置されていた歴史がある西洋社会において、墓場から伸びた電話線によって伝えられた「死者からの電話」というのは、明らかに「現代化」された鈴の音に他ならない。

 

 死んだ筈の者の気配が地下から迫り来る恐怖は、ポーの『アッシャー家の崩壊』然り、古典的な恐怖の例といえる。

 そんな恐怖を、科学や工業の発達した現代文明社会のシンボルでもある電線と電柱が表象しているのは皮肉といえば皮肉である。

 それは何も、19世紀が今ほど身近だった1960年代だから成立した「設定」ではない。何ならその4、50年後にも「コードレス」になった電話でもって死者や悪霊の声が生者の耳朶を打つような映画が日本でも撮られたりしたのは、電話という通信手段そのものが持つ、人間に対して恐怖を抱かせる作用故にであろう。

 

 男は怪異に接して「生まれて初めて、目が見えないことに恐怖を感じた」ーーと語る場面が映画冒頭にみえる。

 ただ、考えてもみれば、誰しも電話で他人と交信する時は盲目である。最近は、コロナ禍の副反応で、漸く21世紀らしく「テレビ電話」を使った在宅勤務や授業も普及したきらいがあるが、それだけ技術的に進歩した社会では、アバターやディープ・フェイクといった方面の技術的進捗も目覚ましく、結句、「目に見えているありさまが本当ではない」という意味ではさして状態に変わりはないとも言える。

 寧ろ、この夥しい通信の絶えず交わされる状況にあっては、「幽霊」の存在はより身近になったとも言えよう。が、それに対する恐怖は今一、筆者には正直なところ、感じ取れないものである。

 というのも、矢張り先入観がそれを妨げるのである。

 幽霊は目に見えず、平凡な人間や特殊な状態にない人間には感知し得ないものだーーというのがそれである。又、そうした見聞きしたり、知り得ない事象を「幽霊」と呼ぶ事さえある位だから、全く旧弊な者である。

 

 「幽霊の正体見たり枯れ尾花」

と昔は言ったものだが、事今日に至っては

「正体見たり電線電柱」

と言うのが妥当かもしれない。

 

(2022/05/16)

直近アニメ電線・電柱事情

 2020年代に入って、と数えるよりも、“専門的”には「令和」と和暦を読む方が適当であろうが、兎も角、平成のアニメ作品ばかり取り扱っているのも稍、既にロートル染みている気がする。

 だが此処数年の作品について言及するのは、なまじフレッシュであるだけに口憚る所が少なくない。とはいえ、それは飽くまで狭い視野で生きてればこその自意識過剰であるーーと言えようものだから、自分でも少し反省の意味合いを込めて、少し書き出してみる事にする。

 

 順を追って書き出してみるが、別に筆者は兎に角アニメを必ず見て、その分析をする様な勤勉家ではない。其れ所か、リアルタイムで碌にアニメを見ない方である。だから「こんな事」をしている説明にもなるかも知れないが、ズラズラ書くだけの抽斗もない。

 

 『シン・エヴァンゲリオン 劇場版』(2021)は、最早電線・電柱アニメというか、太陽光パネル・アニメであった。とはいえそれは、嘗て2000年代頃まで未来社会を舞台にした作品に描かれた新しい魅力的な電源装置ではなく、一朝にして崩壊した世界の廃墟の中で、辛うじて露命を繋ぐ人々の小屋の上に据えられた「貧苦」のシンボルであった。

 『シン・エヴァ』の感想の中で多く見られた「落胆」と「失望」も、そうした太陽光パネルというモチーフの使用ひとつを取って見ても、宜なるかなーーと感じた次第である。

 それは確かに、旧時代の物語の終焉に相応しい、新しい使い方であり、それが如何にも居た堪れないーーと視えたとしたら、それは映画を観る人間が自身の現在的問題に向き合う場面に出会した、と受け止めるのが穏当だろう。

 

 発電装置でいえば、『アイの歌声を聴かせて』(2021)に登場した、海浜に建設されたダリウス風車群は、作品に相応しく、又『シン・エヴァ』とは好対照の「希望」のシンボルであったと言える。

