カオスの弁当

中山研究所blog

麦わら帽子と白いワンピースの幻について

 

母さん、僕のあの帽子、どうしたんでせうね?

ええ、夏、碓氷から霧積へゆくみちで、

谷底へ落としたあの麦わら帽子ですよ。

 

ーー西条八十『ぼくの帽子』(1922年)

 

 

 12、3年前「2ちゃんねる」のまとめサイトで、

“夏に関するイラストで描かれる、白いワンピースを着た麦わら帽子の少女が向日葵畑の中に立つイメージの元ネタは何か”

というお題で立てられたスレが紹介されていた。

 

 そこでも、またその後、同様のテーマを扱ったフォーラムでも様々な作品やアイデアについて言及がなされていたが、中でもその骨子として指摘されていたのは、山川方夫の小説『夏の葬列』(1962)である。

 同作中では、少年時代の主人公の身代わりになって亡くなった女性が着用していたのが「白いワンピース」だった、という設定が見られる。国語の教科書にも掲載されていたそうで、それで作品に接したという人も少なからずいた、「特定の世代にはよく知られた作品」の一である。

 

 ただ、『夏の葬列』のみでは、ひと昔前のオタク達が妄想したミューズの図像を完成させる事は出来ない。今一つのモチーフである「麦わら帽子」まで『夏の葬列』はカバーしていないからである。

 その「帽子」は何処から来たかーーという事を考えてみると、果たしてこれは冒頭に掲げた西条八十の詩だろうと思われる。

 森村誠一推理小説と、それを原作とする映画『人間の証明」(1977年、原作は1975年発表)でもって人口に膾炙した西条の詩は、少年と思しき語り手が延々と嘗て失くした麦わら帽子について回想する内容である。

 

 『夏の葬列』と『ぼくの帽子』の共通点は、主人公・語り手が男性である点、それぞれが自身の少年時代の(或いは未だに精神的にも肉体的にも少年である主人公が近過去の)出来事を回想している点にある。

 そして、彼らが各々自身の過去の喪失体験の起点に立ち返ろうとして失敗する様子が全体に於いて縷々陳述されている点で、両者は共に個人を形成している空虚を主題にしていると言えるだろう。

 その空虚を当人が補完しようとしては失敗するのを反復している、その行為自体が主人公の個性であり、その行為までを含めてが彼そのものを規定する体験の全体であるーーという事を読者に分からしめる作品であるのも又、同様である。

 

 「麦わら帽子」と「白いワンピース」は、総合すれば何れも個人の私的なトラウマの象徴であり、後悔と罪責感の象徴でもあり、又、喪失した思慕の対象の象徴としても扱い得るものだ。

 但し、サブカルチャーの文脈では概ねこれらの「私的な夏の経験」のシンボルであって、飽くまでそれらはそのラベルとしての機能を有する過ぎない。

 固有の文脈、物語を離れて記号として用いられる様になったアイテムは、別段、そうしたものを描くのに、或いは鑑賞するのに際して消費者が何のシンボルだと気付く必要は特別なく、ただそのアイテムに相応しい物語を想像して代入する為の空白として認識されれば用の足る記号である。

 

 然し、矢張りその二つのアイテムを携えた少女というのは、自ずと喪失のイメージとして往々解釈されて来たものであった。

 それは、アイテムだけが模倣され反復された過程で忘失された物語のシンボルとして少女が機能しているのかも知れない。だが、そうしたイラストの「語り」(設定)に於いて、「麦わら帽子」と「白いワンピース」という“喪失”のシンボルを二つも具備している少女が、そこで暗示されている運命を自ら否ぶ力を持っている筈は、先ずないものである。

 

 “オタク”がこうした喪失とトラウマのイメージに憧れるのは、ひとえに自身がその様なイメージを形成するだけの経験を積んでいないからだーーという様な意見は、先に触れたフォーラム以降のみならず、それ以前から散々に言われて来た言説の一である。

 ただ、その指摘は不十分であると思われる。何となれば、その喪失経験は個人その人がその対象の犠牲によって現在も自身が存在するのだーーと自己規定し得る程の強度のある経験という風な修飾が付け加える必要があるだろうからである。此処で重要なのは事象の不可逆性であり、それを以て喪失と見做す為に必要な条件である。であるからして、麦わら帽子に白いワンピースを着た少女というのは、そんな不可逆性のシンボルとも解し得るかも知れない。

 

 所で、ここまでで「白いワンピース」と「麦わら帽子」までは見て来たが、意図的にはぐらかしていた今一つの“アイテム”がある。

 「向日葵畑」である。

 これについては、元ネタとして例えば、北野武の映画が言及される事が間々あったものの、それも素材の一には違いないだろうが、今まで見て来たものと比較してみれば、そうした邦画のイメージの大元も、恐らくは日本で1970年に公開された映画『ひまわり』( I Girasoli 、イタリア・フランス・ソ連アメリカ合作)であろうと思われる次第である。

 この映画の中に登場する地平線まで広がる向日葵畑のイメージが、それを意識したそれ以降の邦画のイメージを経由して2000年代のサブカルチャーの一典型の背景となった……と考える方が筆者個人としては随分しっくり来るものである。

 ただ、そうして考えてみると、実はあの“白いワンピースを着た麦わら帽子の少女が向日葵畑の中に立つイメージ”は、決して喪失だけが描かれたイラストではないように見えて来る。

 過去の出来事を踏まえて、新たに人生をやり直そうとする人間の、割合前向きな(そして稍、大袈裟な)気分の表象でもあるようにも見えて来るものである。

 それは「白いワンピース」や「麦わら帽子」だけの状態からは導き得ない意味合いであり、故にその場合、延々と連なる向日葵畑の中に立った麦わら帽子を被った白衣の少女は全く「過去の人」のシンボルとなるであろう。

 

 なお、蛇足ではあるが、果たして近時の情勢は、以上本稿で扱った画題を決定的に“過去のもの”に、歴史的事物として変化させつつあるものと言い得るだろう。だが、変わらない点があるとするならば、それはあのイメージが「喪失経験とその反復」としての図像的意味合いである点に尽きる。

 そのシチュエーションで示唆し得る出来事の時勢は、何も過去ばかりではない。過去が現在や未来に変わった時、これらのイラストのキャプションは“Carpe diem”から“Memento mori”に掛け替えられるものだろう。だが、この文句はそもそも対であり、何方にしろ同じ事しか示していない。

 

 そして、もし、それが疎ましく感じる時には、果たしてイラストの背景は別のロケーションを選んだ方が良いだろうーーというのは蛇足の上の蛇足であろう。

 そんな気分の時に、どんな風景を描くかはクリエイターが各々の裁量に委ねられている。そして、その鬱積の中から今後、新たなイメージが成立するのを筆者は密かに期待していたりする。

 

(2022/07/29)