カオスの弁当

中山研究所blog

機能と実用

 電信柱や鉄塔、鉄道とかそういったものにしばしば言われる「機能美」には、枕詞に「装飾を廃した」とかいうの言葉が置かれる事が間々ある。

 けれども、そこで余計なものとして邪険に扱われている装飾の担う役割を、構造物自体が負っている場合、装飾を殊更蔑めるような事をすると、結果として構造物自体を「下げる」事にもなりはしないかーーそう思われたりする。

 

 勿論、次のような意を組むことも可能である。というか、寧ろ、そうした文脈で言わんとしているのは、こっちだろう。

 即ち、しばしば装飾で以って示されているらしい「美」は、本物の美にあらず、構造物によって体現されている所の「美」が本物の美であるーーという言いである。

 これが頗る鮮明な対立意識の発露である事は敢えて言うまでもない。

 

 しかし、自ずと外野からは、ならばわざわざ「機能美」だなんて呼び方は止して、もっと他の、別の呼び方をすればいいじゃないか、と思われたりもするものである。

 だが、そこでハタと会話が行き詰まる瞬間に出会す事になるのは目に見えていて、それが恐らくは機能美を語る人間達にとっては、一番堪える瞬間のように思われたりする。

 ただ、そこでグッと堪えて、何をか言葉をつくらない事には、それらを称揚しようという人間達にとって、本当に「機能美」を祭り上げる事には繋がらないだろう。

 

 機能美に近い印象をもたらす言葉で「実用」という言葉がある。

 確かにそれは、機能美で言わんとする辺りの持つ一面を、それよりか強調した表現であろうと思われる。だがしかし、これも矢張り言わんとする所を余さず含んでいるか、というと未だ未だである。寧ろ「実用」とかいう言葉は、稍もすると、機能美という言葉で表明していた意識と対立する場合さえある。

 飽くまで、「美」という言葉を用いて残そうとした機能美を、時に実用は装飾に対して不十分な機能美が遇したように排除しようとする。これに対する機能美の立場は曖昧で、実用を自分達の核と見做す朋輩は、実用が自分達自身を切り離しに掛かる事にも無関心であろうとし続ける。

 他方、無関心でいられない勢は、嘗て自分達自身が切り崩そうとした装飾よろしく、これに抵抗してみせたりする。その場合でも、果たして自分達自身の不十分さには無関心の体を成している。

 そうしないではいられない、という事情も分からないではないーーというのも、殊、機能美の置かれた立場というのは、あんまりに酷薄で、どれだけそこから先に論を進めようとしても、為の資材が、余裕がないのである。

 

 ただ、そんな悩みとか苦しみとかいうものは飽くまで言葉にしようとすればこその葛藤である。

 そうしようとしなければ、果たして機能美の立場は明解だ。それは「いい仕事をする」という一事に尽きてしまう。

 山とか海とか、生態系とかは人間には作れないものだと考えられている向きは今でもない事はない。だが、それが(良かれ悪しかれ)出来てしまっている現実は確かに在る。

 電信柱や鉄塔、地中の水道管や地上の道路や鉄道など、そうした人為は言語を俟たず、二十四時間三百六十五日、人間による「いい仕事」を体現し続けている。それも日々、耐えざる保守点検の上に、である。

 

 そうした事を意識したくないのは、ひとえに最初に示した対立意識を、その問題の存在自体をはなから認めない為だとか、邪推したくなるのは、私ーー筆者が、何方かといえば機能美寄りの人間だからに他ならない。

 例えばローマの水道橋が何百年経っても堅牢なのは、現代よりも古代の技術が優れていたからで、故にローマは偉大なのだとか、そういう話は聞く耳を持とうとは正直思わない。

 刹那的、というのは概ね良い意味では用いられないが、思うに機能美は刹那的で一回こっきりである。それは、生きた人間を道具として見た時に最もよく分かる事である。

 その場合、人間は消耗品である。その消耗品が為す仕事というのが美しいのは、決してその道具の価値に因むものではない。どんなものでも生きた人間の所産である事には違いない、が、そこに良し悪しがある。しかも、それを決める秤というのは天与のものではない。

 そして、そんな生ける消耗品達にとっての機能美というものは、そうではないやんごとなき品々には関係のない「美」である。

 土台、生き方が違うのだから、こればかりは仕方がない。

 

 いい仕事は願っても一生の内に、道具のどれもが携われるものではないが、願わくば道具で終わる以上はそういう仕事にあり付ければーーと願う所だろう。

 だが、その念願、発心がそもそも悲惨ではないか、という批判に拠って立つ所から、機能美はそんな道具達が、自分達も人間である事の証し立てとして用意された感がない事もない。

 しかし、どれだけそこで道具達が自分達も人間であると言い張ろうとしても、所詮は自分達が道具であるという証明を先ず打ち立てようとしているに過ぎない事に、或る程度、話を進めた所で道具は気付いてしまうのである。

