カオスの弁当

中山研究所blog

寓話作家の虚構性

 アイソポス作の寓話の実在は確かではないものの、寓話の作家・語り手としての彼の実在は二千数百余年の間、長らく信じられて来たものである。

 彼の名前が冠せられた寓話の中でも取り分け、有名な物語に『羊飼の悪戯』、通称「狼少年」という物語が挙げられる。

 そこで出て来る少年は、度々「狼が来る」と嘘を告げて回っては、周囲の人間を驚かして愉快に浸り、終には全く信を失った。そして、真実狼が現れた時には誰からも真面目に相手にされず、狼に襲われて惨死を遂げた。

 狼に食い散らかされた屍というのは、大方直ぐには誰と判別出来るようなものではないだろうが、アイソポスの痕跡も又、そんな嘘つき少年と同じ末路を辿ったものである。

 それも彼が仕切りに饒舌を奮った為であろうが、果たしてアイソポスと少年の違いは、彼が人々が面白がって聞きたがるような話を吹聴して回っていたであろうに対して、少年は誰もが全く耳にしたくもないような事を捏ち上げて喧伝し、混乱を煽動した点に終極していると言えるだろう。

 

 その代償として、少年は聴くも無惨な死を与えられ、物語の中の登場人物として明らかに、その存在を揺るぎないものとした。そして、その悪事を営々今日まで語り継がれている者である。他方、アイソポスの存在は賞賛と名声と共に数十億数千億の人口に膾炙され、人類史上稀に見る境地に達した殆ど唯一の作家となったが、その生涯に関しては悪行の一つも言い伝えられるような事なき存在となった。

 アイソポスと少年を比べれば、最早何処にでもいて、何処にもいないようなアイソポスの存在は恰も神の如くである。だが然し、見方によって、アイソポスも嘘つき少年も共に無名の哀れな存在として扱われているに過ぎぬものとして言い包める事も出来るであろう。

 

 所で、そんなアイソポスに代表される寓話作家の虚構性は、その作家としての筋の良さを表す指標であると受け止められるべきものである。と同時に、その肝心の言いを、時宜に時節に符牒した事共を伝えられなかった筋の悪さとしても受け止められるべきものである。

 作家が寓話を述べるのに、その時々の出来事についての洞察やら諫言を述べる事を目論んで創作したかも知れない事は、今日、彼の他、有象無象の作家達の残した無尽蔵の著述から察せられるものである。そうしたそれぞれの時代のかんばせを形容していたかも知れない事共は、しかしながら、紆余曲折を経て目鼻をすっかり失ってしまった。その数も果たして膨大な数に及ぶ。

 そんな、今ではしゃれこうべになってしまったような物語を有り難がって、肉付けしてかつての面目を復元したりするような作業も面白おかしいものであるが、そもそもこうした血肉の腐敗の原因になるような事は何であったかと思いを巡らせるにつけて、作家が凝らした工夫が災いしたーーという結論に達せずにはいられないものである。

 

 何よりも、寓話に生きた血肉として付与された「こそばゆさ」こそ、寓話の腐敗第一の原因として挙げられるものである。

 面目を形作っていた素材は、平生、何か深刻な物事とかに頭を煩わせるのを得手としない聴衆の耳目を集中させんが為に用いられた技芸であったのだろうが、それが果たして仇となったとは考えずにはいられないーーという訳である。

 

 これは世の作家が屡々、腕に縒りをかけて優れば優る程に到りがちな過ちであると言えるだろう。

 何事か言い得たかのように書き上げたとしても、それは所詮、何処までも譬えに過ぎず、真実相を示し得た訳ではない。しかし、観客はそうとは先ず思わないもので、はやとちりをしてしまうのであるが、これは全く人間の性である。何せそんなに悠長に生きられる程、人間の生は安泰でもないし、長大でもないのだ。

