カオスの弁当

中山研究所blog

馬鹿馬鹿しい事柄について

 概して馬鹿馬鹿しい話というのは、必ず「語り手が」言わんとするところのものがあって、結局、それに誘導される事への不快さの元である。ただ、注意されたいのは、聞くところ見るところ、馬鹿馬鹿しい話の感想というのは、「語り手」の浅ましさに起因するものであるという事だ。

 果たして、往々にしてそんな浅ましい語り手の下心、意図する所とは別に、物語は物語として語られるものとしてあるものである。それは丁度楽器と同じようなものである。

 客は別に話者や演奏者に関心があるのではない。話や楽器の音色が好きなのである。話者や演奏者も含めて客が求めるとするならば、その時は話者も演奏者もその物語や楽器の構成要素として含まれている。

 語り手だけではなく、作者と作品の関係もこれである。結局、作者の表現としての作品も、その主従関係は作品が主であり、作者がそれに従うのである。

 

 結局、何が言いたいのかーーというと、人間は自ら作り出したものに服従しないではいられない、というだけの事である。

 

 多分、似たような事は既出であろうが、これは一応、筆者の言葉、という事にしておこう。

 わざわざこう書くのは、以前、だいぶ前になるが、Twitterを始めたばかりの頃に知り合ったばかりの人から「なんだかお前のツイートは何処からか引いて来たような事ばかりで、てっきりBotだと思っていた」と言われて大いに傷ついた事がある為である。

 自分でも何でそんなに心傷を負ったのか不可解であったが、未だに忘れられないので余程悄気たのであったろう。

 思うに、それは「何処からか聞き齧ったか読んだかしたのを、パクって来たんだろう?」という風に聞こえたからであろう。が、それは相手がどういうつもりで言ったかは関係なく、又、その事を私自身が何処か自分でもそうなのではないかと考えていたかも知れない事とも関係がない。

 ひとえに、その時、その瞬間に、その言葉は筆者自身の何か自身の実在に対する深刻な批判として成立したのである。それは今にして反省すれば、言葉を自分が全く思いのままにコントロール出来るものだという自信に対する、一穴だったのである。

 

 所で、自己啓発本というのを自分で読もうと思って手に取ったのは、つい最近のことだ。

 セネカの『人生の短さについて』は、今まで読まされたその手の怪しい本の元祖たらしく、いかにも、ご最も、と思われそうな、耳障りのいい言葉がひしめいている。その所為で遅々として読み進める事ができない。いちいち躊躇せずにはいられないからだ。

 だが、そのまどろっこしさが、却ってこれまで自分がスラスラと(感じながら)読んでいた本に対する疑念を喚起するに至って、なかなか自己啓発本というのも、悪くないものだな、と思ったりもした。本の内容と丸で関係ないが、果たしてそれだけでも十分読んだ甲斐はあったというものである。

 

 正直なところ、世の中にこれほど蔓延っている割には、ただの一冊も読もうという気さえ起きない類に対しての自身のありようというものに、この所、幾らか反省する気持ちを催していたりする。

 無論、結果としてそれは後から「寄り道」とか「道草を食った」とか思われそうなことなのかも知れない。ただ、これまで少なからずそうした、“何処の誰が、どんな経緯で何を根拠に言ったのか丸で定かではないが、しかし何処かしら最もらしく聞こえる文句”というものに自分が関心を惹かれた経験があるにはあったことを思えば、なるほど、幾らかこれは省みるのも決して無為ではないだろうーーという気にもなるのである。

 

 話は変わるが、多分にこの手の自己啓発本や名言・格言・俚言(ことわざ)に対する自分の価値観に変化をもたらした個人的な経験について今ひとつ記したいと思う。 

 先月、たまさか自分は所用からーータイトルは伏せるがーー見る気持ちもなかった映画を見て、大変「どハマり」した。今でも大した狂いようであるにはあるのだが、端的にどうなったかと言えば、原作小説を買う為に近隣の書店を駆けずり回った挙句、オリジナル・サウンドトラックまで買った始末である。

 何がそんなに自分を「感動」させたのかーーといえば、単刀直入にいうと、その映画を自分は心底バカバカしく感じたのであった。ただ、あんまりにその感じ方が大きかったので、そうだと把握する迄に一週間くらいかかったのであるが、その時には流石に、素直にその感想を口にするのは憚られた。

 しかし、ひと月経っても、矢張りその感想は変わらず、寧ろ頭が冷えて来るに従ってますます確かにそうだと感じられるようになったのである。

 だからーー仕方なしにーーこう書くのであるが、それは、内容がーーというよりも、それを見ている自分が心底馬鹿馬鹿しく思われるくらいに真摯に、自分が馬鹿馬鹿しい、と平生思って端から頭の片っ端からも掃き出してしまうような事柄について、人力の在らん限りが費やされた映画だったからであった。

