カオスの弁当

中山研究所blog

ネットの都市伝説からみた「自己責任」概念について

 2000年代のインターネットを介して広まった無数の都市伝説が広めた概念が「自己責任」である。

 都市伝説“が”広めたーーという言い回しには物語を擬人化する意味合いもないものだが、恰もそれは時同じくして1990年代末からブームになったホラー映画に出て来た怪物の様に、自身のコピーを様々な怪談を宿主として増殖していった。

 

 所で、所謂通俗日本語に於ける「自己責任」なる語の意味する所は、ヨーロッパ圏に於ける「追放」に近しい。

 近年では、一部のライトノベル、ファンタジー作品でも取り沙汰される語句となったので見知った人も少なからずあるだろうと思われるし、又此処で話題にする、専ら刑罰として処置された結果としての平和喪失状態についても、以前よりか知る人が多くなったろうとも推量される。

 それが、近々十余年の間に浸透・進行していった“新自由主義”の名の下に行われた「改革」の根底にある「思想」と何某かの連関があるのか分からない。

 ただ、少なくとも「自由」と「責任」を結び付けて語る文脈自体は啓蒙時代以降のそれと見るには些か難のある印象は惹起するものであり、それに対する違和感が一方で「意識高い系」という揶揄嘲弄の含意を伴う称で呼び習わされる事が同時に存在していた時期について、両者の不気味な同期を単に偶然と見做すよりも、これらの要素を合わせて今世紀初頭の「空気」を観察する方が妥当であろう。

 

 話を戻すと、都市伝説が齎す「自己責任」もとい「追放=平和喪失」とは、物語が読者に突き付けた“真実”によって、それまで彼等が過ごしていた日常が崩壊する事態を指す。

 20世紀末葉の日本語に於いて、語としての「平和」は常に「専門用語」乃至「ジャーゴン」であり、今日もその状況は往時より衰威したとはいえ依然継続中である。そして、この特殊な語の意味を代理する語として用いられるようになった言葉が「日常」であった。故に今日、日本語で「日常」という場合、それが指す状態は即ち、平和と解してほぼ問題ない。

 

 一般に、ネットの都市伝説や怪談の枕に置かれる「自己責任」の文言は、スレ主やそのコピーを貼り付けたユーザーが、自身の書き込みや投稿を読んだ他人の不利益に対する何らの義務を持つものではない事、そして仮に不利益が生じた場合にも読んだ人間がスレ主や投稿者に対して何らの訴訟を起こさない旨を確認する一条として解されている。

 翻せば、その様な文言を冠さないではいられない様な危険性を、果たして発表者は認識しているのではないかーーとも思慮が及びそうなもので在る。だが、そんな慎重さはネット・サーフィンという「スポーツ」に興じる多くのユーザーにとっては、多くの場合は交通規則の様に煩わしく、決して実際的ではない。いちいちそんな事を気にしていてはとても生活が出来ない、という訳である。

 ただ「自己責任」の文言は、そうした注意喚起をする位にはユーザーにモラルが備わっている事を示す仕草にはなるものである。

 それは一応の警告であり、「一時停止」であり、相手に対する注意喚起なのであるが、そんな取って付けた様な「怪しい文言」を前置きしないではいられないのは、これから何かを伝えようとする者が、自身の行いが何処からか誰かによって監視されているのではないか、という恐怖を内包している為である。

 

 所謂「ネチケット」やモラルが文字通り、多くのユーザーに警察的機能を果たしていた事が「自己責任」という枕詞からは伺い知れる。

 ただ、それをして、ネット・ユーザーの多くが自身の犯し得るかもしれない「罪」に怯えている、と解釈するのは流石に空想に過ぎており、専ら人々が恐れるものは罪よりもそれが理由となって何らかの権力から加えられる「罰」に恐怖しているーーと解するのが妥当である。

 他方、罰を「与える」側からすれば、その口実としての自己責任は、自身の統治や支配を冒涜して違反したものに対して、彼等に対する保護・救済の義務を最早自身が有さない事を表明する文言として重宝し得るものである。

 

 「自己責任」という語は、市民間の、或いは市民と国家の間の、平和もとい「日常」に関する暗黙の了解を、一方が一方的に破棄乃至放棄しようとする時に便利な語である。

 だが、それは都市伝説の「拡散」……それは「増殖」や、もっと言えば「繁殖」の言いが相応しい……過程に於いて、投稿者と、それを受け取る読者の双方を、謂わばモラルという日常の埒外にお互いを追放する際の「合言葉」として機能する。

 それによって得た自由は、果たして人間のそれとは全く異質のものであり、其の状態には当然ながら、現代に於いて私達が想像する人間らしい平和も日常も、その内容としての安全も存在しない。無論、「責任」の意味合いも其処では大きく異なっている。

 

 そんな、のっぴきならない剣呑な「自由」(平和喪失状態)を、昔の人は「自己責任」なんて味気ない言葉では語らず、次の様な“詩的”な表現で示している。

 「汝は審理と法によって、殺人追放に処せられる。故に私は、汝の身体ならびに財産を保護から引き離し、これを無保護のもとに置く。また汝には名誉もなく権利もないことを宣言し、汝が空に放たれた鳥となり、森の中の獣となり、川の中の魚となることを宣言する。」

--堅田剛『法のことば/詩のことば ヤーコプ・グリムの思想史』p.83(第四章 ヘルダーとグリムの言語起源論)より

 上の例は歴とした判決文の翻訳文ではあるものの、その表現は今日の日本人にとっては(恐らく現代のドイツ人にとっても)馴染み薄く、稍もすればそれこそ本当に厨二臭い、ファンタジックな、作り物めいた表現であるとしか映らないものであろう。だが、相対的に見るならば、今日に於ける、いかにも何か「法的」な言葉使いというのも同程度に奇妙さを有する可能性はある。

 その意味で、「自己責任」も文学上の位置付けは『空に放たれた鳥となり、森の中の獣となり…』のくだりと対等なものであると言えようが、飽くまで一方が公式の判決文で用いられたものであるのに対して、「自己責任」は飽くまでネットの都市伝説の枕詞に過ぎない事は、留意される必要があるだろう。

 

(2022/03/26)