カオスの弁当

中山研究所blog

成木責めについて

 小正月に果樹に対して行なわれる豊作祈願の儀式に「成木責め」というものがあるらしい。詳しくは地域や時代によって違いがあるそうだが、概ね、樹木を脅かして、その年の収穫を「約束させる」儀式であるそうだ。

 果たして、昔話の『猿かに合戦』冒頭に出てくる、柿に水を遣るかにの台詞も「成木責め」の一種といえるだろう。

 

  早く芽を出せ、柿の種。出ないとお前をほじくるぞ。

  早く実を成せ、柿の種。出ないとお前をチョンと切るぞ。

 

 この囃し言葉に含まれるエートスに対して、率直に「野蛮」と評し得るのが現代人の微細な肌感覚と言い得るであろう。

 だが、それが年中行事や慣行として行なわれ、尚且つ、地域や家庭、企業という「内輪」で行なわれる様になると、その特殊性を尊重するあまり、自身の平生有する「率直な肌感覚」に衣を被せてしまう傾向が巷ではいまだに散見される。

 果たしてこれに対して、否を唱える事による影響の甚大さを知る者は、その蛮習の根深さと悪影響の大きさとを熟知する者でもある。

 

 そもそも、この「責め」の儀式の質の悪さは、果樹が実をつける義務は誓約によって生じるーーという事を、儀式を行う人間側がよく理解している所にある。だからこそ、「なるか、ならないか」と木を鉈で斬り付けて脅すのである。

 果たして、こうした人間の悪知恵を物語る儀式は本邦のみならず世界各地に存在する。自身らの気に入る成果を挙げないものに対しては、脅迫し、罵倒し、暴力を振るう事に人間は躊躇ない。その思惑の根底には、単に相手を責めたて、萎縮させ、隷属・使役するだけでは思った成果はあがらないーーという、脈々受け継がれて知恵が垣間見えている。

 数え上げたらキリがないが、「成木責め」然り、それらは「自然相手に泣かされて来た人間の歴史の証左」というには、余りにも「不自然」な慣わしであり、“呪法”である。

 そこに完全に欠落しているのは、「教育」と「学習」の見地である。だが、この二語の意味する所もまた、今日、コンセンサスが形成された試しがない。

 

 責めたところで何になる、脅して約束させたところでその約束に意味はないーーという「感覚」が漸く形成されて来た所で、二十一世紀初頭の今日に於いて、それが「一般人」の「常識」になる気配は未だ見られない。寧ろ、今日日漸く、あるかなきか薄ら生えて来た、この「生毛」の感覚を大事に育てようとするだけの気概を、同時代人がどれ程持っているのか、甚だ疑わしいと感じずにはいられない。

 然し例え、そんな生毛が生え揃った所で、焼け火箸を押し付けられたら即座に爛れてしまうのが人間の弱い皮膚である。だからこそ、我が身可愛さで、思わず心にもない約束をしてしまい、そんな約束でも約束には違いないからーーと墨守せんとして、可惜心身財産を損なう例は古今あり触れた話である。

 

 新年に際して、旧習を顧みてこれを重んじるのは最もな話ではあるが、一方で、新年の節目はそれらの儀式の理を反省する機会でもある。

 ここで一度、責め苛む側に目を転じてみると、無情にも、焼け火箸のもう一方を掴む手は、未だ爛れず、完膚を保持している事が間々ある。

 その手もまた、我が身可愛さから用心するが故に全きを得ているに過ぎないのである。専ら、「見様見真似」でその術を知ればこそ、火箸を扱う人間の手には怪我もないのである。

 ただ、そうしてそれが決して獣の扱い、神霊の扱いに慣れている事を意味しないのにも拘らず、当人がそれに気が付いていない例は多々見られる。

 何となれば、自身の人望や才覚こそが、自身に富を齎しているのだと錯覚しさえするのである。

 にも拘わらず、その身体財産を損ねたりした場合、当人等は概ね、「道具」の使い方をし損じた、とばかり反省するのである。その矛盾に最後まで気付かず、またその時点から一歩の伸長もしない者だけが、果たして「豊作祈願」で得られた果実を享受し得る者なのであろう。

 

 

 年次ばかり新たまったとて、その中身が改まらないのであれば、なんぞ新年を賀ぐべき。

 

(2024/01/04)

 

 

 

砂漠の太陽

 映画『オッペンハイマー』に便乗した、バービー人形のプロモーションが炎上しているニュースに接して一夜明け、果たして、その元となった二次創作作品の数々を見るうちに、これが(なんのかんのと言われようと)今日全地球上に覇を唱える国家とその国の人々のプライドのシンボルなのだという気がして来て、素直にそれに圧倒される気持ちになった。

 それはそれとして、その(本邦人には如何にも)“下世話”に映る絵面について、何が如何下世話に映るかを試みに記してみようと思う。

 まず、色彩であるが、これはピンクが先ずいけない。砂漠の大地と空の色彩に壊滅的な印象を与える。それが、原子爆弾のキノコ雲すら染め上げているのに嫌悪感を抱かない人は少なくないだろう。特に崇高さへの冒涜に映るのである。

 だが、この軽薄さこそが覇権国家の深底にあって、彼らが自らの頼みとする根源的暴力のシンボルに他ならないのだと筆者には看取される。

 

 だが、彼らは如何してそこまでの暴挙に出る事が出来るのか? 彼らをして、その畏怖と恐怖の念を乗り越えられる心性の極には何があるのかーー。これを考えるにつけ、今ひとつ示されてあるものが他ならぬバービー人形である。

 蓋し、それは自らが「愛されるもの」としての自信に満ち溢れた姿である。自分ならば、この地上で何をしようともそれら全てが、何もかも許される、という自信を体現した姿は、言い換えれば、それら一切に許可を出してくれる強大で(恐らくは唯一無二の)“超越者”の影のシンボルでもある。

 その超越者に対する絶対的服従と信頼の証として「無垢」であり続ける人形は、これに呼応するかの様に、破滅的な力の顕現に対して無邪気に笑みを浮かべるのである。それは紛れもなく、愚かで浅はかな笑い顔なのであるが、それが地上にあって降り掛かるありとあらゆる災難から免れる為の、彼ら最大の手段なのである。

 

 他の人々なら恐れ慄き、阿鼻叫喚の坩堝と化すところを、歓喜と興奮の絶頂に変化させられる無垢と、そんな無垢な彼らを保護するべく地上に顕現した強大な力とが邂逅した際、無垢な彼らが自らの無垢を表明するかの様に、恐るべきものにすらピンクのスプレーを塗布したところで、驚くに値しない。それは紛れもなく、その顕現に対して微塵の疑いもない事を表明する行為に他ならないからだ。「伏して惟る」様な、憚る様な邪な振る舞いはそこには認められない。

 ただ、その無垢も、可愛らしさも皆、生存に有利な方に「進化」した末に獲得した特徴なのだーーといえない事もない。だが、その様な説が仮に認められたとしても、正しくそれ故に彼らは自らの特徴を、造化の妙として受け止めて、その粋を凝らすべく努力するのは火を見るよりも明らかである。

 

