カオスの弁当

中山研究所blog

『件』より『真実はかく佯る』まで

 人偏(亻)に牛と書いて、件(くだん)と読む。

 依って件の如しーーとかいう言い回しがあるくらいだから、何とは無しに誰しもが意味を把握しているだろうかと思われるものだが、その辞書的内容はどんなものか?

 試しに手元の紙の辞書を開いてみると、次のようにある。

くだん【件】(くだりの音便)

①「くだり(件)」2に同じ。「依ってーの如し」②(「ーの」の形で)いつものきまりの。例の。保元「ーの大矢を打ちくはせ」

広辞苑』第六版より

 ただ、本稿で扱おうというのは、上の件の件の方ではなく、怪談・くだん(件)と、そのネタ元になったであろう妖怪・くだんである。

 要するに、それは「誰も知らない怖い話」という意味のタイトルだけの怪談なのであるが、偶々同じ名前の妖怪(アマビヱみたいなご利益がある、元ネタは中国の怪獣・白沢)がいたものだから、それと合体してさまざまな物語のネタにされている。

 

 先に話をすると、妖怪・くだんのビジュアルは、人面牛である。より詳しくいえば、人面仔牛なのであるが、これは最近だと奇形の牛の胎児だと考えられている。実際、奇形の仔牛は長生き出来ずに、生まれてすぐに死んでしまう。

 くだんもそんな仔牛と同じく直ぐに死んでしまうのであるが、その前に人の言葉で予言をして死ぬのだとか言われている。そして、その予言というのが、「私の姿を描いて家に飾れば、厄除けになり」とかいう、完全にチェーン・メールの元祖とも言うべき内容なのであるが、その辺りに触れだすと、前置きに過ぎない話が余計に長くなるので割愛する。

 

 この奇形の仔牛が「くだん」と呼ばれるようになったのは、恐らく「件」の字がそれを表すのに適していたからであろう。或いは、この妖怪自体が、子供を揶揄う大人の悪戯のように、今ではすっかり忘れ去られた昔のストーリーテラーが「件」の字から着想を得たのかもしれない。

 

 奇形の仔牛や仔羊の誕生、といった事例は古今東西を見ても、何某かの兆候として捉えられる向きがある。「あった」と書かないのは、それが現在も見られる一種、人間の本性的な傾向であると思われるからである。

 人の顔に見える模様や造形をその体に宿した異様の動物の出現を何かの変化の前触れか、或いは現在まさに起こっている変化の兆として結びつけるのは人間の癖であろう。それが、妖怪・くだんの設定の今一つの起源だろう。

 所で、この妖怪譚とは別に、二十世紀の中頃から語られるようになった「誰も知らない怖い話」『件』の方は、この予言獣・くだんの物語を下敷きにして、更に杳として知れない体を成している。

 ーーただ、そもそも「体」と呼べるような確固とした筋や由来自体が定かではないので、杳としているもしていないも、それは空虚としての真っ暗闇そのものに相違ないのかも知れないが、兎も角、その怪談というのは、

「タイトルだけは伝わっているものの、その内容のあまりの恐ろしさに、知ってしまった者は死んでしまったり、語る事を恐れるので誰も内容を知らない」

と言う、ちょっと考えてみたら、全く人を食った、少しばかり手の込んだ悪戯であると容易に知れるものである。

 

 ただ、その手の込んだ悪戯は、一種の寓話として甚だそのタネに気づいた者に不安を抱かせる。

 果たして、世の中には本当にそんな風な物語が実在するのではないか、という不安である。

 実際、私たちが普段生きていて、それ自体ちゃんと読めていると思っている物語も、実の所は表層に過ぎないのではないかーーという、この不安は、「胡蝶の夢」とか「夢応の鯉魚」とかに著された古典的な不安である。

 無線装置の回路がトランジスタやICチップになった所為で、その回路の仕組みが感覚的によく分からないような若者が増えたのではないかーーという文章が、果たして2000年代初頭の初心者向けの無線通信の参考書に載っていたりするのを見かけた事があるが、それも現代版「胡蝶の夢」とでもいうべき“寓話”であろう。 

