カオスの弁当

中山研究所blog

或る日本人がみた英国王の国葬(1)

 1910(明治43)年2月上旬、大阪朝日新聞(大朝)社会部の記者・長谷川“如是閑”(にょぜかん) 萬次郎は5月から英国・ロンドンで開催される日英博覧会の特派員に任ぜられ、3月18日に大阪から浦賀へ、そこからウラジオストクに向かい、4月5日発のシベリア鉄道万国寝台列車にてヨーロッパを目指した。

 この間、彼が目指す英国の首府・ロンドンでは所謂「人民予算」を巡ってに庶民院自由党貴族院の保守党の対立が激化し、ときの国王・エドワード7世は前年4月から1月まで半年以上に亘り政務に忙殺された。その間の過労が原因で国王は気管支炎を患い、十分な休息を得られぬまま症状は悪化した。3月9日に漸く療養に入ったが間もなくアスキス内閣の議会法提出を巡って与野党間の対立が激化した事で、4月27日にも国王はビアリッツからロンドンへ戻らねばならなくなった。

 それから約2週間後の1910年5月10日、英国王エドワード7世は68歳でその生涯を閉じた。国王急死のニュースは丁度一か月前に到着していた現地特派員記者・長谷川如是閑を仕事に駆り立てた。当時を振り返った彼の年譜では、次の様に明治四十三年の冒険が描写されている。

三月此年五月ロンドンに開かれる日英博覧会に派遣さる。十日頃に決定して十九日敦賀を立ちシベリア経由で急行した。支度を整へる暇もなく、大阪で作った十八圓の背広でロンドンを押し廻った。途中ベルリンで初めて佐々木惣一氏に会う。氏は文部省留学生だったが、「大阪朝日」の篤志通信員だったので、伯林に着くとすぐシュワイドニッツェル・ストラーセといふ場末の新開地に氏を訪問したが不在だったので行先を訪ねて市中を通ってある街を馬車屋と二人でまごついてゐると、自動車に乗ったドイツ人が英語で話しかけて親切に世話をしてくれた。翌日佐々木氏と市中見物をしてゐると別の處で偶然またそのドイツ人に出会って二人で奇遇に驚いて握手したが、ベルリンも広いやうで狭いと笑った。十日ほど佐々木氏の部屋に同居して市中を案内して貰った。四月十一日ロンドンに着くと間もなくエドワード七世(しちせい)急死のため、その葬儀に関する通信に忙殺された。

 長谷川はこの特派の2年前、1908年に大阪朝日新聞社に先輩格の新聞記者・鳥居素川の推薦で入社し、編集部整理課兼通信課員の肩書で専ら「遊軍」記者として度々出張旅行に出かけては、そこでの取材を元に紀行文を連載・発表していた。それには社内で彼をスカウトした鳥居素川が率いる「鳥居派」と、彼と同じく当時、社内で看板を張っていた西村天囚頭目とする「西村派」の対立が関係していたものとも思われる。だが、彼自身がまずそのような外回りを好まなかったとしたら、とてもではないが続かない仕事ではあった筈だろう。

 又、長谷川の「大朝」入社の前年、長谷川の実兄・山本笑月も在籍している姉妹社・東京朝日新聞社東京帝国大学の講師であった夏目漱石が入社する。これは当時、人気と共に実力も蓄えて来た流行作家の囲い込みレースに、新興の新聞社である「東朝」が勝利した快挙であったが、これにも大阪朝日の鳥居が一枚絡んでいた。鳥居の大朝へのスカウトは失敗に終わったが、鳥居が失敗した翌年、恐らくは彼のアプローチも含めた世間の反応に自信を持つようになった漱石は、東京朝日の池辺三山の打診に応じて同社への入社を決意した。

 夏目漱石と長谷川は長谷川が入社した翌1909年から本格的に交流が始まった。長谷川は同年春に大阪・天下茶屋に居を移していたが、そこへ9月、夏目が満州旅行の帰途に際して立ち寄ったのである。長谷川の年譜では、その際、「共に濱寺に遊んで某亭で食事した」とある。

 

 所で、夏目は1900年のパリ万博にロンドンへの留学途上で立ち寄っている。そこで目の当たりにした種々の展示物、パビリオンの威容は彼を魅了し、又その刺激が入社直後、鳴り物入りで発表・連載された小説『虞美人草』の中で如何なく発揮されている。

 1900年9月8日に横浜を発った夏目は10月18日にイタリア・ナポリに至り、そこから鉄道でフランスに入り、21日朝にパリに入城した。その翌日から夏目は都合3度も博覧会を見学して、日記には多数その記述が登場する。