 ここで目を転ずれば、本邦人士の中には大昔に流行った小説のタイトルにもなった、「火宅の人」という言葉が浮かぶ者も少なくないであろう。或いは、今年の全球的な酷暑の陽に炙られて、愈々、「茹でガエル」の気分を味わう中で、対岸の“火事”も今更の様に感じられる人もいないではあるまい。そして、そんな彼らの“愚かさ”を嘲弄するに何の遠慮もないと感じるものであろう。

 だが此処で翻って彼らがその様に思考し行動する、彼らの生存環境の有り様に目を向ければ、成程、自然の道理ではないか、とも筆者は思考するものである。

 勿論、こんな発想自体、今世紀に至って持ち出す事自体が無茶苦茶なのは百も承知である。が、果たして、その描かれた風景を見るにつけ、わたくしの目には、ものの譬えではなく、灼熱地獄とそこに生きる人々の姿がそこにあるのだと思われてならない。其処は最早到底、人の生きる世界ではない様に思われる、そんな世界で生きているのは鬼か邪だけではないかーーという懐疑がむくらむくらと入道雲の様に沸き上がって来るのを、彼らは忽ちに引っ捕らえて、ピンク色に染め上げてしまう。

 人々の記憶の中に鮮明に焼き付けられた白と黒のモノトーンの景色を打ち壊すかの様に、バービー人形のカラフルで、人為的な色彩は哄笑を伴って、遥か太平洋の彼方からこちら側まで渡り来たってなお止む所を知らない。それでも古来、「暑さ寒さも彼岸まで」とは俚諺に記された通りである。

 片や彼岸は、……。

 

(2023/07/31)

タイタニック号の楽士たち

 久々にーーというか、この間初めて『タイタニック』を観た。タイタニック号の沈没に纏わるエピソードは、驚嘆すべき事には、殆ど乗員一人ひとりに渡り蒐集され、記録・伝承されている。

 中でも事ある毎に紹介される話の一に、沈みゆく船の上で死を待つ人々の慰安に勤めた楽士たちの話がある。昔はその様な人たちのエピソードも「美しい話」として辛うじて聞かれたものであったが、改めて、その話と再現映像とを初めて接してから二十数年振りに観た感想は、なかなか昇華出来ないものであった。

 

 仮に彼らが演奏せずに自分の大事な楽器を抱えて救命ボートに乗ろうとしたならば、きっと疎ましく思われた事であろう。何なら、楽器の方は誰かが抱えて代わりに脱出してくれたかも知れないが、楽士は船上に取り残されたかも知れない。

 そういう風に色々想像される様になって、初めて、船上の彼らの演奏がデスパレートな旋律であった気がして来た。故人を蔑めるつもりは更にない。だが、それを聴いた人々が本当にそれを気休めとして、全く消化出来たと想像するのはかなり難しくなって来た。

 どのみち、それはどんなに美しかろうと、氷の海に投げ出されていく、死んでいく人間達の断末魔の叫びである。それを忘れて、どんな曲が演奏されたとか、それがどんな風に聴こえたとか、想像するのは大分見当違いな気がする。

 

 誰がそれを聞いているか、果たして確かめる術もない中で、誰かがそれを必要としているに違いないとか信じる余裕が果たしてあったか如何かは不明である。

 だが、沈みゆく船の上で、そんな期待よりも遥か間近に迫った終わりを前にして、演奏家の音楽は自分自身の気を紛らわせるものであった事は想像に難くない。

 彼らは彼らに与えられた「楽士」という立場を引き請けた事で、死後も長きにわたって今日まで、楽士として評価され続けている。然し、その最後の最後まで彼らは、彼らが引き請けた仕事を全うしなければならない。それは恐らく、この先、ずっと変わらない。

 

 それは、彼らが彼ら自身をして、楽士足り得た結果であろう。

 所で、後世に生きる我々に想像を許されたものは、彼らの取り得た選択肢ではなく、自らがこれから取り得る選択肢についてであろう。これについては、十中八九の了解が得られるものであろうが、船が沈んで百余年後に生きる人間たちには、楽士が楽士である以前に、一個の人間であった事実が、若しかしたら彼ら自身よりも強く意識されるものである。

 縦しんば彼らが楽器を捨て、如何にか斯うにか最後まで生きようとして敢えなく落命したとしても、彼らが最後まで楽士でなかったとは今次我々の中で、一人も認める者はいないだろう。

 又、彼らが船上で死にゆく人々の慰安に勤めると同時に、破れかぶれであった事を認めぬ者もないだろう。

 芸術家は無力である。それは別に芸術家だから、という訳ではなく、氷の海に沈みゆく船の上に残った者であるが故に、無力であるーーと言えるのである。

 

 それに対して、後世の人間が、「ならば、その船に乗らねば良かったであろう」とか、「乗ったからにはそのチケットの定めに従い粛々と結末を受け入れろ」というのは全くのお門違いである。

 それは既に終わった話なのである。楽士の演奏が絶えて、氷山に激突した船の上にあった人々が海中に没して、既に百年を閲したのは周知の事実である。我々の耳にその音楽が届く事ははなから決してあり得ないのである。

 彼らが如何に満足して、或いは後悔していたかは、はなから「我々」に係る問題ではない。問題は、現在を如何にして生き延びるか、であり、過去のある時点、ある時間に生き延びていた人々の余命を顧みて評価する事ではない。

 仮にその演奏が聞こえたとしても、それに耳を貸す猶予は「我々」にはない。その選択を「美談」として消費し得るのは、そもそも、船上に残った人々だけなのだ。

 

 或る時点から、楽士として、一個の人間として、その生存にピリオドを打つ決意をした人々の奏でる音楽を耳に出来るのは、彼らと同じタイミングでその決心をした者達だけだったーー。

 そう考える様になって、一つ、長い間、私自身を悩ませていた問題が消滅したのは何より幸いであった。

 船上で演奏していた彼らは、既に生ける楽士としての義務から解放されていたのである。偶々それが生者の耳に届いたとしても、元・楽士たちの演奏は、生前のそれと同じものではないのだった。

 

 彼らは彼らに与えられた「楽士」という立場を引き請けた事で、死後も長きにわたって今日まで、楽士として評価され続けている、と私は書いたが、世間では今でも概ねその様に受け止められているものだろう風にこの筆者は思考している。

 だが、個人的には、前述の通り、彼らが留まった船の上で演奏した音楽は、死後の音楽であった。繰り返すが、筆者には故人を冒涜する意図はない。その意思を批判するつもりもない。ただ自分には聞こえない音楽を、素晴らしいとか美しいとか評価し得ない、という事を言わんとするのみである。

 

 タイタニック号の楽士たちの音楽は、水底で、今も奄々ループし続けているかも知れない。だが、それに耳を貸すべきではない。現在の生存を選択し続ける人間には、死者の奏でる音楽は遥かに遠い。

 

(2023/07/13)

なんかでっかくてこわいやつ

 空想科学映画とパニック映画の違いについて考えていると、取り敢えず、「なんかでっかくてこわいやつ」を想定してみたくなる。

 この「なんかでっかくてこわいやつ」は、大抵、手に負えない災害級の代物であり、これに対する反応として描かれるのは二通りのエポケーである。

 一つは、兵士や消防士が日々の訓練を通じて体得するタイプのエポケーである。で、空想科学映画で描かれる人間の態度は、大体がこのタイプである。

 もう一つは、それがジャンルの名前の由来にもなっているパニック状態の人間が陥るタイプのエポケーである。前者が割合にエリートの態度として描かれるのに対して、後者は一般以下のその他大勢、群衆の態度として扱われている。