 2000年代というのは、程度の差こそあれ、常に此の不安がサブカルチャーの主軸であり続けたものだろうと筆者は漠然と感じているものである。

 ただ、それが2000年代に限定されたものかといえばそうではなく、遡れば本邦では19世紀の末頃から、此の手の不安というのに苛まれていたものと思ったりもするのである。勿論、そのきっかけや背景は千差万別に違いないのであるが、振り返ってみると、辿り着いた先には何かそんな、空虚がポカンと口を開けているような、そんな気がしてならないのである。

 

 所で、亻に動物を意味したりする一文字を加えた字として、「件」と似たような「佯」(ヨウ)という文字がある。

 普段使いはされない上に、今だと単体では更に用いられる事が少ない。

 これを使った熟語に「佯狂」という語がある。先のと同じ辞書に依れば件の如し、である。

ようきょう【佯狂・陽狂】

(「佯」はいつわる意) 狂人のふりをすること。また、その人。

 「佯狂者」というのが、正教会における聖人の称号の一つにあるが、そこでは狂人を装って神理を説く者の意味として使われる。これに近い印象の語としては、禅宗の「風狂」が挙げられよう。

 共通しているのは、狂っているも、真理を語っている・悟っているというのも、いずれも傍目の評価であるという事である。本人が別にそうだと示している訳ではないのが、恐らく、これらの概念を考える上で重要であろう。

 殊に、本邦では風狂的な態度が、(実際それを体現する者が現実にあったかはともかく)理念なり美意識としても好まれる向きが、特に都市社会の一部に於いて認められ、継代今日まで培養せられて来たものである。

 その一部界隈の価値観を拾い上げて、殊更に発揚した運動が二十世紀後半の好事家を中心に担がれたのが、幸か不幸か、今日、「思いやり」だとか「まごころ」だとか「おもてなし」とかう世俗意識に名残を止めていたりするものであると推測されるものである。

 そうした世俗意識はさておき、佯の話を戻すと、これと先述した件の話とには、うっすらとした関係が実はあったりするのではないかーーというのが、本稿の漸く提示する所のテーマであったりする。

 

 一説に依れば、怪談・件の震源地の一として目される人物に、今日泊亜蘭が挙げられる。

 日本SF界の長老であった彼は画家・水島爾保布を父として、その父の縁故で繋がりがあったとされる人物の中に、日本のジャーナリズム界に於いて重きをなしたが、いまいちそのポジションがよく分からない人物・長谷川如是閑がいたりする。

 本稿のタイトルに掲げた今一つのキーワード、『真実はかく佯る』は長谷川如是閑の随筆集の代表的著書のタイトルである。一見すると真実が何をどう佯るのか分からないものであるが、その序文(戦後に出版された版の「まえがき」)も謎めいていて、これを読み解くには穏当な手段としては出版当時の種々の状況や、個々の随筆のコンテキストを踏まえる事であるが、その煩瑣である事は言うまでもない。

「真実」は、それみづからを啓示するに、「ことば」をもつてせずして、「歴史」をもつてする。しかし、それに表裏あり、矛盾あること、恰もいつはり多き「ことば」の如くである。その「真実」が、歴史のレンズを通して、私の心に映つた影を捉へようとしたのがこれなので、『真実はかく佯る』と題したのであつた。

ーー著者のことば、朝日文庫版「まえがき」

 この、何処か預言者や霊視者じみた書き振りが、随筆家・長谷川如是閑の文体というか、作者として演じていたキャラクターを物語る端的な証拠である。

 何か言わんとしている事は明らかにするが、その正体は決して見せずに包み隠す。それが文筆家としての長谷川如是閑のキャラクターである。

 

 文章も漢文読み下し的な面持ちを保つながらも現代文として体裁が整えられているのは、流石に明治から昭和の三代にかけて健筆を奮った新聞記者の面目躍如とも言えるところであるが、兎も角この、敢えて櫛の歯を抜いたが如き“観念的”文章は彼の若かりし頃からの文章スタイルであり、それが何か、明治末の反政府的(文字通りの意味で)メディアの中で持て囃されたのである。

