カオスの弁当

中山研究所blog

口先三寸

 人間誰しも少なからず、自分の見ている世界の完璧性を疑わないものである。完璧などということは、即ち自分の見ているものの有り様それ自体なのである。そこに更に「完璧」と呼称し得るものがあるとするならば、必ずその状況には異常の出現が想定されている。詰まり、本来の完璧が損なわれた結果、「完璧」が出現するのである。

 その「完璧」は例えば「美味」である。美味いものは異常なのだ。

 

 飲食は言うまでもなく、先鋭的な話題である。文字通り、ほんの少しの匙加減が退っ引きならない衝突のきっかけとなるし、何よりか生存に直結している所為だ。

 飲食を題材にした有名無名の作品の数々は当たり障りのない所でそれぞれ読者を獲得している。漫画だけではない。SNSや雑誌、テレビでもラジオでも何でもそうだが、殊に棲み分けが如実に反映される。それが食事というものである。

 何を食べ、どんな関心からどんな風にして食べるのかーー。コミュニケーションの中でも、なまじ退っ引きならない、これ以上ない位に即物的で乱暴だ。

 飲食に限らず、コミュニケーション全般の乱暴さを忌み嫌い、多かれ少なかれ、距離を保ちたいと思う人間にとって、飲食を題材にした漫画は「下らない」ものに位置付けられがちだ。

 『美しい』だの『可愛い』だのがコンフリクトの原因のなるのだというのであるならば、どうして『美味い』もまた、そうなるのが必定だと思わないのかーーというような煩わしさである。

 

 つくづく、素朴な完璧な世界に対して小市民的な立場から、せめても寝床で位ならそういうものから離れて生きられないかしら、と思うものである。であるのに、そんな枕頭で見る夢のようなものでさえ、何やらもの憂い思考が鼻先まで漂って来て、思わず目を覚ましてしまうーー。こんな不幸が果たして、一個の人間に許容し得る筈はない。

 蓋し、悪夢は最後に残された人間の聖域に対する侵犯である。実際の効果はさておき、発想として睡眠学習なんてアイデアは沙汰の限りと言わざるを得ない。唐揚げにレモンを絞る、絞らないで大騒ぎするのに、悪夢についてーーもとい不眠についてさして関心がさして及ばない、というのは、甚だ現代の「贅沢」の特徴であろう。

 

 寝ること自体は最早、漫画だけじゃないが描きようのない題材であろう。

 しかし、昔からリラクゼーションという娯楽は山程ある訳で、今時、YouTubeでもそんな睡眠導入剤的な動画やらサービスはごろごろある位だから、一概に世間が無関心というのは、翻って筆者自身が指して重きを置いていない世間に身を置いている事の現れでもあろう。

 さて、そうして飲食や睡眠にどんどん気を遣い、その完璧性に心砕いていくとどうなるかというと、自ずと表面的には随分と世間とは没交渉になっていくものーーと推測される。

 推測されるーーというのは、自分がそうではないから、多分そうなるのであろうな、という事である。夢にも他人は出て来ない。そんな風になれば、どんなに良い事か。

 そんな風になってしまうとどうなるかと言えば、用もないのに交通しない、世間と拘りを持たない、精神的な「引き篭もり」になるーーと言えるかも知れないが、そこではたと気付かされるのは、その「引き篭もり」という言葉の流通する世間の煩わしさそれ自体である。

 閑暇の丸でない世間は、それ自体を認識していないか、或いはよこしまな連中はそれを極力御他人に意識させないように追い詰め、その余白を掻っ攫う事で維持されているものである。勿論、そうでもしなければ直ぐにも破綻する、そんな閑暇なんて持ちようのない窮迫した状勢であるのかも知れないが、であるのならば、尚更そんな簒奪者達が休む所なく、我彼の境なく暴れ狂い、劫略の限りを尽くすのも宜なるかな、と言った所である。

 

 人間の完璧な世界に大小優劣もないだろうが、少なくともその個々に於ける善悪判断の基準は取りも直さず、その完璧性であろう。詰まる所、その気密性を高めた上で、尚且つ、快適な「暮らし」というものを突き詰めることが、どうにか他と侵犯する事なく、上手く融通出来れば、わざわざ秩序なんてものは持ち出さなくとも済むのである。