 

 そして、この「なんかでっかくてこわいやつ」に対する二通りの反応は、現実にあっては概ね観客の中に見出される。観客は鑑賞時にあって、個人であると同時に群衆でもある。それは別に、物語を鑑賞している際には有りふれた現象である。

 

 二つのエポケーに共通しているのは、いずれも人間が“火事場の馬鹿力”を発揮する際に到達する状態だという事であろう。だが、その“馬鹿力”の使い道は、前者と後者とでは丸で異なる。

 空想科学映画にあって、その力は「なんかでっかくてこわいやつ」と“闘争”に使用される。他方、パニック映画にあっては“逃走”に使用される。空想科学映画にあっても逃げ惑う群衆や、我が身可愛さに自分だけ助かろうと画策する個人は登場するし、パニック映画の中でも“英雄的人物”は割りかし主人公格に見られたりする。

 

 所で、パニック映画も空想科学映画も、大抵は悲劇である。

 共通しているのは、それぞれがそれぞれの“とうそう”の最中に、“忘れもの”をしてしまう事に起因している。そして、“忘れもの”をしたのを後で思い出すのがパニック映画であり、これを悼むのがパニック映画の醍醐味である。

 空想科学映画の場合は、必ずしもそれが“忘れもの”とばかり呼べず、寧ろ、捨てる行為に英雄的性格を見出す傾向が稍もすれば強い。そうして自身の性向に抗えない己に陶酔する経験を齎しさえもする。自己陶酔については、パニック映画にも、毛色は異なるものの、多分にその悼む行為に含まれている(ただ、次元の異なる両者の自己陶酔を並置するのは混同の因かもしれない)。

 

 然し空想科学映画であれ、パニック映画であれ、稍もすれば両者共に陥り易い隘路に、「なんかでっかくてこわいやつ」の忘却がある。

 なまじ、人間を描くのに気を使う許りに、「なんかでっかくてこわいやつ」が人間の目前に控えている事を描くのを失念するのである。

 その余りの巨大さに、梗概を把握する事さえ容易ならざる恐るべき対象に気圧されて、慌てふためく様子を描写するのは、飽く迄も、その「何か」の影を描いているのであって、それ自体を描いているものではない。

 

 極端にいえば、「なにかでっかくてこわいやつ」が出て来る映画・活動写真にあっては、空想科学映画であれ、パニック映画であれ、主人公は「なにかでっかくてこわいやつ」である。

 人間はその引き合いに出される、言うなれば“餌食”に過ぎず、その餌食の末路が物語全体を支配する“運命”と誤解される様では、怪獣映画としては微妙である。

 

 もし、映画を始め何か作品にA級とB級の区別が明確にあって、それが物語の有無にあるのだとしたら、その“物語”は「人間の“物語”」と断る必要があるだろう。

 或いはそれは、人間の“運命”と呼ぶべきものかも知れない。

 そう思うと、「なんかでっかくてこわいやつ」が出て来る怪獣映画の場合、観る側も撮る側も、これを“忘れもの”とするべきではないかーーとさえ思えて来る。

 というのも、どの道、空想科学映画でもパニック映画でも、登場人物はその“とうそう”の過程で一旦、普通の人である事を放棄しているからである。彼らの“忘れもの”は、そんな彼らの人としての普段の装いであり、蓋し、それを言い換えて“日常”と称しているのだろうと思われる。

 日常を喪失して“人”でなくなった人間達と、“非日常”の性格の「なんかでっかくてこわいやつ」が対峙する時、その舞台上には人間の運命は存在せず、然るに作品は自ずとB級の評が下されるだろう。

 だが、そうしてやっと、その作品の中で人間は単なる怪獣の餌食という立場から、今一つの「なんかでっかくてこわいやつ」として銀幕に映える事となるものであろう。そして、主人公たる「なんかでっかくてこわいやつ」も、初めてスクリーンの上に姿を現すものであろう。

 

 ただ、筆者自身は、そんなおっかない映画はとてもじゃないが観られる自信がない。観たいと思わない気持ちがある訳ではないが……。

 

(2023/07/12)

新書横断① 「新書」と「ペンギン」の謎

 唐突だが、これから散発的に趣味についての記事をこのブログで書いていこうと思う。

 別に構えて書く必要もないのだけれども、体裁を気にするのが、多年患っている著者の悪い癖である。

 前置きはさて置き、その趣味とは「古い新書集め」である。別に新刊を全く買わないかといえばそうではないのだが、刊行から14、5年以上経った新書をここでは「古い新書」と呼ぶことにしたい。

 

 「新書」とは、アレコレ辞書を手繰ればーーと言っても、これは飽くまで修辞的表現に過ぎないーー“新書版の叢書”という意味であるらしい。「新書」の語は、日本国内ではこの“新書版の叢書”の草分けである『岩波新書』がそう銘打って世に出たのに因むそうだ。

 すると「岩波新書」の名前の由来にも当たらないと、何故、新書(及び新書版)が「新書(版)」といわれる理由は明らかにならない……。

 

 そんな新書に纏わるミステリーには、今一つ有名なものとして、『ペンギンブックス』のペンギンの由来が挙げられる。

 言わずと知れた、“新書”の元祖(とされる)イギリスの老舗レーベル『ペンギンブックス』のロゴマークは飛べない鳥の代名詞・ペンギンである。

 他にも「ペリカン」や「パフィン」といった鳥類の名を冠したシリーズが同版元から出ていたようだが、今日いまだに名指しされるのは「ペンギン」ばかりである。

 謎ーーというのは、そのペンギンの「意味」である。

 ロゴマークになるくらいだからそれなりの謂れがあるはずだろうに、筆者の調べ方が如何にもいけないから、日本語の記事では「誰が描いたか」という条は見つけられても、「何故、ペンギンなのか」という謂れについて言及した部分は見当たらなかった。

 

 そこでアプローチをかえて、ペンギンがヨーロッパでどの様な図像的意味合いを持つか調べてみたら、『ペンギンは歴史にもクチバシをはさむ』(上田一生・著、2006年、岩波書店)という本に辿り着いた。

 生憎、同書は近隣の図書館にも見当たらず筆者は未読なので、得られた情報は同出版社のHPに掲載されている書籍情報の範囲に限られている。

 曰く、ペンギンは大航海時代以前から、「未知の海域」「白い大陸」、「未知の南方大陸」を象徴する生きものとして扱われて来たのだという。そこから思量するに、ペンギンブックスにペンギンが採り立てられた理由に、来る読者層にとり未知の領域が目前に展開される事を示すシンボルとしてペンギンが好都合だったからだろうーーというストーリーが割合容易に脳裏に浮かぶものである。

ペンギンは歴史にもクチバシをはさむ - 岩波書店

 

(なお、同書の著者・上田氏による新書『ペンギンの世界』がある〔本稿執筆時点で記者は未読である〕。)

ペンギンの世界 - 岩波書店

 

