カオスの弁当

中山研究所blog

ピグマリオン・ジェネレータ

 適当なキーワードを入力して機械に生成・出力させたデータをそれ以上のものだと捉えて享受するまでには、一跳躍の歩み出しが必要である。

 昔、坂田靖子の漫画にピグマリオンの伝説をモチーフにした短編作品があったのを今朝ふと思い出した。パソコン・インターネット黎明期の只中で描かれた坂田の諸短編作品は、正に今、読まれるべき作品郡であろうと思うのだが、それはさておき、同作の(タイトルは失念してしまったが)主人公は天才芸術家(男性)で、自身によっての「最高の女」を欲するのだが、その衝動のままに鑿槌を振るうと、その芸術的衝動が表現されてしまって、一向に「女」自体には辿り着けない。

 そこで彼が相談に向かうのが、コンピュータの研究開発を行うラボである。出迎えた研究者らも「ここはコンピュータのラボなのですが」と困惑するのであるが、札束で頬を叩かれた研究者は諾々とアーティストの注文を受けてしまう。

 そして(ネタバレになってしまうが)、ラボの面々が考案したのは、一種の催眠プログラムであった。具体的なその描写は芸術家のセリフで止まるが、如何やら延々と幾何学的図形の画像やら、所謂、当今私たちが「ヴェイパーウェイブ」とか聞いて思い浮かべる様なシュールな映像みたいなもの(動画なのかは不明)がモニターに表示されるプログラムとして描かれている。

 そして、この催眠導入プログラムの最後に表示される画像の女性を「理想の女」として満足する様に作られたプログラムが、ラボが開発した『最高の女』なのだーーと、担当者は助手の若者に語って物語は終わる。その画像というのがボッティチェリの『ミロのヴィーナス』とダ・ヴィンチの『モナリザ』と後2点くらいあった筈だーーが、何分読んだのが随分前なので思い出せない。『裸のマハ』か『オランピア』であった気がしないでもないが、確証はない。

 

 兎も角、この漫画が描かれたのが1990年代(自分が読んだのは2000年代の後半であったが)であった様だが、当時これを読んだ人もそうであったろうが、それから十数年後に読んだ私も、この男の愚かさを滑稽に感じたものである。

 だが、それから更に十数年経って、俄かにその滑稽がフィクションの装いを失して自分の目の前に現れた時には、一週間程、件の物語を思い出すまでに時間を要した。

 

 別に、画像生成Botで遊ぶのに水を差すつもりもないが、それが生成した画像をすわ「絵」だと即座に反応するのは、如何にも20世紀後半の「コンピュータ万能論」じみた愚かさと滑稽さを感じさせる。ただ、そんな感想自体も2020年代には時代錯誤的でもあるだろう。

 

 例えばだがーー、丸山健二の小説が原作で、そこにオリジナル要素としてコンピュータが弾き出した結果に従って任務を遂行するーーという(見方によっては稍SFチックでもある)オリジナル要素を加えた1984年のクライム映画『ときめきに死す』(主演・沢田研二、監督・森田芳光)が、詰まるところ当時の世相に滞留していた「万能機械」への「期待」を批判する内容になっていた事は、映画諸共、文字通り、遠い過去の出来事として忘れ去られている。

 その割に、2010年代には、P・K・ディック的な世界観のクライム・アクション作品がアニメを革切りに小説化もされて色々マニアの間で持て囃されたりしたが、いざ、そういう予行練習でもって繰り返し注意を呼び掛けられていた事象に関して、初めて接するに際しては中々機敏に反応するのは困難の様であった。

 

 Botの生成する文章(それを文章と呼べるかは分からない)や画像を、何か詩や絵なのだと捉えるのは詰まる所が芸術家の男の様に「最高の女」に対する欲望とそれに基づく行為とが伴っていればこそであったろう。ただ、目の前のタイムラインに流れてくるだけの画像を見るだけでは、これまでも、またこれからもそんな理想の記号さえ認識するのは出来ない事であるだろう。

 