 牧村健一郎は『新聞記者夏目漱石』(2005、平凡社)で、この夏目の様子をして「博覧会漬けの漱石」と評している。だが、これは夏目に限った事ではなく、恐らくは世界中の至る所で、その様な人間が続出していた――それが世紀末転換期の世相であったろう。

 パリ万博から7年後の1907年、6月23日から『虞美人草』の東京朝日紙上で連載の始まった。それは東京・上野で催された東京勧業博覧会の会期終盤に重なるものであった。3月20日から7月31日まで上野公園を第1会場として、不忍池畔、帝室博物館(現在の東京国立博物館)西側を第2,第3会場にして開かれたこのイベントは、元々政府主催の第6回内国勧業博覧会が予定されていた所で、日露戦争後の財政悪化が原因で延期されたのを受けて、東京府(当時)が主宰して挙行される事となった、久々の博覧会であった。夏目はこの博覧会にも度々出没したそうであるが、そんな実体験と、過去に欧州で見た華々しい祭典の空気とを活かした文筆は、当時破竹の勢いで成長を続ける新聞紙面を飾る、毒々しいまでに艶やかな色彩となったであろう事は想像に難くない。

 

 ”新聞記者デビュー”を見事に成功した新聞記者・夏目漱石に対して長谷川が当時、どんな感情を抱いていたかは明確ではない。ただ、それは一概に熱狂し崇敬するばかりでもなければ、闇雲にライバル視するようなものでもなかったと思われる。

 漱石が亡くなった直後の追悼記事の中で、天下茶屋での邂逅の折、「夏目君の東京的の『カイ』といふ強いうちに懐かしみをもつたアクセントを聴いて紛れたお父さんに出逢つた子供のやうに、泣きたい位嬉しいと思つた」(『大阪朝日新聞』1919年12月18日)という位だから、個人的には同郷者として大いに好感を持っていた事が窺われる。

 然し、評論家・千葉亀雄は夏目を「ロマンチストであり、リアリスト」とし、長谷川を「ニヒリストである」と論じる。(『大正のいなせ肌』)

 東京・木場の材木商の家に生まれた長谷川は父の代で様々な事業に手を出すも、何れも最終的には立ち行かなくなった。その所為で20代を貧窮の中で過ごす羽目になった長谷川は、10代後半から20代前半にかけて、多感な一時期を浅草で過ごした経験もある。

 父の山本金蔵(二男・萬次郎は曾祖母の養子となり、長谷川姓を継承)は一時、日本最古の遊園地「花やしき」の経営者で、萬次郎少年はそこで「もぎり」のアルバイトをした経験もある。そんな彼の目から見た遊園地や興業・イベントの景色は屡々、観客の眼差しと、客を迎える・見られる側の眼差しとが入り混じった、舞台袖に居る人間から見た景色の体をなしているものであった。とはいえ、彼はすっかり芸人や見世物として展示される人々の内には含められず、寧ろ彼等を客に披露する興行主と、その手伝いをする側の人間であった。そこで感じた「よそ者」としての違和感は、ロンドンやパリで「異邦人」として他者からジロジロ眺められるのに辟易した夏目の経験や、そこで自覚された彼の違和感とも異なるものだろう。

 

 そんな、同じ博覧会を見物していても視線の”擦れ違いそうな”二人であったが、同じ「朝日の記者」という立場で天下茶屋で相まみえた。長谷川は34歳、夏目は42歳、であった。それまでの二人のキャリアを踏まえると、当時の「新聞」及び「新聞記者」という職業の社会的評価が大きく変化していた事がよく表れている取り合わせである――それはさて置き、此処でどんな会話がなされたかは詳らかではない。然し、この翌年、長谷川は夏目が向かった同じ国・同じ都を目指して出立する。奇しくも、それは漱石の『虞美人草』が歓迎されたのと同じ時代背景を受けての派遣であったが、如是閑を迎えたのは「祭典」は「祭典」でも「葬祭」――国葬であった。

 

 

 『ミストル長谷川(はせがわ)、王様は崩御された(ゼ キング イズ デッド)』余が朝の食卓に着こうとした瞬間、向ふに坐った同宿の西班牙(スペーン)人フーコーといふ少年が突然斯う叫んだ。

 『ゼ、キング、イズ、デッド』

と覚えず鸚鵡返しに叫んで余はどかりと椅子に尻餅を突いた。

                   (「英皇崩御の翌朝」(一)、『倫敦』)