 折角なので、「新書」と「ペンギン」というキーワードに託けて、何冊か手元の新書を紹介したい。

 そのものズバリ、ペンギンについて書かれた新書は前掲・上田氏の著作(『ペンギンの世界』2001年、岩波新書)がある事は、本記事の執筆するに際して知ったので、ここでは恐れながら割愛する。飽くまで己の趣味について記すのであるならばーーと思うので、本稿執筆に際しては執筆時点で既に記者が入手し、その書架に収蔵した新書について言及するのを基本としたい。

 

 ペンギンといえば日本では概ね、野鳥というよりかは水族館のマスコットである。そんな水族館の歴史について、より身近な日本の水族館の発展や試みについて多くページを割いた一冊が、堀由紀子・著『水族館のはなし』(1998年、岩波新書)である。

 水族館で飼育されるイルカのトレーニングの様子を図解したページ(p.128-129)の挿絵は、“ゆるい”イルカの絵がチャーミングである。

水族館のはなし - 岩波書店

 

 お次は、クレヨン画で描かれた表紙絵が可愛らしい『探検と冒険の物語』(松島駿二郎・著、2010年、岩波ジュニア新書。表紙画・もろはら じろう) である。因みに、岩波ジュニア新書の英語名は“IWANAMI JUNIOR PAPERBACKS”である。

 探険と冒険の物語

未知の土地,人間,動植物を見てみたい!

そんな好奇心や欲望が人を探険や冒険に駆りたてた。熱帯の観察から進化概念を見つけたダーウィンやウォレス,新大陸や太平洋の島々を世界史の舞台に登場させた

マゼランやクック,極限の自然に挑んだアムンゼンやスコット。彼らの物語は,私たちの心を熱くかきたててくれる。

 裏表紙の文言は上の通りである。本が出た時代的にも大分大仰な、時代劇のオープニングの前口上の様な感すらある謳い文句である。それに相応しく、本文もやや勿体ぶった「読本」風の書き振りである。

 又、表紙にも描かれている事から明らかな様に、本書が示す新大陸や太平洋への探検や冒険のシンボルはシロクマであり、ペンギンではない。

 深読みするなら、これは新大陸や太平洋、北極圏の自然の荒々しさ・崇高さのシンボルとして採用されたとも読めるものだ。更にそこに、シンボルとしてのペンギンからも見て取れる、ヨーロッパ世界の眼差しに対する批判が含まれているかも知れない。ーーこう、あれこれ妄想するのも果たしてこの趣味の範疇であろう。

 

 ーーと、ここまで「新書」と「ペンギン」に託けて紹介した2冊であるが、お察しの通り(?)、本の中ではペンギンについて余り触れられていない。『探検と冒険の物語』に至っては最早、別の動物がシンボルである。

 だが、探せば矢張りあるものでーーいや、“あった”もので、先日友人に分けた本の中に入れてしまった新書が、正にペンギンを表紙にした一冊であったのを思い出した。

 岩波ジュニア新書『骨と骨組みのはなし』(神谷敏郎・著、2001年)である。

 本の内容がこれほど判明な表紙も珍しい、と思われる新書の一冊である。

f:id:khaosBento:20230615175935j:image

 (書影/Amazonより)

https://amzn.asia/d/94LuVdL

 ……お分かりいただけるだろうか。

骨と骨組みのはなし - 岩波書店

 動物の体に備わった骨が果たす役割を解説する本書のキービジュアルとして採用されたのが、ご覧の通り、ペンギンの写真2葉である。

 生きている内の姿と死後の姿を隣合わせに配置するのは、ヨーロッパの伝統的解剖図譜の構成に則ったものであり、そこには当然、“メメント・モリ”(死を思え)の寓意・教訓が含有されているものであろう。だが、そんな絵解きや読解は抜きにして、この2葉の写真の対比は即座にその妙趣を得るのに苦労するくらいのインパクトがある。

 というのは、ペンギンが実はこんな骨格をしているとは、そのシルエットからはなかなか想像し難いからである。概して、鳥類はその羽毛によって姿形を「欺いている」節がある。

 中でもペンギンは、フクロウやミミズクの類と並んで意想外の骨格をしている。

 

 故にか、この「ペンギンのガイコツ」は自然科学系の、特に生物の進化について触れる本では度々掲載される有名な事例である様だ。

 その一例として、講談社ブルーバックス『死なないやつら 極限から考える「生命とは何か」』(長沼毅・著、2013年)は、 第3章「進化とは何か」において「なぜペンギンは凍死しないのか」と題して極寒の地に生きるこの鳥類の環境への適応ぶりを、全身骨格の画像と共に紹介している。

 極寒の環境をヨチヨチ闊歩するペンギン達が如何して「裸足」でも平気なのかーーという設問に始まり、『骨と骨組みのはなし』でも紹介された、驚くべきペンギンの全身骨格写真を示して、その理由(“進化”〔近年では、「適応」という語が使われるようになって来ている〕の過程で獲得した耐寒システム)を解説する条は、蓋し、ペンギンという生き物が大変に有名である証左でもあるだろう。

 

『死なないやつら』(長沼 毅):ブルーバックス|講談社BOOK倶楽部

 

 

 以上、ここまで紹介した本に掲載されている情報や内容、文体等については、最初に断った通り、刊行から十数年以上が経過している本ばかりを選んでいる関係から、2020年代の今日にあっては読んでみて眉を顰める人があるかも知れない。けれども、時流とは目まぐるしく転変するものである事を踏まえて、紹介者として記者からは悪しからずご容赦願いたいところである。

 勿論、本音としては、その「ギャップ」に直面する時こそ、「古新書」を読む醍醐味だと思う次第である。が、こればかりは人の好き嫌いの問題であるから致し方ない。

 とはいえ、一個余計なことを付け加えるとしたらば、古い新書をわざわざ読む事について、テーマも着眼点も情報も古いばかりで読むべきものなんかありはしないーーと思っている人が世間にはあるかもしれないが、記者はそれを通じて得られるところの、自分の周囲にはまず見られない「未知の領域」への端緒を得て嬉々とする者である。異なる時代・トレンドの中で編まれた新書の中にこそ、それら“並行世界”への入り口が隠れていたりするものなのだーーと期待している者である。

 但し、それらは飽くまで「端緒」であり、大洋の向こうに見える陸地の影の如く朧げである。だが、当て所なく太洋を進む船人の如く読者にとって、世界が今ここにある板一枚のみではない事を覚るには充分である。その一事がどの様に受け止められるかは、全く読者各人それぞれも心の持ちよう次第であろう。

 だが、忘れてはならない事の一としては、新書を開く時、我らは常に「ペンギン」と共にあるのである。目に見えずとも、触れられずとも、確かにそれらは(今)「ここ」にある。

 

 能書が長くなってしまったが、どうせ趣味の話である。概してそんなものであろう。以降もこの様な調子で縷々冗長の筆を執るつもりである。悪しからず、ご了承願いたい。

 

[続]

(2023/06/15) 

ぼっち・ざ・lain

 『ぼっち・ざ・ろっく!』は実質『serial experiments lain』だーーという怪気炎にTwitterで接して、それならば……と視聴した所、これが大変面白かった。とても面白かった。

 それより前から再三、友人連中からも見ろ見ろと勧められていた手前、観るのは少々癪であったが、実際第一話の冒頭、のっけから自分の音楽の趣味に合い、一気通貫した。

 

