カオスの弁当

中山研究所blog

極楽の余り風

 日本での生活は一年の半分は湿気に耐え忍ぶものである。クーラーがあっても、それは変わらぬ事情である。

 そんなもんだから、自ずと志向は高原へと向かう。涼しく、適度に乾いた環境へ避暑に向かう。燦々と降り注ぐ日差しの元で肌を焼こうなんて発想とは縁遠い。寧ろ、そんなジリジリ、塩が吹きそうな場所から逃れて木陰の下に涼を取ろうという欲動に突き動かされているのだから、わざわざ好き好んで炙られにいこうというのは他に目的があると邪推されても強ちではない。

 

 「極楽の余り風」という古い言い回しがある。意味としては、「干天の慈雨」に等しいが、専ら其の儘の意味で用いられる。即ち、暑い最中にソヨと吹く風の涼しさを讃えて呼ぶ。

 そんな「極楽」の一端は、風そのものであり目には見えない。肌に感じる刺激である。或いは動きとして、視覚に捉えられるとすれば、小枝や吊るした何がしかに表れた揺動がそれである。

 だが、何よりか目に見えないものの情報は耳で、音として得られるものである。だから風鈴なんてものが、或いは竹や笹が飾りとして用いられたりする。あれらが若し、身じろぎ一つせずにあるものだったら、極見窄らしいものでしかないだろう。

 

 兎も角、大事なのは動きである。尚且つ、その動きは、何方かと言えば軽薄な、些細な動きが味噌である。

 畢竟、生き物であれ、メダカや金魚を飼育するのも、或いは虫や小鳥を籠に入れ飾るのも同じ理由から来ている。水や、「半透明」の籠の中に動くものを入れて、その不規則に動く様を目や耳で楽しむーー。これが専ら室内に於ける趣味の中でも人気を占めていたのは、生憎と今日では随分忘れ去られた風情がある。

 

 完全に覆ってしまうのではなく、垣根や生垣の様に、隙間としての「目」を残す事は、何も「風水」的な意味合いからーーというよりも、通気性の事情からであったろうと想像される。

 勿論、これだけ南北東西に長い列島だから、何処も同じ事情であるとは言えず、寧ろ各所で違った事情から様々な工夫や仕掛けがあったものであろうが、それらの知識は随分と廃ってしまったか、或いは巷に流通しなくなってしまった。

 

 電柱・鉄塔の林立する景色というのも、或いは銀色は鈍色の金属の剥き出しの表面がゴロゴロと転がる景色というのも、実際それらを涼しい所から眺めるのであれば、先に述べた様に竹細工やら何やらを見る時の様に面白いものである。というのも、それらは昼間は大気の揺らぎによって、夜天の星の様にキラキラと瞬くからである。

 斯くも湿潤たる気候にあっては、冷涼閑寂たる地域の中で育った感性は其の儘では中々通用しない。

 

 こんな小話がある。

 嘗て、東京市議会に於いて街路の舗装を推進しようとした際に、

「それでは下駄屋が廃業するではないか」

と反論した議員と意見があったそうである。

 未舗装の街路は事ある毎に泥濘に変じて、これには下駄が必須であった訳だから、その意見にも一理あると言えばある訳だがーー、何よりか此の発言は、思うに此の議員を含めた少なからぬ人々の内に、蒸れる靴への日頃の不平不満が堆積していた事情の発露ではないかと考えられる。

 今では然程、表立っては憚られるようになったものだが、ふた昔程前ーー詰まり、世紀の節目前後迄は、「足の水虫」というのは半ば国民病的な風潮があって、年中構わず、此の「水虫薬」の広告が見られない時期はない程であった。原因は当然、靴である。

 

 東京市議会の舗装道路を巡る議論は、「下駄屋」発言に留まらず反射熱による問題も議論されており、飽くまで「下駄屋」云々はその序でに出た様なものであるが、其の場で最大の争点であったのは、取りも直さず、「西洋化」「近代化」そのものであった訳で、文字通り、足下の近代化のシンボルたる靴も此の時、暗に槍玉に挙げられたーーというのが、果たして事の真相の様に思われる次第である。

 

 実際、下駄は正直靴に較べたら随分歩き辛いが、通気性は格別である。

 涼しげである事が本邦に於いては美的にも優位である事情は今も変わらない。空気が湿気を帯びて来るとたちどころに出回る衛生用品を見ていても明らかだが、「清涼感」は果たして贅沢の第一なのである。

 

(2022/04/27)