カオスの弁当

中山研究所blog

始メノ如ク終ワリヲ慎メバ(1)

 

始メノ如ク終ワリヲ慎メバ(2) - カオスの弁当

始メノ如ク終ワリヲ慎メバ(3) - カオスの弁当

 巷に流布する如是閑グッズを蒐め始めて二年目に突入した。

 見かけたものの入手できなかったものも少なくないが、取り敢えず、入手出来るものは取り敢えず確保して来た。

 今のところ、来歴がいくらかわかるのは掛け軸一本のみで、それ以外は記念品なのかな、くらいしか検討がつかない。

 

 如是閑の直筆には年号が書いていないものが見た限りだが、多い。なので余計に推定し辛いのだが、最晩年の頃になると、「卒寿翁」という肩書きを添書しているものが目立つ。

 とはいえ、やはりそれが誰にどういう場面でどういう意味合いで書かれて贈られたものか分からないのでは、仮に真筆だったとしても資料としては扱いに難がある。

 

 最初に手に入れた如是閑グッズは、九十歳の時の色紙だった。「慎終如始」の四字を揮毫したもので、歳の割にーーというと失礼だがーーしっかりした筆致でバランスも良く配されており、何より特徴のある「如」の字が大きくはっきり確認出来るよいサンプルであると思われる。

 さて、この四字熟語だが、これは如是閑と因縁浅からぬ『老子』の一節である。これを彼が誰かに請われて書いたのか、或いは進んで揮毫したのかーーそういうのこそ、筆者が自分で調べなきゃいけない事柄なのだが、生憎まだ全然調べていない……。

 しかし兎も角、個人的にはこれを如是閑の人生訓と見て間違いないと思ってたりする。

 

 だが、この「慎終如始」は彼の文芸作品には徹底されなかったきらいがある。

 何故に文芸作品“なんか”を持ち出すかといえば、筆者の関心が専らそちらに存するからであって、我田引水以外のなにものでもない。

 如是閑の文芸作品は彼の執筆活動の中で一ジャンルを占めていたが、それにしては現在の扱いは今ひとつ、の観がある。

 それは何より、小説なり戯曲なりが読んでみて実際そこまで面白いものばかりかというと、そうでもない為である。

 

 代表作に数えられる『ふたすじ道』は、少年院にぶち込まれて出てきた元・スリの少年が、堅気になろうとするが、結局、泥棒稼業に身を沈めてしまう顛末を描いた「佳作」である。

 何でこの話が佳作なのかと言えば、物語の始めと終わりがはっきりしているからである。その判明なプロットの上に、必ずしも少年の堕落が彼自身の意気地のなさに因むばかりではない事ーー即ち、彼が心の支えにしていた幼馴染の姐さんが、父親が成した高利貸しへの借金の方に身売り同然に嫁していくのを止めんが為に奉公先の金を盗んだ下りーーが加えられる事によって、ある種の告発や社会批判が成立するという訳である。

 

 『ふたすじ道』は彼の処女作であると同時に、「如是閑」以前のキャリアではあるものの、実質彼の署名と共に初めて一般に流布した文章でもある。

 この時の彼の状態というのは、家計の破綻と病気の為に学業を中断するを余儀なくされ、貧乏暮らしの中で床を離れられない、忸怩たる有様であった。そんな状態であったから、彼自身後年振り返ってその時期に書いたものについては、漫ろ書きだったように嘯いているものの、真実その前後に書かれた文章を合わせ読むと、年相応の焦燥と野心と劣等感と、何より自負心とが表出している。

 ただ、そんな時期の彼の文章の中では、『ふたすじ道』の文章は珍しく「現在でも読みやすい」文章になっている。これには相当、如是閑もとい長谷川“胡戀”が意識してその筆を構えていた事が容易に看取せられるというものだが、彼自身がその後もこの時のように意識して筆を構えるような事を続けて居れば、幾らか彼の文学者・作家としての声望は今日も続いたものであったろうと、筆者には思えて仕方ないのである。

(続く)

(2021/03/02)