 

 『ぼっち・ざ・ろっく!』(以下、作品名は『ぼっち』、主人公を「ぼっちちゃん」と記す)と『serial experiments lain』(以下、作品名は『lain』、主人公は「lain」と記す)の第一の共通点は、インターネット世界で活躍する超能力者の少女が主人公であるーーという点である。

 超能力といえば大袈裟だが、才能(タレント)といえば有り触れている題材である。

 『lain』が元々、超能力(エスパー)バトルものを下敷きに構想された物語であるのを踏まえれば、『ぼっち』はややマイルドにはなっているが、所謂、「魔法少女もの」の系統と比較して見るのも面白いかもしれない。(ただそんな事言い始めたら、大風呂敷もいい所だが…)

 学校では冴えない女の子が、実は放課後は人知れず覆面を付けて大活躍している……という設定はいつの時代もどんな職業であっても一定の人気は博すものであるのだろう。

 

 とはいえ、『ぼっち』が『lain』と似ているといえる一番の理由は、かれらが自身の友人の為に自分らの能力を自身のテリトリーの外で発動し、世界の改変を行う点にあるだろう。更にいえば、それには単なる自己犠牲を超えた意義をかれら自身が見出している点も指摘出来る。

 そうして何をしているのかといえば、両者共、「思い出」作りに専心しているのである。

 

 そんなかれらの活動の動機は、今風にいえば、リアル・ワールド(しばしば“現実”と呼ばれる)で、無数に存在する他人の中から、自分でこれぞと思える「推し」を見つけたからであり、その発見に端を発するかれらの行動は「推し活」と呼べそうだーーと書けそうではある。

 が、そもそも、その「推し」という概念自体、筆者自身十分に把握し得る所ではないし、それ自体について大分の稿を費やす必要があると思われる。なお、「推し」や「推し活」に比較して挙げるならば、『serial experiments lain』という作品(ゲーム・TVアニメの両方を含む)が置かれる1990年代後半の特殊文脈としては、「テレクラ」「援助交際」(今日では「人身取引」といわれる)などがある。

 ……とはいえ、そうした時代背景に関する情報は作品の鑑賞に不可欠な知識ではない。そうした「流行語」の知識は鑑賞者それぞれに偏りがあり、その偏差こそが作品を通じて鑑賞者が単なる「消費者」の域を超えて、能動的に作品を享受し得る前提だろう。

 故に、ここでは『ぼっち・ざ・ろっく!』という作品を鑑賞する上で2020年代初頭に於ける特殊な文脈として、「推し」及び「推し活」という概念が存在する事を指摘するに止め、それらとの連関についての分析は後年の(取り分け、そうした概念や21世紀初頭という時代に関心のある)視聴者諸賢に委ねるものとする。

 蛇足ではあるが、備忘的に記したまでの事である。

 

 さてーー、『lain』との比較、という点に重点を置いて『ぼっち』を見てみると、未完の作品であるという留保は必要であるが、注目し得るのは寧ろ、物語本編の「おまけ」として描かれるエピソード(所謂「日常回」)であろう。

 『lain』という作品における主人公・岩倉玲音の価値観を端的に示す言葉に

『記憶なんてただの記録』

がある。この「記憶」は敷衍すれば「思い出」といえるだろう。中学生の「lain」と高校生の「ぼっちちゃん」の性格を比較するのは容易ではないが、二人ともそれぞれ、「思い出」作りには積極的であるのは共通している。

 但し、自分一人で容易に他人の記憶をも創造・改変し得る神の如き力を有する(それ故に孤独な)「lain」とは違い、「ぼっちちゃん」の孤独は一学生、アーティストとしてのそれに留まるものである。そのお陰で「ぼっちちゃん」は「lain」程にはニヒルでもないし、豹変したりする事はあっても人格が幾つにも分裂する様な事態には陥ってはいない。

 だが「ぼっちちゃん」がその様な「思い出」作りという行為を通じて感じる他者に対する恐怖や苦痛に怯えて震撼しているのに対して、認識改変能力を持つ絶対的強者である「lain」はアニメ版では最後の最後までそれはやって来ない。

 かてて加えて、やられた分やり返す、その反撃力に気付かせたのも又、彼女の曝された「見る暴力」であったのに対して、音楽は「ぼっちちゃん」たちのみならず、不特定多数をも扶ける力として描かれているのが『ぼっち・ざ・ろっく』を、基本的には安心して観られる作品に仕立てている“ご都合”である。

 だが、そんな才能に潰されないどころか、それを上手く使う場を得た所から始まる「ぼっちちゃん」のストーリーは見る者に罪業感を余り感じさせない、そういう意味でも「いい」作品であるのは疑いの余地もない。

 

 「記憶」、「思い出」に限らず、『lain』の物語に於いて「真実」と呼べるものはどれも不確かである。だが、それらは最終的に「lain」という存在と関わりを持った人物の胸中にそれぞれ、強度を持って記録される事により、メタ的な情報が付与されるそれがメタ的な情報である事は明かされないまでも、「詰まりそういう事」だとして物語は締められる。

 それは音楽の良し悪しにも通じるものなのかもしれないが、残念ながら、音楽は本当にチンプンカンプンな筆者には、ロックに限らず、音楽を聴いても、それがどの様な訳で優れているのか、何故にそれが「よい」のか自分にも不明な身の上である。況してや、“ロック”とはそもそも何なのかーーという事自体が感覚的に分からない人間にとって、青春・学園バンド物(?)の醍醐味といえる「音楽の心地よさ」が分からないので、これについては全て仮定で論じなければならないのが、甚だ不誠実である気がしてならない。

 そうであったとしても、幾分、此の耳に「心地よい」と一応は感じられた手前、筆を割く用意はあるものと思って書き進めるが、蓋し、劇中バンド「結束バンド」の演奏に、メタ的な情報が付与されるのは、「ぼっちちゃん」がずっと目の敵にして避けている“他者との一体感”が、“個の存在”と矛盾する事なくそこに成立しているからであろう。

 より踏み込んで考えると、「ぼっちちゃん」が求める活動の内容は、具体的には他のアーティストとのセッションや生身のオーディエンスとの相補的交流であって、それ自体は現実的に考えれば、インターネット上の活動を通じてもその為の相手を探す方法が妥当な選択肢に上がるのが今日の状況である。

 然し、それでも、原作の「学園・部活もの」の路線を踏襲する位置付けを抜きにしても、人間同士が生身で、かつ偶然のきっかけから共同の活動が開始する事への憧れと期待が前面に描かれているのは、本作のみならず、基本的に「王道」と呼ばれる作品の根底にあるもののように思われないでもない。

 一言にして、その要素とは「人間性への信頼」ともいうべきものであろうが、それを描く為に音楽活動、取り分け、バンド活動は格好の題材なのだろう……。

 

 これに対して、『lain』という作品の通奏低音として存在するのは、「十代の少女」というステータスとそれが持つ価値である。それは単に民俗学的な見地から指摘される、神霊的力を具備している云々の文脈より更に世俗的な文脈に於けるかれらの「値打ち」が、かれら自身の認識、世界=他者に対する信頼の不安定さの遠因となっている。

