カオスの弁当

中山研究所blog

「園」の思い出

 動物園とか遊園地とか、兎に角、「園」という名の付く場所が苦手だった。今でも、背の高い門扉と敷地をグルリと取り囲む大きな柵を見ると、忌々しい気分になって自然と顔も歪んで来る。

「言うこと聞かないと、サーカスの虎の餌にしてやる」

と言うのが、母親の口癖だった所為もある。サーカスと動物園は、幼い自分からしてみれば何方も忌々しい檻のある施設でしかなかった。ペットショップを見るのも嫌で、公園の池にある鳥小屋や、白鳥の横で甲羅干しするアカミミガメを見るのも何だか気味が悪かった。

 

 だが、何より自分の具合に悪かったのは、そうした園内には逃げ場がないーーという事実であった。決まった出入り口からでないと行き来が出来ない、それが如何にも不安を誘って仕方がなかった。

 

 親や教師に連れられて動物園の檻の中にいる動物を見るのは、丸で

「お前も言う事を聞かなけりゃ、こうしてやるのだ」

と脅されている気がして嫌だった。そうでなくとも、敷地を囲繞する柵と巨大な門の存在が、自分らをいつでも、目前の見せ物になっている禽獣と同じようにしてやれるのだと言われているかのようで、終始落ち着かなかった。駐車場にいる束の間、息がつけた。バスの中は退屈だった。

 

 物語ーーフィクションーーというのが持つ、本来的な恐ろしさ、脅威というものについて考えるうちに、そういえばそんな事を思っていた時期もあったな、と思い出した。

 元来、お話というのは、「園」と名の付く施設と同じく、一度入場して仕舞えば、一巡りする迄、逃げ場のないものである。退屈でも、お腹いっぱいでも、どんなに素晴らしい花畑でも、お化け屋敷でも、一旦、入り口から進入して仕舞えば、出口を潜る迄は引き返す事が出来ない。目を瞑る事は出来る。「これは作り事だ」と心の中で念じて白ける事は出来る。だが、一方通行のルールは守らなければならない。騒いでもいけない。況してや「これは作り物だ」云々、扱き下ろしてもいけない。ただ見る事が強いられる。それが苦痛なら、その門を潜ってはいけないし、敷地には立ち入らない選択をするべきである。

 また、ゆっくり歩く事や一時停止する事は許されても、ずっと止まる事も許されていない。そこは自分の居場所ではなく、自分の恣は許されていない。

 

 俗に「オタク」というのは、こんなルールを守る事が忍びない鑑賞者の内、開き直って不作法を尽くす者である、というのがものの序でに思い出した、大昔の自分の中の定義だった。

 逃げずに暗がりの向こうに寝そべってじっとしている得体の知れない結末に向かって進んでいく事の出来ない人間が、真っ暗がりの中で掟破りの懐中電灯とかを点灯して、ガラス張りの向こうに潜んでいる者を明るい光の中で見ようとしたり、今来た道を逆走したりする。そんな「意気地なし」を、自分は心底、毛嫌いしていたが、その度胸のなさ、怖がりなのを悪く思うのではなく、自身の臆病さを認めず、今し方見て来たものの「化けの皮」を剥がしてやろうと息巻いたり、そしてそれを「虚仮威しだった」と嘲って、己の器の小ささから結末なり何なりを受け止めきれずに、物語から逃げ出して来た事を、作り物の出来の所為にしようと頑張る様子を見るにつけ聞くにつけ、うんざりしていたものだった。

 ただ、これはもう随分前の事である。だから、今でもそんな事を思っているかというと、状況もすっかり変わっているので、そんな事は丸でない。偶々、そういう人達がいた場所に出会してしまったので、逃げ出して来たーー末が今の自身の位置である。

 

 「園」という場所は、見たくないものをも見る場所である。怖いもの、醜いもの、側においておく事が到底出来ないものを見に行く場所でもある。だから、そんな施設の外へ、園内のものを持ち出したり、或いは園内の様子をやたら滅多に外で吹聴するのは厭わしく忌まわしい事のように感じられていた。物語はそれら忌まわしく厭わしい物事を封印する場所でもある。

 

 今ではもう、そんなに一々目鯨を立てる事は略々ない。だが、全くない、完全になくなったとは言い切れない。それは完結した柵の向こう側に閉じ込めてあるものだから、安心なのであって、わざわざ現実の、白昼白日の下に曝して確かめようという気持ちの更に起きないものだとは今でも感じられる。

