カオスの弁当

中山研究所blog

外で物を食うこと

 買い食いが好きで、人と出かけている時にでも平気で物を買って食べる。人によってはそれは大分な顰蹙物であろうが、自分は歩きスマホぐらいに買い食いが好きで、その所為で二十歳を過ぎてから体重が随分と増えた。

 

 今日も又、仕事帰りに買い食いした。

 買い食いは基本、持ち帰りである。以前から簡素な方が有難かったが、此の頃は歳の所為もあり、余り粗末な様では自分自身、心苦しく感じる事が多くなった。食うものと食われるものが、あんまりにマッチしているとむごさが表に出て居た堪れない。

 見た目とのギャップのある方が、買い食いは見る分にも気楽である。

 何でもそうだが、掌返しという手法は、相当に感情に訴え掛けて来る。手酷く遇らわれた後の歓待なぞ、大抵、旨いものが用意されている。大抵の人間は其の反転に丸め込まれて抜け出せない。買い食いはそんなコントロールの下から逃れる、良い手段でもある。

 

 昨今、人と会うのも戸外で素顔を晒して過ごすのも駄目だというので、以前にも増して気を遣うが、何分、そうした無駄遣いを含めて、遊ぶ事をきつく誡められていた所為もあって、何よりその謀反の楽しさが先んじて、何かしてる最中に、不図兆すと、その後でつい店に行って、買っては直ぐに食べ付けてしまう。手提げ袋の出番は分秒に満たない。

 

 買い食いは常に立ち食いである。最近は歩きながらでも食べられるようになった。しゃがんだり、地べたに座ったり、壁に寄りかかったりして食べることは出来ない。塀や柵に腰掛けるのは、場所と天気によって出来たり出来なかったりする。飲み物の場合でも同じく、である。

 また、その際は、出来る限り旨そうに食べる事にしている。また、「ポイ捨て」などという事は絶対にしない。余す所なく、全部食べる。実際、自分で美味いと思うものしか食べないようにしているから、それは守れているつもりであるが、傍目からしたら気味が悪いのには違いなかろう。なまじデレデレと幸福面を下げた人間なぞ、気色悪くて仕方がないものだ。

 

 生きている間で、恐らく葬式の時と同じくらいには飯時の事を大切に思っている。食事をすると言う事は、文字通り、生きる事と同義であるからだ。買い食いをする様になってから、以前にも増してそんな気分が高まってきている。お陰で余計に面倒臭い人間になってしまった。

 

 買い食いの味を占めたのはいつの頃からだか、分からない。ただ初めは、例えば高校の帰りに天気の日に和菓子屋で鶯餅を買って、駅前の藤棚の下で食う位には慎ましく抑えていた。然し、そう取り繕うのにも段々と嫌気がさして来て、軈ては道路沿いを歩きながら、コンビニの食パンを一斤、其の儘食えるようになった。それも漸く大学に入ってからの事であるから、大した度胸ではない。

 物を食う事に対して、自分は全くプラグマティクである。味を占めたればこそ、その思い出は文字通り甘美な記憶として鼻舌に記憶される。であるからだろうが、終いには一々言い訳を用意するのが面倒になったのだーーと、言って置きながら、斯くの如く、冗漫に書き綴っているのは、紛れも無い言い訳である。

 

 自分の思い出は、尽く嗅覚と味覚と、それに付随する諸感覚で粉飾されている。良い思い出というのは、先ず美味い物を食った思い出ばかりである。

 嘗て知り合った人の容姿は鮮明に覚えてはいないけれども、其の家に招かれた所で振る舞われた、昨日の残りだか何だかという言い訳と共に供された冷凍ご飯の味や匂いというのは、歯応えまでありありと記憶している。

 寛容な、言い方を変えれば「馬鹿」な舌は、幸いにも、その大雑把な性格故に私よりも随分と人当たりが良い。鼻はそれに比べたら些かか人見知りをする。でも、舌の馬鹿さ加減を考慮したら差引きゼロになるだろう。

