カオスの弁当

中山研究所blog

山と如是閑(2)

 如是閑は屡、ディオゲネスを作品の中に引用、或いは登場させる。また、そのシンボルである樽が小道具として、或いは人間を翻弄する要請的存在として登場する小話が、『山へ行け』が収録されているエッセイ集『真実はかく佯る』(1924年)には収録されている。(『十返舎一九のロジック』、『酒樽と人間』)

 そして、樽の他に、彼がこの賢人を想起させるモチーフに胎児がある。

 ディオゲネスと長谷川の関係は、戦後、彼が文化勲章を授与された翌年の1950年に再版された『真実はかく佯る』(朝日新聞社)の冒頭に冠された『英雄と民衆と真理』(1919)によって、アレキサンダー大王に象徴されるオーソリティに対して、動じることのない哲人・ディオゲネスとを長谷川と対照させる形で強調された。だが、この『英雄と…』は、初版である1924年『真実はかく佯る』(叢文閣)には収録されていない。

 1924年版の巻頭を飾るのは『野蛮人のイニシエーション』である。これはタイトル通り、世界各地の「野蛮人」のイニシエーションについて、その社会の成員として若者を迎え入れる為に行われる通過儀礼についての彼の考察が示されている。

〈……〉その苦行は残忍な肉体的苛責であったり、魔術による精神的苛責であったりする。それは極端な禁欲と耐忍とをその青年に要求して、彼れをして垂死の状態に到らしめ、依って彼れの肉体を物質的に又精神的に空虚ならしめて其の空虚になった肉体に、其の社会が作って置いた典型的『部落民たる素質』を填充せしめるというのが、此の儀式の要点である。

このエッセイは、上の考察が最初に述べられた後、具体例として各地の儀礼についての扇情的な記述が続く。そして、「こういう話を、我等はたゞ野蛮国の話として聴くことが出来たなら、此の上もない仕合せである」と締め括る。

 

 戦後に導き出された如是閑のディオゲネスは、例え世界を支配する大王がやって来たとしても、怯むことのない真理の保持者、知識人のシンボルである。

 だが、如是閑のディオゲネスは大正期に於いて、通過儀礼を超克出来ず、一人世間に憚る事になった挫折者の権化であった。

 『山へ行け』執筆の翌1920年、『新小説』4月号に掲載された『低気圧前後』の中で長谷川は『臍のない人間』という小話を披露している。これは「臍のない人間」という存在についての思考実験である。

自然は過去に役立ったものの痕跡を、何等の形で永久に残すものだ。それを取り去れば、又他の形で痕が残るのだ。そんなことをするのは無駄手間であることを、人間の臍に於て、人間に教えているのだ。

臍のない人間は、産まれて来ない。産まれた人間には臍がある。

『臍のない人間』の考えで、私は失敗した。

 長谷川は文の最後で、「臍のない人間」が実現不可能な産物であるとして、敗北宣言を行っている。「失敗した」という語は、あたかも人造人間の創造に失敗した科学者の如きであるが、それは大正という時代状況を踏まえれば強ち奇異なものではない。

 如是閑の樽とディオゲネスの寓意は、果たして大正年間に至って、発生学的モチーフに変化する。人力車夫に礼を言いながら錢を渡す樽や、侍から頓智で酒代をせしめる町人の潜んだ樽は肉体のアナロジーであると同時に、中に人間を懐胎する子宮のシンボルでもある。

 

 サンフランシスコ講和条約に日本が調印した1950年に刊行された『ある心の自叙伝』では、『序説 胎児時代』なる章が設けられている。前年に文化勲章を授与された長谷川は、吉田茂政権下に於ける桂冠詩人的地位を獲得していた。 

 『胎児時代』は、嘗て『我等』に掲載した文章からの引用をその導入としている。

「私の居処がだん〴〵狭くなって、育って行く私には、もう堪え切れなくなった。私の進退は円く圧迫している周囲のヌラヌラした壁は、もう私に不快な邪魔物になった。私は運動を求め出した。それにはもっと広い空間と、多量の空気とが必要だった。」

 如是閑の長いキャリアと生涯の中では、『ある心の自叙伝』以外にも自伝的回想を記した文章は幾つか存在する。例えば、1926年に「中央公論」に発表された『アンチ・ヒロイズム断片』は、副題を「私の有史以前の記録の数節」として『胎児時代』と同じアイデアの下で執筆された事が分かる。胎児時代の記憶――というアイデア自体は、夢野久作三島由紀夫の小説などにも見られ、如是閑だけの特徴ではない。また、こうした生物学的、発生学的モチーフも大正年間にかけて科学的知見の普及と進歩に対する芸術の反応だったと言える。

 話を『ある心の自叙伝』に戻すと、果たしてこの『胎児時代』に於いて述べられている回想には、各地を巡った紀行文の作家として、特派員として海外や険しい山脈を踏破した探検家として、そしてジャーナリストとしての回想を垣間見ることが出来る。 

 冒険家になった私は、もう甘い汁の出る肉の丘に閉じ籠る生活に耐えられなくなった。

 (中略)

 私の冒険心は、私の身体の運動の自由の増すに従って増長した。私は、探検家が郷土を立つのと同じ覚悟で、――ただその覚悟を自覚していないだけだ――甘い汁の出る肉の丘から離れて、そこらを這い回って、異なる環境を求めた。実際、私は這い回りながら、いく度生命にかかわるような危険を冒したかわからない。(中略)

 そのくせ私は、そんなことに倦きると、かならず甘い汁の出る肉に抱きついて、貪るようにその汁を吸わなければ承知しなかった。

 でも、それからさきの一生が、やはりそんな歴史のくりかえしであることを、私はまだ知ろうはずがなかった。

――筑摩書房『ある心の自叙伝』(1968)より

 それは、臍のある人間としてこの世にありながら、親しんだ樽から離れられない冷笑家の姿である。衆人の良心を煽り「山へ行け」と賢しらに挑発しておきながら、そこが人間の住める場所ではない事を仄めかしている此の冷笑家は、自身を擁した樽から自立出来ない「ひとりもの」である。

 

 前述の「自叙伝」の序言で長谷川は自身について、彼は「『ひとりぼっち』の痩我慢生活を通して来た孤翁である」と記しているのだが、全く、この照れ隠しが芸術家としての彼にとっては、致命的な欠陥だった。

 つくづく彼は”何らかの理由から”、その境遇を離れる事の出来ない者なのである。ただ、彼はその理由を口にしたいのであるが、遂に言い出す事が出来ない儘に、作家として大成しなかった。そして、イニシエーションを拒む、その理由を明らかにしないで済まそうとする屈折した姿勢が、犬儒学者の始祖の形や声を借りて、彼の物語の中に現れていたのである。

 だが、人に言えない事情を何とかし表現しようとするのではなくして、苦悩する様子をそのまま作品にして、その苦悩を昇華してしまう技術と才能があった事は、幸か不幸か、彼に偉大な作家としての名望を齎さなかった一方で、その長命と地位と、今日の「偉大なジャーナリスト、思想家」という穏当な評価を齎したのだった。

 今日も猶、彼は其の長年の功績によって追跡を免れて全きを得ている。

 

(続く)