 尚且つ、物語の基底となっているのは、矢張り、人間性への、他者への期待と憧れであろうが、何よりかそれは他人を信頼する事自体への憧憬と挫折といった要素が大分を占めている。

 「ぼっちちゃん」の状況はこの前段階にあると言っても構わないだろう。が、これは現在のインターネット・ユーザーの一般的なインターネット・コミュニケーションに対する評価とみても凡そ外れないものでもあるだろう。ただ、これは『lain』と『ぼっち』のそれぞれが描こうとしているビジョンの違いに因むものでもあって、何方かがより一方に対して優れているーーという主張の根拠たり得ない。

 余計な付言をすれば、「ぼっちちゃん」は甚だ手厚く家族に保護され、また本人もその庇護下にあって順応し、家族と上手に関係を構築し得ている。それ故に、「ぼっちちゃん」のバンド活動やバイト・デビューなどは家族の記念すべきイベントとなって祝福され、本人もまた、それを不器用に「思い出」として享受する選択を自然と択べる物語となっている。

 これに対して、「lain」の暮らす岩倉家は全く信頼出来る環境足り得て居らず、少なくとも表面上は彼女の居場所として設けられている様ではあっても、それらは信頼しようとすればする程、頼もしさが失われる虚構(見掛け倒し)の世界である。

 

 インターネットを用いた自身の居場所作りは、20世紀後半のジュブナイル作品であれば、これは「秘密基地作り」と呼び得ただろう。

 にしても、「ぼっちちゃん」が父親からアカウントを引き継いで動画を発表し始めたのに対して、「lain」は父親から据え置き型端末機器・NAVIをプレゼントされる所から始まっているのも大きな違いである。

 「lain」にとってのNAVIは、対応するアイテムでいえば「ぼっちちゃん」にとってのギターである。このギターも、「ぼっちちゃん」は父親から譲り受けたものであるが、二人の主人公がそれぞれ自分達の居場所となるデバイスを父親からプレゼントされた点は、必ずしも偶然だと言って捨てるには勿体無さを感じる。

 「lain」においてそれは、「かつての少年」から息子への承継の“オマージュ”であって、それは通過儀礼の一種とも見えるのに対して、依然、蓋然性は残るものの「ぼっちちゃん」へのギターと動画共有サイトのアカウント移譲は謂わば「保育」の延長に位置付けられよう程度のものであろう。

 ただ、これも深読みすれば、それくらい大事にしなければーーと家族に心配される程に深刻な事情を有する「ぼっちちゃん」のキャラクター造形の一部であり、片や、「lain」の場合も同様であると読めるものだろう。『lain』では「lain」を、その心中が読めないミステリアスなキャラとして描く為に家族を始め、周囲の人々の行動や記憶・視点が具に描かれていたりもする。(なお、約四半世紀の隔たりを有する両作品の比較を通じて、筆者は別段、その間に変容した社会・家族観の変遷を論じたい訳ではない。)

 ……よくある設定といえばそれまでだが、それらによって自身の能力を開花させた主人公たちが、各々、自分の選んだ友人らを助ける為に力を発揮する行為も、その為に事前に必要だったものを用意していたのも、〈本編ではかれら個々人の活動には余り関与して来ない〉父親である点は、かれらの行動のアーキタイプを探る上で一役買う情報であるだろう。

 突き詰めれば、かれらの父親は〈偶然性〉の化身とでも言えそうなものであるが……此の話は本筋と関係ないので以下、省略する。

 

 

 所で、「思い出」という観点から物語を見てみると、『ぼっち』に於いても『lain』に於いても、かれらが“無双”(快刀乱麻を断つ活躍を見せる)する舞台である、インターネット上での活躍の描写というものは本編では余り、というか殆ど描かれていないのは、或る意味で必然的と言える。

 『lain』の場合は然し、「lain」の活動自体がインターネットを介してリアル・ワールドに及ぼす影響がメタ的演出で描写されている。

 それは「lain」が、肉眼には見えない形で徐々に現実を蝕んでいく様子は、彼女が世界に蝕まれていく過程とネガ・ポジの関係にあるからだが、こうした「描かない」演出が意味するところは、かれら主人公たちにとってのインターネット上での活動実績というものの評価それ自体を反映しているものーーと解釈し得るものでもあるだろう。

 但しそれは、“所詮はネットの評判だし…”という投げやりな、主人公ら自身の活動への評価の反映であると同時に、その活動自体にプライベートが侵食されてしまう事への防衛策として「思い出」作りが積極的に評価される傾向がある事を示唆しているものと考えられる。

 ただ、ネットのアイドル的存在が自己防衛の為に行う活動ですら、『ぼっち』や『lain』という作品自体がそうであるように、「楽屋ネタ」として鑑賞的娯楽の対象となる点を踏まえれば、かれらの活動自体が何処までも自身のペルソナに隷従的な、消極的活動であるという評価も下せなくもない。ーー稍、強引とも言える向きかも知れないが、然し、その様に充足せねばならない“リアル”ーー言い換えれば、「リア充」を指向せねばならない、とかれらをして思わしめる環境そのものーーの外圧に対して、かれら自身が自己を防御する為に内からプレッシャーを加える必要を見出している限り、それに基づいている限りに於いて、その意思や活動は一種の強迫観念に囚われたものである点は指摘し得るものだろう。

 その様な“退避行”に努めれば努める程、隘路が狭まるのは、『lain』の作中、トカゲの尻尾切りにあった「黒の男たち」(MIB1、2)のセリフに「反転」されていたりする。

〈…〉

MIB1『逃亡しろと? どこへ』

男 『(苦笑) そうだね、電話も電線も無くて、衛星もカヴァーしてないエリア』

MIB2『この地球にそんなところある筈ねぇだろ?!』

男 『逃げるんだとしたら、そういうところを探すしかない』

〈…〉

ーー小中千昭『scenario experiments lain / the series』p293-294、1998年

ーーなお、「ぼっちちゃん」が「lain」程まで追い詰められていないのは、インターネット上での活動を制限している為であろうが、その制限はギターの練習の為に自ずと生じている制約が働いている為だろうと推測される。果たして、「芸は身を助ける」という諺があるが、「ぼっちちゃん」の場合には全くそれが当て嵌まり過ぎている。そして、『ぼっち・ざ・ろっく!』という作品の「安心感」も蓋し此処に在るーーといえるのだ。

 

 余談だが、『ぼっち』に於いても登場する電線や電柱といった表象は、それらが上に引用した『lain』のセリフに代表される様に、個人のプライバシーを侵食し、最終的にはその個人さえも破壊さえしてしまう「観察・侵入して来る他者」のメタファーとして屡々、20世紀末から21世紀初頭の今日のアニメ作品に登場して来る。

 これは、「電話」や「(人工)衛星」と並んで挙げられている事からも分かるように、情報通信、古くは「交通」と呼ばれたコミュニケーションのツールやシステムの一部として認識されている為である。ニーチェの言葉として、最も知られる

『深淵を覗くとき、深淵も又、此方を見ているのだ』

というそのままに、上の引用では、それまで衆人環視の下に曝されていた対象(「lain」)が、あべこべに、世界中の人々を監視する側に回る様子を述べている。

 だが、『ぼっち』では、「ネット」と「リアル」の程よいバランスを主人公がプライベートを通じて構築していく様子が描かれている。そしてそれが何だかんだで上手くいく様子が描かれていく以上、窃視壁のある観客=他者の記号たる電柱や電線がシンボリカルに登場する余地はないのであろう。