 

 そんな出入り不自由な「園」よりも、今は果てしなく生活の隅々まで張り巡らされたサーカスの幕の内が居心地良くて、大勢の人気を集めているであろう事は知っている。実際、自分も普段、その陣幕を見て見ぬフリをし続けている。それが出来ているという事は、少なからず、それらに親しめているという事でもある。それを恥じる気持ちは余りない。誇れる事でもないけれども。

 だが、つくづくそうなってしまっているのを思うにつけて、昔はあれ程毛嫌いしていた、「園」と名の付く施設の雰囲気が懐かしく思われて来てならない。

 

 最近は、映画館に行くようになったが、昔と比べたらシアターの中もロビーも建物内全体が随分、明るくなったと感じられる。それはそれで大変結構な事だと感じる一方で、「ここも、か」と思わず溜息をついてしまう事がある。久しく、真っ暗闇の中に沈み込む感覚というのはないもので、それ自体は実に有難い。

 だが、そんな暇がちっともない、というのは不安の因にもなっている。一体、それはこの頭上の巨大なサーカスのテントの存在に思いを来たせばの事である。

「一体、自分はいつから此処にいて、何処から来たんであったっけかな…?」

とか、唐突に思い抱く事も屡々あれば、愈々間断なき意識の流れというものに対して疑いが生じる。

 真っ暗闇は、サーカスの内にあっても自分を一時的に、その外に放り出す、「古典的(幼稚な)」手段である。

 物語は、そういう時に便利な道具である。

 よく出来た物語なら、それを鑑賞している間は、振り返ってみるとボッカリ、記憶に穴が空いていたりする。その記憶には、「物語を見た」という情報の代わりに、物語それ自体が嵌まり込んでいたりする。

 それで却って、自分は昔、本を読んだりした後は安心したりしていた。

 それは自分が「園」の外に帰って来た証であると同時に、自分の普段いる場所を確認する証拠でもあったからだ。

 その安心を得る為に物語を摂取していた、と言っても過言ではない、そんな時期も大昔にはあったにはあった。

 意識していたかは怪しいものだが、今振り返ってみると、その様に語り得る。

 だが、この所はそれが如何にも上手く出来なくなっていた。動物園も遊園地も映画館もすっかり怖い場所ではなくなったのは良かった。だが、「園」を取り囲む柵や、自分を閉じ込める門や鍵がなくなった訳でもないのに、ただ恐怖だけが薄れていったのは、自分がすっかりノイローゼになってしまった所為だったのであろう。

 

 不図した切っ掛けで思い出した記憶は、そんな不感症になっていた怖さに対する反応を誘発した。

 

 蓋し、物語作家は「罠」を仕掛ける者で、それは人間が人間に対して設えた罠である。「園」もそんな罠の一つであり、緩々と入り込んできた客を操作一つで閉じ込めてしまう事だって、施設管理者は出来てしまう訳だ。

 花壇の不気味さや、額の中に収まっている描かれているものの薄気味の悪さが、見ている人間達がそもそも、その場の中に閉じ込められている事を忘れさせようとして来る、その見せ物の放つメッセージや小細工に対しての鑑賞者の意図しない反応であるとするならば、それらを仕掛ける者達は、必ず何処かに彼等を出口へ誘導する標を何処かに設ける道徳的な義務があるーーとか思われる。

 無論、そんな事しなくても構わない、賢明な「大人」許りを客として相手して遇せれば越した事はないのかもしれない。だが、人間常にそんな「迷子」にならない保証なんてのはない訳だ。不意の事が起きないとも限らない。だから何処かで必ず、合図が必要で、例えば、閉園時間を告げる園内放送の音楽とか、そういう配慮を講じるのは真っ当な仕事だと言える。

 ただ、それを却って、「囲い込み」の合図に利用しようと思えば出来てしまうのが、また、サイレンの怖い所である。実際、園の敷地の外に居並ぶ防災無線や街頭時報の数々は、サーカスの天蓋を支える無数の支柱の一々でもある訳だ。

 

 最近の物語は、端から「園」的な閉鎖性を無くして、野天興行を旨として繰り広げられるものも少なくない。建前としてはそれは、参加者各位の自律性に依拠している。だが、所詮、建前は建前に過ぎない。

