カオスの弁当

中山研究所blog

始メノ如ク終ワリヲ慎メバ(2)

始メノ如ク終ワリヲ慎メバ(1) - カオスの弁当

始メノ如ク終ワリヲ慎メバ(3) - カオスの弁当

(承前)

 所でだが、如是閑と言えば何という肩書きが相応しいものであろうか?

 最も妥当なものは、新聞記者だろう。だが、今日では「ジャーナリスト」とか「思想家」、「知識人」というものまで散見される。寧ろ、新聞記者とだけ書いているものは少ないように見受けられる。

 ここで少し、そんな彼の肩書きから「知識人」について考えてみる。

 色々な意味はあるだろうが、筆者が思うにこれは「パトロンを持っている、そのパトロンから賢い人間だと評価されている人間」で、尚且つ、その生活の面倒を「間接的に」(ここ重要)支援されている人間を呼称するものであるとするのが妥当なところであろう。

 世間に数多ある「人気者」の種類の中で「頭が良さそうなキャラ」で売っているタレントーーそれが「知識人」である。実際に知恵者であるかは別問題である。具体的には、何かその人が講演会を開くなり雑誌を自分で作ろうとした時に、その雑誌を後押ししてくれる資産家のマダムが居るとか、名望家のサークルが控えているとか、そんなところである。

 数多のファンに支えられている、という訳でもないのが、付け加えて言うなら、今一つの「知識人」の条件だろう。

 

 勿論、そんな乱暴なことを言ったら袋叩きに合いそうなものだ。が、しかし、何はともあれ、袋叩きみたいなヤクザな事はしていい道理は何処にもない。言うまでもない事だが、念の為、である。

 さて、そんな手前味噌の意味に照らせば、彼如是閑は紛う事なき「知識人」である。

 ただ、ここに果たして、所謂世間的な如是閑像の多層性が明らかになるのだが、所謂「知識人」としての如是閑は、実際の所はごく狭い世間で活動していた食客未満の存在である、と同時に、職業的にはフリーとは言いながらも新聞記者であり、コラムニストであった。大手新聞や雑誌を通じて、多くの読者が見るのは飽くまでそういうチャンネル、媒体を通じて彼が演じてみせた世間体である。片や、如是閑個人が主体となって発行していた雑誌を通じて提供していた如是閑像は、明らかにそれとは区別して考えられるべきものであろう。

 

 「論客」「論壇」なんて事を言えばあたかも聞こえは良さげだが、所詮は観覧席に座る客に買われて席に座る品である。本当に請い願われて、三顧の礼でそこにいるーーというような品であるかといえば、果たして如是閑も如何だったか、甚だ怪しいものである。

 何せ彼は博士でもなければ、官僚でもない。実業家でもなければ政治家でもない上に、学歴でいえば当時の専門学校の卒である。しかも実家は破産したーーと来るから、「羽織りヤクザ」と呼ばれた新聞記者には相応しい品である。

 ただ、そんな彼のキャリアを後押ししたのは、彼より先に家計の現実と折り合いをつけて、早くから新聞記者として頭角を顕していた兄・笑月の存在であった。この笑月の存在を抜きにして、後の「叛骨のジャーナリスト」長谷川如是閑はあったものではないのだが、話がどんどん散漫になるから此処ら辺でやめにしておく。

 とはいえ、東京と大阪、両朝日新聞の社会部長の席がこの兄弟によって占められていた事実をなまじっか蔑ろにして、「知識人」如是閑のキャラクターを論じるのは手心加えすぎの感が無きにしも非ずだろう。

 

 

 話をそろそろ前回に引き続く形に軌道修正する。

 如是閑もとい胡戀のデビュー作は、懸賞金付きのコンテストで入選したものだったが、結局その賞金が作家の元に支払われなかったのは有名な話である。

 小石川の荒屋で病気療養中だった後の如是閑青年が、この間、ほぼ唯一外出らしい事をしたのは、そのコンテスト主宰者に直接賞金を取りに行った時だけだったーーとわざわざ半世紀以上経った後の自叙伝にも書くくらいだから、余程何か記憶が残らずにはいられない事だったのだろう。

 現実的には家計の窮乏と病気によって現在の生命すら危うい状態にあって、辛うじて生き長らえたとしても自身の立身出世どころか将来のキャリアも消えたも同然な条件の下で、何とか書き上げ、辛くも手に入れた小説の賞金が不意になったとなれば、中々に根に持って然るべき事項だと傍目には思われる。