 だからと言って、端からそんな理想や対象を渇望しない者程こそ、「これでもう絵描きなんて仕事は不要になった」と嘯くのだろうーーとは決めつけてはならない。

 それは鑿や槌を握るまでもなく、大理石の塊に向き合う事もせずに漫然と過ごしている人間がアーティストを気取って垂れ流す戯言かもしれないが、一方では、これまで散々大金を彼等に支払って来たにも拘らず、その衝動の表現しか見せ付けられて来なかったパトロンが、漸く理想の奴隷を見付けた時の満足な溜息に伴って出た一言かも知れないからだ。

 それは「理想の買い物」ではないかも知れないが、少なくとも、これまでうんと敷居が高く、おまけに全然自分の言う事を飲んでくれない人間よりもずっと理想に近付ける夢のマシンであった。

(しかもBotであれば、注文主である自分を陰で嘲笑する様な事も絶対にしないから!)

 

 実際、他人を使って何かを得ようとしなければならない人程、真摯に己の「最高」に向かって邁進するのかも知れない。そして、存外自力で何とかしてしまおうという人間程、「最高」ではなく「最善」を尽くそうとするのかも知れない。そこには自ずとズレがあり、「最善」を尽くすが故に「最高」に一歩及ばぬーーという事も起こり得るのかも知れない。

 画像生成Botは、強いていうならその「最高」と「最善」の間を取って「最良」を目指す手立てかも知れない。それは人間が描いた絵ではないかも知れないが、人間が描いた絵では満足出来ない人にとっては、それらを元にした「最良」の選択肢かも知れないのだ。

 また、芸術家からしてみれば、その画像は所詮、顧客を満足させる“だけ”の信号に過ぎず、“そんなもの”を描くのに時間を割きたくない芸術家の作業を随分軽減してくれる福音として評価し得るものになるのではないだろうか。絵描きが画像生成Botを活用する利点は何よりか、その様な面倒に割く労力を減らす点にあるだろう。今時便利なツールを使うのに抵抗のある絵描きなんてのは廃業するしか道がないものである。蓋しいつの世にも「クリエイティブ」な仕事をする者程、新しい道具を直ぐに使い熟せるようになる能力を必要とされるものであるーーと言えるかも知れない。

 

 ピグマリオン・ジェネレータとは、正しくピグマリオンを生成する装置であり、「理想を実現する装置」ではない。飽くまで、その願いを叶える道具は願い自体を創造するものではないのだ。

 故にだが、この装置を用いるのは半ば神懸けた誓いを立てる様な行為が出力の際に必要となるのではなかろうかーーと思われるものである。

 無論、冒頭に紹介した、坂田靖子の漫画に出て来るアーティストの様にーー本人としてはそれに不満を抱いているのだがーー自身の仕事としては「芸術的衝動の具現化・作品化」を創作する事を旨としたい人々にとっても、ピグマリオン・ジェネレータは「マシン」として活用可能である。

 何せ、ピグマリオンは自分の為に創作を行ったに過ぎないのであって、決してそれは仕事ではないのであった。別に彼は彼自身に対価を支払うでもなく、ガラテアをピグマリオンは何かで買った訳でもないのだった。

 その意味では、画像生成Botは全く、誰かの提供するサービスであり、それは仕事として成立しているものだから、正しい意味では「ピグマリオン・ジェネレータ」とは言えぬかも知れない。だが、それが「絵描きが失業するかも知れない」と、だからこそ、言われるが由縁である。

 

 何か理想とか人間の求める対象というのは、それ自体、永遠不滅の様に人間には感じられるかも知れないが、その知覚というのは同時に、渇望する人間に己が有限性を無慈悲に示す事柄でもある。

 人間はそれに気が付いたら、早々にそれ自体を求めるのを止めて、手近な所にある「最良」を見付け出す必要があるに違いない。

 ただ、それに際して最も重要なのは機械の性能や渇望の高ではなく、意外と美神への加護の誓願、切実なる信仰と絶えざる期待なのかも知れないーーが、その滑稽と悲惨に耐えられる人間というのはいつの時代も逸材と呼べる希少なものであるだろう。

 ただ、その愚かさを治さずにはいられない、余計なお世話を焼きがちなのが、いつの時代・地域に於いても見出せる一面としての人の性であろう。

 モニターの前で催眠術にかかっている間は、全く世界の半分は見えていないのだ。

 

(2022/08/11)