カオスの弁当

中山研究所blog

シールとバーコード

 子供の頃に、スーパーとかで親が買ってきた野菜や惣菜の値札や商品シールを剥がして、腕とか服に貼っていると叱られたものだった。肌が痛むからとか、服につけたままで洗濯機の中に放り込まれると厄介だから、とかそんな理由からであったが、今から考えるとそれ以上に、何かもっと生理的な忌避感が彼らのうちに働いていたような気がしないでもない。

 お使いとか用事とかをマジックで掌に書かれた時は、おまじないでもかけられたかのようで気味が悪かった。また、ほんの小さな頃には折に触れて、掌拓を取られたものであったが、これもなんだか気分が良くなかった。生来人に肌を直接触れられるのが得意ではないという気質の所為もある。

「どうせメモとか渡しても失くすだろうから」という負の信用から、保護者は皮膚に直接、用事を書き込むのであったが、思えばその時正に厭うたのは、そんな親の監督者気取り、大仰な言い方をすれば支配そのものであった。

 

 テレビで見る地方の習慣で、子供の健康を祈っての宗教行事で顔料を塗り付ける儀式が紹介されるのを見る度に、自分はそれを「飛んだお世話だ」と感じずにはいられない。

 日焼け止めでもあるまいし、子供の方からしたら只々“大人しく”耐えるより仕方のない儀礼である。蓋し、そういう儀礼を何度か潜り抜けた末に、長じて、その生得的な感性を抑制する事を覚えて、子供は大人の仲間入りを果たすものなのだ。

 そんな前時代的な成熟のモデルを、ヒトの慣いとして受け止めるよう、自己に言い聞かせるようになって、果たして健全な心というものを保てるのであるならば、世間という奴は余程、不摂生な仕組みで動いている。無論、生来の感覚というのも長じて変化するものであるから、一概に当てになるものではない。ただ、つくづく思うのは、こうした人間の動物的な習性を、如何なる方法によっても把握する事は、随分と都合がいいものであり、それは知っている事を只隠しにし続けた方が余程都合がいい。

 故に、自ずから“大人”は悪となる。

 

 初音ミクの腕にはバーコードがある、或いは数字が刷られている、という情報は、十年も前にか、流行り始めた頃に自ずと知るに及んだ。

 初めはこれがてっきり人間から採取した声を合成する仕組みなのかと勘違いしていたので、如何にもマッド・サイエンティストの様な、気持ちの悪い事をするものだなあ……と頭から嫌いで遠ざけていた。だから、そういうマッドな趣味を反映しての、或いは同じくSF的な着想によって、その非実在性を強調する意味でも、バーコードとかシリアルを飾るに至ったのか、と考えるに至った。丁度、試験管やシャーレに事務用のシールを貼るような感じで、或いはひと目見てそれが「人間ではない」事を誰が見ても分かるような装飾としてそれらは採用されたものだろうと考えたものである。

 

 何よりこうした技術の産物の人間社会に与える煩わしさは、生々しさである。

 種々の記事を散見するに「リアリティ」だとか「身体性」だとか「現実感」だとか、色々な言葉が目に入ってきて、そのどれもが自分の関心事である「生々しさ」に言い当てるのに適切な様に思えて来る。ただ、いかんせん低劣な分解能から、それらは似たり寄ったりに見えるし、異なった文脈にあるようにも思われる。

 ただ、それが他人と多分、共有出来る話題だという実感はあって、兎も角それが厄介なものであると同時に、商品としての価値を持っている事も明らかに知れるのである。そして話題になって、わんさと活字になっている位だから相当な高でもある。

 

 バーコードと数字の紋章は初音ミクの生々しさを減ずる事を期待して貼付されたものだと自分は解釈していた。だが、これが却って生々しさを助長する事にもなったらしい事を最近、偶々他人の意見に触れて、呻吟したものである。

 そもそも、あれが人型をしているのは、人の声音を発するソフトのキャラクターだからであろう。人の声音を真似た音を出すものだから、人の形に作られたろうものだと自分は解釈した。別に単なる箱でも壺でも良さそうなものだが、それだと愈々気味が悪いだろうという配慮があっての策であったろうに、全くそれは良く出来過ぎたソフトだったのだなあーーと熟思わずにはいられない。

 以上を踏まえると、存外自分の関心事である「生々しさ」という奴は、「可愛らしさ」と言い得るかも知れない気がして来た。

 現時点で、自分ではこの言葉が一番シックリ来ている。

 

 やがて自分自身が合唱に嵌るようになって、初音ミクへの好かん気はなくなった。何より、人間の成熟で重要なのは変声期だろう。

 人の声音というものは作意的であり、その意味では土台薄気味の悪いものだ。それを知るのに変声期程、強烈な経験は先ず無いだろう。

 作為は声変わりをしてからは通常の仕様となる。機械に頼らずとも、以降は常に用いているのも同じなのだ。

 それから何年もして、今度はVチューバーなんてのが流行り始めた時には、既に自分は声変わりをしていたので、「バ美肉」だろうと何だろうと、それは抵抗なく受容する事が出来た。男女の別なく、人は剃刀を当てるものだし、床屋には行くものだ。オンライン会議で自分の背景を弄るのと、それは何ら変わらない虚飾であるーーとはいえ、装飾に嘘も本当もあったものではないだろう。それは端から作り物、即ち偽物、虚構である。

 

 バッヂやシール、バーコードといったものが人間に与えられ、剰え貼付されるような事は、人間性の剥奪の象徴として今日、広く知られる所であるが、全くそれはそこで言われる人間という価値の虚構性を暴露してしまうからこその禁忌なのであろう。

 小児の顔や手に書くサインや、彼らに持たせる札や徽章は、彼らをして誰の持ち物であるかを他に示すものであるが、それらが果たして何事もなく正常に機能して彼らに「加護」が齎される時には、正にそのモノである事実が彼らを照らし出した恩寵の影として露わになってしまう。

 如何にも、猫や犬がどれだけ可愛らしくてもそれはモノである。首輪や、皮下に注入されたICチップは正にそれらを適切に「動物」として人間が管理するのに役立っている。子供が持ち物に名前をかくように言われるのは、未だ彼ら自身が自らの持ち物をきちんと管理出来ないのを周りの人達が補佐する為に必要な情報だからであろう。そう考えた方が、幾分気持ちも楽である。

 何方に付くかといえば、矢張り支配する側に回った方が心休まるものであろう。

 

 

(2020/09/13)