 果たして、自分がその馬鹿馬鹿しいと感じる事柄は、何故に馬鹿馬鹿しいーー即ち無為であるかというと、自分の知り及ぶ所の外で起こっている事柄だったからであった。信心のない人間ーー詰まり、筆者自身の事であるがーーにとっての来世の様に、それは自分にとり考える必要もないし、その必要さえも持つ事が果たして煩わしいと感じられるような事柄だったのである。

 

 であるからして、うっかりそんな事柄について、延々、説教をされるような羽目に陥ったと気が付いた時には、反射的に映画館のシートの肘置きを鷲掴みにしてしまった。然し映像は大変に素晴らしいもので、それを見たいという欲望と、同時に「こんなのは凝視したくない」という相反する感情でどんどんと口元も引き攣ってしまった。幸いソーシャル・ディスタンスが守られていたお陰で、この痴態を誰かに見られる事は免れた。

 

 映画は素晴らしいものであった。

 上映中、自分は観念して座席の中に沈没するより仕方がなかった。

 結局、三度見て、漸く三度目に内容が理解出来た気がしたが、矢張りそれでも“批判”してみたい気持ちが昂ってしまうのだったが、それも結局は、決して間に合いそうにもない列車に乗ろうとして駅まで駆け出すようなものであった。久々に、虚無の只中へ突き放された感覚をひしひしと味わう事が出来、それが思えば久しく忘れていた、何か「すごいものを見た」という感覚であった。それは、全く自分が置いてけぼりにされる感覚であった。

 これもたまさか、先日ある展覧会を見に行った時に得た感想であるが、公園の敷地の中にあるミュージアムの前で、子供が駄々を捏ねて、入り口前の広場で突っ伏して泣いているのを見た。既に母親は、その指導的見地からか、或いは怒り心頭に発したか、その子を無視して駐車場へと歩き去っていがのであるが、この時、その様子を見ていた自分の中に起こった感情は、親が子供に対して抱いている、無根拠な信頼よりも、寧ろ子供の中で今まさに生じているであろう、母親と世界の一切に対する失望と、自身がそれらから見放されたという一事に対する深刻な悲痛に対する拒絶反応であった。

 自分はそれを見て、何事が起こったのか解釈した途端に無関心になったのである。

 

 批判というのは信頼と対になる行為である。信じられない事柄に対しての躊躇が、より激しく、然し譲歩する気持ちのある時に起こる、ギリギリの交渉である。

 批判は否定ではなく、寧ろ対象を肯定する為にあり、何かしらの主張であれば、それが是とされる前提を理解しようとする試みに他ならない。それはそうした虚構をおかなければ、全く受容し兼ねる事柄について、しかしながら、なお期待を喪失し得ない浅ましさの発露でもあるが、さもなくば、自身の存在が危ぶまれる状況において開始される、一個の人間が己の存否を賭けて行う極々小規模な闘争である。

 

 偉そうにアレコレ書いてしまったが、率直な感想は、改めて記しても「心底バカらしいもの」に相違ない。

 子供が公園で駄々を捏ねている様子やそれに腹を立てている母親の様子、スクリーンいっぱいの巨大な花火をぶち上げる映画の大団円の演出も、何もかもがバカらしくて煩わしくて仕方がない。

 然し、それらは結局、花鳥風月、折々の景色と同じ程度に崇高なものであるーーと、筆者個人としては認めざるを得なかったりするのである。

 脅威に他ならない、忌まわしいテレビやラジオから流れてくる音声、電車の中吊り広告、人々の会話などなど、これら全てが果たして、その深底に湛えている何某かは、子供がよく使う、まさにその言葉通りの意味での「凄いもの」なのである。

 果たして、ここでラブクラフトの台詞を引いても構わないだろうが、それこそが果たして彼の語り手としての素晴らしさであり、且つ作家としての陳腐さの核かも知れない。

 彼の小説は全体、既存の物語の様な内容ではないが、多分に説教臭いものである。結局は古今東西の神話に取材したものであるから尚更その効果は絶大で、それ故に一々の文句も箴言めいているが、結局はそれが言いたいが為の壮大な見せ物ーーと言ってしまえばそれまでであろう。だが、敢えてこの作者の陳腐さ、バカバカしさを讃えるつもりで引用する。

 これから先は、春の空も夏の花も、ぼくへの毒となることであろう。

(「クトゥルフの呼び声」、『ラヴクラフト全集2』(東京創元社)から)