 怪しげな、とか、胡散臭い、という言葉は、殊にエッセイなど文芸作品の筆致に対しては相応しい評価であろう。勿論、それは後世の、一々の記事の受容されたその時々の趨勢というのが分からなければこその見には違いないのであるが、それを差し引いても、彼が易者か何かのように敢えて物事を寓話的に語っていたのは確かな事である。

 「当たらぬ的」という、如是閑の執筆業に対する戦前の同時代評は正鵠を射たものであろう。その意味する所は、何とかその記事から尻尾を掴んで、当局が彼を検挙して筆を挫こうとするのであるけれども、その攻撃を巧みに如是閑は躱すーーという褒め言葉である。勿論、それには比較的親しい味方からの贔屓目もあってのものであるが、直接社会運動には携わらず、飽くまで思想的支柱であり続けようとした彼の立ち居振る舞いは、文学界からは正当とは見做されず、又彼自身も所謂相手方の創作活動と自身のそれとを区別して憚らなかった。

 

 話を戻す。『真実はかく佯る』は随筆集であるが、それぞれの作品には共通するモチーフやテーマは見出し難い。その為、個々のテキストについても、戦前出版された版では序文もない為、余計に「何が言いたいのか分からない」ーーという感想を、恐らく現在の読者の多くには抱かせる代物であろうと思われる。

 勿論、書名には「真実は」とあるので、それを手掛かりに、そこに書かれている内容は、何がしか、この世界の真理ーー著者の後年の語る所の言葉に置き換えれば「常識」「コモンセンス」ーーを現した寓話であると読み解く事は出来るのだけれども、此処で問題となるのは、彼・如是閑自身に信頼性、況んや正気である。

 長谷川自身も、此の問題ーー即ち、自身の正気/狂気を巡るパラドクスについては相当思いを巡らせていたようである。小説『奇妙な精神病者』では、自己観測のパラドクスに陥った男性精神病患者を主人公にして、最後にその狂気が伝染したような不安を見学者である物語の語り手に吐露させている。また、これを日本最初期のSF小説とする向きもあるらしい(曰く、それを提唱したのが先掲の今日泊だとか)空想科学小説『無線電心機』では、「他人の精神を変じて、それを他人自身に代つて言語にする機械」"Wireless Telepathophone"によって、被験者同士の精神が混ざり合ってしまう顛末を、男女の恋愛模様も織り交ぜながら喜劇仕立てに描写している。(此のあらすじ自体は、二十一世紀の現在においても十分、通用するアイデアには違いなかろう)

 極め付けは、寓意的記号が頻出し、その為に最早、伏字だらけの文章と左程変わらない小説『幻覚』である。

 新聞記者として翻訳も度々こなしながら、同時に苛烈な時局批判とそれに応酬する検閲、その他商業誌に掲載するに当たっての諸々の配慮などを日常茶飯事として観察していたであろう如是閑の文芸作品におけるその反映や実験的試みは、手品の様な奇抜さも相俟って読者に内容まで没入させる事を阻む傾向がある。正に手を変え品を変えーーと言った具合であるが、又、その深みに沈んだ物語の主題自体も、一般に彼の記事を読むような層には埒外にあるものだと言えそうである。

 大体、その深底にある動機は容易に取り出せないように沈められているのである。検閲者も読者には違いないし、又読者をして何か霊的に感化せしめるようなものというのは後述する理由から、彼が回避したものである。

 

 要するに、長谷川如是閑という人間個人の正気を問題とするのは、一般の読者ではないという事である。それを気にするよう読者は、他ならぬ彼のステイクホルダーに留まるのであるが、それこそ彼の利害関係者というのは限定された極少数だ。