 先にベルリンで佐々木惣一と会った云々のくだりが記されていた年表の「明治四十四年(三十七歳)」の項には僅かに二行、「『倫敦』を「大阪朝日」に連載す。/春、兵庫県芦屋に移る。」とだけある。この連載『倫敦』は翌年、政教社から単著『倫敦』として刊行される。三方金、箱入りの豪奢な装丁であり、表紙にはロンドン市の紋章が押されている。

 後に「芦屋聖人」と渾名される彼、長谷川如是閑の成立は1910年の洋行後の事である。この渾名は恐らくは河合碧梧桐が記した『長谷川如是閑論』に依る所のものであろう。帰朝後の彼の様子について、河合は稍勿体ぶった筆致で

 其の大朝時代、芦屋の山中一軒家に、長らく孤独生活を送つていた彼は、運動の為めに、乗馬倶楽部に顔を出すだけ、さして隣人との交流もしなかつたのであるが、いつとはなしに芦屋聖人を以つて呼ばれてゐた。

と記している。

 長谷川の「運動」は乗馬に限らず、弓術や登山・ハイキングなど多岐に亘った。特に弓術と登山に関しては、前者は大朝に於いて社内でこれを奨励した挙句に弓場まで造らせた程である。後に又、『日本アルプス縦断記』(1914年)を記す基となった日本アルプスの縦走には先の碧梧桐を含めた仲間3人で挑んでいる。

 

 ロンドンから戻った彼を待ち受けていたのは、激烈なる社内の政治闘争並びに、それを又好機と捉えた当局の締め付け・圧力から来る紛糾状態であった。斯うした中でも一見して飄然たる風を誇示した長谷川を「聖人」視したのは河合ばかりではなかったが、長谷川も確りと社内政治に於いて鳥居派の一員として発言していた事が確認されている。取り分け、大正期に入ると素川の下、1914年(大正3年)末には社会課長に任じられている。

 斯うして、大正デモクラシー期に於ける立役者・長谷川如是閑の基盤は固められていくのであるが、一先ずそれは別稿を設けて記すべき内容であろうから以下省略する。

 

 ロンドン到着前のベルリンでの「親切なドイツ人」との邂逅は、後に舞台をロンドンに変えて、小説『ヘロデのユトウピア――一名強盗共和国』(1920年)の下敷きになっているだろうと思われる。そんな少し不思議な体験を経て到着した彼を待ち構えていたのは、過労に斃れた国王の死の報せであった。

 

 千九百十年五月七日の朝である。自分は少し早く目が覚めたので、直ぐ床を離れて窓掛を揚げると、薄墨色の靄を透かして鮮(あざや)かな青い空が見える。此の頃の倫敦にしては珍らしく朗(ほがら)かな朝であった。身装(なり)を整へてから、未だ朝食には少し時間があるので、余が日本から携帯して来た唯一の書物で毎朝食事前に日課として読む事に定(き)めて居て、定めたばかりで一向読んだ事もない淮南子を今日は一つ読んで見ようかと、机の上に転がって居る書物の塵を拂つて『太清(たいせい)無窮に問(とふ)て曰く、子道を知る乎、無窮曰く知らざるなり』とやり始めた。

 読み来つて『桓公書を堂に読む、輪人輪(りんじんりん)を堂下に劉(き)る』といふ一節の『臣試みに臣が劉輪を以て之を語らん、大(はなは)だ疾(はや)ければ即ち苦(しぶ)つて入らず、大だ徐(しづか)なれば即ち甘(くつろい)で固からず、不甘不苦(ふかんふく)、手に応じて心に厭(あい)て以て妙に到るは臣以て臣が子に教ふる能わず、臣が子も之を臣に得る能わず、是(ここ)を以て行年七十老いて輪(りん)を作る』云々の辺に来るとゴン〳〵と食事の銅鑼が鳴つた。

 で食堂に入ると未だ新聞を見る間もないうち、出抜(だしぬけ)に『ゼ・キング・イズ・デッド』を食(くら)つて覚えず尻餅を突いて仕舞つたのだ。フーコー君の音声は確か此方の耳に入つたのだが、容易に腹の底に落ち附かないで、頸首(えりくび)の動脈の辺でムズ〳〵して居るやうで、何とも云へぬ、妙な心持がする。無意識で傍の新聞を二つ三つ取り上げて見ると成程大抵全紙黒枠にして大活字で『皇帝崩御』とやつてある、覚えず知らず一座を見渡すと、向側の先生は大きい眼をむいて諾(うなづ)いて見せる。

                 (「英皇崩御の翌朝」(一)、『倫敦』)

 

 普段よりも天気の良い朝、それに釣られて普段なら読まない様な、然し折よくあれば読んでみようと思う様な本を手に取って暫く読み進めた辺りで合図され、階下の席に着こうとした矢先、無邪気な子供に脅かされ思わず尻餅を突いた如是閑”独特”の諧謔が満ち満ちたくだりである。

