カオスの弁当

中山研究所blog

勘所

 

「機械の性能が向上した結果、人間に残されたのは、箱に物をつめるだの、そんな仕事だけになってしまった」

 

と、ある漫画家が云った。

 成る程、立派な仕事をしている人は言うことが違う、豊かな想像力の持ち主だ、と素直に感心した。

 

 ただ、感心するだけである。だから自分は絵が描けない。漫画も描けないし、それで金を稼ごうというのは丸で夢物語である。

 そんな描けない言い訳がましく、仕事と託けて、あちこち回るようになって早半年が経った。自分は所詮、足りない頭を足で補う事しか出来ない粗忽者である。

 

 機械が奪った人間の機会は、初めからそんな機械を作ろうとして作った人間たちが、予め奪っていたものだーーという事を言わない絵描きは、やっぱり、自分と違うのだな、と感じた。

 そんな自分は拗ね者である。だから、自分の描くものは、何の面白味もないものばかりであるが、違いは結局そこにあると思われる。

 

 彼らは堂々としている。皆無冠の帝王然として揺るがない。何より其の威厳が価値の源になっている。

 ただ、自分は誰かれもが、恭しく捧げ持つようなものを下賜するほどに高みにいる訳じゃないから、無理して奢る必要は毫もない。

 いじけている訳じゃない。事実である。

 自分はケチで貧乏だ。

 

 又、別の漫画家が、自分の作品に対してイチャモンをつける輩に対して

「そんな奴は全く人目につかないところで、雨水と埃でも食らって生きれば良い」

と云ったらしいのを目にして、すっかり感心した。

 その人は大家であるし、自分もその作品に多大な敬意を抱くものの一人である。

 故に、尚のこと、深く感じ入る所である。羨ましい限りである。自分にはとても彼のようにはなれない。偉大な作家、気鋭の新人ーーそんなものにはとてもなれやしない。即ち、そういう振る舞いが出来ない。気概すら持てないのである。皮肉の一つも言えやしない。ただただ「偉いのだなあ」としか思えない。何をもって偉いのか、というと、ただ彼らの言動をもって足る。

 そんな拗ねた気持ちが、尚の事、自分を陽の当たらない、蒸し暑く居心地の悪い蔵の中に身を潜ませるよう差し向ける。

 

 自分の心臓は、針の音にさえ敏感に反応する。だから、不満な時には不貞寝してやり過ごす。

 然し、彼らの心臓は、外とは全く独立して動いている。平常心とは素晴らしいもので、恐らく胸の肉三ポンドと一緒に切り抜いた所で、かの心臓も腕も、止まる所を知らないのだろう。勿論、一滴の血も落ちたりやしないのだろうから、全く以って羨ましい限りである。

 

 これ又、他のイラストレーターが、自分の断りない所で諸事が進められていたのを、これ又彼らに断りない所で散々に非難しているのを見ても、自分はその勇ましさに畏み震えるばかりであった。

 

 

 成る程、高名な作家、絵描きも人間であるという。

 然し、自分にはとても彼らが同じ人間とはとても思われない。

 彼らはとても素晴らしい人たちである。高邁で健康で、そして何より逞しく容赦がない。

 床屋の髭は誰が剃る、とか、按摩の腰は誰が揉む、とか。そんな事を考えながら、永久機関の事ばかり考えて、この歳ばかりまで生きている人間には憧れようのない人間である。

 

 一人でに動き続ける機械は、どんなに止められようとも動き続ける機械である。誰がどれだけ痛めつけようとも、壊れる事なく動き続ける。それはこの世に現れた途端、この世の条理を破壊し続ける機械となるのであろうが、幸いにも、その様な破壊の限りを尽くそうとする機械には、これ又対となる、限りなく破壊される世界そのものがなければならない。

 そんな世界がない限り、機関は空想の中ですら動き続ける事はないのだ。

 怒鳴り声が何時か聞こえなくなるのは、物忘れの酷い大気の厚い層があるからだ。

 

 感心する。それは自分の謂わば、生体反応である。突かれたら仰反るし、捻り上げられでもすれば、ギャッと泣き喚くだろう。

 それを見て人が笑うのも、憎むのも生体反応ならば、それを見て拗ねるのも又生体反応である。そんな生体反応の中で最も簡単に起こせるものは、痛みに対する反応である。

 

 ただ自分は感心したいのではない。出来ることなら、感心するだけのゆとりのみが欲しいのだ。こんな所にも、自分の身体があったのだーーと気付かせるのに、千枚通しや焼け火箸しかないというのは、全く妙な話だが……。

 

 

 プロの言動や仕事を見ていると、流石に勘所を熟知しているものだなあと一々感心する。

 飴を口の中に放り込むタイミングを、本当によく心得ている。

 

 確かに彼らも人である。

 但し、自分はそうまでして人であろうとは望まない。

 

(2020/08/25)