『これがパノラマだ』というタイトルの映画を『三丁目の夕日』だかの傍注で知った記憶があるのだが、試しにGoogleで検索してみてもそれらしい情報は引っ掛からなかった。
内容は不詳だが、それは当時(昭和三十年代前後)に何処かの映画館に導入されたパノラマスクリーンで上映された宣伝映画だったようである。
「これがパノラマだ」というタイトルは、「これが〇〇だ」という当時の宣伝の一典型に乗じたものである。時代は下るが、昭和四四年のアポロ宇宙船の月面着陸の際に撮られた写真を纏めたグラフ冊子のタイトルは『これが月だ』というものである。
「これがパノラマだ」よりも、「これが月だ」という文言の方がインパクトあるように感じられるのは、パノラマよりも月の方がより詳しく自身が知っているような気になっているからであろう。
だが、その月の知識、文字通りの意味でイメージは正しくそうしたアポロ宇宙船の月面着陸以降に蓄積されたのを摂取して自分が内部で醸成したものに他ならない。
「これが月だ」と銘打たれた当時の、既知の情報としれの「月」の方が今や私に取っては興味深いものである。それこそ、物の本で紹介されるような二十世紀前の日本人の認識ーー天上にポッカリ開いた異界へと続く光の「穴」、ゲートとか呼べそうな認識ーーは、とても今の自分には探しても見つけられない「景色」である。
『これがパノラマだ』という作品が公開された当時、パノラマという語自体は戦前から一応は既に世にあった訳で、それ自体を見た事がなくても、世の中にそういうものが如何やらあるらしいーーというような事は少なからぬ数の人々が知っていたものであろう。
「これがパノラマだ」とは、「これがパノラマスクリーンで見る映画というものだ」と作品自体が自己言及しているーーそんな作品であるが、何よりこれも、「これが月だ」というように、既にある観客のうちにあるイメージを破壊する効果を期待して付けられたタイトルであろう。
最近でも、これに近いタイトルの作品としては『お前はまだグンマを知らない』とうものがある。これは色々な事情に配慮した為か知らないが、実在する「群馬」(県)ではなく「グンマ」という未だ外界から閉ざされた異界の土地についての報告の体裁が採られている。
「お前はまだ〇〇を知らない」の短縮形が「これが〇〇だ」である事は敢えていうまでもない。
出版元や興行主は、読者や観客の倦怠感を破壊する事で彼等に愉悦感を与えて、そのお代を頂戴しようと画策するものである。其処においては、必ずしもその伝える内容が事実である必要はない。「六尺のおおいたち」のような錯覚でも良い訳である。
これは名前の字面と実物の乖離があって初めて起こる破壊を提供する大道具である。それを駄洒落の標本、模型とでも呼ぶ事は出来そうだが、蓋しパノラマ映画の場合にもそれは当て嵌まりそうなものである。
況やパノラマ映画とは錯覚の模型である。パノラマという装置自体が遠近法的錯覚を利用したジオラマの一つであるから、それを映画でもって再現した、或いは光学的にそうしたジオラマを作り上げたとも言える。
詰まりは『これがパノラマだ』は観客は光学的に再現されたジオラマの景色を、映画として愉しむ事が出来るトリックだった訳である。
今日、「本物の」パノラマを見たければ、全国各地の博物館に行く事をお勧めする。そこには未だ運が良ければ、湾曲した壁面とそれに這うように描かれた歪な絵が来館者を待ち構えているものだろう。
然し、この相当に計算された見世物は、なかなかに大勢の人間がいっぺんに楽しめる装置にはなり得ておらず、それはどうしても或る一点から見た時に最も効果を発揮するように作られているものである。
これに比べて、古美術コーナーに展示されているような屏風絵や木版画、浮世絵などは複数人で見る鑑賞物としては随分よく出来ているもので、それらは試す眇めつ角度を変えながら、鑑賞者が作品との位置関係を絶えず動かす事によって、静止画では生じる事のない奥行きがアニメーションの如く体験として鑑賞者の内に生成される工夫が施されている。
その工夫は、蓋し箱庭的な工作のそれに通ずる技術であり、箱庭と同様にそれが持ち主だけではなく、持ち主が他の人間にも見せびらかす事を前提に拵えられた事を物語る工夫と言えるものである。
当然、浮世絵は誰かが独り占めにして時々に楽しむ一点ものでは無いし、屏風にしてもそうである。他方、パノラマも入れ替わり立ち替わり、多くの客がその前を絶えず流動する事を前提とした設備である事を踏まえるならば、その構造上の欠陥はさして展示する上での問題とはならない。