 本人は晩年、雑誌の連載の中で当時を振り返り「いや、あの当時は家族揃って楽天的で、自分もそうだった」云々、吹かしているが、これを言葉通り受け取るのは、精々がその自叙伝が連載されていた雑誌の読者程度であろう。そういう飄々とした、如何にも老獪な人格が求められた雑誌媒体であった事を抜きにして、いかんせん読めないのが如是閑の記事であり、著作なのである。(無論、これは凡その著述家の著作に言える事だろうが)

 

  差し詰め「新聞タレント」として大成した如是閑であるが、彼が新聞タレントもとい新聞記者を志向して、所謂小説家を志向しなかったのは不思議と言えば不思議である。

 とはいえ、彼が新聞『日本』並びに『日本及日本人』を経て大阪朝日新聞社に入社した時点で、既に彼の小説家としてのキャリアは確立していたのであるから、大したものである。

 確かに『ふたすじ道』のような作品はその後暫く書かなかったが、それは彼の在籍していた新聞のカラーに削ぐわないものだったからだろう。なまじ小説などの娯楽も売りにしていたような朝日・読売に代表される小新聞に駆逐された大新聞の筆頭が『日本』とかだったりした訳である。

 如是閑はそんな「旧世代」の新聞の若手記者であって、その意味で「三面」社会面を任されたのは多分に経営的判断にも基づくものだったと見て良いものだろうが、そんな中で今現在でも矢鱈とツイッターBotによって流布されてるような『如是閑語』が生まれ、初期短編小説の『日本』『日本及日本人』に初出を持つような作品がこの時期執筆された。

 その小説群を俯瞰すると、『ふたすじ道』のような安直さは形を潜め、何やら慎重迂遠な物言いが目立つ作風となっている。ただ、これが少なからずコアな読者にウケたらしいのは、後の彼の「仕事」にも影響してくるものであり、それが今日的にはちっとも物語的には面白いとは思えないような作品がであっても、等閑には出来ない理由である。

 

 『日本及日本人』での仕事が結局、立ち行かなくなった後、兄・笑月の裏付けもあって入社した大阪朝日新聞でのデビューはすっかり鳴り物入りの興行となった。

 勿論、それが小新聞得意の誇大広告であったにせよ、それをするからには大朝から見ても、如是閑は少なからぬ実績を残したものと評価されていた事が此処から分かるのである。

 そして、その期待に応える形で如是閑もその「作風」を確立していく訳であるが、勢い付いた大阪朝日新聞は、往年のテレビ局よろしく、大型新人である新聞記者、もといタレントを方々に派遣して紀行文を書かせたりした。

 それが本人の意向にも合致していたので、後年、一世紀近く経った現在から振り返ると、その高邁な理想の威光に隠れてしまって、そうした興行的な新聞社の目論見が見え辛くなってしまうのだ。

 如是閑紀行文の白眉たる『倫敦』は、取材中現地での思わぬアクシデント(現地で開催されていた日英博覧会の取材をしようとしていた所で、当時の英国王・エドワード7世崩御(1910年5月)、急遽その国葬やら取材にも奔走する事になる)の取材も相俟って、旅費など予算をだいぶオーバーしたものの、世間の評判を買い、結果的には如是閑自身の新聞記者としての声望を不動のものにする連載となった。

 即ち、著述家、ライターとしての仕事の仕方を如是閑は大阪朝日新聞時代に習得したものと筆者は考える次第である。

 

 そんな如是閑だが、『ふたすじ道』以降に再び、比較的判明な小説を書くようになるのは、雑誌『我等』を自分で刊行するようになってからである。

 これが意味するのは、果たして今までとは違った読者を相手に、違うキャラクターで自分を世間に売り出して行こうとする、職業人としての如是閑の思惑である。

 

 なまじ、小説家ではなしに、新聞記者としての才能があったものだから、筆を奮わなかったーーという訳でもないのが如是閑というタレント、もとい新聞記者の出色であり、彼は籍を大朝に置く間にも、古巣を支援する形で自作を寄稿し続けた。それは矢張り、彼の若さが助けた仕事ぶりであったと思われるが、それが結局、大阪朝日新聞社退職後の再出発に当たり、少なからぬ励みとなったのだから、つくづく感服するより仕方のない精励振りと言えるものである。

 

 ともあれ、あんまりこんな事を書いていると、何だか文章が稍もすればアンチ如是閑の風情も冠してきたので、一応断っておくと、筆者は別にこれを何か非難するつもりで書いたのでもなければ、誰かの偶像を冒涜するつもりで書いたのでもない。

 ただ単純に、この場に相応しい言葉を用いれば「リスペクト」から書いたものである。

 その「リスペクト」が稍もすれば慇懃無礼にもなり、はたまた、ミスリードも誘発するとしたら、そのバランスでもって、果たして読者諸賢には、何卒ご海容頂ければと希ったりする所存。

 

(続)

 

(2021/03/02)