 ただ、長谷川如是閑の正気ーー理性を彼自身が問題としていた、と捉え直した時に、彼の小説や随筆というのは、時局風刺という皮層が捲れ上がり、惑乱する問題意識を露出するものである。即ち、自己の何がしか拠とする所の、彼自身の素となる何かを彼は長らく探り当てようとしていた事が見えて来るのである。

 それは彼自身が態々表現する程でもないと軽視した、彼個人の内面の問題である。ただ、その代わりに彼が重視したのは、彼を取り巻き、彼自身に影響を及ぼす世界であり、又、彼自身がその中に埋没していると認識していた歴史であった。

 それらと切り離され、全く彼個人の中で完結して、又彼個人の内に起源を持つ事への関心は彼の中で封印されていた、というか、彼自身が把握出来ていたかは怪しい所である。

 然しながら、自ずと彼が社会や人間、文明や歴史を批判しようとすれば、その背後には自身の影が長く長く尾を曳くようになり、それらの影響を取り除いて彼が何かを語ろうとすれば、自分の影を小さくする為に愈々彼は自分を批判の対象として語り尽くし、分解してしまわなければならなかったのである。そして、自分というものの由緒を社会や歴史と結び付けて語り尽くす内に、自身を恰も小英雄かの如く歴史のタペストリーに織込む事に彼は成功してしまったのである。それが牽いては彼自身の世間的信頼を増す原因にもなる一方で、彼自身が自己の内奥に押し込めた何某かの存在を特定する縁となったとも考えられるのである。

 又、そうした“織り込み”の過程で彼の自身とそれ以外の境界は却って堅固なものとなり、個性が際立ったのだった。

 それが後世、「叛骨のジャーナリスト」とか呼ばれる由縁ともなったのだとしたら、如何にもな皮肉であろう。

 

 惑乱自体を狂気と呼ぶなら、如是閑は全く初めから正気ではない。だが、その狂気を核の一部としながら、半世紀以上に渡る言論活動を展開した長谷川の技量というのは、矢張り常人の域を優に超えている。然しながら、彼の業績に於いては、此の狂気の齎した部分は左程多いとは言えず、彼自身の評価も決して風狂や佯狂といったものではなく、寧ろ、毅然として自己の主張を困難な状況にあっても貫徹した、然し同時に巧みに処世をこなした賢人としてのそれである。それが彼の職業人としてのキャラクターであり、それも彼の創作物の一つ一つである。

 故に、彼が真理という言葉を仮に括弧付きで語ったとしても、それは文字通りの意味として受け取られ、又、それを何かの比喩として受け取るにせよ、矢張りその場合に於いても、その括弧の中身は棚上げされ、彼の実験の手順が模倣されるのである。怪しげな、その括弧で括られた神秘的な中身については、読者は立ち入って覗こうとはしない。或いはその格好の中に読者は銘々のイメージを代入する。

 

 此処で巻き戻して『真実はかく佯る』のまえがきを改めて読むと、その預言者語りの癖は只管に自身を世間から韜晦するものであり、それは彼が彼自身の心裡を解明されるのを阻んだ為であったと考えるのが妥当であろう。

 そして、此処で阻止されているのは、英雄や“救世主”としての彼のイメージの出来である。謂わば、預言者長谷川如是閑の出現を彼自身が拒んだのである。それは恐らくは彼の否定したい世界観に自身が与する事になると同時に、彼が実際政治や活動に舞台に押し上げられる事を意味していた。また、それが実際的問題として彼の生命を危うくする事を彼は拒否したのである。

 あくまで彼は自分を自分でコントロールしたがったのである。だがそれが自由ならなかったのは史実の示す通りである。

 最晩年の長谷川は、遂に力を付けた取り巻きやオーソリティによって英雄に祭り上げられてしまった。既にして老境に至った彼は、敢えなくその境遇に迎合したものと思われる。コントロールを失った彼は最早、それ以前の彼自身ではなく、周囲から慕われ、尊敬されるべき人物として栄誉に包まれて過ごす事を彼は余儀なくされたのであった。

 此の関係に回収される事から彼が逃げ回った理由は自明である。何となればそれは自由が余計に窮屈になるからであった。

 

