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中山研究所blog

機械と英雄と職人と――如是閑の英雄論について――

 ジャーナリスト・長谷川如是閑の年譜*¹の内、1914(大正3)年から1918(大正7)年にかけての5年間は、専ら勤務先の大阪朝日新聞社(通称・大朝)内外を巡る種々の揉め事に関する記事で占められている。

 その中に、大正5(1916)年の出来事として『大朝(だいちょう)』が『米人ナイルスを聘して宙返り飛行を催した』旨が差し挟まれている。これは年譜が、彼の著作集の付録である事を考えると、特筆に値する事項であると見て先ず、問題ないであろう。

 

 年譜に於ける此の「米人ナイルス」の曲芸飛行は、当時、大阪朝日新聞に向けられていた世間の「嫌疑」を一層堅固にするのに一役買ってしまった事項として記載されている。その「嫌疑」とは、曰く『「大阪朝日」が秘密に外国と通信する』という内容のものであった。

 ナイルスの飛行の前年、大正4(1915)年の記録は先ず、大阪朝日新聞が今日にも伝わる、「全国中等学校野球大会」――所謂、「甲子園野球」――の第一回大会の記事から始まる。

運動競技の奨励のため橋戸信氏を社会部に招聘して、全国中等学校野球大会の計画を立て、第一回を豊中グラウンドに開催したのが、今日全国を騒がしてゐる野球大会の初めである。その他極東競技大会予選会、東西対抗競技大会等、大朝社のスポーツ界への進出の基礎は全く橋戸氏の努力に拠るものである。

 東京朝日新聞が、その紙上で『野球害毒論』を掲載したのが1911(明治44)年の8月から9月であった事を考えると、大阪朝日新聞社の進出は、既に国内で全国的に相当な流行を見せていたスポーツ界に満を持して参入した感がある。因みに、長谷川は此の頃、大阪朝日の社会部長の席に在ったが、東京朝日の社会部長は実兄・山本松之助、こと笑月であった。

 

 同4年の記事は次のように続ける。

此月〔原文ママ、全国中等野球大会の開催月が8月であることから、8月か〕「大朝」主催で白耳義(ベルギー)救恤の慈善音楽会を北浜帝国座に開いたが、その時警察から刑事二名を派し、出演者のうちに犯罪嫌疑者があるので舞台裏で警戒するといったのを余は拒絶したが、後年に至って、それは「大阪朝日」が秘密に外国と通信するという嫌疑からであるといふ説を聞いた。「大朝危険思想説」はこの頃から胚胎されてゐたのであるといふ。

「白耳義救恤の慈善音楽会」というのは、当時、ヨーロッパで膠着状態に陥っていた、第一次世界大戦に於ける西部戦線の構築された現地・ベルギーに対してのチャリティーコンサートであったと推測される。さて、そのチャリティーイベントに際して、当日、会場となった劇場「帝国座」に警官2名が捜査の為に張り込もうとしたのを長谷川が拒否した、というのであるが、こうした行為が後々彼自身に捜査機関並びに当局の嫌疑が向けられる謂れとなった、とも果たして考えられよう。

 記事では単に「慈善音楽会」とだけあるから、その演目次第は不明ではあるものの、同劇場が果たして1910(明治43)年に新派の拠点として川上音二郎により建築されたことを考えると、所謂、現在、我々が想像する音楽会、即ち西洋音楽を主とするものであったと考えるのが妥当であろう。

 

 スポーツに音楽、そして航空ショーなど、急激に成長した「小新聞」が興業分野へもビジネス展開していく目覚ましい様子は、明治期の「大新聞」の記者からキャリアをスタートした長谷川ら”古参”の新聞記者達にとり、肯定しかねる舵取りであった。然し、それは時代の風向きでもあり、最終的に長谷川らベテラン記者達は、大正7(1918)年10月に大阪朝日新聞社を去る事になる。

 この大正7年10月の出来事は、世間では一般に「白虹事件」の名で知られる、大阪朝日新聞社に対する当時の寺山政権下にあった当局の筆禍・弾圧事件の余波として認識されている。だが、事はそう簡単に片づけられるものではなく、既に以前から内部に生じていた新しい時代の経営陣と、明治以来の「新聞記者気質(かたぎ)」を体していたベテラン達の乖離が、それを期に破裂した側面もあるものである。

 

 さて、そんな事件の2年前に挙行された大朝の航空ショーがどんなものであったのか。

 先ず、年譜の内容を抜粋して確認していきたい。

「大朝」は米人ナイルスを聘して宙返り飛行を催したが、後に至ってナイルスは、その頃では無謀と考へられた東京大阪聯絡飛行の計略を提議して来た。これは余等社内の一二人の間で協議されたのみで、つひに実現されなかったが、これも後年に至って「大朝」は外人が軍事上の機密を探らんとするものに協力したといふ嫌疑の原因になったといふことをきいた。時代の幼稚さ加減思ひやられる。

