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中山研究所blog

電線・電柱と『エヴァ』の潔癖

 日本のテレビアニメーション作品の特徴として指摘される電線・電柱は、文明の象徴であり、歴史的文脈に於いては文明忌避・自然回帰的なコミューン運動に対する抵抗の象徴でもある。それは屡々、“電線・電柱アニメ”の代名詞とされる『新世紀エヴァンゲリオン』の中で特に物語の中の文脈に於いて強化され、ピークを迎えた。

 

 高度経済成長期に於いて日本国内に続々と建設された「景観」としての電線・電柱は、戦後に沸き起こった市民運動とパラレルに存在した。自然回帰や文明非難の論調が高潮する運動の中で出来するのを眼下に収めながら、続々と建設された無数の構造物は、一方に於いて、潜在する消極的なソリダリティの象徴としても機能していた。

 

 『エヴァ』に於いて極端だったのは、自由恋愛に対する忌避感の表現であった。同時代的な評価では(或いは今日に於いても)、その忌避の対象は恋愛であるとされた。これについては、議論の当事者の自由に対する忌避感乃至警戒心の程度に比例していたものであろう。又、そうした方が政治的にも娯楽としての作品鑑賞の点でも無難であった事は明らかである。

 ヒッピーに代表される冷戦下の潮流は、「オタク」の形成のそもそもの原因である。だからと言って、安易に電線・電柱が対抗的な事物であった、という訳でもない。それよりも他にアイコンに相応しいものは無数に存在していた。

 尤も、そうした対抗的アイコンに対しても距離を置く形で配置されたのが電柱・鉄塔といった大道具、路傍のオブジェだったーーというのが筆者の見である。

 

 アニメに出て来る電線・電柱の解釈について、『エヴァ』を“要石”として捉えたとしても、殊更此の『エヴァ』の「抵抗」の意味合いは継承された、とは言えない。

 とはいえ、その(大雑把な)二項対立の間で俗に言う「第三の選択肢」を模索する人々の様子を描く物語の背景として、彼ら叉手する人々のシンボルとして、電線・電柱は『エヴァ』に於ける潔癖表現の手法的影響を受けているものといえる。

 

 2010年代以降、今日に至る近時の情勢は、然しながら、景観としての電線・電柱は対抗的文脈で担ぎ出される事が間々起きる様になった。更には、社会基盤の弱体化が電線・電柱の具有していたソリダリティの象徴的価値を顕在化しつつもあり、上述の系譜は1990年代から2010年代前半頃までの約20年間にーー謂わば、20世紀末とその余波の残っていた21世紀初頭に限定されるものだろう。

 

(2022/05/05)