 『真実はかく佯る』に見られる韜晦は謙遜や、自己に神秘のヴェールを被せる事によってよりその魅力を増そうとする権力志向、その為の広告術としても評価し得る。或いは、そうする事で私人としての自己が誹謗中傷の的になる事を防ごうとしたとも考えられる。

 兎も角、それは言いようだが、呪術的武装でもあった。

 その場合は「当たらぬ的」には、数多のデコイもあったと見るべきだろう。そして、仮に韜晦が偽装工作だったとしても、それ彼が固持したかった自己というのはそれ自体対象として興味深い。

 彼がくだんの様にこの世界に出現する事を拒んだのには、自身が信頼される事を拒否した為でもあろうと筆者には思われるものである。それは、彼が飽くまで最晩年に至っても、周囲の息子や孫ほど年が離れた者たちを「弟子」と称されるのを嫌がり、「友人」と呼び続けた事にも端的に現れている。今日では甚だ“無責任”とか呼ばれそうな態度ではある。然し見方によっては、それは己の面倒の見られるキャパシティーの範囲内で誠実に対応した結果とも評価出来るものだろう。

 彼が新聞記者として駆け出しの頃、彼自身が薫陶を受けた界隈の新聞記者気質というのは、彼自身にとっても内的な他者である自身の立場や信条というものに基づいて言論活動に携わるというもので(建前であっても)あった。故にそこから言える事は、人間よりもその抱懐している信条や価値というものが優位に立っており、それが記者の信頼の源泉であった訳である。

 現実には然し、そんな単純には割り切れないのであるが、飽くまでも記者それぞれが独立して何某かの「志」とかを持っている事が理想とされたのである。ただ長谷川の場合は自身の求心力を自覚しつつも、その現実的な問題として、自身に周囲から寄せられた期待に応え得る資本や能力に乏しい事も自覚していた。指導者としての彼の能力は、彼に寄せられた量に及ばなかったのではないか?

 期待は彼を生かす「生ける財産」であると同時に、稍もすれば彼を拘束して疲弊させる絆しであった。彼を業界に引き揚げた陸羯南三宅雪嶺といった新聞人も大きなカリスマ性を誇ったが、為に多年、他人の面倒を看る義務によって窮窮とする事になった。フリーランスを目指した彼の立ち居振る舞いは、終始、過度の要求を自らの上に置かないようにするものであった。にも拘らず、彼には相応の「義務」が度々発生した。これは失敗というよりも、彼一人を個人事業主として見た場合の、その事業の拡大に伴う必然だったといえよう。

 

 ラジオのマイクの前に座り、或いはテレビのカメラを前にして対談したりするようになった彼の最晩年は、その外見に似合わず、新規事業に着手したフリーのジャーナリストであった。肩書きや経歴、容貌は如何にも古めかしいが、彼がその都度始めた事業は新規のものが多かった。その中で彼は期待されたキャラクターを演じた訳である。

 悩める市民のリーダーとして嘱望された彼だったが、彼自身は飽くまで「ひとりもの」であった。

 そうして考えてみると、長谷川の韜晦は今風に言えば「社会人として当然の嗜み」だったと結論づけられてしまうだろう。実際、それに尽きるのである。

 だが、その嗜みの内に個人的な見解や感情ーー傍目にはそれは(乱暴な言い方をすれば)“陰謀論”とか映るようなものーーを、完全に自己の内部に窒息させてしまうのではなく、あの手この手で巧みにその輪郭をヴェールの膚に浮かべて示しながら、一方で読者をその向こうへ立ち入らせる事を躊躇させ立ち入らせず、更に「去る者追わず、来る者拒まず」を貫きながら、それでいて孤立して餓死してしまうようなことのない塩梅に自身の価値を調整し続けられたのは、物凄い、の一言に尽きる。

