カオスの弁当

中山研究所blog

現代怪獣ショーが見たい。

 ニジンスキーのバレエの話を方々で読むうちに、それは宛ら大人の鑑賞にも耐えうる一種の怪獣ショーだったんじゃないかしら、と思うようになった。

 実際、有名な『春の祭典』の「生贄の踊り」や、『牧神の午後』なんぞは音楽も相俟って非常にグロテスクである。

 伊福部昭の音楽がストラヴィンスキーの影響を受けている事、そしてそんな伊福部昭が劇伴を手がけた映画『ゴジラ』の影響の下にある今日の本邦のアニメ映画(テレビアニメーション含め)の経緯を考えると、そこから少しの飛躍をして、いっそこれだけVRとか生配信が流行っているのであれば、何処かの劇団や劇場や映画会社が本気を出せば、巨大なシアターをそのまま配信用のステージにして、怪獣ショーの生配信が出来るのではないか……とか妄想してしまう。

 

 内容はそれこそ、ペルセウスアンドロメダでもいいし、本邦の文典中に求めるなら素戔嗚の八岐大蛇退治でもいいかもしれない。

 動く活人画を観てみたいと思う気持ちは、それ自体がやや時代遅れかもしれないが、その企画自体の面白さは実際、百年やそこらでは古びるものではないと思うから、何処かの誰かが此の記事を目に留めて、こんな企画を通してくれた暁には少なしく手許の小銭を叩いてチケットでも買おうかという気分になる。

 どうせ銀行に持って行っても手数料にしかならないのなら、投げ銭にするのが吉というものだろう。

 

 『シン・ゴジラ』以来、少なからず怪獣の中に誰が入っているのか、という事も世間の関心の範疇に収まりつつあると思われる下で、それとは別に、所謂「中の人」と着ぐるみ・コスチュームというものが混同されて等しい時勢に於いて、それが如何いう風に影響するかは未知数であるが、自分はこれで今まで人間が人間を演じるより致し方なかった時代の技術的制約を仮想と仮装の空間の中が取り除かれる事を期待していたりする。

 具体的に言えば、人間が尻尾や角や翼を生やしたり、腕や頭を幾つも持てる様になれるのなら、その方が余程面白いと思われるものである。それらを人間がその意思で操れる様になる舞台と装置が漸く揃いつつある中で、世界の作家達もそろそろ今の人間の肢や目玉の数に捉われず、種々の怪物を今一度想像する支度をしてもいい頃合いである。

 

 神話の時代の空想を、果たして仮想の空間上なら現出せしめ得るのであれば、その様にすれば面白いのにーーというのは、全く思うだけの勝手、言うだけ勝手なものとは百も承知だが、もし人体というのが一種の手枷足枷となっているのであれば、それらに見切りをつけて捨てて、精神と感覚の世界に飛んでいってしまう前に、今一つの方向に目を転じては如何だろうか。

 もしかしたら、二本足で演ずるよりも八本足で走ったり踊ったりする方が上手という人も実は世間には少なからずいるかも知れない。

 

 デパートの屋上や吹き抜けの仮設ステージで演じられていた仮面劇の可能性はこれよりもっと広がるべくあるやもしれない。

 そうこう書く人間は、因みに子供の頃から通じて一度もそうした舞台を生で見た事はない。そういう機会に偶々恵まれなかった、という事もあるが、これから可能であれば自宅でそうした驚異を目の当たりにしたいものである。その為の出費なら果たして吝かではない。

 

(2022/02/13)