 その馬鹿な舌のお陰で何度、苦労したか知らない。今迄に丸め込まれた事は何千回とある。

 又、別の日に、確かコミケの帰りに上野に寄って、一緒に行った人と話しながら不忍の池の畔まで歩いて行った先に、車輪の付いた古風なおでんの屋台があって、其処で自分は卵と大根と餅巾着を食べた。学生ではあったが、何故か公務員に間違われたのは覚えているが、肝心の同行者と何の話をしたかは、これも又、覚えていない。

 其の後、其の同行者とは一悶着も二悶着もあったものだが、自分としては何が何でも此の人物に纏わる一切の記憶を払拭し切れないで今に至る。

 

 反逆児たる大脳新皮質に対して、原始より生物の根幹たる消化器官及び諸感覚器の統合的包囲網は、恥も外聞も捨てさせる事によって、生の旨みという奴を徹底して自分に体験させたのであった。喜びという奴は、ただ其の随員に過ぎないのだ。

 此処にあるのは、朗らかな絶望である。

 そんな絶望に腹を空かせていた十代後半から二十代前半というのは、始終死ぬ事ばかり考えていた。其の癖、疲弊して常に空腹であったから、何でも幾らでも食える気がして、実際よくよく食べ、食い切れないという事は先ずなかった。

 胃袋の上で文字通り踊る大脳は、よくよく食べて胃袋を満たしたが、例外もあった。大学の近所の坂の下に在るラーメン屋の唐揚げ定食は、白飯をいつも癖で大盛りにして、唐揚げも欲張って七、八個注文するのだったが、結局自分一人では食い切れず、同じく憔悴したメランコリアの友人に白飯を半分は食わせて、毎度事なきを得ていた。彼も又、相当に大食漢でしぶとい奴であった。

 

 そんな胃袋にも、寄る年波がやって来た、と感じるようになったのは、ついこの間の事である。色々、止めたり休んだりした所為か、エネルギーを消耗しなくなり、年齢相応の高燃費率が食欲を慰撫して、沢山食べたいと思わなくなった。

 奇妙なもので、そんな欲求の減衰は他の、例えば精力の減衰の場合は、全く、如何にかして復興しようと世人は気張る所なのだろうが、食欲の場合はそれと比べると当事者意識は冷淡なものである。かく言う自分も初めは、ただ「ああ、そんなもんか」で済んでいたし、又済ませていた。

 だが、この食欲沈静に伴い、自分の面倒臭さは輪をかけて向上した。それは飲食を通じての幸福の著しい減衰に他ならなかったからである。

 以前なら、テレビの序でに飯を食う人間相手にも、自分の碗と皿の上だけに意識を集中して食えるのが特技でもあったのだが、それが出来なくなったのは、買い食いに加えて他所様と会食する機会が増えた所為もあるだろう。近時では其れすらも封じられ、楽しみの少なになるのも甚だしいのであった。

 なまじ楽しみを覚えた後の方が、辛く感じる事も多くなるーーというのは、食事についても言える事らしい。前頭葉の機能は衰え、僅かの刺激で感傷するようになってしまった。

 

 そんな風に落ち込んだ気分を回復させるのにも、買い食いは欠かせない。

 散歩、喫琲、そして買い食い、歩き食いである。

 大概の人間は、食べながら歩いている者からは目を逸らす。人が物を食べている様子を凝視しない、という礼儀以前に、物を食べている間、自分という人間はそこに居るものとして扱われないのだ。

 そんな自分の目に映るのは、敷石の上に干からびた蚯蚓の死骸を引っ張る蟻やら、腹を抱き抱えるようにして地面にへばり付いて動かないカナブンやら、植栽のゴミである。

 

 今日はハンバーガーにしようか、それともパンにしようか、と迷った末に、夕食前である事も考慮してフライドポテトだけ買って帰ろうと決めてカウンターの前に立つと、レジの傍から赤い半透明な、大人の小指の爪くらいの大きさのゴキブリが現れた。

