カオスの弁当

中山研究所blog

電気が隔てる内と外/日本アニメ電線・電柱考

はじめに:

 電線と電柱がアニメの中でどういう意味を持つのか、という事を考えるのに、差し当たり、用意しておくべき「問い」は、電線と電柱は何のシンボルなのかーーというものだろう。

 これについて、筆者はひとまず「電気」と「電話」のシンボルだ、という無難な回答を用意した。

 

 電気というのは、この場合、日常用語でいまだに残ってる、灯火を意味する言葉である。そして、電話とは広くインターネットも含めた電気通信全般を指すものとしてざっと此処では捕まえておきたい。

 大大論で始めるのは不本意だが、何分、自分の手分に適わない主題には違いないので、不器用な筆捌きでも読者諸賢には如何かご海容願いたい所である。

 なお、本稿は「電気」について一考を記すものとして、「電話」については次稿に回すものとしたい。

 (今回はきちんと用意をしております)

→前回(本記事を書くきっかけになった大元の記事):日本アニメ電線・電柱考(1)「エヴァ」と「lain」(前) - カオスの弁当

 

1:灯火管制の終わりと“電気”の回復

 『この世界の片隅に』のラストシーンは、正に電柱と電線がその本来の姿を回復した象徴的なシーンでもある。

 というのも、稍もすれば忘れがちになるのであるが、就中、日本語話者にとり、「電気」というのは、電灯の点す「光」に他ならないからである。

 電光の回復、就中、民家の明かりが綾なす「光景」というのは、群れなす電柱が担いだ電線を伝って届けられた電気の作り出した景観に他ならない。

 史実に於いて、本邦に於ける照明の、特に家庭に於ける室内照明の電化、詰まり電気が“電気”になるまでは、戦後なお長らく期間を要した訳であるが、その間にも、初め電球のソケットばかりであった電源の末端にも種々の機械が取り付けられるようになっていった。

 然し其れでもなお、今日の現実生活に於いても、引越した先の新居で先ず設置する器具というのが天井に取り付ける形の照明器具であったりする様な事を考慮すれば、電気即ち照明という構図は、日本のアニメ作品に出てくる電気というエネルギーにまつわるモチーフ、取分け日常生活の場面に出て来るものを理解する上で、押さえておく要点の一であろう。

 

2:室内照明としての“電気”について

 照明と結び付きのいみじき電気であるが、その光が家の中にあるか、外にあるかで、その性質は大きく異なって来る。

 端的に言えば、外に取り付けられた灯りは、街灯(常夜灯)に代表されるように「防犯」「防災」の為に設置された道具である。其れは統治の一方策であり、有名な映画『翼よ!あれが巴里の灯だ』で謳われた、パリ市の灯火は、遡ればルイ十四世統治下の1667年に設置された常夜灯が基であり、太陽王の「輝ける御代」は文字通り、昼夜となく人民を照覧するものだったーーという小咄は態々引くまでもあるまい。

 ネオン看板や工場のライトといった24時間操業を可能にする商工業的利用の為に用意された装置も、資本主義経済の発達に伴う管理の道具であるのは言を俟たない。

 これに対して、市井の人々が専ら私的に生活を営む室内に取り付けられた照明器具を、果たして日本語では専ら“電気”と呼び習わすのであり、外に設置された街灯や看板などの私的な範疇の外にある明かりは、例えそれが電気によって発光するとしても、其れを“電気”とは呼ばないのである。例えば、電柱に取り付けられた防犯灯が、暗くなって点灯したら『外の明かりが付いた』という表現になる。

 

3:“電気”が隔てる内と外

 2017年末のGigazineの記事に於いて引用されていた、『月刊少女野崎くん』の画像は、偶然かもしれないが、果たして“電気”によって隔てられた、私的な領域と其の外とが描き出されたシーンである。

日本アニメではなぜ徹底的に電線が描かれるのか?を海外メディアが推察 - GIGAZINE

 果たして、室内の光である“電気”が齎すのは、屋外の時間の推移に同期する夜の訪れに対する、人工的時空間の展開である。

 そして、其の展開によって出現した、隔絶された空間の内部では、街灯が点り時報が流れるような物語の舞台に当たる世界とは異なる時間が流れ始めるのである。窓の向こうに見える薄暮の中の電線と鉄塔は、時空間的に隔てられた私室の時空間的特異性を強調する。