 彼が読んでいた『淮南子』は、前漢、淮南(わいなん)の王・劉安(前179-前122)の撰した百科全書風の思想書である。本当に長谷川がその本を携帯し、読んでいたかは定かではない。だが、此処では一先ず、彼が読んでいた『淮南子』のくだりについて確認しておきたいと思う。

 所で、そもそも『淮南子』とは、中央集権を推し進めていた漢の景帝の跡を襲った新帝・武帝に淮南王・劉安が要求して作らせた書物である。劉安は帝国内の諸勢力・諸思想の全てを容認しつつ、それらの緩やかな調和による統一を実現するべし――との提言を年若い皇帝になす者であり、『淮南子』は彼の下に集まった多くの賓客・思想家たちから齎された様々な思想を網羅的に採録した書物であった。

 

 劉安は年若い皇帝にこれから起こるであろう種々の政治的・思想的課題への「思考の道具」として『淮南子』を用意した訳である。そして、同書は長らく日本でも読み継がれ、長谷川らの世代が最後とされる「前近代的」教養の内に営々と継承されて来た知的財産の一であった。

 夏目漱石長谷川如是閑は果たして、漢文「素読」世代の最後の世代であり、これ以降の思想家や作家達とは屡々区別されて考えられている。四書五経を中心とする東アジア的教養を、身体化していた日本の知識階級の最後の世代、その代表的人物として屡々名の挙がる事も多い漱石であるが、彼よりも数年遅れて生まれた如是閑も又、ギリギリ此の「素読」世代に食い込んでいた。そんな彼の身体化された教養は文面から間々読み取れるものであるが、その年齢に比して、同世代よりも上の世代の人々にシンパシーを感じていた長谷川の周囲との違和感は終生抜ける事はなかった。

 

 1910年5月7日の朝、長谷川が読んだとされる『桓公書を堂に読む、輪人輪(りんじんりん)を堂下に劉(き)る』というのは『淮南子』に収録された寓話である。

 「桓公」とは春秋時代の国家・斉の君主であり、「輪人」(輪扁)とは車の車輪を作る職人の事である。物語の中では、この職人が桓公にどんな書物を読んでいるかを訊ね、桓公が古代の聖人が遺した教えに関する書物である、と答えてやると、職人はそれを「それは先人の残り滓だ」(「然らば即ち君の読む所は、古人の糟魄なるのみ」)と言って公を怒らせる。桓公は職工如きが君主の読書を邪魔したのに怒り、彼の意見を求め、これに満足な答えが出来なければ死を与えると告げる。それに対する輪人の応答が「臣試みに……」以下の内容である。

 その大意は、職人が自身の経験から「学びとは何か」を説いたものである。「物事の枢要は長年の研鑽の末に「身体化」されて漸く獲得されるものであって、そうした本当に大切な、経験によって得られた知識は言葉や文字で伝えられない」というのが、引用されている部分の大意である。

 「是(ここ)を以て行年七十老いて輪(りん)を作る」で、長谷川の引用は終わっているが、是には続きがあり、そこでは「古(いにし)への人と其の傳ふ可(べ)からざるものとは死せり。然らば即ち君の読む所は、古人の糟魄なるのみ」とある。

 ”身体化され、漸く獲得された様な知識という様な奴は、古代の聖人の死と同時に失われてしまった。後に遺された言葉なり書物という様な奴は、そんな死によって滅びて失われた、本当に大切な智慧の残滓に過ぎないのだよ――……。”

 嘗て「大新聞」と呼ばれた漢文的教養の薫陶を受けた人々の展開した言論活動の中に混じって、天下国家を論じる事を志した若者以上中年未満の長谷川の文章には、蓋し、この『英皇崩御の翌朝』の冒頭が端的にそうであるように、彼自身が喪失した諸々やその経験それ自体を反映する表現が随所に顕れている。

 彼が「ニヒリスト」と呼ばれる由縁は単にそんな感傷や追慕を言辞を弄して随所に織り込ませているからだろうが、その「癖」こそ正に彼が我が物としてしまった教養の残滓に過ぎなかったりする。

 

 咄嗟に長谷川が『淮南子』からそんな話を引用して来たのは、彼の思考の表現型にかくの如き偏向がみられた所為でもあるが、英国王・エドワード7世の死に際して引き付けて考えた彼の思想の一端を示しているのは言うまでもない。