 そうして、愈々自分達の前提を打ち壊そうとした時に、機能美は、自分達の目標すら破壊してしまう事に気が付いてしまい、それ以上、自身を奮い立たせる事が出来なくなってしまう訳である。

 

 そこで必要なのは、百尺竿頭からなお一歩踏み出す心意気なのだが、これも当然ながら、刹那的な向こう見ずな行為であって、駄目で元々である。だがそれが絶えず普段から必要な、その位に人の世は不安定で、人類の文明というのは脆弱である。それが磐石に思われるのは、普段から膨大な身投げが為されているからだろう。機能美はそうした貢献への尊敬も当然含むのだろうが、それが苦痛の種になるのも一面の真実には違いない。

 

 実用という言葉は、この機能美の有する心苦しさを除去したものではないかと私には思われたりする。ただ、言い方を変えたからと言って、それがなくなった訳ではない。人間の営為に伴う心苦しさから逃れて、自然の内に楽土を見出そうとするのにも、実用と同じ忌避が看て取れるものだ。

 そんな考え方で「無駄」として排除されているものは、他でもない、何某かの感性なり、注意や関心そのものであって、それだから別段、本当には生活を改める必要もなかったりする。

 

 自分が何方かと言えば道具よりだ、という事は先述した通りだが、それだから私の場合には、その苦しみとかから逃れる術として、自分を何かの道具にしてしまう事を選択肢として選んでしまう。そうして、単に積極的に痛みを和らげようとかいう考え方に因むのではなくて、些細で稚拙な仕事ながらも、自分自身の性分というのがそもそも、道具に相応しい事に気が付いた時に覚える安堵を得ようとするのである。

 それを非難するのは簡単である。そして、そんな非難を受けての私の態度も実に曖昧なものである。というのも、結局それは大した仕事も出来ない内だからだが、辛うじて、そもそもそんな痛みを伴うにも拘らず、それにも我慢出来るような仕様になってない人間とかいう道具の仕立てがなってない、という減らず口を叩く事は出来ると思っている。

 それは私の「人間」に対する理解のお粗末さの証左でもあるから、勿論、そんな場面に出会さない事が何よりだが、何か普段から電信柱や鉄塔の話を事ある毎にしていると、いつかそういう衝突があるかも分からないのが実情とに思われる。

 だが、そんな衝突の一つも生じないような事態も私は望んではいない。

 自分の広めている話がそうした衝突に至るであろう事が自ずと目に見えている場合、係争は覚悟の上で行わなければまずい仕事であろう。

 決してそれを欲している訳ではない。ただ、その目論見が外れた場合は、自分がミスリードしていたという事になるから……ミスリードであって欲しくない、という願望があるのも否み難い。

 

 そして、今ひとつ本音を記すと、自分は機能美が「役立つから美しい」というような事を言っているような風にはなって欲しくない。役立っているとかいないとかいうのは、概ね感想に過ぎず、それを判定するのは恐ろしく難しいのだ。

 だったら、潔く快不快で切った方が判明でいいと思われる。役に立つ、立たないというのが姑息なのは、それが一見して何か快不快という見地から離れた指標に見せ掛ける言いだからである。そんな方便を使用してまで、どんな守るべき体面があるのか、とは果報者の自分の見である。

 「だから何?」で一蹴されてしまうような、浮薄な何某かに依拠するのは自分も同じである。ただ、その掴んでいる拠所とするものが違うのであって、それがお互い知り合わず、打つかり合いもせず、お終いまで関わり合いがなければ、一顧だにせずとも済むものであろうが、そうもいかないのが、ご時世であり、浮世である。

 更に、自分からわざわざ口論の火蓋を切っているのだから、全く知らぬフリで管を巻く事は無理である。そこで尚更、火の粉を避けようとして動こうとすれば、その仕事は中途半端に終わるように思われる。

 

 所で、結局、私が此処で記したような機能美云々の話は所詮私丈の話題であり関心なのかも知れないが、だとしてもその道具を自分で用意して何か作る事はやめられず、それは私自身にとり楽しい事である。そうしている間、自分は自分を道具として上手く働かしている実感を得る。そうして得られるのは心身の健康であり、これは私自身の生存に不可欠である事は言うまでも無い。

 消極的で裏寂しい、心苦しさを紛らわす為ではなく、私は積極的に健康的であろうと欲する。

 機能美は果たして、健康とも密接に結び付いている。それ故に気付き難いのであるが、自身の生存と密接に結び付いている事が、これの特徴のように考えるものである。

 普遍的では無いにせよ、自分にはこれより他の生活に関心を持つような事は難しいし、強いてそうする必要を感じる事も今の所は無い。個人的な背景がそっくり迫り出したものだと断言出来る。それを凹ませるのが何か作法だとしたら、いずれそうする必要が出て来たらするまでの事で、今の所はこのままで過ごそうと思う。

 それが吉と出るか凶と出るかは、それこそ分からないものだが、少なくともそれで駄目だったら、はなから無理な相談事だったのだと知れる迄の事である。

 

(2021/02/27)