カオスの弁当

中山研究所blog

エレクトーンの音

 自分の中で90年代の音といえば、ずっと切れ目なく放送されるBGMのエレクトーンの音だ。

 夜、少し眠ろうと横になり目を閉じると、何処からともなく、その日の気分次第で、しかしそんな気分とは関係なく、すぐそれと分かるが、誰の手とは感じさせない曲が始まる。
 曲の出だしというのがそもそも何処からなのか、分からないのが果たしてエレクトーンのBGMの印象である。誰かが建物の何処かで弾いている訳でもなく、MDかCDに録音されたものが延々放送され続けているのであるが、その一曲一曲が実際非常に長いーーの割に、いつまで聞いていても飽きない。時間を忘却させる音楽の音色が自分の、エレクトーンの印象である。

 

 ずっと屋内にいると、段々そのBGMの有り難みが分かって来た。否、むしろそれに対する渇望が日増しに大きくなっていたりもする。

 一体何処の誰がマラソンを続けていたのか分からない音楽だった。それは或る意味で恐ろしく、また気味の悪い現象だった。終始明るい室内が、或いは清々しい青空と五月の心地よい風が不意に恐ろしく、何かを隠しているかのように感じて不信感を惹起するように、エレクトーンの軽いキーボードの調べは、その「物を忘れさせる効果」をして、普段なら気付きもしない“背景”について想起させる契機でもあった。

 

 ぼーっとしている間に無意識に食べ終えて仕舞えば良いが、溶けたアイスクリームが指を伝ってズボンの上に染みを作った後にはもう遅い。

 パーンか、或いはハーメルンの笛吹男か、兎も角、実際に人間を陶酔させる音楽というのは、何か物凄いものであるかといえばそうでもないーーと考えて仕舞うのは自分の経験に照らしての事であるが、この手の音楽はこの頃十年位の間に、すっかり耳にしなくなってしまった。

 今でも聴こうと思えば、例えば昼休みの時間に、午前の取引の模様を伝えるテレビ番組や、明け方の地方局のチャンネルにチューニングすれば、聴けないことはない。だが、聴こうとして聴くではなくて、それは向こうから勝手に此方まで無方向に流れて来るものを自分が掬い取るのである。

 気が付いた時には垂れていた涎の様に、それは我にかえれば恥ずかしくてきまりの悪いものである。だが、そうしたうたた寝の瞬間というのが、この頃の自分には一入懐かしく思われる。そんな歳でも未だない筈なのだが。

 

2021/08/02

21:15