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中山研究所blog

観念小説作家としての長谷川如是閑

 小説家としての長谷川如是閑のキャリアは存外、その位置付けははっきりしている。だが、なまじ作家としての評価よりも、新聞記者、ジャーナリストとしての評価が抜群に高いから、わざわざ省みられる事は多くはない。

 明治29(1896)年といえば、日清戦争終結の翌年、この年に長谷川は処女作となる小説『ふたすじ道』を発表、小説家にして評論家の後藤宙外の主宰する雑誌『新著月刊』に掲載された。

 実の所、これが長谷川“如是閑”萬次郎の物書きとしては最初の「仕事」である。彼の文章が活字になったのはそれよりも更に遡る事、明治21(1888)年の事で、「長谷川満治郎」名義で少年雑誌に投稿した文章『そぞろあるき』がそれである。ただ、これは年齢的にも正式に彼のキャリアと数えるのは些か早計であるとは筆者の見である。

 

 『新著月刊』からは掲載作品に対して幾許の稿料が支払われる筈だったそうだが、実際には得られなかったーーと、長谷川は回想している。また当時、病を患って絶対安静を医師に命じられていた身体を押して尋ねた長谷川は、後藤から

「あなたは一寸変わった環境に育ったと見えますね」

と言われたそうである。

 長谷川の作家としての位置付けは、直接間接にも坪内逍遥というビッグネームの影が付かず離れず見え隠れしている。直接には、長谷川は幼少期に兄・山本“笑月”松之助と共に、坪内の私塾に学び師事している。そして、長谷川が小説を見せた後藤も又、坪内の影響下にあった文筆家の一人であった。

 所で、この『ふたすじ道』発表時の長谷川のペンネームは、「如是閑」ではなく「胡戀」であった。本人すらも、それを後では「支那の女の名前」といい、念願叶って『日本』新聞社で記者として働き始めるようになってからは、「胡蓮」と改めた。

 更に、三十代に入った『日本及日本人』記者時代に同僚の名付けから「如是閑」に改名するのであったが、その間、約十年の間をして長谷川如是閑の“前史”と見なすのが妥当あろう。

 因みに、Wikipedia長谷川如是閑のページでは、「如是閑」のペンネームは『日本及日本人』の後に入社した大阪朝日新聞社時代に名乗ったものという記述があるが、これは誤りで実際はその前から既に「如是閑叟」「如是閑」「閑叟」の署名を用いている。

 

 そんな如是閑前史に相当する、二十代の長谷川のキャリアは専ら作家であったと見なすのが妥当な線だ。

 長谷川如是閑として驍名を馳せるきっかけともなった、大阪朝日新聞連載の小説『?』(明治42(1909)年3月-7月、連載。後に『額の男』と改題して書籍化、同年8月)だが、これはそれ以前に『日本』『日本及日本人』という名うての大新聞の社会面で鳴らした文筆の腕を活かした作品であった。

 彼が作家になろうか、新聞記者になろうか悩んだ話は、歴史上に於いても新聞記者としての揺るぎない地位を確立してしまった後には、「言葉の綾」と捉えられがちであるが、経歴をあらためると然程、冗談でもない事は明らかである。

 如是閑として活動を本格化していた時期においても度々、戯曲や小説、随筆を執筆した長谷川のこうした創作活動は、概ね当時も今日も「小説や戯曲の体を成した社会分析、批判」として捉えられがちである。それは実際、その通りなのであるが、けれどもその言外には「故にそれらは文学作品として数えるには足らないものである」とする評価が据えられていると見て間違いないだろう。

 

 ここでその評価の遠因を辿っていくと、果たして彼が最初にキャリアを始めた日清戦争直後の、観念小説・悲惨小説・残酷小説、そして社会小説の試みとその成果に対する評価に到達する。

 況やそれは、飽くまでも小説が物語である以上、如何してもそこで取り上げられる事象への批判も物語の本筋である所の、人間関係の異動や感情の浮き沈みーーこれらをドラマと呼ぶなら、その背景や傍論に止まった事で行き詰まりを見せた。

 それに輪をかけて、作者の社会経験や知識不足が結果として露呈する事にも繋がった為、これらの試みはそれ自体としては芳しい成果を後世に遺すまでに至らなかったーーとされている。

 

