カオスの弁当

中山研究所blog

コスプレから作業服へ/長谷川如是閑初期文芸作品に託けて

 背広はサラリーマンの作業着である。成る程、其れならば、背広の格式なんぞはすっかり作業の過程の中に繰り込んでしまえるから、着心地は大分改善されるものだろう。

 人間、着ているものに相応しいものに身を包んでいる奴は先ずいないーーとは、若き日の如是閑の言であるが、果たして其れが仕事着となれば、話は別である。似合っていようがいまいが、其れ服に袖を通す事が仕事の一ならば、何を着ていようが、其れはお仕着せなので、其の下に貧相な肉体があろうが、全くそんなのは自明であり、そうであればなおの事、敢えて気に病む事はない。もし気を病む事があるとするならば、只管にそのお仕着せが苦痛を与えるものでしかない場合か、或いは自分が着るような服がもっと他にある筈だと思っている場合であるが、葛藤する若き日の長谷川如是閑は、自身に本来、用意されていたであろう品のいいドレスに袖の通せない事への不満を抱いていたようである。

 『ひとりもの』と題された小説の中で彼は自嘲を交えて、己が境遇を愚痴たりしている。

 彼をして、ジャーナリストに向かわしめたものを、生家の没落に求めるのは強ち間違いではないだろう。それは些か安直かも知れないが、しかし彼のキャリアを「成り上がり」と「返り咲き」として見る時に、本人も又、アンチ・ヒロイズムの立場を鮮明としている事を考慮しても、其の「他愛のなさ」は一考に値するものと筆者は考えている。そして其の側面は、彼自身を時代の風物の一つたらしめている。

 

 人を使う立場にあった大阪朝日新聞社会部時代の如是閑というのは、何だかんだで彼自身が本来納まる筈だった、大店の番頭に近しいものであっただろう。彼の青年時代通った東京法学院も、そんな地主や商家の次男坊が多く通った私立学校であった。彼自身も多分に漏れず次男坊であった。

 とはいえ、独立して一ジャーナリストなった後にも彼から其の服と肉体の不調和が解消されたかというと怪しく、彼の「今ここではない何処かに納まるべき座のある者」ーーこれを最も辛辣な表現を用いると『無冠の帝王』になるーーという態度は、いよいよ鮮明になっていく。だが、彼の上には今日、文化功労者の栄誉と文化勲章の輝きが与えられており、死後半世紀が経った今日迄も其の栄誉は続いている。其れが果たして彼の望んだ、自らに「相応しいスーツ」だったかについて、文化勲章の制定時に寄せた彼の文章から推し量る事が出来るだろうが、其れは曰く、「勲章といえば大抵は軍人や政治家のものというのが相場であるところ、文化に貢献した人物に与えるものというのはフランスにある位で、多くの国に他国に先んじた素晴らしいものだ云々」というものである。同じ頃の岸田國士の同じく文化勲章へのコメントと比べるとなかなかに穏当な印象であるが、其れは果たして以前からナチの文化政策の批判などを通じて、積極的に「文化」の保護・奨励の世論形成に従事していた当事者の一人としての活動があっての事だろうが、そんな如是閑の活動に下心がないと判ずるのは、それこそお仕着せというものである。

 国家からの栄典を受けるに相応しい人物・功績がある、と主張する如是閑に「あわよくば、自身の上に桂冠を」という下心があったとしても、蓋し、其れは彼だけに留まらないアクチュアルな問題でありえた。栄典に相応しい地位である文化人・知識人というものの中に如何に自分の様な氏素性の人間を割り込ませるか、という長谷川の問題は、彼自身の問題であると同時に、階級間の移動の問題など、種々の問題を内包していた。江戸城のお城大工の末裔ーーという出自を多年強調し続けたのも果たして、彼の上昇志向の現れと見て差し支えはないだろう。其れは、「お城」の権威をかさに切るのと同時に、階級社会の中での職人という身分の向上を図る事にも繋がるのであったが、なによりもそうした実践的な活動を通じて、自身の社会的身分としての「新聞記者」「評論家」の評価を向上させようとする野心が見え隠れしている。そして、其の野心を飽くまでも前面に出さない強かさを、町人に仮託して語ったりする辺りが、如是閑の「コンプレックス」である。

 

 文化勲章が授与された当時の内閣総理大臣と個人的にも昵懇だった如是閑の、そんな腥い一面は若き日の憧れから一貫しているものだろう。彼の若々しさは、果たしてそんな野心が源泉だったとも言えよう。又その野心は、相応しくない服を着たまま不本意な生を遂げる事への危機感にもつながり、其れが葛藤の源泉ともなり、又思想家としての思索の端緒、動機ともなったと考えられる。自身に相応しい姿をーーという欲求は、彼をして、あるべき理想の社会の姿、文化や歴史、常識についての著作を「描かしめた」とも。それは、創作の限界や、又は「あるべき姿の追求」という事自体の空虚さに対する危機感を反映したものかも知れない。

 

 彼はペンネームの「如是閑叟」に相応しい要望、年齢になった頃、漸く落着の趣を冠するに至った。極端にいえば、彼はその将来と可能性が殆ど潰える年齢に達した事で、長年の「不本意な死」からの煩悶より解放されたのであった。

 そんな死を齎らすものは彼の持病と虚弱体質であったが、彼はその境遇の多くを当該事情に求める所が甚だしく、其れにより多くを断念しなければならなかったのは事実であったろう一方で、そんな自己像を早々に形成した事で彼自身のキャリアが相当な制約を負ったのも事実であろう。

