カオスの弁当

中山研究所blog

伝染する悪夢/【批評】『ポプテピピック』(アニメの方)

 

 あんなもの、なにも知らない人間が見たら、只々気狂いの悪夢である。

 しかし、他人の夢なんて、大概そんなものである。元々の意味も文脈も知らないような出来事が、一旦バラバラにされ、更に再構成されたようなものなんて、掴もうと思っても、そこにはどんな容量も見出せないのが普通である。

 

 大概、批評というのは、素面で書かれたものを対象とする。

 で、その素面で書かれた筈のものから、実は、どう考えても素面じゃ言えないようなことをシレッと書いてるよねー、実は......みたいなことを、訳知り顔で抜かすのが(かなり乱暴だが)筆者の批評という行為に対する理解である。

 所で、アニメは果たして、素面でなければ作れないものである。

 なお、ここでいう「素面」とは、言葉の意味が明瞭である事を指して言っているのではなく、専ら、音として、記号としてクリアである事を指している。詰まり、それを読んだり書いたりしている人間がどういう積りで、何を考えたりしているかは別として、文法的な誤りとかもなく、どれだけ内容がアレだったとしても、淀みない文章や、狂いのないデッサンに見出せる明快さがあるのを示せる事を以って、「素面」と此処では呼ぶ事にする。

 

 アニメ「ポプテピピック」は、果たしてかなり高度な技術によって支えられた「素面」の作品ではあるけれども、果たして、映像自体は、宛ら、今敏の映画『パプリカ』で再生される精神病患者の悪夢の如くに破綻した、言葉の地獄絵図を展開している。

 『私の夢が犯される』

とは、同映画のキャッチコピーであるけれども、これは正しく、「ポプテピピック」についても言える事である。満載されたパロディも、元ネタを見たり読んだり聞いたりプレイした事のない人間からしたら、身に覚えない、他人の無意識に澱の様に沈んだ無数の記憶から生じた、支離滅裂な映像に過ぎない。

 

小山内   「きっと所長はサイコセラピーマシンで患者を治療中ーー」

時田       「DCミニで侵入された。そして、気付かない内にこの夢を、識閾下に投射された」

 

時田  「でも、その為には――」
千葉*   「犯人も、この悪夢を見続ける事になる」


時田  「捨て身のテロだなぁ……」
小山内 「テロは捨て身ですよ」

*:千葉――主人公・敦子の姓
映画『パプリカ』2006,監督・今敏

 

 果たして、「ポプテピピック」が、公共の電波を使ったテロなのかどうかは別として、元ネタをよく知らなかった人間には、気狂いの夢並みに危なっかしい作品である。

 初めてその作品を知ったきっかけが「ポプテピピック」だったら、否応がなく、あの縦横に潰れた饅頭顔が浮かぶことになろう。

 なまじ、確かに「免疫」のない子供の内に見せるべき作品ではあるまい。

 

 先の理屈に従えば、無辜の視聴者の識閾下に投射されたポプ子とピピ美という悪夢に延々苛まれているのは、製作者達自身であると言えそうだが、実際如何なのだろうか?

 それは兎も角、本アニメにおいて、特筆すべき注目に値する点と言えば、何よりその声優の起用の仕方であろう。

 これは、屡々論われる「中の人」を、そのまま、ネタとして採用したものであろうが、果たしてその事が、意図されていたかは不明であるが、結果としてその効果は、批評的にも注目に値する程度のものとなったといえよう。

 

 即ち、ポプ子・ピピ美は、屡々キャラクターを食ってしまう「中の人」を、アベコベに「食って」しまったキャラクターなのである。

 これは、それまでのアニメキャラクターの内では、「カオナシ」に見られた特徴とよくよく合致する。

 

 果たしてカオナシは、劇中において、同じく登場するキャラクターを食べて、その声を奪っていったが、ポプ子・ピピ美に到っては、決してクロスオーバーなんぞしていないのに、他作品のキャラクターからその個性でもある「中の人」、即ち声を奪って、アニメ自体を完全なパロディ作品に仕立て上げてしまったのである。

