カオスの弁当

中山研究所blog

AIで創作する

 呪文を唱えてAIで画像を生成するのも立派な創作行為である。だから、創作活動全般に通用しているであろう倫理なり何なりをそれにも適応していこうーーというが本稿の大意である。

 「アレが作品と呼べるのか、創作活動、藝術と呼べるのか?」

という意見は、ある意味至極ありふれた反応である。然り、既製品に一筆署名しただけで「作品」になるのかーーという話と似たようなものであろう。

 権利の帰属や利益侵害などの問題は一先ず扨措き、この1ヶ月足らずの間に生じた問題の多くは、概ね画像生成プログラムに指示を与えて画像を生成する行為を、実際そのソフトを用いるユーザー以外の、その画像を見る部外者までもが「創作活動」として認識せず、故に又、その所産も「創作物」として認めないのが禍していると見受けられる。

 

 そもそも、創作活動に携わっている者は普段から自明のものとして随分慣れ過ぎている為に肌感覚として敏感に、或いは鈍感に過ぎるのかも知れないが、創作活動とその所産物は概ね紛争の火種になり易い事物である。

 日々の練習活動にしたって、隣近所との軋轢を産み易い性質のものであるし、息抜きの散歩や気晴らしの趣味にしたって大分世間からみれば胡乱な、いかがわしさを孕んだものである。大体、そんな風に少なからず自身の内にその様なゆとりを持たせてブラブラしている事が生活の中に組み込まれている手合いというもの自体が、古今東西人間社会に於いては「不審な存在」であり、相当「いかがわしい」事を自覚しないでは創作者の風下にも居ないも同然である。日陰者ではないにせよ、はぐれ者としての自覚は先ず持っていないと、石を投げられても文句は言えない。

 

 他人の家の生垣の花を愛でるのも、公園で屯する群衆を眺めたりするのも、創作者とそうではない一般の散歩者とでは全然別な行為である。

 広い意味で人間社会の営みも自然の一とし観察するのは、ルネサンス以来の絵描きの嗜みであると言える。或いは、文人墨客の一種の「高貴な義務」に属するものだーーとも言えなくもない。

 だが、そうした岡目八目的態度で蓮池の辺りを歩く釈迦如来的態度で生身の人間が天下の往来を遊歩するのは傲岸不遜の至であると難じられて当然である。

 全く世間には、そんな暢気な画架を担いだ暇人の認知の外にある道理というものが幾重にも交錯していて、知らず知らずのうちにそれらを侵犯し、去りながらその無知無礼はそれぞれの道理の範疇にある側の者から目溢しを受けて、這う這うの体で災を免れているに過ぎない。

 そういう一方の寛恕のあるのを知らず、今一方が他人の尻尾を踏むか、或いは逆鱗を撫ぜたるを以て体当たりを食らった時に憤慨するのは、中々に痛々しい様である。

 

 蓋し、薔薇の花に棘がある事や、蝶の前身が芋虫である事を知らず、それが指に触れて漸く気付いて俄にギャアギャア騒いだとて、必ずしもその声を聞き付けて諭してくれる様な大人が何処にでもいるとは限らない。

 そういう不幸な接触も含めて、何ぞ観察の一環であると思って、自分の白衣を朱に染め、或いは泥に染ませるのも一興と思われねばとても藝術とかそういうものを嗜むのは困難である。又、自身もその生活の中で襟に垢染みを造らずに生きられる様な天人天女でもある筈もないのだから、擦れ違い様、他人が蹴散らした泥で裾を汚されたとしても、それは多少の目溢しをしなければ往来を遊歩するのは中々に困難である。

 人跡の途絶えた、或いは未踏の地を行くにも、結局そこには人ではない何かが潜んでいるものである。或いはそういう環境では、自然そのものが荒々しく旅人を滅茶苦茶に揉みしだき、塵や埃の一片に風化してしまおうとする。

 そんな場所へ人間が進むのに、4WDの自動車を駆使して行くのを面白く思わない「読者」や「視聴者」も世間には五万と存在するであろう。だが、自身を使い捨てカイロと同じく青山の石に準えて山谷に投棄するつもりなら話は別だが、そうまでしなければ生身の人間は、大抵密林や秘境の玄関口から帰って来る事すら出来ない。

 ランドクルーザーを駆らない選択肢は更に困難な途となるであろうが、往々にしてその様な苦労は紙面やモニターの向こうに座す読者・視聴者の多くを楽しませるものではない。そういう苦労話を有り難がる勢がいる事も否定はしないが。

 

 嘗て「公式」からの供給に満足せず、自ら「自炊」の筆を執った者達が、今度は模倣の対象となった時代の潮の目を観る程に、その栄誉に預かる事を自覚するよりかは、寧ろ公に自らの存在が明らかにされる事を否ぶ様に硬化している今時の状況は注目に値する。

 批評もそうであるが、自由な言論、自由な表現とは元来、その様な無節操な剽窃・論難・紛争の坩堝を指すものであって、その火中にあるものは決して心地よいものであるとは言い難いものである。

 

 然りながら、その赤熱した炉の直ぐ傍で、皮膚を炙り、遠からず失明する恐れさえあるにも拘らず、その炎の虜となって色を確かめる様な者でなくては、とても「創作活動」に従事し得るとは言えないだろうーー。とは、全く、電化される以前の、外燃機関が未だ地上を疾駆する略唯一の乗り物だった時代の人間の言種である。(或いはそうした時代の人間への憧れを強くし過ぎた人間のアナクロニズムである)

 そんな危険は冒さずとも、愉快な活動にお気軽に親しめる時代が来たーーというのは、どの活動についても何れ訪れるであろう変化の一様体に過ぎない。

 如何にも、AIを駆使して画像を生成するのは、絵筆を執って何かを描くというのとは、全く別の作業であるのは一目瞭然である。

 ただ、いつか機械を意の侭に操縦する為の呪文を開発する人々の言葉が詩となって聴こえる様にならなくては、多くの人々にとっては実に勿体無い事態である。それは昔話に出て来る魔法使いの秘儀に他ならないからだ。文法が未だ魔術の域に留まっていた時代の再来は、既に今日露見する所となった訳だが、それは既に半世紀近く前から始まっていたのである。

 

 極論すれば、AIのオペレーターも芸術家も、同じパルナッソス山を望む者らに過ぎない。それを先ず確認する必要がある。その上で、「世俗的」な人間社会に於ける問題は解決せねばならない。そう考える事自体が大分古臭い、と言われたらそれまでである。然し、人間の営為は常にそんな古臭い物の見方と、新しい産物の齎す価値観との間を機織り綾なすものではないか、と、これまで古臭い、そんなものはもう価値がない、と言われたら筆者はもう、お手上げである。

 自分達の切り拓いたルートをブルドーザーで登って来た連中を詰るより、自分達がこれまで辿って来た道程を踏み固めて来た者達へ追想する瞬間を今、我々は迎えている。

 そして、何より今現時点でいる場所は決して頂上なんかではない事を示すべき時宜でも「今」はあるのだ。

 

(2022/08/30)