 臆病者の扱き下ろし大会は外側から「園」の門柵を揺さぶって、倒壊させたのである、という風に自分は野天会場を見ていると、つい意地悪く思ってしまう。

 それでーーじゃあ、「園」は、物語は怖いものでなくなったかというと全くそうはならず、サイレンの音は遂に見境なく四囲に木霊するようになってしまった。「帰れ」という合図だった音声も、今やその方向性を失ってしまった。

 

 「帰る場所」も、そこを起点として何処かに発つ人の現在地ーーという意味に解される始末だ。だがそれは、「帰る場所」が元の意味に復しただけとも言える。

 何故なら、「帰る場所」は、そこから何処かへ出掛け、その何処から引き返した後に向かう場所だからである。

 ボッカリ空いた記憶の伽藍堂は、今来た道を思い出した時に完成する横穴で、決してトンネルなんかではなく、何処かで引き返すタイミングが必ずあって、それを用意しておかなければ、どれだけ良く囲ってあったとしても、出口のない「園」は人間を虜にする悪どい罠でしかない、と判じられる。「園」の出口は常に入り口のもう一つの顔に過ぎない。

 

 他方、野天会場には罠も出入り口もない。餌だけがある。すると、悪意のある罠がない分、平和かというとそうでもなく、寧ろそれは随分と恐ろしい状況が白日の下にあるので、引きで見たり、うっかり足を踏み込んでしまった事に気が付くと、大騒ぎしたくなる程に恐ろしい光景を呈していたりする。何よりか恐ろしいのは、その光景は際限がない事である。

 自分の目や耳にそれらが触れる限り、その「敷地」は、自分の足元にまで延びて来る。そうでなくても突然、伸び掴み掛かって来る可能性さえあるのだ。

 だからそういう時には、黙ってゆっくりとそれとなくそこから距離を置いて、只管逃げる事が略唯一の手立てとして残されている。

 

 そして、その逃げ場として元来機能するのが、「園」であり、物語であったと、「帰る場所」を発見する場所であったと思い至るに当たって、今迄単に恐ろしく、不愉快であった場所が、随分と頼もしく有難いものに感じられる様になった。だが、矢張り、そこは恐ろしい施設であって、脅し文句で用いられるのが相応しい……。

 

 と、ここまで考えて、自分は自分でその「園」を造ろうかと考えた時に、どんな風なのがいいかという事を考えてみた。

 そして、そこで考えた場所は、詰まる所、自分自身をも閉じ込める檻であり、且つ、閉じ込められた人間が、

「さっさと此処から出してくれ」

と最後の方に思うような場所であれば結構だと思われるようになった。

「こんな場所よりか、元いた場所に帰った方がまだマシだ」

と思い来す位の目に合って、次の逃げ場迄辿り着く程度の気休めの場になれば、十分である。それが自分の求める「園」でもあるからだ。

 

 だが、そんな「園」も、たった今の所は、自分には必要がない。というのは、そんな作り物よりか、普段眺めている景物が十分に見事だと感じられるからだ。

 然しながら、これらの景色もいつまで悠長に見ていられる事やら分からないのが現実問題としてある。今自分が目にしているのも、恐らくは「園」である。いつサイレンが鳴るかは分からないものだ。

 物語ーーフィクションーーが本領を発揮するのは、いざという、その時である。倒壊する柵やら天蓋の下敷きになる事程、阿呆らしい事もない事はない。

 だから、ポケットに収まる大きさの地獄巡りでも、竜宮城でもいいから、何か物語を拵えて置くのは悪くない方策だろう。その際、又、それら普段目にする景物の「模倣」がベターであるとも思われる。

 

 なまじ景色は喪失してからがなお、思い出として美しい。フィクションは端からこの世にない、だから、物語は摂取して忘れて、片っ端から忘れれば不意に思い出す機会も多ければ多い程に、思い出したその矢先、忌々しかった「園」の記憶が知らぬ間に、素晴らしい財産になっている事に気付けもするだろう。

 

 無数に見た夢の中でただ一つに固執したが故に夢現の間で「迷子」になったならば、よろしく蝶であれば「花から花へ」、人であれば「園から園へ」遷移すれば良い。夢か現か、に拘る必要がなければ、それだけで済むーーという話である。

 

(2021/08/25)