 蓋し、アニメは、視聴者もよく知る他作品のキャラクターが、無理矢理にあの、へちゃむくれの人間離れした「何か」に改造されて、演じられているかのようでもあるが、それは果たして、否であり、実態は、ポプ子・ピピ美がそれらに擬態して、声までもあざとく真似ているーーという様に解した方が、果たして作品世界のお約束的には適っている事だろう。

 

 「ポプテピピック」の作品・物語の世界観は、強引に結論付けるならば、

カオナシが見ている夢』

とでも言えようか。

 それは、果たして「自分らしさ」というものを持たないーー「カオ」(顔)を持たない化け物が見る夢であるから、彼(?)が恐らくは欲して止まない、顔や声ーー即ち、彼を他と区別して、際立たせる、個性が選り取り緑、ある状況には違いないのである。けれども、やんぬるかな、彼がそれを得ようとすれば、それは否応無く、ポプ子とピピ美に化けてしまう。

 カオナシが手から作り出した金は、金の様に見せかけた土塊であった。

 果たして、その夢の中では、金自体は手に入ったものの、それは土塊の如き奇怪な相貌を湛えた金なのであった。

 それはきっと、カオナシにとって、堪え難い悪夢に違いなかろう。

 

 カオナシの正体については、果たして劇中でも、またその後も確定した正体は明らかになっていない。

 しかしながら、その「何ものかの声を借りなければ話す事もできない」特徴は、果たして、今日でも屡々見受けられる、何かに託けて、或いは無理矢理他人の発言や、他所の出来事と結び付けてしか、わたくしというものを表現出来ないような人間のメタファーではないか......なんて、筆者は以前から勝手にカオナシについては考えてる次第であるから、本稿においても、この考えを準用して、以下の如く、「ポプテピピック」について纏めたいと思う次第である。

 

 蓋し、「ポプテピピック」において表現されているのは、ひたすらにコンテンツを消費をする以外に楽しみを知らないオタクの無意識そのものであると言えよう。

 そもそも、今日的な意味合いで「オタク」と呼ばれる消費者は、矢鱈滅多ら新しいものばかりを追いかけて、結局、何一つこれといって特別大切なものも、価値観も持たないし、持てるだけの何か熱意みたいなのもないが、しかしそうした持っていること自体には激しく憧れ嫉妬して、それを持っている他人に危害を加えたり、あわよくば自分がそれを分捕ろうと画策する、恐るべき、飽くなき蕩尽者である。其の癖、千(千尋)の様に導いてくれる人も、銭婆婆の様に迎え入れてくれる人も持たないで、ひたすら、居処もなくフラフラとしている、満たされることのない自身を憐むべき存在と見做して決して自律することもしない。取り敢えず、今期の中から目乏しい物を探しては、飛び付いて、散々食い散らかして、一時的には肥え太るやもしれないが、結局、反吐してしまい満たされることはない。

 近頃は、そんな手合いを「承認欲求の塊」という風に言うそうだが、果たして一言でこう言って通じるならば、その方が都合がいい。

 そんな手合いの夢に出て来る、彼ら自身のメタファーこそが、差し詰め、ポプ子とピピ美であるーーと言えそうである。散々、ネタに走った馬鹿騒ぎを繰り返す事位で他に何もしない。それ自体、何か特別意味もある様でなければ、果たして、そのぽっかり空いた虚無は、豪華偉大な声優陣の演技を以ってしても埋める事が出来ない。

 面白いが、果たして、何処までも退屈凌ぎでしかない。蓋し、クスリと比較して論じた海外の視聴者の見解は、正鵠を射ている。

 

 しかし、世間では能くこう言われるではないか。

覚醒剤やめますか? それとも人間やめますか?』と。

 しかしながら、「オタク」ならきっとこう返すのだろう。

 

 『おれは人間をやめるぞ! ジョジョーーッ!』

 

 それならそれで結構な事であるけれども、だったら、心臓に杭を打たれても後悔しないで貰いたいものである。

 杭だけに。

 (H30/2/3)

 

【捕追:作業中BGM】

https://m.youtube.com/watch?v=hs22Smspn9w