 そうして、どんどん先鋭化していった先には、恐らく何も読んだり描いたりするような事はしなくなるであろうというのが想像される。

 そんなものは、取扱説明書や会員登録や契約内容の確認程度にとどまるようになるのかもしれない。世間で「実用的」と称される程度は拡張され、ありと凡ゆる所まで及んで、最後に舌先三寸まで到達して、止まるのか否かーーと言った所まで一足跳びに議論するより前に、まず既に爪先から髪の毛の枝先まで浸潤した、この煩わしさから逃れ出したい、と人は思っていたりするものである。

 それは誰しも最後に行き着く先の憂いであって、それが偶々、人によって老境に差し掛かって得るものだったりする、というーーただ其れだけの話である。一言で「生それ自体の煩わしさ」なんて言っても、其れはその言葉から想像されるようなものとは大分違って、もっと根源的なだらしのなさや、詰まらなさに親しいものであるーーと、誰にも応答出来ないような記述の仕方でしか示しようのなくなるのは、当然の帰結である。

 そもそもコミュニケーションの必要がない夢の中で、敢えて言葉を叫ぶような事をしたら、其れは寝言になる。例え、その寝言の傍に起きている人間が居たとしても、これを受け止める事は困難である。又、寝言に寝言で返しても、其れは全く、会話でない訳だ。

 唯一、寝言が言葉として機能するのは、其れを発した者自身が、その声で目を覚ます時にしかない。

 その一声ーー『私は完璧だ。』というその声に思わず悪夢から目を醒ます時に、外からはもう曙光が枕元まで入り指している。

 同じ声が、又ある時には『何もない、何もないのだ。』と雷鳴の如く響いて、起きてからも又ずっと悪夢の続きのように悩ませる場合もあるにはある。だがしかし、いづれにせよその他人の声が実の所、普段はくぐもってしか聞こえない自分の声なのだと気付いた時には、もう意識はその宣言を所与のものとしてしまっているのだから、ちゃっかりしたものである。

 かくして、睡眠を経て、人はその世界の完璧性を回復するものである。それは日中受けた視線やら紫外線やら、無数のダメージを補修するだけではなく、何より重要な「記憶の忘却」と食べたものの「消化」を行う時間である。記録を破壊する事と忘却する事は丸で違う事だ。そ先に今の自分には用がないからといって、わざわざ道を破壊する必要がないのと同じように、放っておけば良いのである。

 そして、その「放っておく」事を為すのが、いとど難しいのである。

 

 所詮漫画だから、煩わしいのは仕方のない事である。どうせ昼間のせせこましい時間に読まれる事を想定してあるものであるからそうなるのだ。

 真に好ましいものは開陳されない事を以て是とする。鶴女房の反物も、箪笥の中の田畠も、皆封をせられた或る場所から、ただ恵みだけを得るに止めるのが吉なのだ。

 いかんせん、其れが出来ないーー蓋する事すらままならない、というような状況に対しては、はっきりと「貧乏だ」と言わねばならない。飛鳥・奈良時代の歌にもあるように、隙間風の吹くような荒屋では、寝る事すらままならないのである。片や、気密性能と換気性能の双方、幸にして兼ね備えた住居に住みながら、寝る事もままならない、というのは、全体碌でもないのは敢えて指摘する迄も及ばなかろう。

 剰え、其れを心・身的疲労で“補おう”としたりさせたりするのは、貧乏というよりかは最早暗愚である。水をたらふくのんで、その後、荒縄で腹を縛って腹が満たされるなら詮の無い事だが、其れで餓死しても幸福と当人が言えるなら、敢えてそういう御仁と拘わり合いになる事をしない方が賢明だろう。如何にも、自分の口は自分の胃の腑にしか繋がっては居らず、その胃の腑もその次のハラワタにしか繋がっていないのである。かくなる上は、人間あるべき姿は、その口に閂をかけ、用もないのに喋ろうとはしない動物の様に沈黙するのが何よりか賢明なのかもしれない。

 

 然し、思っている以上に言葉というのはプリミティブなものであるという人もいる。如何いう事かというと、それは結局、胃袋に入るものを其れで媒介している以上は、人間一個一個に確たる際限なぞ、ありゃしないだろうーーという説である。だから、黙っている訳にはいかないだろう、とーー。

 それはもう、ご最も、というより仕方ない。

 すると、詰まり、善悪判断は皆、下唇の僅かな刺激、或いは舌先三寸によって行われるのかーーと問いたら、相手はヘゝっと笑いながら、鼻先でも選びますよ、と応酬した。

 

(2020/11/12)