カオスの弁当

中山研究所blog

神と悪魔と科学のエキスペクテーション、或いは不思議の線

▲人類の絶滅は神と悪魔と科学のエキスペクテーションなり。

▲人間の生命は国の生命より永からず、国の生命は地球の生命より永からず、地球の生命は宇宙の生命より永からず、宇宙の生命は人道の生命より永からず。

 ――長谷川如是閑『如是閑語』(1915)

 「描かれる電線と電柱」については、近年ノスタルジーを喚起するもの、とか、ノスタルジーの対象という風に言われる事が間々ある。ただ、そういう切り口が概ね皮相的に止まるのは、議論の対象である「描かれた電線と電柱」の為であると目するよりかは、論者のノスタルジーについての議論の低調さに起因するものであると見た方が適当であろう。

 この低調さについて、思うに筆者は2011年以降の電線と電柱に因んで惹起されるようになった今一つの印象の事が頭に過ぎる。

 それは、電力というものがそれ自体、現実の不安定さの象徴になってしまった、という印象並びに見解である。丁度それは、火傷をした子供が火と見たら全くこれを頑なに恐怖して拒絶する――という古めかしい比喩が全く相応しい反応である。ただ、この比喩自体が、それを用いるのが甚だ不適切であり自粛が求められるものと今日も「一般的に」判断されるものである、と、10年が経過した今日も筆者には肌身に感じられる。そして、これは何も筆者個人に限らないだろう。

 ただ、そうした自粛のコンセンサスは明確にただの一度も交わされた験はないと言っていい。にも拘らず、確かにそうした「規範」は存在するのである。ただ、それは規範というには聊か不穏当であり、屡それは全くの議論の余地もなく適応され、反省と自己批判とを要請する傾向にある。

 そんな規範が広く世間に伝播してしまった以降において、幾らかでも良識的に振る舞おうとする人々が、無邪気にそれらについて語る口を噤むようになったというのは、如何にも有り得そうな見立てであると筆者は考えるものだ。然し、この見立てが仮に的を射ていたとしても、それに基づいて種々の配慮を重ねた末に、ノスタルジー、郷愁を語るという向きに舵を切ったのであるならば、それは一見して適切なようで実は大間違いであろう。

 

 ノスタルジーは「電線と電柱」と密接な関係にある概念である。だからノスタルジー一辺倒でも「電線と電柱」を語ってしまおうとすれば、強ち一見して説得力があるのであるが、それ故に厄介な傾向なのである。

 それに拍車をかけるのが、ノスタルジーと対を成すような、カタカナ言葉が日常的に使われるものの中で見当たらない状況がある。これは日本語に於いても同様である。

 これに対して、昨今巷で見かける言葉をここで試みに当ててみようとすると、「郷愁」に対しては「希望」や「理想」が挙げられるかもしれない。然し、筆者は「希望」や「理想」は別次元のものとしてこれを当てず、「予感」「期待」という語を対置しようと思う。

 この「予感」「期待」のカタカナ語にはエキスペクテーション、より堅苦しい表現では、アンティシペーションがある。取り敢えず、此処ではエキスペクテーションをノスタルジーに対するカタカナ語として措く事を提唱するに留めるとしたい。が、例えば、この様な術語にしたって、一々議論がなされていても然るべきなのである。

 然し、巷間にはノスタルジー一辺倒の向きが無きにしも非ず、これが筆者の目下悩みの種といえるものである。詰まり、元よりこうした来し方10年の事情に関係なく「ノスタルジーだけ」を論ずるに満足してしまっている向きというのが、一定程度常に力を有する現状が別に存在しており、そうした向きと現今の傾向とが合流した時に起こる甚だしい停滞に対する憂慮乃至杞憂を抱きているという訳である。

 

 ただ、直近では練馬区美術館で先月末から開催されている『電線絵画』展や、今週最新作が封切りとなった『ヱヴァンゲリオン新劇場版』シリーズが、「電線と電柱」について注目すべき言及を行っている。

 例えば、『電線絵画』展に於いては、電柱・電信柱同様に架線を有する路面電車について、今でこそそれは純然たるノスタルジーの眼差しで見つめられるものであるが、それが登場したばかりの頃に描かれた絵画に於いては、架線を含めて「最新の都市風景」であった事が指摘されている。これは果たしてノスタルジー一辺倒に対する過去作品の鑑賞という見地に依った指摘であると言えるのみか、「電線と電柱」が未来への予感や期待、即ちエキスペクテーションの対象として存在していたことを示す意義深い指摘でもある。

 又、最新作『シン・エヴァンゲリオン劇場版』が公開中である『ヱヴァンゲリオン新劇場版』については、同じ監督による90年代に制作されたオリジナルと呼べるテレビアニメーションシリーズ及びその劇場版(通称「旧劇場版」)と併せて、1990年代のアニメに於ける「電線と電柱」のメルクマールとして目された時期が長く、界隈の議論に於いても常に主位を占めて来た作品であった。故に、この程完結する『エヴァンゲリオン』シリーズの「新」「旧」に於ける「電線と電柱」の比較研究は、当座「アニメに於ける電線と電柱」の、ひいては「描かれた電線と電柱」”研究”の大きな課題であるとも言えるものである。

 

 こうした極々最近の「電線と電柱」を巡る活発な動向が、常に停滞しているように見えた斯界に勢い息吹を吹き込むことにならん事を、筆者は密かに願って止まないものである。

 それは又、個人的には、ノスタルジーという居心地のいい言葉とその魅力とに安穏を求めて、そこに止まり続けるを良しとする一定の向きに対する反発に因むエキスペクテーションでもある。

 そして、これと併せて、今一つ、世間に於いて「電線と電柱」に限らず、現在憚りながら交わされている種々の議論が今よりも十分に成し得るような寛容さがこれ以降、醸成される事についても期待を寄せるものである事を最後に付しておきたい。

 

(2021/3/11)