 

 閑話休題

 さて『ぼっち』では、上記の脅迫下に於ける意思表示と行為と、そうではないそれらとがきちんと区別して描かれていたりする。そして、「ぼっちちゃん」が自身の実力を発揮するのは後者のシチュエーションである。

 それに対して周囲のバンドメンバーたちは引き摺られる形にもなるのだが、彼女をバンドに誘った友人・虹夏は、そんな「ぼっちちゃん」の活躍に、自身がバンドに託した願いが達成される可能性を見出したりするのである。

 ……大体、ここまで書くと筆者個人的には矢張り、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』(以下、『エヴァ破』)とも『ぼっち・ざ・ろっく!』を比較してみないではいられないのだが、ここで両者の媒介項として辛うじて挙げられるのが、『serial experiments lain』である。

 完全に蛇足ではあるが、ここで三者を比較するなら、それらの共通点は「人付き合いの下手な子供が、〈大人たちの用意した環境と機会と道具とによって〉自分で友達を作る過程が物語の一つの軸になっている」点であろう。それは飽くまでも、十代の少年・少女を主人公にしているが故の共通する設定とも言えるが、其々異なるのは、結局、かれら主人公達を囲む大人たちの思惑であり、そこからの〈逸脱〉こそが、真にそれぞれの物語が結末に至るまでに必要な契機であったりするのだが……これは全く余分な話である。

 

 とはいえ、その〈逸脱〉の一例が、『ぼっち・ざ・ろっく!』の場合、第9話『江ノ島エスカー』に於ける江ノ島日帰り旅行であり『serial experiments lain』にあっては、第2話(layer:02)『GIRLS』での「クラブ・サイベリア」行である。

 こうしたイベントも、民俗誌的に見れば、大分その形式は変わったとはいえ、凡そ半世紀以上前には各地に存在した若衆組・女組などの地域コミュニティに存在した組織的活動のなれの果てとみて可であろうーーが、兎も角、それらの旅行自体が歴としたイニシエーションであるという評価は今日に於いても妥当であろう。

 (果たしてこんなのはわざわざ書くまでもない様な内容なのかもしれないが…)

 

  「ぼっちちゃん」が「lain」と対照的なのは、「lain」がそうした通過儀礼に関心を示さないのに対して、過剰な迄に積極性を示す点でもある。ただ、そうして意識はしつつも自分をそれらの蚊帳の外に置こうとするのは、言うまでもなく、自身の得意・才能に自覚的であるが故にである。

 他方、「lain」はそうした社会的慣習には興味を示さないのは、結局、文字通り〈異次元の存在〉だからであるが、クラブに連れて行かれた事で彼女は自身の〈影響力〉を自覚させられるのである。然し、それは彼女の〈能力〉の影に過ぎない訳でーー……故に、『lain』の物語は難解とも評されるのだが、こればかりは致し方ない物語の宿命だろう。

 

 今一つ、『ぼっち』に於ける主人公の大きな〈逸脱〉は、第6話『八景』に於ける酔いどれバンドマン・きくりとの邂逅と路上ライブだろう。寧ろ、〈逸脱〉ならば此方を先に示すべきだという向きもあろう。

 筆者はこれは「ぼっちちゃん」がそれと知らずに経た〈逸脱〉として、これを本稿筆者は数に計上しない立場である。が、然しそれが明白にイニシエーションであったのは、チケットが売れた事を報告した際のバンドメンバーや、ゲリラ・ライブを経た後の「ぼっちちゃん」の様子を観察したかれらの反応からも明らかであり、何より、その経験を積んで臨んだ「結束バンド」の初ライブでのパフォーマンスが、後藤ひとりという一人の音楽家が自身の活動の基盤を堅めたものであったーーという説を論じたいものである。

 

 そうして漸く、晴れて(?)友人たちと「思い出」作りの為、夏休み終盤ではあるが繰り出した先の江ノ島の景色の中に登場する電線や電柱は、かれらに関心を示すもの達の姿ではない。

 寧ろ、かれら「結束バンド」一行にとって「思い出」作りは特別なことではなく、それは「ぼっちちゃん」も例外ではない。ただ、裏返せばそれは、その様な形式的活動を必要とする位には成長した組織としてバンドがより強固になったーーと見做し得る指標と言えるだろう。

 そして、『lain』にあっては、殊の外、こうしたアクティビティに関心を寄せない主人公のキャラクターが禍して(?)、他のキャラに思い切り転嫁されたきらいがある〈生身の身体〉感覚は、『ぼっち・ざ・ろっく!』では主人公がきちんと受苦している。

 一見、馬鹿馬鹿しい下りではあるのだけれども、これを『lain』の最終話(layer:13 EGO)と比較した際の両者の間に生じるコントラストは鮮烈なものになる。日帰り旅行の翌日に全身筋肉痛で悶絶する「ぼっちちゃん」は、果たしてきちんと「思い出」作りに成功した訳である……。

 他方、「lain」はといえば、『serial experiments lain』という物語自体(ゲーム、アニメ作品両方共に通じて)が彼女自身と彼女の周囲の人々の「思い出」であり、それが彼女の全てである。

 それはメタ的に視聴者に対しても示されているが、却っていえば、その全てが他に開かれてしまっており、ただそれ故に、彼女はこの世界に遍在していたりするのでもあろう。

 

 或る特定の方向への志向性を有する前の漠然とした期待と不安の併存する薄明薄暮の間に流離うものが「lain」ならば、「ぼっちちゃん」は惑いながらも既に動き出した乾坤の間を曙光に向かって歩み出したものである。

 

 比較という程の比較もしたものかは分からないが、取り敢えず『ぼっち・ざ・ろっく!』第9話までの筆者の感想は以上の通りである。

 

(2022/12/14)

蛇の飴

 

 随分昔のことだから仔細ははっきり覚えていない。兎に角、親に連れられて何処か観光地でしんこ細工の体験をさせられた時の事である。

 その頃、自分は矢鱈と蛇という生き物に魅せられていた。何故だか分からないが、進化の過程の上で四肢を無くした蜥蜴の仲間であり、又その頭に比して長大な身体を自在に操り、水中にも、高い木の上にでもスルスルと登っていってしまう運動神経の素晴らしさに、自分は世間の子供同様に魅了されていた。

 

 爪や牙のある生き物に如何して男児が魅せられるのか、深い理由は今もってしても見当がつかない。往々、女児にあってはその爪や牙「だけ」が素晴らしく映ると見えて、所詮は宝飾品扱いをしているに過ぎないのだーーとは、今時分、口の端に乗せれば、すわ一悶着起きそうな感想であろうが、そんな感想が極自然と浮かぶ、そんな時代に育った私もひとりの男児であった。

 

 