 それ自体が時間の経過に応じて姿を変化させない性質が、電線や電柱を、異なる時間の経過を示す指標として、丁度日時計の様に機能させる。アニメ作品の中で規定となっている現実の時間の流れと、登場人物達の私的な時間の流れに対して、ニュートラルな、詰まりは物語とは直に関係を持たないモチーフとしてあるが故に、電線や電柱は道化的な地位を占めるものなのである。

 時間的跳躍を可能とし、剰え其の意味する所の其々の領域に於ける支配から自由であり、独自の時間を有する構造物の群れが電線と電柱なのである。そして、その構造物の群れが一つの量塊になると、其の景観は物語上、何処にも属さない空白地帯として、不思議な魅力を放つようになる。『新世紀エヴァンゲリオン』や『SSSS.GRIDMAN』に於ける遠景は、斯くなるものであると筆者は考えるものである。

 

4:“電気”の回復の意味するところ

 『この世界の片隅に』では物語の初めから終わりまで、私的な時空間に対して物語の規定となる現実の時間が容赦なく干渉して来る。

 だが、飽くまでも物語は、この干渉を受け入れながら、其れに応じた私的な時空間を少しずつ展開して何とか自分達の領域を守ろうとし続ける人々の定点観察を軸としており、其の視点は過ぎ行く月日を数え上げる形で物語の中で再三に渡り強調される。然も其れはカウントアップであって、時折遡る事はあっても、決して止まる事はなく、累々と積み重ね上げられる数である。

 灯火管制の終わりは、果たして彼ら登場人物の生活に私的な時空間の展開が回復されたと言い換える事も出来るだろう。それまでの時間というのは、謂わば国家に編成された巨大な時空間の中で、各人の領域も其の内に組み込まれていた訳である。これが“電気”の下に再編される時に、今度は其のスイッチの数だけ、謂わば時空間が存在する状態が地上に出現する訳であるが、そうなった時には最早、物語は「世界」という大枠を失い、本来世界がそうであったように無数の「片隅」の寄せ集まりとしての姿を回復するのだった。この「片隅」は「日常」や生活という語に置き換えても構わないだろう。

 

5:写り込んだもの達の物語ーー主題化するパワーグリッド

 電線と電柱は『この世界の片隅に』に登場する時も当然の如く脇役なのであるが、最初から最後まで其の物語世界の片隅にあり続けた、という意味では、主人公たちと同じ立場にあったとも言える。物語とは無関係に其れ等は登場するーーと先述したが、果たして史実の太平洋戦争の経過に基づいた物語の中では、電線と電柱も果たして他のアニメ作品の中の場合と同じように無関係に、全く道化的には存在し得なかったのだ、という事を筆者は本稿の最後に言及しておきたい。

 そして、それ故に『この世界の片隅に』では、小さな私的時空間に収縮・隔絶(と書くと何やらネガティブな感じがするが……)していく主人公夫婦と孤児の際先を照らすものとしての物語のフィナーレでの積極的参加も可だった訳である。

 これは『エヴァ』のヤシマ作戦のエピソードに代表される、アニメに於けるパワーグリッドの主題化の例の一として注視に値する。

 

Power Lines in Anime

 2017年のGigazine記事で紹介されていたブログ“Power Lines in Anime”でアップされる画像は、多くは運営者のwhitequark氏が言うように、『物語上の何らかの意図を持っている』のでもなく、『繰り返し登場するわけでもなく、強調されているわけでもなく、有用な意図は一切持っていない』ので、『誰かが外に出て写真を撮り、トレースして色をつけて完璧に仕上げる』、余白を埋める「箸休め的存在」として登場するものな訳だが、上に示した様に、作品の設定如何によって、其れ等は意外と物語に干渉していたりするのである。

 それは所謂「伏線回収」的な干渉の仕方であり、文字通り、見落とされがちな視界の端々に写り込んだもの達の、迂遠な、しかし見方によっては粋な仕方で干渉して来たりするのである。

 

(続く、2020/10/19)