カオスの弁当

中山研究所blog

2020-01-01から1年間の記事一覧

馬鹿馬鹿しい事柄について

概して馬鹿馬鹿しい話というのは、必ず「語り手が」言わんとするところのものがあって、結局、それに誘導される事への不快さの元である。ただ、注意されたいのは、聞くところ見るところ、馬鹿馬鹿しい話の感想というのは、「語り手」の浅ましさに起因するも…

如是閑の犬、或いは…

(初出:同人誌『XIMAIPA/キマイラ』2020年11月22日号) 【記者=サグ・ンペンペ/胡韻】 『ニーチェの馬』というタイトルの映画がある。未見だが、別にニーチェが出てくるとか、そういう訳ではないらしい。彼の最期に纏わる逸話に触発されて制作された、彼の思想…

仰熒睨寱

自販機は夜更し人間の止まり木である。 帯に短し襷に流し、首を括るには丁度よしという塩梅の大昔に流行った黒くて長い蛇みたいなマフラーを二つ折りにして、その折り目に端を潜り通らせて、ぐるりと巻き付けると、何やら随分と髪を伸ばしたような心地になっ…

口先三寸

人間誰しも少なからず、自分の見ている世界の完璧性を疑わないものである。完璧などということは、即ち自分の見ているものの有り様それ自体なのである。そこに更に「完璧」と呼称し得るものがあるとするならば、必ずその状況には異常の出現が想定されている…

内田百閒『旅順入城式』『蘭陵王入陣曲』

内田百閒の小説のタイトルは外連味のあるものばかりだが、全体作品は軒並み外連味しかない香辛料みたいなのばかりなのだから、却ってそれが正直であり、だからこそ受けるのだろう。 コーヒーでいうとマンデリンのようなものだが、中でも、特に外連味の塊なの…

如是閑と文化勲章

毎年自ずとこの時期になると筆者(本稿筆者)が心身共に調子良くなるのは、文化芸術の秋云々の刷り込み教育の賜物であろう。学校教育の効果を、この歳になると熟感じる。 また、この「秋」は、自尊心の回復期に当たる。幼少期の刷り込み教育のそれと対になるの…

回数券雑景

2020/10/24 Mのドリンク回数券、6枚綴り今日使い切る。最後に飲めるコーヒー、やけに上手く感じる。白き泡浮かぶ。口当たり良し。 先日都内散策中に足の裏傷める。翌日、翌々日も痛むが、日中ずっと机に向かっているばかりなら、痛むのにも気付かず。立ち上…

ノスタルジックになるまで/日本アニメ電線・電柱考

はじめに: コミュニケーションの道具というのは、人やモノの交通を援けると同時に、妨げるものでもある。「電話」もその一つである。もっと言えば、言葉それ自体もそうである。 また、交通はそれが直接的であればあるほど、その暴力性を露わにしていく。時…

電気が隔てる内と外/日本アニメ電線・電柱考

はじめに: 電線と電柱がアニメの中でどういう意味を持つのか、という事を考えるのに、差し当たり、用意しておくべき「問い」は、電線と電柱は何のシンボルなのかーーというものだろう。 これについて、筆者はひとまず「電気」と「電話」のシンボルだ、とい…

懐中時計と書棚

東洋時計の懐中時計は、国産最後の懐中時計と呼ばれている。五百円玉を二回り大きくしたくらいのサイズで、厚みはコンビニで売ってる和菓子のア・ラ・カルトの中に入ってる茶饅頭ほどである。 これともう一つ、最近手に入れた商館時計を見比べると、後者の大…

シールとバーコード

子供の頃に、スーパーとかで親が買ってきた野菜や惣菜の値札や商品シールを剥がして、腕とか服に貼っていると叱られたものだった。肌が痛むからとか、服につけたままで洗濯機の中に放り込まれると厄介だから、とかそんな理由からであったが、今から考えると…

コスプレから作業服へ/長谷川如是閑初期文芸作品に託けて

背広はサラリーマンの作業着である。成る程、其れならば、背広の格式なんぞはすっかり作業の過程の中に繰り込んでしまえるから、着心地は大分改善されるものだろう。 人間、着ているものに相応しいものに身を包んでいる奴は先ずいないーーとは、若き日の如是…

22世紀外観

タラップから降りた人間は、単なる人間である。馬の上の人間は単なる馬の上の人間に過ぎず、それがどんなものかという経緯については、さして誰も関心がない。 概して人間という奴の関心が行く場所は決まっていて、やれ鼻の高さはどうだった、だの、目の色は…