 それを「そんなの社会人としては普通で、大したことではない」と今日日一部では片付けてしまう事も出来てしまうのであるが、何事も「普通」は「当たり前」ではなく、何なら、その上で業績の評価が云々されるというのは如何にも大変な事なのであると筆者は此処で声を大にして主張したい。別にそれは如是閑を顕彰する理由からではなく、思うに一般論として捲し立てるものである。

 

 直接に、今日泊の流布したとかいう件の話と、長谷川の佯の話を結び付けるエピソードというのはないのであるが、『真実はかく佯る』で長谷川が随筆という形で示した寓話で数々、世に発表したのは、昨今巷を賑わす言葉で言い表せば、数々の陰謀論である。

 この陰謀論と、そもそもその容れ物としては格好のモデルケースとでも言えそうな怪談・件は筆者の中で、今一つの観念連合を形成するものである。

 

 そもそも如是閑というペン・ネームからして人を食っている命名で、本名は萬次郎であった。「如是我聞」とは経の唱え出しによくある起首の句で戸張竹風はニーチェの「ツァラトゥストラは斯く語りき」を「如是我聞」と訳したことがある。この「ニョゼガモン」を少しもじって「ニョゼカン」としたのだろうが、「かくのごとき閑かなり」という意を通せたものであろう。

ーー『長谷川如是閑のファース』、『悲劇喜劇』1982年2月号

 この、劇作家の飯沢匡が書いているような「如是閑」命名の由来も、見方・言い方によっては、陰謀論とでも呼べそうなものだ。

 確かに如是閑の寓話的な筆致に触れていると、そういう宗教的な印象も否定しがたく、そこからそんな由来も想像したくなるものだ。

 だがしかし、長谷川自身が回顧する所、1939年6月23日の東京朝日新聞夕刊3面に掲載された『雅号の由来』に依れば、それは先ず『日本及日本人』時代に友人の井上亀六(藁村、丸山眞男の叔父)が付けたもので、「余り忙しそうにしているから、少し閑になる呪いに『如是閑』はどうだ」というのが謂れなのだという。

 故に飯沢の説は誤りなのだが、この長谷川の記事には続きがあって、その後、同誌で名前を連ねていた花田比蘆思が「如是閑」の典拠を探し出して来たと長谷川に告げた所に依れば、それは伴蒿蹊の『近世畸人伝』に収められた世捨て人になった僧侶の作った詩の文句である、というのである。

 これは井上がそう後から主張した、とか、井上がそれを認めたのではない点が勘所である。

 その詩を紹介された長谷川が、これを典拠にしたのである。詰まり後付けの典拠なのである。これは花田説が正しかった訳ではなく、長谷川如是閑が公式にそう認めたに過ぎないので、実際は典拠不明のままなのである。

 寧ろ経緯から言えば、井上が付した由来の方が正当であろうが、此処で如是閑の例によって巫山戯る癖が表れている。茶目っ気と言ってもいいかも知れない。

 此処で如是閑が重きを置いているのは、井上の掛けた呪(まじな)いである。即ち「少しでも閑になるように」という験担ぎを重んじていて、そのコンセプトに叶うなら、後付けでも、寧ろ御利益のありそうな世捨て人の畸人に肖ってしまえ、という思惑が看て取れる。

 注目すべきは此のエッセイの中で、彼がそれとなく自身が重きをなしている価値観を示した点にある。それを此処では深く掘り下げる事は割愛する。勿論それは傍目には一見して他愛のない事なのであるが、彼の生涯や他の文章を読み解いておくと、矢張りその後付け設定は彼自身にとって軽くはない価値を有するのだという事が推し量られるのである。だが、それは飽くまでも彼の内なる宇宙の中で通用する価値観であって、他人にもすわ融通出来るものであるとは限らない。

 飯沢が感じた如是閑の印象は果たして彼の外に出てもある程度通用するものであるが、それが彼の発見した根拠に基づく訳ではない事は既に示した通りである。

 然し、此処で重要なのは、飯沢の印象も長谷川の拘りもそれぞれに「真実」と呼べるだろうという事である。

 