 食堂に下りて来た彼であったが、新聞を手に取るとすぐに自室へと戻った。机の上にはさっきまで読んでいた『淮南子』が開かれた其の儘の状態であったという。

 一大事件に接した時、殊更何か自分の身に起こった、或いは観察した出来事と重大事とを結び付けてストーリーを創作したがるのは割に一般的な人間の性向であると言えなくもない。だが、そうした人間性来の癖を抑制する事が今日では求められる職業の第一に数えられるであろうジャーナリストも又、人間である事は免れ得なかった。寧ろ、当時に於いては、乃至は今日に於いても、著述家という者はそんな「等身大の人間」である事を求められている節さえある。

 専ら今日、「知識人」と呼ばれる人達が世間にそうであるようにか求められているが如く、漱石然り、如是閑然り、彼等はその著述に於いて事実と同時に物語の語り手であり、その作家である事を嘱望された。そうして、その様な読者の期待によく応えんが為に俄かに職務に忙殺される事となった長谷川の眼に映ったものは、片っ端から本国――もとい、「本社」への通信のコンテンツとなった。

 これが果たして、彼のロンドンでの最初の大仕事となった。そしてこれが彼のその後のキャリアに大きく貢献するものにもなった事を鑑みれば、エドワード7世はその死を以って一人の異邦人の人生を大きく変えた、といっても過言ではない。

 

 そんな「英国皇帝」に対する如是閑の評価は『翌朝』の中で明快に纏められている。幾分長くなるが該当箇所を全て抜粋する。

 エドワード陛下も少壮時代には兎角の評判もあつたが、何しろ六十歳に満つる迄皇太子として部屋住の身分であつたのだから、少しの不平や我が儘は有勝の事で、のみならず、其のお蔭で下情に通じて、世間の酸いも甘いも心得た一廉の英国紳士となられた訳である。然も帝位に即(つ)かれてからは、帝王として又模範的紳士として衆庶の渇仰(かつごう)する所となつた。英国の君主の政治上の地位といふものは随分厄介なもので、其の不文の憲法を擁護するのは全く皇帝其の人の性格に憑依せざるを得ないやうな歴史になつて居るが、エドワード陛下は其の点に於て亦(また)模範的君主として、如何に英国の君主が其政治上の範疇を守るべきかを後世に垂示した趣がある。先女皇ヴィクトリア陛下も誠に聡明ではあつたが、流石婦人だけに個人的好悪があつて、グラッドストンのやうな大久保彦左衛門的老爺(おやじ)をすら時々手古摺らせたが、エドワード陛下に至つては、所謂皇帝(クラオン)の政見(オピニオン)といふものを些かも外(ほか)に現した事がない、従つて時には往往皇帝を利用せんとする傾きさへ生じた政界の危機に際しても、皇帝は全く超然として其の不文憲法に半点の汚染をも止(とど)めずに仕舞つた。又外交上に於ても其各国元首に対する社会的地位(ソシアルポヂシヨン)の優秀なる事を極めて道徳(モーラリー)的に利用して、欧州列国間の平和を維持する上に於て、千百の大政治家が頭を鳩(あつ)めて経営惨憺しても到底為し能はなかつた所のものを成し遂げられた。欧米人が陛下を呼んで『エドワード・ゼ・ピースメーカー』といふに至つたのは決して偶然ではない。

 所が陛下の件の事業は全く陛下自身の人格の事業、即ちエドワード七世其の人の道徳的勢力に基づいた事業でもある。其の政治上のに於ても外交上に於ても、将(は)た社会上に於ても不即不離の間に、憲法上の君主として、又国際上の元首として、且(かつ)は一箇の紳士として、何(いづ)れも模範的の地位を占められた手際は所謂学んで到る事の出来ない、人格の事業でもあつた。即ち此処にある淮南子の輪人(りんじん)が所謂『不甘不苦、手に応じ、心に厭(あい)て以て妙に至る』もので、帝(てい)以て之(これ)を子に教ふる能はず、帝の子も之を帝に得る能はずともいふべきである、輪人は『是を以て行年七十老いて輪を作る』といつたが、偶然にもエドワード七世陛下も亦寶算(ほうさん)七十、今朝余が滅多に読みもせぬ淮南子を読んだのも何かの因縁ではないか……なんかんといふ事は何(ど)うでも好いとして、兎に角陛下個人の道徳的勢力が外交上にも政治上にも爾(しか)く重き為しつゝある今日、此の老帝を失つたのは、英国に取つては勿論絶大の損害であるが、一般欧州の為にも予期出来ない不幸になりはしまいかと案じられる。

 

               (「英皇崩御の翌朝」(一)、『倫敦』)

 

(つづく)

 

(2022/09/09,20:10)