 コソコソと忙しなく触覚を振ったりするでもなく、又、ジグザグに動いて走り回る様子でもなく、ただ目の前に現れて、メニューの上を逡巡した。

 大体、十五秒位か、自分は黙って其の様子を凝視していた。

 軈て、自分に気付いた店員が、クローズの手を止めて奥から此方にやって来た。ゴキブリはなおもゆっくりと動いていて、カウンターの上にいた。

 自分は店員の反応を伺っていた。恐らく、彼女の目にも其れは映っていたに違いない。だが、出来れば自分は其の存在を彼女に指摘したくはなかった。

 一度も目を合わせない、黒縁眼鏡の従業員は、先程まで居た現場のパート従業員と同じく息吐くようにしながら注文を取った。自分はもう遊びで来ているが、窓口の向こう側は未だ仕事の真最中である。だから、何も気を悪くするような事はなかった。虫は、メニューの下に姿を隠して、それっきり姿を見せる事はなかった。

 帰り道、自分は、虫を見る様な目つき、というのは、正にレンズの向こうの彼女の目、そのものであるーーと揚げたてのポテトを摘みながら一人合点が行って得意になった。

 敢えて言うまでもないが、色といい大きさといい、其の仕草に何ら人の気持ちを害する所のない、透明な珊瑚の翅を担いだ甲虫と、塩の吹いたワイシャツを着た無言の客は、何方が問題かといえば図体の大きい方が問題に決まっている。

 関心を持てるだけの対象というのは、其れ丈未だ人間にとり許容出来る存在なのだ。其の域を大きにも小さきにも過ぎて仕舞う代物は、其の目が先ず補えようとしない。落ちたポテトを拾い食いする事がないように、閾値の外に出てた分については、人は敢えて其れを追おうとはしない。其れは、無意識的な追放である。

 若しも戸外で物を食べる行為が諌められる由縁に、其れが乞食なりホームレスなり、或いは分別のない人間のする行為だからだ、という暗黙の了解があるとするならば、自分は其の作法を遵守する事を躊躇するだろう。又仮に、其れが「戸外である」事を問題としているのであるならば、自分は往来を歩く以上は、通行人に向かって自分家の敷地から石を投げる様な素振りにこそ眉を顰めて、団子でも食べるのであるが、大方はただ倣いを守って過ごしているだけなのであって、理由も明らかではないのだ。

 あるとするならば、其れは各人が自身の暗黙裡に打ち立てた法と世界があるのであって、皆其の城の内に籠もっているのみであろう。自分も、飲んだくれ等に対しては屹度、随分な眼で睨んでいるに違いないが、睨むのは、未だそこに彼彼女が居ると思えればこそ煩わしく感じるが故にである。其れが全く沈黙して動かなくなって仕舞えば、元より縁もゆかりも無い相手である。感情の起こりようもない。

 兎角、弁明は用意しておくに損はないが、そんな憂いの裏付けをせねばならぬ境遇というのが、迷惑でもあると同時に何より有難いと感じる時点で、自分は果たしてゴキブリを無視した店員と同じ地点に立つ者である。

 

 だが、そんな反駁材料を用いる暇も無いのが現実というものである。

 脳に目鼻の付いたものが我ではなく、目鼻の先に脳があり、その脳は胃袋の従属物に他ならない。其れが私の自己認識でもある。

 鑑みると、買い食いは、そんな胃袋や目鼻の楽しみであるよりかは、従属物に如かずな境遇に鬱屈とした脳髄の憂さ晴らしであり、肉体に対する反抗であるように思われる。

 買い食いは、本当に美味いものを食べるのではない。必要だから食うのでもない。だが、贅沢でもない。

 人間の未来には、願望と宿命、此の二つがあるーーとはバナールの言であるが、自分の買い食いは宿命からの脱走であり、又願望からも遠く離れて動きたい、という意識の表出ではあるまいか……?

 

 そんな事を頻りに考えていたら、家に帰る前に腰を据えて確り、考えたくなったので、公園に寄り道して、ベンチなりで時間を潰そうとした所、目を向けた階段の上に、黒い大きな犬がタランと耳を提げ鼻を此方に向けて立っていた。

 急いで見渡すと、植え込みの向こうに飼い主らしい女性の顔が見え、犬も如何やらリードを付けた散歩中の只の犬である事が分かったが、然しながらすっかり怖気付いてしまった。

 二つ信号を渡る間に、ポテトはすっかり平らげた。

 

(2020/08/06)