 稍もすれば『エヴァ』は(こう言っては何だが)やたらと内容が深刻に過ぎる作品だという留保を、オタクはつい忘れてしまいがちである。道具や技術というのは人間が幸せになろうとして研鑽するものであるーーという前向きなテーマが終始一貫した作品は、(残念ながら)少ないのが現状である。

 電線・電柱も多数登場する『アイ歌』であるが、本作に於いてこれらは昭和のテレビアニメにありがちな、「昔ながら」の頼もしい存在である。ただ、その頼もしさは裏返せば主人公ら「子供」に対峙する「大人」の、世間のシンボルであり、その二面性も含めて非常にクラシカルーー懐かしい印象を受ける使用と言えた。

 

 「旧エヴァ」基「エヴァTVシリーズに於いても、此の電柱等のパターナリスティックな側面はあるにはあった訳だが、例によって「エヴァ」の中で描かれる親子関係は相当に拗れて破綻しているものであり、その“機能”が大分作品内で稀薄となっている。ハンモックの網の様に、あるのだかないのだか中途半端な感じを持たせる、或る意味で作中で描かれる親子関係・人間関係の象徴にピッタリな図像ではあるのだが、(くどい様だが)それは『エヴァ』の「個性」である。

 ポピュラーなのは『エヴァ』かも知れない。だが一般的なのは『アイ歌』の電線・電柱なのである。

 

 もう少しネタがあるかと思ったが、想定外にネタがなかった。致し方なく、Amazon プライムで観たテレビアニメも含めようとしたが、恐ろしい事に令和以降の作品は全然観ていなかった。猛省するべき点である。

 

 テレビアニメで最後に通しで観たのは如何やら、『恋は雨上がりのように』(2018)であった。電線・電柱が出て来そうだ、と見当を付けていたらドンピシャで、綺麗なシーンが幾つもある良作であった。

 今更調べると、知らない事ではあったが、物語完結直後に「炎上」した様であるが、その理由も方々に残った記事なぞ読むと、案の定の由からであった。

 強いて、前二者に寄せて語るなら、本作も一つの「典型」に則ったものであると言えるだろう。“あの”オチが果たして、何処までも中年男のロマンを体現したものであるーーという批判なら筆者も頻りに首肯するものである。……が、蓋を開けてみれば、何の事はない。何処までも「奥床しい」、読者・視聴者の悲愴慨嘆が縷々連なる有様は幾分筆者の目には奇妙に写った。

 

 これはアニメ作品に限らない話であるが、所謂、物語の結末に於いて主人公に「救いがない」と観客が口々に評する作品群の半分位は、「主人公に感情移入していた観客」が救われない物語の様である。詰まりは、主人公に成り切れなかった観客の鑑賞後のケアの問題と、物語内のケアの問題を区別していない、或いは意図的に混同して呈しているコメントが半分を占めている。そこから、物語内に於ける「論理の飛躍」を合意として共有出来る・出来ない同士はお互い観客の半分位だ、という事が言えるだろう。

 だからといって、何方が通であるとか、そもそも通であるか否かについて、映画を鑑賞するのに重要な事柄であるかは、甚だ疑わしいものである。映画鑑賞はスポーツではない。

 

 

 以上、筆者最近のアニメ鑑賞の記述から自身で言い得る事は、野次馬根性の露骨な奴である、という一事であろう。テレビやケータイ、スマートフォンのモニター・パネルの前で寛ぐ許りの、星新一が皮肉混じりにショート・ショートの中で描いた未来人の姿そのものとも言える。(但し、あれも仕事の前後に同時代の新聞とか雑誌ばかり読んでいる活字人間の風刺な訳であるが……)

  或いは又、理想主義的とも夢見がち、とも言える思考パターンの持ち主であるとも言い得るだろう。その様に安穏と寛いで作品を鑑賞する姿勢そのものが随分と時代がかった趣味である、とも思われる昨今である。とはいえ、これも強いて言うなら、“負け犬”の抵抗である。それは池に骨を落とした犬の強張り、とも言える。然り、中年男のロマンスも、昔ながらのポジティブな科学技術が切り拓く未来への憧憬も、古臭かろうが構わず現在に於いて享受する行為は、現状への抵抗と否定と映っても「致し方ない」。

 