カント時計の謎

カントの規則正しい散歩についての逸話は恐らく創作だろうが、彼自身の散歩の習慣については、実に最もらしく思われる。 ただ、その散歩をしていた時期がいつなのかは甚だ怪しいが、これは創作者の爪の甘さ、設定の不確かさに由来するものだろう。 鬱屈とし…

勘所

「機械の性能が向上した結果、人間に残されたのは、箱に物をつめるだの、そんな仕事だけになってしまった」 と、ある漫画家が云った。 成る程、立派な仕事をしている人は言うことが違う、豊かな想像力の持ち主だ、と素直に感心した。 ただ、感心するだけであ…

ラムネとかんぴょう

甘い巻きものであるかんぴょう巻きは、子供時分には得意ではなかった。 米の飯であるところのおかずに甘いものを食べるのに慣れていなかった所為である。 同じ理由で、花でんぶも得手じゃなかった。 最近、それらを平然と食らうことが出来るようになったのは…

山と如是閑(3)

私自身は針ノ木峠という名に一種の憧憬を持っていた。 (中略) この荒廃の感じは、この峠が明治の初年に加賀藩の士によって一度開かれたことがあるにもかかわらず、その狭いつとはなしに荒廃して、初期の外人山岳家などは多くこの峠を登山術を超絶した険路…

山と如是閑(2)

如是閑は屡、ディオゲネスを作品の中に引用、或いは登場させる。また、そのシンボルである樽が小道具として、或いは人間を翻弄する要請的存在として登場する小話が、『山へ行け』が収録されているエッセイ集『真実はかく佯る』(1924年)には収録されている…

山と如是閑(1)

長谷川如是閑(1875-1969)に、『山に行け』というエッセイ(1919年)がある。 「登山の期節が来た。」という緒言で始まる短い文章は、前年、大阪朝日新聞社(以下、大朝)を退社してから彼が、同じく大朝を退社した丸山幹治、大山郁夫らと共に創刊した雑誌…

鯨とひとりもの

浜に一頭の鯨が座礁した。瀕死の鯨を沖に戻す謂れもなく、又食うでもなしに、浜辺の近所の住人は、普段、釣りばかりしているひとりものに、鯨に止めを刺して来るようけしかけた。 渋々、モリを持った男は、自分がモリで突き刺されなかっただけマシだと思い、…

外で物を食うこと

買い食いが好きで、人と出かけている時にでも平気で物を買って食べる。人によってはそれは大分な顰蹙物であろうが、自分は歩きスマホぐらいに買い食いが好きで、その所為で二十歳を過ぎてから体重が随分と増えた。 今日も又、仕事帰りに買い食いした。 買い…

銀象嵌星月夜銅丸矢立(ぎんぞうがん-せいげつや・あかがねまるやたて)

矢立を買った。酢水に漬けて錆をとる。 梅雨が明ける、その前に出掛け先へ手挟んでいく手頃な物が一つ欲しくなった。 そんな所に、偶々目に入った品があった。いつの、どこのものなのか定かではない。銘はどうにか龍文堂造と読めたが、真贋は然程問題ではな…

いづれバッシングされる缶コーヒーについて

そう遠くない将来、缶コーヒーやらエナジードリンクやらが、危険な飲料として槍玉に挙げられることがありそうな気がする。だから、それより先に何か色々思うことを書き残しておく。 土台、そんなものを飲んでぶっ倒れるまで遊びたいのに、遊ぶ時間がない、休…

乾電池と充電池

乾電池は、子供達を家庭という共同体から解放した。携帯ラジオや懐中電灯を手に子供達がサバイバルに繰り出す事が出来るようになったのは、果たして安価で扱いやすく、直ぐに使えて保存も利く動力源を手に入れられたからに他ならない。 他方、充電池は、大量…

写り込んだ景色(アニメ電線・電柱考)

「神は細部に宿る」というが、詰まりは「こんな細かい所まで作り込まれているとは、とても人間ワザとは思えない」という感想が、何やら本当にお米の一粒に七人の神様が宿っているような意味合いで捉えられるようになったりしたのだとしたら、言葉とは矢張り…

ベイビーヤモリとアブダクション

路端でヤモリを見つけた。小指の先から第二関節までの大きさしかないが、立派な爬虫類である。 夜中、光に集まる習性を持った羽虫が狙いだったのだろうが、人通りの多い道路に現れたのが運の尽きである。あわや、踏み潰されかけた訳である。 保護色が余計に…