カオスの弁当

中山研究所blog

ジェネレーターに入力したキーワードは秘密

 三が日前後から、AIに色んなお題を入力して絵を出力させる遊びが流行っているようだ。

 これは石を割って出来た断面にある模様を、風景とか事物に見立てて遊ぶ、パエジナストーンのようなもんだと思ってタイムラインを眺めている。

 すると、このような機運に乗じて、そろそろクリエイターの中から、AIが描いたような絵を描いて発表する猛者も出て来るのじゃないかと思い、期待するようになった。

 ただ、今少し、そんな猛者達の筆致よりも、この機運に託けた全く異なった作品を見てみたい気持ちも湧いて来たので、その事について少し書いてみようと思う。

 

 絵のような模様のある石が評価されるようになれば、自ずとそんな石の贋物を作り出す者が出て来たりするのが、人の世の常である。

 だから、AIの描いたイラストがもっと世の中に増えれば、人間がそれを真似し出すだろうーーと思うのは無理からぬ話だろう。

 果たして、自分にはそんな絵を描く技量はないから、いつかそんな画像とタイムラインで出会す日を楽しみにしていたりする。

 

 大体、「絵に描いたような風景」を求めて、他人の土地だろうが耕作地だろうが、道路の真ん中であろうが陣取ってカメラやスマホを構えるようなのが人間の性である。

 だから、

「人間か描いたかのような画像を生成するコンピュータ・プログラム」

が作られるようになるのは、何の不思議もないものであるし、そんなのは、カメラが普及し出した辺りで、人類が一度経験した事である。

 また、人間よりも人間が描いた風な絵が、石をハンマーで割ったり、言葉をバナーに入力したりする事で見られるなら、それにハマるのは全然おかしな事ではない。それを何か文化芸術の衰退だなんて言おうものなら、言う方が多分、野暮なのである。

 寧ろ、この様な画期的なツールを使って、如何なる画像を人間が生成するかが、例えば今後詩人の腕の見せ所になるのではないかとかーーそれ位、考えない事には「批評家」を気取るのも難しいのではないか、とか想像する。

 

 ここで、更に余計な事を付け足して言えば、AIの画像ジェネレーターの妙味は、人工知能の生成した画像に人間が「ツッコミ」を入れられる所にある。

 どっかの画像大喜利のように、人間が「ボケ」に回って頭を捻ってタイトルなりキャプションを付けるプレイヤーの側に回るのではなく、お題となる言葉と引き比べて、その回答の出来を審判する側に立てるのがAIによる画像精製の面白さの醍醐味であると言えるのではあるまいか。

 

 「機械」が描いた絵には前以て正解が用意されており、それを踏まえて人間が機械の出した回答を採点出来るのは、人間にとって絶対的に優位である。それは人間の描いた絵に対して、人間が抱く煩わしさが、初めから取り除かれているからでもある。

 その判定は、スポーツ観戦にも近いが、此処ではそれよりも更に一歩進んだ審判役を人間が演じられる点に於いて、オモチャとしての画像ジェネレーターは優れている。

 ただ、スポーツの試合にプレーヤーに相当するAIは審判である人間の指示には必ずしも従うものではない。というか、先ず理解しているのかも怪しいのがAIである。多分理解しないのであるが、そういう見た目の上で愚かなプレーヤー然としている機械に対しても、恰も人間を「指導」するかの様に振る舞える事で得られる優越感こそが、審判役を任ずる人間の得られる面白さの醍醐味と言えるだろう。

 人間はただ、AIのプレーに対して、口に咥えたホイッスルを鳴らすだけで良く、それも自分の好きなように鳴らして良い。そしてそれは、自分が思うがままに試合を厳粛にも寛容にも振る舞える事を意味している。

 笛の音に合わせて何かが動くのであれば、それが鉛の兵隊だろうが、生きた人間であろうが究極的には関心がなくなるのが、笛を吹く係になった人間の心理が落ち着く感情である。

 詰まり、ルールなんてない状況で、ルールがある前提で振るわれる暴力の、権威だけを擬似的にでも生成するのがオモチャとしての画像ジェネレーターなのである。

 

 刑事ドラマごっこ(何だか妙な言葉だが……)をするのなら、捜査をし取調べをし、犯人を追い詰める警察の側に回って、権力を振りかざす快感を味う方が、追われる犯人側でいるより安逸であるという事は、違いの分かる大人の方が子供よりよく弁えている事項である。

 というのは、大人は手続きの煩瑣な事を子供より分かっていればこそ、一足飛びに、その手続きを経た上で得られる権威や、その効能を得る為の知恵というのに精通した者だからである。

 そんな「知ったかぶり」人間が、果たして子供の格好のオモチャになるのは容易に想像出来る顛末だろう。

 

 斯くして、次々とタイムラインに投稿される画像を眺めては、意気揚々と棍棒を振り回して「鑑定ごっこごっこ(矢張り、妙な日本語だ……)に興じる人間の足下を掬い揶揄うのに、人間がAIに成りすます事程、優れた手はないと思われるものである。

 現実的には「AIに成りすました人間に成りすますAI」が拵えられる方が有り得そうだが、何れにせよ、そうした応酬は、ジェネレーターにキーワードを入力して、出て来た画像を楽しむーーというような、ゲームセンターのコインゲームや、或いはスマホのガチャガチャに興じてしまうような人間の性に端を発している。

 

 その性は、何かを知りたいと思って調べ物をする人間の基本的な習性のあらわれの一つである。

 だから、若しーーそんな大人と子供の戯れに関係したくない、と思えば、大前提として、調べ物をするのに際しては、検索してヒットした情報の中に、その様な「成りすまし」の生成した情報が相当程度、含まれている事を承知しておく必要がある。そして、その有象無象を取り除く篩を沢山用意しておく必要がある。

 そして、それは別に画像ジェネレーターで遊ぶ際だけの留意事項では全くないーーというのは敢えて言うまでもない。

 

 

 お題を入力して、それに応じて提示された絵を見て楽しむーーというのは、果たして普段人間が人間に対して行っているプロセスを、少しく改変しただけに過ぎないので、この大枠自体を何か批判しようとすると結構面倒である。

 そして、この大枠に則った上で、その過程に人間ではない機械を持ち込むのがいかがなものかと思う向きに対しては、次の様な想像をして貰えればーー、と個人的には思うものである。

 

 それは、誰か身近にその様に気軽にお題を振って絵を描いて貰って、その絵を見て、楽しむーーというような環境にいない人達にとって、ジェネレーターがその代替となる手段足り得るという事が先ず挙げられる。

 そして、何よりかこれで、先にも少し触れたが、絵を誰かに依頼するのが難しい詩人や作家達が、自分の著作に挿絵を添えて発表する事が出来るようになったならば、それは全く素晴らしい事だと思うものである。

 これについて、筆者の寄せる期待は甚だ大きいものである。

 

 自分としては、この機運が如何か、「ドラマごっこ遊び」の具にとどまらず、種々の試みに使用され、その成果物に関する情報が随時タイムラインで見られる日が早い所来る事を願って止まない。

 

 なお、ここで「それで、お前自身は何を作るんだ?」という様な質問は、全く野暮であると言える。

 誰が一体、そんな問いに正直に答えるものだろうか?

 

(2022/01/12)