 如是閑を脅かしたものには果たして、彼自身の思い込みとしての自己像もあったろうが、結果としてその思い込みによって彼と彼の周囲は、92歳という驚くべき長命を保つ事に成功したと信じていた。その為、彼は自己像を反省する段階まで到達出来なかったーーというのが、現時点での筆者の理解である。或いは、反省出来たとしてもそれを公に出来ない状態に彼が甘んじていた事も十分に想像される。

 この点については、今後更なる調査を要する。だが、敢えて一言を付せば、彼が命を存えたのは果たして彼や周囲の尽力もあったろうが、所詮は「運」というものに依存する所が少なくないだろう。「楽観的」と自称した如是閑の性格は、謂わば不安の裏返しであろう。だが、そんな彼も80歳を過ぎた辺りで、漸く「ソン」な自己像から解放されたような事をエッセイの中で書いている。果たして、当時の基準からしたら、実に長命であるがその歳になるまで恐怖に怯えていた事がそこでは端的に語られている。ダンベル体操に弓道、早駆けに散歩、登山までして肉体を健康に維持しようとし続けた彼の強かさには、彼の思索の中で追い求めた「伝統」(或いは「国粋」)と同様に、常に背景として脅威があった。

 そんな逃走が、生活者としての絶えざる「闘争」と、音だけではなく一致する所が合ったので後世から振り返るとヤヤコしいのであるが、初期の文芸作品に於いての彼のテーマは生活を端に発する「生活からの闘争」ではなく、「生活」もとい「不本意な生からの逃走」であった。

 処女作『ふたすじ道』にしても、話の筋は主人公のスリの少年の、カタギと言われる生活からの逃走である。彼がカタギのゴム屋になりたくないのは、そうしても自分の意中の女性と一緒になれないからであるが、彼が英雄的盗賊にもなれないのも、その逃避行の端緒に恋した女性を連れていけなかった点にある。しかも其れは単に相手の女性から拒否されたのではなく、よりヤクザな金貸しにより、借金の方として奪われたのであり、主人公はヤクザ者・ゴロツキとしても幸先の悪い「失敗体験」を負ってスタートを切ることとなったのである。

 果たして、「羽織ヤクザ」と呼ばれた新聞記者としてのキャリアの末に、文化人という栄誉あるスーツを自ら仕立てるようなことまでして、其の最高の栄誉を頂くに至るまでの作家・如是閑の軌跡は、カタギになりきれなかった処女作の主人公のその後に幾分か救いのある様な事を示唆している。ただ、世間はやはり煌びやかな栄誉を見てしまいがちで、陰の点については目を逸らしがちか、或いは偏見を持って見てしまうものである。腥い描写が割愛されるのは、御伽噺ばかりだけではない。

 

 翁のかんばせには、親しみやすさや優しさばかりではなく、狷介さや生命に対する並々ならぬ執着が宿っている。その「醜い」とも「おぞましい」とも形容し得る顔に大宅壮一は流石に相応しい“スーツ”を与えている。

 〔...〕如是閑のこの写真を見ると、樹齢何百年という古い榎の大木のななにすみ、しめなわをはられて神格化されている大狸が連想される。“生きている文化財”というよりも、大切に保護されねばならぬ旧“東京八景”といった感じである。

(「現代を創る顔」3)

 この前段で、大宅は失われた東京の、嘗ての面影は「榎町」や「狸穴」という地名に偲べない事もない、と語った上でこういうのだから、容赦がない。同時代のものが尽く死滅した後に生き残った大狸は、当時手厚く“友人”らに保護されていた訳だ。

 大宅の指摘は、専ら如是閑に対するものよりも更に其の保護活動に勤しむ者たちへ当てられたものだったろう。即ち、其の眷属である「狸穴」の「狸」達に向けられたものだったのだろうが、さてこそ彼らの化け方がうまかったか、化かし方が上手かったのか、古狸と彼が呼んだ老翁は其れに相応しい壮大な弔いが彼の友人らによって挙げられ、歴史の殿堂に葬られたのだった。

 蓋し、狐と狸の化かし合いの様な話だが、大宅の鼻は、同じく腥い如是閑の其れを鋭く嗅ぎ取ったのであろう。ただその指摘自体が、自身の正体への疑いを招く事になるのを恐れて、普通「人」は其の口を噤むものである。

 

 そんな如何にも「臭い」話をしようものなら、筆者は自分までもがそんな臭いを発して来そうなので、長らくこういう記事を書くのもイヤイヤしていた。

 だが、ジャーナリストというのは、詰まる所、そんなイヤイヤ駄々を捏ねる人間に、己の放つ臭いを自覚させる事を生業とするものなのかもしれない。だとしたら、其れは全く、疎まれて仕方がない気持ちもしないではない。なまじ人は、常に人であろうとして、その余りに自分の正体すらも欺こうとするからである。だから他人が、必死に化けようとする仕草を見て居た堪れなくなり、指摘される段に及んでは真っ赤になって怒り出してしまうものなのであろう。

 最近では、服の似合っている・似合っていない、相応しい・相応しくないーーという問題は、最早それを評する事自体がハラスメント(嫌がらせ)だとして倦厭される向きがある。

 確かに其れは結構な事であるが、しかしながら又近時の状況からは、そうは言っても人間から好悪の感情は如何しても拭い去れないものだという事も明らかになっていて、其の板挟みにあって葛藤する人々の様子を見ていると、筆者は如是閑の「ジャーナリズムとは何か?」という問いへの答えについて、流石に彼も上手い事を言うな、と思う次第である。曰く『対立意識の表現』というのが、彼のジャーナリズムを一言にして示した所である。

 

(2020/09/01)