 妖怪・くだんの話す「言葉」は、未来の「歴史」に関する予言であり、それは「真実」とされるが、これがそもそも妖怪の発する言葉であり、それに纏わる言い伝えであるという留保が大前提である。

 然し、多くの人がその実在を信じていないか、或いは知らない妖怪の様にではなく、実際に存在するらしい誰か個人が、言ったとか言わなかったとかになると、その留保は存外脆く崩れ去るのである。

 

 唐突に、此処で押井守の映画の話を引っ張って来て論じる力量は筆者にない。だが、歴史という装置を通じて影を落とす真実は、もしかしたら存在しないのかも知れないーーという様な不安は、今、ネットに典拠も未記載で漂っている図像を彷彿とさせる。即ち、テレビカメラの前で追いかけっこをする二人の人間のシルエットが一部分だけ切り取られて、追っかけている人間と追いかけられている人間の関係がアベコベに報道されるーーという寓意画である。

 巷に溢れる報道に真実はないーーというような事を暗に長谷川が示したがっていたと考えるのはそれこそ陰謀論であろうが、真実というものをジャーナリストとして自分はとうとう示し得ないのではないか、という問題意識があったのではないかと考えるのは強ち遠からずではないかというのが筆者の見解である。所謂、ニュースなどは余り書かず、「探訪」と呼ばれた事件記者のような事もしなかったという長谷川であるから、その執筆活動には余計にそんな悩みが尾いて回ったのではないかーーというのは邪推である。

 だが、一人の人間が、世界情勢や人類史の推移などを分析しようとすれば、自ずとそうした限界に行き着きそうなものである。寧ろ、そこで「真理」の方向へ突き抜けてしまった人間の意識の広がりがどんな方向へ進んでいるのかは、怪しからんものである。ただ、それだから個人の限界なんてのは高が知れていると侮るのも拙速であり、その落とし所としての長谷川の見解は、最晩年のラジオ連続講義『私の常識哲学』に於いて縷縷述べられている所だが、それは要するに各々の生活の中で形成され、出来するものとして終始繰り返し説かれるものである。

 講談社学術文庫版の裏表紙にある紹介文は簡潔にして本書の内容をよく纏めている。

日本の代表的ジャーナリストである著者は本書の中で、氏一流の説得力ある常識哲学に照らして、真の哲学とは観念的ではなく、経験的、経済的なもの、つまり「人生いかに生きるべきか」でなく、「まず生きなさい」とその本質を説き、人間らしい生き方とは何か、真に創造的な文化とは何かを簡明直截に述べている。

ここでは真理という語は用いられず、「文化」や「哲学」が用いられている。そこでは矢張り、彼個人の真実が話の内容として語られる事はないのだが、その論旨は彼にとっての真実に相違なく、その意味で今日では大分怪しい内容に思われる。巷の自己啓発本の一に数えられるそうな印象も否めない。

 最早、誰に憚る事のなくなったーー否、憚る所のなく振る舞う事を要請された彼の論舌は、己が真実を事実として語る事に躊躇はないのであった。その内容への躊躇や批判は聴・読者に委ね、彼は残された時間の中で「斯く語った」のである。(然しその講演の後も、彼は十余年存命したのであるが……)

 

 

 『真実はかく佯る』は、所で、そのまえがきに示された「真実」や「ことば」「歴史」などのキーワードから、戦前に於ける彼の日本でのドイツ思想への傾向ぶりを批判しまくった文集であるとも例えば評価出来そうなものである。(ただこれは終始一貫した彼の自国に対する批判の骨子である)

 ただ今回はそうした視点はさて置き、幾つかの比喩を用いて雑駁な文章を記す目的から書き下ろした次第である。

 況やそれは個人的には退屈から倦んだ頭の中身を整理する目的から、そして他に対しては昨日今日の話題から触発されて、何かその疲労困憊した上に鬱積した鬱憤なりモヤモヤの幾らかの発散、気晴らしに供さんという考えから認めたものである。

 結論らしい事は何もない。それは全く本稿が最初に掲げた通りである。

 

(2021/01/12)