 この一群に括られた諸作の作家の名前で今日にまだ幾らか大きな知名度を有する者の中には、泉鏡花、川上眉山広津柳浪田山花袋徳田秋声樋口一葉らの名前が挙げられる。この他、専ら如是閑と同様の理由からーー即ち、作家としてよりも、ジャーナリストや随筆家として名前の知られているような人物として、斎藤緑雨内田魯庵の名前も含められる。

 ここから明らかなように、当時そこに含められ論じられていた作品や作家の功績自体は、その後、個別の文脈で論じられ評価されたものが少なくない。

 ただ今からしてみると、当時としてのカテゴリーは最早歴史的遺物・事象に過ぎない訳で、それ自体は現在の分類や文脈に於いては如何程影響力を持つかーーというべきものである。

 

 長谷川如是閑は昭和に入ってから『新聞文学』というパンフレットを草してそこで独自の文学論を展開するが、それは新聞それ自体を文学の一形式として扱おうとする提言を旨とするものであった。なお、その「新聞文学」という言葉自体は、別に彼自身の創作ーーという許りではない様なのであるが、重要なのはその名前で呼んだものが「新聞の中における文学」ではなく、「文学としての新聞」だった事である。

 その主張はそれ自体として興味深いものであるが、尚興味深い事には彼自身がそうして自らのそれまでの経歴を文学史の中に落とし込もうとした点にある。

 

 彼は『新聞文学』の中で、事実の報道であるニュースと、何か批判や主義主張、意見に基づいて作された新聞記事とを区別して後者を特に「新聞文学」としてカテゴライズした。だが、彼の見解では年代記も新聞に含められ、所謂ジャーナル的な、日記的なものも新聞であり、そこには自ずから書き手の立場が反映された、共時代的な文章を総じて新聞と称していた傾向がなくもない。

 後に、彼の提言が組まれてか否か、定かではないが、筑摩書房から出た『明治文學全集』には「明治新聞人文學集」という一巻が編まれている。ただ、これは飽くまで、新聞人の意気軒高、明朗赫赫たる文章のアンソロジーという性質のものであって、如是閑の意図との距離は中々に測りづらい。

 

 大成した後に展開された彼の目論見についての話は一旦此処でお終いとして、話を如是閑前史の頃に戻す。

 既に示した、観念小説・悲惨小説・残酷小説の類型に当て嵌まる作品の中でも今日、比較的読まれおり、本も入手し易い作家のものであると、泉鏡花の諸作品を第一に上げても差し支えないだろう。岩波文庫から出ている『外科室・海城発電』は今でも頻繁に書店で目にする事の多い作品集である。

 ただ、これを以て、観念小説・悲惨小説・残酷小説の典型というには、鏡花の作品は今日の受容も踏まえて十歩も二十歩も留保が必要であろう。こう書いても筆者自身がそう読めた験しがないのであるが、何より困難と感じるのは、それを例えば実際読んだとしても、当時と今日の隔たりというものをそもそも計りかねている状況に自身あって、きちんとそれを「読む」という事がどれだけ出来るものか分からないーーという事情が先行するものである。

 

 筆者は、表題作である『外科室』と『琵琶伝』を推すものである。が、この二作品については、稍もすればその出来過ぎと思われる設定にこそ、特徴があると思われる。

 それは勢い任せの、というよりも、その勢いを生じさせんが為に仕組まれた因果というべき設定である。事故や事件を引き起こす為にしつらえられた諸々の事情は、果たして花火やドミノ倒しみたいに、破綻する事は誰にでも予見出来るのであるが、その破局を如何に描くかという辺りで、作者の技量が試みられているようなーーそんな作品の趣が見て取れる。

 

 長谷川“胡戀”如是閑の『ふたすじ道』も、そんなカタストロフィーを巧みに描いた佳作である。当時の寄せられた作品評も好評価であったが、蓋しそれは後世において、観念が先行して空疎で物足りない読み物と評される謂れとなっているのかも知れない。

 胡戀時代の長谷川の創作はこれ以外にも多数存在するが、現在一般的に入手し易いものについては『ふたすじ道』を除いて殆ど存在しない。

 強いて数に含めるとしたら、箴言集『如是閑語』が挙げられるが、これ自体は新聞に散発的に掲載されたものであり、単著として刊行された事もない。

 然し、度々そこから種々の名言集や格言集に引用されたものが、更にネット時代になって孫引き・ひ孫引きされて、今ではTwitterで日に何度も自動投稿されている。ただそれも全体のごく一部に過ぎないので、矢張り、読めるものは『ふたすじ道』のみと言える。