 長谷川は果たして、この年譜の書かれた昭和初年に於いて、当時の様子を回想して「幼稚さ加減」に呆れた旨を明記している。だが、取りも直さず、こうした航空機の主な役割が、軍事上の重要性も大きな地形の探査や測量であった事、又実際にこの計画がナイルスより大阪朝日新聞社に持ち掛けられた当時、ヨーロッパ大陸の戦場では、これら飛行機が新兵器として登場して、着々と成果と知見とを日々人類に齎していた事を考えると、一概に彼の見解が宜なり――とは、本稿筆者には思い難い。

 寧ろ、当時、そうした嫌疑が生じるだけの脅威として、一部に飛行機が認識されていた事を、此処では窺い知る事が出来るだろう。

 

 その後の日本の航空機産業の進捗は既に巷間に知られる所である。

 そして、その機運の醸成に一にも二にも役立ったのが、取りも直さず、この1910年代の欧州大戦と並行して日本国内で行われた、外国人飛行家による航空ショーであった。

 『日本・民間航空の曙 1910年から1920年、民間のパイオニア達』(2021年11月6日20時閲覧:

日本の民間航空界の夜明けを翔ぶ人たち)によると、年譜にある「ナイルス」こと、チャールス・ナイルスは、1915年12月、東京・青山の練兵場で10万人の観衆の前で宙返り飛行を行い、大歓声を受けたという。その翌年、今度は弱冠24歳の気鋭、アート・スミスが同じく青山の練兵場で有料公開飛行を開催し、ナイルスを上回る20万人の観客を集めた。

 このスミスの曲芸飛行は静岡県浜松市でも行われ、これを観に行った少年時代の本田宗一郎は、将来の夢をパイロットに定めた、というのは広く知られた話である。そして、今一人、1916年のスミスの曲芸飛行に触発され、愈々飛行機熱を高めた人物に円谷英二がいた事も、よく知られた話である。

 

 ただ、こうした逸話が人口に膾炙したのは、その起承転結の判明さも去る事ながら、此の話が「腑に落ちる」人々が相当数いた為であり、そうした伝播の土壌失くして、彼等の物語は後世に伝えられる事はなかったであろう。

 

 時代のシンボルというのは、意外にも瓢箪から駒を振り出すものであり、それから紆余曲折を経て日本に特撮映画の泰斗として君臨する事になる円谷英二然り、彼の後世・今日への主にサブカルチャー全般に残した影響は計り知れない。

 そして、それが果たして元を辿れば、片や欧州大戦、片や曲芸飛行という二つを載せた新聞が撒いた「特ダネ」であった事は、振り返れば、時代の必然とでも言えてしまうのかもしれないが、その効果の波及する過程には深甚妙味が感ぜられるものである。

 二度の大戦後、テレビの登場が人類の宇宙航空研究・開発の進捗をより身近に人々の生活に報道するようになった頃から、この「瓢箪から駒」が実際に起こるのだ――という事は、殆ど常識”になったかに思われた。

 だが、その駒が世間に普及するに従って、その知見も単に歴史という物語に於いて示される「教訓」として単に眺められるようになった。果たして、それは「瓢箪から駒」という言葉だけではなく、その具体例の起爆剤足り得た諸々の装置も、それらに対する危険視乃至期待が、その安全性と信頼性を高める為の努力が高まれば高まる程に、それらに対する根本的な関心――或いは熱狂――は薄れる所となった。

 

 本や新聞、ラジオやテレビと言った放送もこの秋扇たる運命から逃れる事は出来なかった。それらが嘗て持っていた光輝は、後世に於いて最早、それらを目の当たりにした人間の言動からしか垣間見る事は出来ない。

 其々の時代・地域に於いて、そうした機会は様々に在り得るものであって、それらはそれらの光り輝く内に直視した人間に決定的な影響を与え得る点で、屡々物語に於ける「英雄」に準える事も出来るであろう。

 今日、21世紀は全く此の「英雄」の失われた時代である。そして、それは、往時に於ける英雄の地位を、最早人間が襲う事は有り得ず、代わりに機械が人間にとり、或る時代・地域に於いて決定的な役割を果たす――そんな事を意味している。それは恐らく今世紀前半に於いては覆る事はないだろうと思われる。

 これと同時に、それは、機械が成り代わった「英雄」の役割そのものを人間が忘れてしまう事を意味しているものと考えられる次第である。

 

 マシン、メカ、メカニズム――等々、呼び方は種々あれど、それらの名前が付される諸々の器物が人間の英雄足り得る現象は、未だ英雄が人間の職業であった時代に於いても振り返れば見出せるものであった。それが機関車であるのか、飛行機であるのか、ミシンであるのか、カメラであるのか、蓄音機であるのか、船であるのか、ロケットであるのか、自動車であるのか、バイクであるのか、コンピューターであるのか、――。それは、単に人間が其々が育った環境や遍歴等、その過程に依存しており、必ずしも一様とは言えない。

 例えば、長谷川にとってのマシンーー飛行機に相当する所の英雄――は新聞であった。だが、今一つ、彼の「英雄」は陸羯南であり、三宅雪嶺であった。ただ、長谷川は彼らを「英雄」とは呼ばずに「先生」と呼びならわした。それは、彼がその「先生」らに触れたのは新聞を介していた為であった。如是閑の中で、器物たる新聞と人間たる英雄は一致していたのである。