 そんなそそっかしい生き物に対しては、先ずそれが誰かの創作した物語であり、自ずからそこには作家の偏見なり穿った見識というのが潜んでいるのだーーという警告を示しておく必要がある。勿論、騙くらかして骨の髄までしゃぶり尽くして食い物にしようと企んでいる場合には、そんな文言は必要ないのであるが、即ち、「信じようと、信じまいと……」という口上や、作者の氏名、作品・書物の制作・発行年月日、発行者名・版元などなど、本の奥付に書いてあるような事柄が、作家の如何ともし難い過ちを補完する「おまじない」なるのである。

 だとしても、そこまできちんと目を通すような読者なり視聴者というのは決して多いとは言い得ないのが実際の所である。

 ただ言葉として「物語」を知っていたとしても、それがどんな風で、どんな事柄を指すのかーーという事までを知らずに一生を過ごす、という人間の数も又、過少とは言えないものである。

 そんな人間は大抵、激情に任せて上演中の舞台に踊り上がったとしても、自分がそこから無碍に排除された理由を最後まで分からずに、遣り場のない悲憤に駆られて余生を過ごす事になるのである。

 更に、当の本人からしてみれば、それが一そ芝居の最中に舞台の上に闖入してしまったものであるからだった、と認めてしまえば楽になるものだろう、と察しが付いていたとしても、諾々として自分からは認められようものではないのである。

 そして、それは人生の殆どをスクリーンか、或いはモニターを前にして終えてしまったというような事を、それによって追認しなければならないような状況に既にして陥ってしまっているよう者であるならば、尚更、困難な一事であるだろう。

 

 さて、この様な愁嘆場に到ってしまった人間は、せめても自分にとって都合のいい物語を何とかして残りの人生をかけて良い塩梅に創り上げようとするが、殊更物語を作る研鑽をそれまで積んで来た訳ではない者達にとって、何か自分と同じ名前の人物を主人公に仕立てた物語を描こうとする試みが、そう上手く運ぶ筈もなく、結果として、より多くの資源を無駄にして困窮する羽目となる。そして、更に深刻な後悔と苦痛を被りながら、とぼとぼと力なく先の短い隘路を肩を窄めて歩くより致し方なくなるものである。

 

 不世出の寓話作家ですら果たして、本意か本意ならざるか、自らの創作物により生涯を食われてしまったものであった。

 仮にアイソポスが世にいう真理、真実と呼ばれる何事かを語らんとした者だったとして、正しくそれらは彼自身をして世を欺きせしめた挙句に、世人をして彼自身を真理の代名詞として残らず食らい尽くせしめ、後世に余塵も残さぬよう仕向けたものであった。そして、彼の語る所を挙って求めた消費者も又、同様に自身の名前を残す事なく塵に還ったものであった。

 

 自らの生涯や思念について何をか言わん、言葉を費やさんとした時には最早その弁舌が全く用を果たさなくなってしまっているのは、何も作家許りの運命ではない。

 それは普段から自らの駆使する言葉というものを買い被り過ぎる嫌いのある人間の、未だ幼きに因むものであると思われるものである。何か今現在達している段階の言葉という道具を用いて、その道具で輪郭をなぞった真理を捉えられると自身を頼んで疑わぬ姿勢ーーそれこそが、アイソポスに代表される顛末を招来するであろうものである。

 そうして、人間が、自らが全く言葉というものを使い熟しているものだと思い込んでいる内は、こうした出来事は数万年、数十万年、数百万年の間繰り返され、そして数千万年か経た後に、漸くその後裔が辛うじて生き残っていて、この「言語」とかいう機能を何とか使い熟せるようになった頃には、アイソポスの寓話も、現生人類の痕跡も、僅かに地層の数ミリメートルに名残を留める許りとなっている事だろう。

 

 それを幸と捉えるか不幸と捉えるかは、人それぞれの立場に依るだろう。

 だが、概ねこの様な事柄は全く一個の、健康な人間の生涯には無縁な話であると筆者には熟思われる次第である。

 

(2021/01/24)