カオスの弁当

中山研究所blog

 生き物の生きた証は何じゃらホイ、という話を友人と昼間から延々三時間くらい電話した。

 結局、化石になる様な組織だろうなという話になって、成る程なあーーと思った。

 

 腕の重さや足の重さ、というのを意識することが間々ある。それは普段、如何しても生活の中で運動不足気味になって衰えやすいものだから、日々の簡単な動作であっても一寸の事で感じてしまうという事であって、褒められた話ではない。

 今一つには、時折覆い被さって来る感覚の験しに覚えがあるからだが、それに骨が出来た始めたのは、ほんの四、五日前の事だ。

 

 それまでは何だか、取り敢えず、肌で感じる刺激に精々止まるものであった。文字通り、掴みどころのないガスの印象だった。

 考え事やら悩み事やら多い時の疎ましい感覚が澱り重なって出来た、それは幻覚なのだったが、分かっていても何やら疲れている時にやおら正面からだらしなく凭れかかって来る感覚には、その無気力さ故に、妙に共感して同情してしまった。

 身の丈は少なくとも150センチくらいは有るのだろうか、時々もまちまちであるが、重さの感覚は全体で40kgから50kgの間で、その重さから身長も推し量られた。

 

 疲れていると、自分であったって兎に角それ位、何かに身を凭れさせたくなる時はある。全身が強張って、しかし如何にもその格好を崩せない怠さと忌まわしさに、何もかもかなぐり捨てて逃げ出してしまいたいとは、文章として頭には浮かぶけれども、身体は、とうの昔にそんな衝動に付き合う気持ちをなくしている。

 疲れた。兎に角休みたい。しかしその口実が自分の中に見出せない。

 寝ると決めても、風呂に入るまでの時間が掛かるのは、そんな事より他にする事があるんじゃないかとか、翌朝の未だ明けやらぬ内から起きて始めなきゃいけない事共が脳裏に次々浮かぶからであった。

 どうせこの身は一つしかないのに、欲張りなこったーーと自分自身に呆れて嘲笑するのも自分なら、ムキになって何でもかんでも解決しようとするのも自分であった。

 

 そういう二進も三進もいかない状態の心理的産物ーーと呼ぶのもおかしいが、八方塞がりの状態の中で凭れ掛かって来たのが件の腕であった。

 だらしなく、頸の辺りまでぐるりと回して、ぺターンとエプロンか前掛けみたいに突然ぶら下がって来る。そうかと思えば、肩の上からダランと、頭の上にのし掛かって来る。

 犬や猫も飼った事がないので分からないが、その大きさや重さーーといっても実体のないものだから、重さも大きさもないのだがーーは中々、泡食った精神を落ち着かせる作用があるように感じられる。

 

 別に払おうと思えば退かせられる程度の圧なので、それが来て居座る内は取り敢えず、もうじっとその場で動かない事に決めた。そうして、自然飽きてそれが離れる迄の間は、バスの中だろうが駅で立ってる間だろうが、目を閉じたりしてボーっとする事にした。

 よく考えたら、それもそれで危ないのかも知れない。然し、それは自覚がなくとも酷く疲れていると思われるタイミングでやって来るのだった。数分でも暇があるなら構ってやる事にした。結局、それが実際的に自分の為にもなった。

 

 そんな暇な時でもなければしがみ付いたりして来やしない。

 合図も何もないのだが、ただ取り敢えずそれは来て、自分を椅子の代わりにして使う。そして、そういうので、一かな構わないと思うので放置しておく。

 そうして幾らかの年月が過ぎ、数日前から何かその腕の感触に変化があった。重さに芯が出来始めた。

 捉えどころのなかった感覚の靄の内に濃度の更に高まった所が感じられ、軈てそれが肩の上にグーっと突き出されて、天秤棒みたいにボサッと置かれた。仕事の終わった後、椅子に座ってボーッとしている最中だった。

 今は腕だけだからいいが、これが徐々に脚や胴体の分まで来たら中々面倒だぞ、と思ったのは正直な感想である。というのも、それが自分の疲労と機を一にしていると考えられた為である。

 

 骨の感覚の去った後、考えた事には次の様なのがあった。

 最終的にそれが全身丸ごと自分に圧し掛かって来た時の事を思うと、その状況は中々に悲惨であった。何やら、屹度その時には自分は自力で動く事も困難で、疲労が本格的に全身を麻痺させている様な、そんな容態が想起された。出来たらーー否、それは極力回避したい可能性の事態であった。

 そんな状況にあってはもう自分はそれを「起きるのに邪魔だから」と追い払うだけの力もない。

 そんな想像が浮かんで来ると、それまで一寸も怖いと感じなかったそれが急に実は恐ろしい、死神か何かの様にも思えて来た。

 

 でも、そこまで考えて、然しながら、今までの奴の行動を思い返すと、そこまで脅威と見做す程のものでもないように思われもするのであった。

 奴はただ、自分に寄り掛かって来るだけのものなのである。そして、これまでもそのタイミングは、自分の状態に関係なく、本当に時折、「打つかって来る」だけであった。

 なら、自分の方で用心する事は、精々、その時に吃驚して倒れたり、ホームや階段から転げ落ちないようにする事、その為の体力を維持すれば良いーーそういう結論に落ち着いた。

 

 

 幻覚なら幻覚で、それはそれでわざわざ無くそうとか自分は思わない。ただ、それが如何にも恐ろしい、煩わしいものでなければ、まあそういうものだと受け入れて放っておくのも手ではあろう。無理してそれを失くそうとしてしまう事が、却って自分には、今でさえ十分そそっかしい自分の余裕を失くす事にさえなるのではないかと思われたりする。

 何かトンチキな故事付けをする必要もなく、ただ一身上の事実と見做せば済むもので、他人と融通しようとさえ思わなければ、それは雲や花を見た時の感想と変わらない。

 

 そんな事を一頻り思う間に、そうは言ってもこの話題をーー骨の話をーー誰かに振ってみようという気持ちになって、友人に電話して話してみた。その流れで冒頭のコンセンサスにも達した。

 そして、最後の方で友人は、気になっていたらしく、髪の事を訊ねてきた。曰く、髪の感触はなかったのか、と。確かに、骨よりも髪の方が有り触れた話の種である。

 

 その時は話さなかったが、実を言えば、最初にそれが凭れかかって来た時、自分の肩口に押し当てられたのは、火照って汗ばんだ額と髪だった。今みたいに腕を広げて来るでもなく、棒立ちになって、そのまま近づいて来て、何の前触れもなしに、ただ、ボスっと頭を打つけて来た。

 ただそれだけで、何も言わず、泣きそうな子供がよくするように俯いていた。初めは自立していたが、段々に重心が前のめりになって来て、此方が少し押すようにしたら動きが止まった。

 

 その時はその場で突っ立っている事しか出来なかったが、以来、それがきっかけで度々打つかって来るものだから、強いて自分はそれ以上、深掘りする様な気持ちも起こらないし、基本放置しているのだった。

 骨が出来たとしても、その事情に変化はない。

 

 多分、それで良いのだろうーーと思うのは、全体何やら懐かしい感じがするにも拘らず、それに自分が全く心当たりがない為である。

 

 

(2021/07/24)