 だが、『ふたすじ道』で胡戀-胡蓮時代の長谷川の文学作品の傾向はよく把握出来るものと思われる。

 因みに、如是閑の作品集も岩波文庫から刊行されているが、此方は日本文学ではなくて、思想・宗教の青帯から出ているので探す際には注意が必要である。

 

 物語は最後、運命を覆す事の出来ずに打ちひしがれた少年が、その破局を経て背景の闇に消えていく様子を、盗人宿の二階に上がるシーンでもって上手に締め括っている。

 それは丁度、『琵琶伝』で亡き人との伝令を勤めていた鸚鵡の囀りに従って、かの人の墓所に誘い出される不幸な女性のそれに近しい、滑り台を滑落するような、悪く言えば一辺倒なスリルがある。実際には、滑り台というよりかはもっと勢いのついた、差し詰め、ジェットコースター(といっても、明治のそれであるから、今からすればそれでも物足りないのかも知れないが)なのであるが、その途中々々に目端に捉えられるシーンというのを果たして読者がどれだけ拾っていけるかも、今日的鑑賞においては読者にとっての課題として指摘し得るであろう点である。

 

 飽くまで物語としての制約の中で、読者に行動を促すような含意を有するでなしに、ただ読んでいる内に明らかではないが、何かはそこに批判を斟酌し得るようなーーそんな迂遠な描き方をする為の、偽装としてのエンターテイメントだったとしても、果たしてそれが十分に娯楽として享受し得るものであったとしたら、それこそ其処に批判の内在の有無の判別は困難になると言える。

 『額の男』に寄せられた同時代の最も知られた評の一つに夏目漱石の一文があるが、其処で漱石は如是閑をして「地口たな才子」という評を付している。これは果たして的確に長谷川のその後の創作傾向を言い当てている。

 大阪朝日新聞退社後の長谷川如是閑の創作活動は、筆禍事件を経た後に、当局への批判を検閲の網の目をスルスルと潜り抜ける、パフォーマティブな軽妙洒脱さを披露していく。そこで展開された彼の文筆は、話芸に対して正しく「文芸」と呼ぶのに相応しいものであるが、その、風刺と見なす事も出来るが、然しそれと判じるには尻尾の長さが足らないーーそんな寓話めいた(殊の外、それ故に後世の読者には余計に杳として掴み難い)語り口は、彼の文筆活動の中でも大きなウエイトを占めている。この評価は果たして、今日もなお揺るがないものである。

 

 ただ、いかんせん、その迂遠なるが故に持て余されている感が否めないのも現状、事実であろう。

 然し、概ね今日の如是閑の読者は、そこにどんな批判や皮肉が込められていたか、という事を先ず探そうとして読むものだから、諸作品をはなから物語としては読んでいる風では余りない。

 故に、筆者は此処で一旦、そうした読み方に箸を置くよう推め、がっつく事を抑えて、取り敢えず物語として読む事をお勧めするものである。

 ……すると、ーー飽くまで個人的感想ではあるがーー意外と読めない作品が少ない事に驚く事だろう。何をか偉そうに物を書いてしまったが、それ位、意外と難しい作品は少ないのである。

 だが、読めない作品はとことん読めない。言語明瞭、意味不明ーーといった具合の、オチが掴めない、そんな「典型」が見出せない作品が、実は胡戀-胡蓮時代から間々見られるのである(ただ、それらの作品は概ね図書館に行って著作集などに当たるか、絶版になった本をネット通販で探す必要がある)。イリュージョンはイリュージョンでも、それは鏡花の様な幻想ではない。何かといえば、それは如是閑流のイリュージョンであり、大袈裟な言い方をするなら、それは今や失われたマジック、レトリックの痕跡でもある。

 

 此処で、再び『新聞文学』の話を蒸し返すが、長谷川が言わんとした「文学しての新聞」なる概念は、彼の実践した痕跡を見るに、それらの手品の技法を指していた様に想像される。

 それは、今風なアナロジーだと、ブラウン管で見る映像や、レコードプレイヤーから再生する音楽の様な情報を、新聞に掲載された文章についても言えるであろう。

 そういう様な事を、果たして長谷川も言わんとしていた様に把握しようとするのは如何にも筆者の恣意が働き過ぎているとは反省される。

 ただ、読もうと思っても、そもそも如何やって読めばいいのかよく分からない昔日の諸々の作品については、それ位、初めのうちはミスリードを自分に許してもいいかも知れないーー。

 そう著者自身は自分に対して思われる次第である。

 

(2021/05/13)