 さて、そんな風にして何かと工作をするにつけて、自分の意匠と宜しく、蛇を拵えるのが十を過ぎるか過ぎないか辺りの自分の癖であった。

 例によって、自分は飴屋のまな板の上でも、平たく伸ばした飴を掌で板に擦り付けるようにして、気持ち紡錘形の、長い蛇の胴体を拵えていた。

 それを傍から見ていた飴屋の主人が恵比寿顔でにこにこと眺めるのに反して、母親の甲高い声が一声、響いたかと思えば、それは又、元の丸いボールの様な形に戻ってしまった。

 母の声は自分の名を呼んだのである。ただ、その頃からもう既に自分は、そうしてひとから単に名前だけを呼び付けられる事に激しく反応するようになっていた。兎も角、そんな風に厳しく叱りつけられたものだからして、咄嗟に癇癪を起こして、特に理由を聞くまでもなく、その蛇をまな板の上に跡形もなく磨り潰してしまった。

 

 

 後から母親と父親にそれぞれ叱られたのは言うまでもない。母は癇癪を起こした息子を叱りつけ、折角の記念写真が撮れなかった事に腹を立てていた。父はそんな不出来な息子の遺伝子はお前譲りなのだ、といつもの如く、場所を弁えない妻の癇癪に付き合わされて、気の付かない息子の出来の悪さにほとほと愛想を尽かしている風情だった。

 それで結局、そのしんこ細工の蛇だったものが何になったのかについては、それからずっと思い出せないでいる。体験費用が幾らだったかは覚えていないが、少なくとも、その飴屋の土産物として売られていた兎だか亀だかヒヨコだかよりも少し高い位のーーそんな程度の値段であったのは記憶している。

「子供は値段なんか見なくていい」

というのが、取り縋る私に向けて母が寄越した捨て台詞の一であった。

 

 

 それからもう何年かして、中学の文化祭で展示品として粘土で何か作る事になって、その時久しぶりにしんこ細工の事も思い出した。

 紙粘土の色はしんこ細工とそっくりで、なんなら水に少し濡らした時の見た目の質感は、舐めた時の飴にもそっくりであった。

 屹度、小学生の時分であったら、水の代わりに涎でも混ぜて横着したりしたであろうな……とか、穢らしい事を考えながら捏ねる内に、忽ちそれらはキノコや栗や、果物になった。

 丁度、秋であったから、その様な季節の風物詩を造るのが穏当であろうと思われた次第である。それらは正直、全く操作もなく仕上げる事が出来た。観る人は当然、皆口々に誉めそやした。その様なものを作る様に、あれ以来自分は精進したものであった。

 

 存外、反抗心というものは姿形態度、学業、技芸と何にせよ、人が何かを上達させるのに良い動機足り得るものである。しんこ細工の一件は、当の親たちからしたら随分と稀薄な思い出としてしか保持されていないものの様に見えたが、それは写真が残っていないのだから仕方ない事である。

 出来栄えを見た母親は「まあ色は兎も角、」形は良いと及第点を下した。父は息子の年頃らしからぬ仕事に余り感心した様子ではなかったが、「そういうのも立派だ」とは誉めてくれた。

 父の思う、年頃の少年が作りそうなものといえば、ジオラマだとか、それこそ巨大な蛇や恐竜の模型であった。流石に公立校の催しに戦車や軍艦、飛行機の模型を飾る訳にはいかないから、それに近い、何か勇ましく力強いモチーフを彼は息子の手に見たがった。

 

 然し、そうは言っても蛇を拵えるのには材料である粘土は足りなかった。部活動の予算で買える分というのは、二年生五人に対して三袋という有様で、それでも顧問からしてみれば、生徒の要望に応えたのだから文句は言えたものではないーーという有様だった。

「私物の流用はこれを認めない」

というのも、顧問を通じて示された学校の方針であった。それを認めれば、“不公平”が生じるーーというのがその理由であった。分からない理由でもなかった。

 だが、それでも折角税金で材料が賄えるのだったらもっと沢山欲しかった、というのが部員各々の愚痴であった。

 それでも、結局、それなりの作品を出してしまったのは、物を知らなかったとはいえ、大失態もいい所だった。本当の所、所詮は全く子供だった訳である。

 

 

 それからもう、蛇なんぞに関心を持つ様な事は滅切りなくなった。

 そもそもが意匠として、モチーフとして好き好んでいた訳であって、何か生き物としてそれを愛好しているのではない事は早々に自覚していたものであったが、年長ずるに連れて愈々、その傾向は甚だしくなった。

 蛇に限らず、蝶にせよ花にせよ、そんなものは現実には存在せず、ただ画中に文様してあるだけのものが好ましく美しいのだと思われる様になった。現にそれらは人の目に映った像でもってそれと認識されている訳だから、そもそもが我々にとって「それら」は単なる影に過ぎないーーのだ、とかなんとか、随分青い事を考える時分も疾うに過ぎて、今や絵自体描くのも稀になってしまった。

 

 ただ、最近になって「そういえば、」という風に自分でも時々、思い出したように筆を執ってみてーー筆といっても、精々そこらの筆記用のボールペンに過ぎないーー、喫茶店やファミレスの紙ナプキンやレシートの裏なんかに落書きして、写真に撮ってSNSなんぞに投稿すると、友人知人連中から意外な反応が飛び込んで来る。

 それで、「そういえば自分は絵なんぞ描いていたもんだったなあ」なんて、今更のように思い出された一方で、昔の、余り面白くもないような事も一緒に掘り起こされて、家路に続く電車の中で暫時、暗澹鬱然とした気分に俄かに襲われたりした。ただそれ自体も又、我ながら可笑しく思われたりして、未だ沸いてない風呂の浴槽に浸かった時の様な、ちょっとしたら風邪でも惹きそうな、ヘマを打った時の小っ恥ずかしい心地に思わず泣きそうになった。

 

 そういう時の感情は、本人からしても如何にもならないとは分かってはいるけれども、他人に如何して八つ当たりでもしなければ気が済まないような、面倒臭い性質をしている。剰え、いざ、それで他人にぶん殴り倒そうとしてみた所で、その獲物は麩菓子の様にスカスカで、振り上げようにも振り下ろそうにも、脆く、軽く、漫才の小道具にもなりはしない。

 上新粉と飴とを捏ねて蛇を作ろうとしたら、もっとよからぬ物を作ろうとしていると思った母親に叱られて思わず握り潰したーーだなんてのは、単なる子供時分の笑い話の種である。そこに深刻さを求めるのは却って滑稽であり、又、実害の方面で言っても実際、それで被ったものとその他を比べた時の多寡は論ずる迄もない。

 

 ただ、それはその様な天秤にはかればこその事情であって、そうではない別の秤を用意すれば、その僅少の差も明らかに出来ようものではあろう。

 だが、その様な些細で瑣末な事共の一々の仔細というものを、微に入り細を穿つが如き審理にかける事を果たしてひとは概ね是を拒む。

 他方で、根付けやらしんこ細工なんかだと、その微細な変化・調子というものが風合いになって、ほんの僅かなカーブのとり方、凹凸起伏の描き方で印象は全く違って来る。その機微の有無を知っていようと知るまいとに拘らず、果たして事実は銘々各自の面前にあり、ただその価値は各々が目の底に反転倒立した図像として認識されるに止まるものである。

 

 果たしてあの飴屋の主人にしたとても、私の様な子供の事なんぞ、全く記憶にないに違いないのである。

 斯く言う自分もその店の在処をとんと記憶から失くしている。

 

 

(2022/11/14)