カオスの弁当

中山研究所blog

箸の智慧

 「箸が転んでも可笑しいお年頃」といったり、「箸の上げ下ろしにも兎や角言う」といったり、指の先の爪の先の、更に先にある箸は、極めて些細な事柄の代表例として今日も認知されている。ただ、それは現実に於ける関心度合いの裏返しで、箸の先、使い方や持ち方ほど、その瑣末さに比して注意関心の払われる事は余りない。

 でも、所詮箸の話である。それでも関心がいくのは、ひとえにそれが食事に関係する道具だからであろう。

 

 とはいえ、今日、それがあんまり如何でも良い話であるのは、他人の食事に然程関心を持たずとも良い程度に、人間の腹が満たされているからだろう。例え、一寸の間、気になったとしても、それは相手の手許をずっと見ていたからではなく、目端に留まったからに過ぎない。

 だから、大騒ぎしても「所詮、箸如きに何を馬鹿な」と冗談で済ませられる程度の話題で済んでいる。それは随分おめでたい話である。

 

 故に殊更、そんな状況で瑣事に係り騒ぐ面々もその針小棒大さ加減を承知していて言うに過ぎないものと了解して良いだろう。

 そして、それは単に当て付けや、いちゃもんをつける口実で、目端に捉えた箸について言及しているに過ぎないのである。それは随分、呑気で宜しい事だと一笑に伏して結構な事態である。

 だが、それにしたって、他人が物を口に運ぼうとする端から、やおら嘴を挟むのは甚だ如何わしい事、此の上ない。

 食事の邪魔をするのは、人間に限らず動物一般、生物一般に通用する数少ない嫌がらせの典型である。

 人間の場合、箸の上げ下ろしに物を言うのは、食事の邪魔をする行為に他ならない。人が物を口に運ぼうという手を止めさせようとする行為は、動物的に考えたら、その手を掴んで物を食べさせないのと同じである。

 そんな事をされて、若しされた方が暫時黙っているとするなら、それは制止した人間や動物の威力を恐れて渋々従ったーーというよりも、本人が自制心を働かせて一旦様子を見ているだけである、と云う風に見るのが妥当である。

 

 だから、此処で若しやそんな状況で、誰が間抜けや阿呆か確かめようとするならば、それは他人の食事を邪魔して意気揚々としている人間の方だろう。

 そんな事をして、タダで済むと思っているのは、全く相手が人間を全く人間だと侮っているからに他ならない。或いは、端から動物というものを侮っていれば、

「高が箸如き、何のもんだ」と高を括れるものなのかも知れない。

 

 存外、箸の先にあるのは、それを叩き落とそうとする者の考えている以上に重たいものが控えている。それは一言にして、尊厳である。

 他人の食事を蔑ろにする者は余程の覚悟をしておいた方が無難である。

 ただ、そんなものを支えて掴んでいるものであったとしても、普段は「転んで可笑しい」ものとして人が一笑に付すのは、全く叡智人を自認する人間の余裕を示す意味に他ならない。

 その余裕を、単に側の人に張る見栄だとしか思わない者にとっては、その智慧を簡単に擲って平気である。

 或いは、人間にとってその余裕と尊厳とが如何に重要か分かっていればこそ、その側で羽音を立てるのに余念がない。人間から智慧を奪い、尊厳も根刮ぎにして単なる動物それ以下に(人間は何も尊厳なくして生きられるような動物ではない)してしまおうという輩は、他人の手から箸を奪って、叩き落として、笑うか或いは説教をして平気である。

 そうされても黙っている人があれば、それはその両者の何方が人間の称に相応しいか、既にして瞭然だからである。語るに及ばず。或いは、言っても伝わらない。故の沈黙である。

 

 人間は動物である。その動物に対して、その化けの皮を剥ぐような事を、若し人間が仕向けるなら動物を人間扱いするのが滑稽なように、正しくそれは滑稽である。

 それが滑稽で済む内は全く幸いである。

 その幸いは人間の手指の上に、箸やフォークやスプーンが摘まれている間は保たれるものだが、然し、事情が少しでも変わるとこの話は全然冗談では済まなくなる。

「箸がなければ手で食えば良いじゃない」

なんて台詞は、例えば箸が容易に手に入る状況であれば成立する洒落である。

 

 所詮、箸についての兎や角話をするのは瑣事である。だが、これ程、企図して己の信を損ない、評判を貶め、愚を喧伝する方法も他にはない。

 ーー然すれば誠、箸の話を瑣事に収めている人間の智慧と努力こそ世に讃えられるべきではないか?(以上、馬鹿の戯言。)

 

(2022/01/17)