カオスの弁当

中山研究所blog

栞一片

 昔、本に挟まってた栞をとにかく集めていた。大体90年台から収集していた2000年台のもので、色んな形やら内容やらがあったのを記憶している。

 久々に色々な用事が片付いたので、寝ることができた。頭の中が常時動いているので、夜中も満足に眠れない。そんな中で懸案が一つ、ごっそりとなくなった。

 建て込んだ住宅地の中では、一軒のあばら家がなくなるだけで、ぽっかり急に池が出来たように空が見える。それを自分は、何の捻りもなくポンドと呼んでいる。

 宙に浮かんだ正しく空虚なのだが、うっかり曲がり角とかでそんなものに出会してしまうと目を奪われてしまい、暫時呆然としてしまう。疲れていると余計その傾向が強い。

 空き地だけではなく、そこに何か突然飛来して来ても、ポンドは発生する。それが例えば着陸体勢に入った自衛隊の輸送機だったり、クロアゲハだったり、塩辛トンボの類だったりする訳だが、その出現と同時に見えない空虚がボカンと陥没して自分の中に落ち込んでくる。

 ただ、この上、何かしんみりと感情に波が寄るーーというような事は、ポンドについては起こらない。気付いても気付かなくても問題がさしてない、それがポンドである。水溜りとはその点、大きな違いである。

 無論、呆然としてしまう事には弊害がない事もない。ただ、それ自体が即危険かというとそうでもない。元より、彼是荷物を満載にした背中自体が危険なのである。疲労困憊した状況そのものが櫛の歯の様に間隙だらけで、そこには既に色々な塵やら汚穢などが引っ掛かって、悪臭を放っている。

 

 うたた寝の最後ら辺に、栞が一枚出て来た。固定電話の台にしている、透明な抽斗の一番上の段を何の気無しに引っ張ったら入っていた。竪型のデザインで、十四五年前の映画の栞だった。

 その映画の宣伝は、よく書店のレジに並んで絵柄を一生懸命全部揃えようとしたものだった。だが叶わず、それらは同じく集めていた弟に全て呉れてやってしまったのだった。

 所で、その映画の栞は全て横長のデザインだった筈であった。なので、竪型の、しかも白地に人物だけが一人切り取られて配置されてる様なものは、自分の記憶に全くなかった。

 その齟齬がはたと目醒めるきっかけになった。集めた栞の大部分は、その後手ずから捨ててしまった。大分惜しいと思ったものだが、同時に今でも、持て余してしまうであろう数十枚の栞は、彼に呉れてやった分だけが恐らく、処分していなければ、当時の記憶の裏付けとして存在するものであろう。

 そして、漸く思い出した事には、その初めて見る栞は、映画の新装版のポスターデザインによく似ていた。それは全く偶然なのだろうが、果たして、その栞は全く栞らしい栞だった。

 結局、いつも心当たりがないのである。

 

(2021/09/16)