 詰まる所が、人間を信じる事の象徴、人間性への信頼を鼓舞するアイコンであれかしーーというのが、個人的な表象への思い入れである。

 そういう偏見を持って見るものだから、自ずとそれに引き摺られて、作品の受け止め方も歪んで来る。

 『シン・エヴァ』に於いて破却され、宙空に投げ上げられ、クルクル回転するモービルと化した赤い鉄塔ーーこれを見た時、筆者はTV版のエンディング・ロールに映っていたアニメーションを思い出して震撼したーーは、或る意味で同作自体が作り上げた電線・電柱の「神話化」と、その「神話」の終焉を決定付ける画面であると判じた。それまで未来として語られていた時代は、現代にすっかり置き換わったのである。斯くなる上は、自身の立てた予想を踏まえて色々「覚悟」をせねばなるまいーーと筆者が思ったのは、丁度去年の今頃の事である。

 ただ、その予想について、わざわざ自身筆を割こうというつもりはない。何故なら予想は既にして眼前にあるからである。

 

(2022/05/05)

電線・電柱と『エヴァ』の潔癖

 日本のテレビアニメーション作品の特徴として指摘される電線・電柱は、文明の象徴であり、歴史的文脈に於いては文明忌避・自然回帰的なコミューン運動に対する抵抗の象徴でもある。それは屡々、“電線・電柱アニメ”の代名詞とされる『新世紀エヴァンゲリオン』の中で特に物語の中の文脈に於いて強化され、ピークを迎えた。

 

 高度経済成長期に於いて日本国内に続々と建設された「景観」としての電線・電柱は、戦後に沸き起こった市民運動とパラレルに存在した。自然回帰や文明非難の論調が高潮する運動の中で出来するのを眼下に収めながら、続々と建設された無数の構造物は、一方に於いて、潜在する消極的なソリダリティの象徴としても機能していた。

 

 『エヴァ』に於いて極端だったのは、自由恋愛に対する忌避感の表現であった。同時代的な評価では(或いは今日に於いても)、その忌避の対象は恋愛であるとされた。これについては、議論の当事者の自由に対する忌避感乃至警戒心の程度に比例していたものであろう。又、そうした方が政治的にも娯楽としての作品鑑賞の点でも無難であった事は明らかである。

 ヒッピーに代表される冷戦下の潮流は、「オタク」の形成のそもそもの原因である。だからと言って、安易に電線・電柱が対抗的な事物であった、という訳でもない。それよりも他にアイコンに相応しいものは無数に存在していた。

 尤も、そうした対抗的アイコンに対しても距離を置く形で配置されたのが電柱・鉄塔といった大道具、路傍のオブジェだったーーというのが筆者の見である。

 

 アニメに出て来る電線・電柱の解釈について、『エヴァ』を“要石”として捉えたとしても、殊更此の『エヴァ』の「抵抗」の意味合いは継承された、とは言えない。

 とはいえ、その(大雑把な)二項対立の間で俗に言う「第三の選択肢」を模索する人々の様子を描く物語の背景として、彼ら叉手する人々のシンボルとして、電線・電柱は『エヴァ』に於ける潔癖表現の手法的影響を受けているものといえる。

 

 2010年代以降、今日に至る近時の情勢は、然しながら、景観としての電線・電柱は対抗的文脈で担ぎ出される事が間々起きる様になった。更には、社会基盤の弱体化が電線・電柱の具有していたソリダリティの象徴的価値を顕在化しつつもあり、上述の系譜は1990年代から2010年代前半頃までの約20年間にーー謂わば、20世紀末とその余波の残っていた21世紀初頭に限定されるものだろう。

 

(2022/05/05)

文鎮三昧

 文鎮とは隠語で「形ばかりで実際には機能しないもの」を指す。最近では、動かないスマートフォンも「文鎮」というらしい。随分古風な言い回しだと思うが、差し詰め現場では代々昔ながらの言葉遣いが残っているものだから、それらを踏襲したものであろうか。

 そんな意味があるとは知らずに「文鎮集め」を趣味にして、他人にも話す内に妙な顔をする人間も何人か居た。今更その訳に合点が行ってもだから如何という話ではある。木偶の棒が文鎮集めを趣味にしているーーなんぞは、冗談にしても詰まらない、という話であろう。