 その認識は彼の新聞記者としての姿勢、何よりも彼自身のジャーナリズムにその後見られる。曰く、彼が大阪朝日新聞社を退いて後行った「個人的ジャーナリズム」は彼と彼の言動を彼自身が自身の頭の先から爪先までを把握しようとするかのような、見方によっては、イヤイヤ期の子供の様な”幼稚な”活動であった。然りながら、それは彼の時代の、彼に影響を与えた「英雄」の姿を彼が真似たものであったと、筆者には捉えられるものである。

 

 彼の飛行機に対して現れた、今で言う所の科学リテラシーの「低さ」は、或る意味で彼の世代の新聞の占める地位に対する、前後の世代の感度の低さに相当するものであるだろう。

 長谷川にとって果たして飛行機は関心の埒外にあったのである。そして、彼の年譜に代わりに縷々記述されていたのは、只管に新聞というデバイス、或いは人間のガジェットと自分との関わりであった。

 だが、そうした彼と彼の英雄との関わり、自身に決定的な影響を与えた装置と自身との関係についての年譜は、後世に於いて、その装置から輝きが失われ、寧ろその魅力を何とか保持しようと権威化された時代に於いては、彼の伝えんとした時代の熱気、自身らの活況というのは伝染し難い事柄であると言えよう。それは、嘗て複翼機が見せた宙返りに浴びせられた歓声と嫌疑とが、今日にも、又当時に於いても、異なる時代に生まれた人間にとっては伝染し難かった事からも推量されるものである。

 

 如是閑自身の英雄観は、果たして未だ、機械が人間に取って代わり、その人間に対する決定的作用を齎す役割を占めるより遥か以前の、又、機械が人間に置換し得るという発想の萌芽が漸く生じた頃に形成されたものであった。

 為に、今日の我々読者は、彼の英雄が「職人」という語に代表される人間の姿である事は、その著作物を読めば一目瞭然であるが、その職人が如何なるものかを知るには、今一つ不明瞭な「英雄」という語について、それが何であるかを考えながら探る――逆説的なアプローチを必要になる。

 この如是閑の、その初期から晩年にかけて何度も繰り返し切々と彼が小説やエッセイ等の中で説いた内容について、筆者はこれを彼の、人間に対する愛着の吐露である――と乱暴に片付けてしまっている。

 

 人間に対する愛着とその吐露は、果たして彼が時代の中で取り残されていく”弱者”に対する評価・眼差しとして今日解されるものであるが、それは単に社会の中で冷遇され貧窮に喘ぐ人々に対するヒューマニズムというよりも、一ひねり加えられている。

 それは、人間の披露した仕事に対する愛着が真っ先にあり、それを成し遂げた人間の知恵と意思に対する熱狂が如是閑をして言葉を震わせるものであったと考えらえるものである。だが、そうであっても、彼が好んだのは『?』(『額の男』)や『アンチ・ヒロイズム断片』に登場させた、「煮たていんげん」とその職人や、サーカスの動物とその曲芸師、或いは言論に於いては「新聞」とその記者達――ジャーナリストであった。それは、彼等が彼の生まれ育った中で出会ったテクノロジーであり、メカニズムとしての人間であったからであり、これを彼は「職人」という語で呼びならわし、終生、彼自身が「英雄」について語る際に、これに置き換え、語ったのであった。

 

 先に、今世紀に於いて最早「英雄」はその概念すら忘却された、と書いたが、果たして如是閑が、「職人」の消失を啜り泣きしながら語ったのは、半世紀前の事である。

 今世紀に入って早二十年、久しく技術開発や基礎研究、福祉・教育の衰退や壊滅が伝えられる最中に在って、曲芸飛行の様なイリュージョンが我々の前に現れる事は、先ず以って、それらの曲芸に必要なデバイスなりを作り出し、或いは曲芸師を訓練する土壌である人間そのものを思い出す事が必要――とは、事ある毎に声高に主張されてはいるものの、果たして、一度忘れられ、失われたそれらの言葉が、再び世に現れる事はない。

 今世紀、果たして本邦の人間から失われるものは、機械の体せる英雄の像に限らず、技能、学識、並びに夥しい数の有形無形の財産であろうが、その亡失を杭い止める術は現在、全く存在しないものである。ただ、それでも此の長い長い午後の時刻に際して、可能な限り、それら諸々の所産の影が辺々に満ち、軈てすっかり暗夜に飲み込まれる、その刻限までじっくりと周囲を眺め渡し、その景色を目と記憶の裡に焼き付ける事こそが、唯一可能な現在、吾人に出来る最良の事と考えるものである。

 

 鍬をもつ すべだに知らば いづくんぞ 筆のごときものを われはとらんや

 

 鋤をとり 斧もつすべを 我しらば 筆をとらんや 筆をとらんや

 

――長谷川如是閑

 

 

*1……改造社現代日本文学全集41 長谷川如是閑集 内田魯庵集 武林無想庵集」1930年所収。p321-330