 果たして、子供時代の思い出、懐かしさや未来への予感に思いを馳せる暇も持たせる事なく、由無し事で煩悶する人間を軽々と跳躍して奈落の底へと叩き落とす存在は、ラブクラフトの小説に出てくるような「邪神」ではなく、しっかり履かなかった靴下や、数センチの段差、歩きスマホであって、それこそどこぞの漫画のオチではないが『殺人事件に巻き込まれる心配よりも、交通事故に気をつけろ』というのが実際である。

 ただ、要するに、一言「凄い」という感想を表現する為に(或いは叫ぶ為に)長口舌を著述する、その技術と熱量はそれ自体が一種の凄みを持つものであり、昨今流行りの馬鹿馬鹿しい小説群もこれに並ぶものと言えるだろう。

 トラックとぶつかって一度死ぬまでの数行の行で、日常に於ける崇高なるものとの接触の瞬間を見事に描いている、という点で興味深いし、その後の一切の行は果たしてどうか、と言えばそれこそ、正に筆者にとってのそれらは「物凄いもの」に他ならない。話がただ読んで聞いて見て面白い、というのは刹那的な快感に過ぎず、飽きるものである。

 

 朝礼やら新聞のコラムなど、有り難いお説教じゃ結局、そんな馬鹿馬鹿しい部分を全部削ぎ落とした上に、小一時間か十分かそこらの演説を聞かせる為の申し訳程度の馬鹿らしさを振りかけたに過ぎないものであるが故に聞くに耐えない不愉快さが芬々と漂うものになっている。

 ただ、それは新聞ならその記事だけを、朝礼ならその口舌だけを摂取するから十分な馬鹿馬鹿しさを享受するに至っていないーーという可能性もなきにしもあらずであると考えられる。

 即ち、それら不快な代物でしかないものがあるという事実は、自身では計り知れない価値基準の存在を示す揺るがない証左であり、その馬鹿馬鹿しさに気付き得た時に、我慢するより仕方のなかった人間は、その苦痛の向こうにそれらと自身とが両存してしまう広大な領域を感知する事が可能となるのである。それが世間であり世間なのであろうが、その途方もない広大さ加減には、思わず自身の卑小さと含めて、「馬鹿馬鹿しい」という念を抱かずにはいられないものである。

 その広大さに対しては、信頼も批判もあったものではない。所詮それは人間の作り出したものに対しての人間の働きかけに過ぎないからである。人間もまた、そんな得体の知れない世界の一部である。

 

 そんな一部の更にごく一部の狭い狭い世界での全能感も満足に味わえないーーというのは何とも物悲しいものであるが、そんな物悲しさの克服方法はない事もないようで、その一例が、かの有名な『淫夢語録』であろう。

 歌の文句にある「言葉にすれば消えてしまう関係なら、言葉を消して仕舞えばいい」を地でいくような界隈の運動は、ジョージ・オーウェルもタイプライターを床に叩きつけるより仕方ないものであろうが、筆者はこの遊びを未だに心底笑う事が出来ないでいる。出来の悪い脚本も、素人芝居も、それを面白がる人間も、果たしてそれらは自分が映画館で得た経験の対にあるものであり、同時にそれらは、その「馬鹿馬鹿しさ」に感動した自分と同じ次元にいる存在なのであった。

 「語録」の真のタチの悪さは、自分自身の吐いた言葉とそれによって作り出した世界への陶酔と、その後の虚無感と自己嫌悪の中で割腹自殺した作家の存在と同じく、それらが唯一の事柄ーー即ち、冒頭に示した「人間は自ら作り出したものに服従しないではいられない」という事を否応なしに示されるからだろう。

 そして、その事が次に人間に示すのは、思わずそこから目を逸らし、関心を無くさざるを得ない現実の物凄さにある。子供はどれだけ泣いても公園には居られない事に絶望し、母親は子供が結局は自分を選ぶものと信じている。そこにあるのは完全な断絶であり、その断絶を成立せしめている領域が人間を取り巻いている事を、かの馬鹿馬鹿しさの一つの極みである悪巫山戯は、市ヶ谷台の作家と対立した学生への勧告と同じく、ネットの海に流布して憚らない。

 諸君らは完全に包囲されている。無駄な抵抗はやめ、速やかに武器を捨てて出てきなさい。

 ここで速やかに投降出来ないのは、子供も作家も、それを責める大人もひとえにユーモアが欠乏しているが為にであろう。然し、ユーモアは元より現実のペーソスを圧倒出来る程の力はない。それは所詮、人間の作為と努力に他ならないからである。

 但し、だからこそユーモアは必要であろう、というのが筆者の見である。何故なら、ユーモアはそれがそうなのだと気付き得ない内にこそ、効果を発するものであるからだ。

 

(2020/11/26)