 とは言え、文鎮は歴とした文房具である。意匠も材質も多種多様で、古今東西、金属やガラスだけでなく、黒檀や紫檀などの重たい木や、天然石を加工したもの、陶製のものまで沢山ある。

 

 重たく、掌に載せてずっしりと来る固くて丈夫なものは、文房具の中では文鎮だけであろう。

 だから、いざという時の備えに何でも取り敢えず「文鎮」としてさえおけば、取り締まりの目を掻い潜る事が出来るーーという悪知恵ばかりが世間に流通して、文鎮集めも半ば、その様な危ない趣味かの様に見られる事も実際少ない事ではない。

 ただ、それでも文鎮の扱いはマシな方であろう。

 兎角世間は何かあれば、先ず道具が悪いとしてこれさえ無くせば人間の根性も悪くならないーーという横着をしようとする。それも果たして、自分らにとって都合よく、物を「文鎮」に仕立て上げるのと同じ悪知恵を働かせた帰結である。

 ペーパーナイフもカッターナイフも、この悪知恵によって遂に人間を悪者に仕立て上げる口実になってしまった。果たして危険なのは、そんな悪知恵を考え出す人間の頭であろう。

 

 そんな事を考える内に、気が付けば机の上がオブジェだらけになっていた。然し、手元の文鎮は実際の所、実用には軽過ぎて向かないものばかりである。

 本のページが閉じない様、押さえに使おうとしても紙の厚さに負けてゴロゴロと転がって行ってしまう。飛んだシーソー・ゲームである。

 幸い、鑑賞には適した造形の品が少なくない。今日も筍とキノコの文鎮を鉛筆削りの隣に置いたらすっかり馴染んでしまった。「明窓浄机」からは甚だ程遠い机上である。

 

 筍もキノコも何だか秋の印象はするが、何れも春が旬の食材である。炊き込みご飯の印象も稍もすれば秋ばかりに傾くが、筍ご飯は春の味覚である。又、秋に生えるキノコも沢山あるが、空気が湿潤となる晩春から梅雨の時期にかけても山はキノコで犇く。

 何かしら、その時々の、折々に合わせた小物があれば良いーーと思う気持ちが、其れさえ在れば十分と言える様な代物に手を出す事を躊躇わせる。軽く打ち合わせる事で聴こえるコツコツと澄んだ音は、鳴らす事も併せて気分がいい。割合、そうして文鎮を目より手より、耳で楽しんでいる自分がいる。

 そうして、文鎮になりそうなものがゴロゴロと転がっている水際を想像するにつけ、余りのめり込むのは危ないだろうと思った。文鎮を求めて水に浮かぶなんて、冗談だけの話にしておきたい。

 

 思えば、こんな文鎮を収集する様な趣味は赤ん坊が最初に手にする玩具で遊ぶ様なものである。ガラガラやら積み木やら、或いはグルグル回るモービルやら何やらをもてあそび、見聞きして楽しむのと何も進歩がある所ではない。

 鉱物や動物の骨角、貝殻や木の枝を玩弄するのはよくいえば「博物学的」であろうが、悪くいえば、全く「前近代的」であろう。不潔不衛生、そして不経済ーーの誹りを受けても致し方ない。

 手書きの文に意味はなく、その内容こそが意味であり価値なのだーーとする今の時代に於いては尚更、文鎮なんてものは全く「無駄」で、ただでさえ生きていくのに狭い浮世の場所塞ぎでしかない。そもそも、赤ん坊にしても前以てその価値が見出されてこの世に産する様な場所が世間である。

 だが、そんな理屈が如何にも悪知恵としか思えない、又感じ得ない者が意固地になればなる程、その身辺に場所塞ぎの藩屏が増えて来るのは必然の理である。

 すると、最早、その場所塞ぎの文鎮は矢張り、「文鎮」なのではないかーーと勘のいい人は直ぐ気付く筈である。そこに余計な、それこそが「無駄」である口実を見出した時点で、文鎮はもう文鎮の正体をなくしてしまう。而して、そんな事は断然あってはならない。

 文鎮のキノコや筍が似ても焼いても食えない様に、旬のキノコや筍が机の上に転がっていても、それは後刻、食卓に並ぶ品物である。

 品物には其々、相応しい場所があるというものだ。

 

(2022/04/28)