一人、持ち主が作品をじっくり鑑賞あるようなプライベートな環境が、二十世紀以前にあったかどうかーーという事を先ずは念頭に置かなければ、この様な意見も如何にも無理があるように思われるだろう。
今世紀に於いては、果たして複数人が同時に作品を所有してそれをじっくり鑑賞出来るような設備が極々世間の末端まで浸透したものである。その上で、その設備を用いて鑑賞する為の、昔ならスライドやフィルム、テープと呼ばれたようなものが廉価で提供されているものである。
そんな状況下で、嘗てのパノラマスクリーンで上映され、提供されたような仮想の景色というものが、そっくりスマホなりタブレットなりの画面で得られるかーーというと、それは中々難しい事であろう。
というのも、そもそもからして別に、今次の作品は別段「これが〇〇だ」というような既知の破壊を念頭に置いている訳ではないからである。
然し、何故にそういう変化に至ったのかと考えると、それは結局の所、凡ゆる情報が人の作り出したものであり、それが即ち財産であると考えられるようになった為であると考えられるものである。「群馬」を「グンマ」と表記されるに至った理由も蓋し、そこにあろうものである。
実際、既にあるものを破壊するのは容易である。然し、この破壊したものを元に戻す術や、代わりに齎したある事ない事綯い交ぜの情報というものを処分する方法を大して用意せずに、只管破壊し続けて来た弊害というものが、漸く最近になって問題として捉えられるようになったーーというのが、今二十一世紀初頭における現在ではないかと筆者は勝手に想像している。
先述の「月」の件ではないが、いわば無用意にアポロ宇宙船の写真を流布させる事によって破壊してしまった、昔々の「月」の景色は今更得られないものである。
景観とか環境とかいうものを殊更大事にしようという意見自体は、別に二十世紀になって出て来たものではないのだが、それらから得られる心象風景みたいなものを利益として認めてこれを保護しようとする向きが今次の情勢としては結構あるという風に思われるものである。
「ふるさと」とかいう言葉が用いられる文脈や、「腰巻建築」が批判される文脈というのも、この心象風景を大事とする傾向に並ぶもので恐らくはあるであろう。それはもう、人間の思い入れとか情念とか執着という風に表現される所の何某かと関わり深い類の話になるであろうが、如何せん、こうした話題をきちんと整理して、何よりムキにならずに話をするのは些か準備のいる事だろう。
然し、人間の持っている思い入れとか景色とかいうのは経年変化するものであるのだから、そもそも「破壊」とか殊更に何か問題があったかのように記すのは筋違いであるーーとも筆者自身思わない事ではない。が、そうであったとしても、現今、そんな景色や風土、風評といった定まらないものに何かは配慮しようとかいう向きがある以上は、そんな「見当違いだ」と退けて外方を向くような態度というのは通せないのではないか、と思う次第な訳である。
二十世紀末頃から描かれるようになった景色というもので、電線や電柱、鉄塔といった、専ら電力供給の設備として描かれるものがあるが、これにしたって遡ると十九世紀末以来、本邦では数々の変遷があった訳で、現在もその過渡にある。で、そんな変遷が最も分かりやすく現れている領域の一にあるのが、今日ではアニメーション作品がある訳だ。
専らそれらは背景として描き込まれる訳であるが、取り敢えず、それに際しては先ず、作品の中で如何いう意味があるとか、そういう事を考えるより前に此処までで軽く触れて来たような、微妙な、然し今後に大きな影響を齎すであろう現在の情勢を踏まえた上で何か観たり書いたりする必要があると思われる。
そして、何よりそういう心構えでいる事は、人間の見ている景色というものが、存外脆いものであるという一事を強く意識する事に他ならないと思う次第である。
その脆弱さというのは、総じて電柱や鉄塔といった構造物の性質に因むのではなく、人間の作り出した世界と、人間そのものの弱さ、頼りなさに因むものである。
だからといって、筆者は個人的見解として、人間を取るに足らないものだと諦観や失望するのでもなく、又、反対に過大な期待を寄せるような何か勇ましい事を(例えば「希望を持て」とか云々)考えるのでもなしに、そんな取るに足らない儚いナヨナヨしたものたちでも、精々頑張ってこの地上にへばりついて生きている事を素直に興味深く観察の対象にして愉快を得られるように観察者は自身を仕向ける方が良いという風に考える。
それが恐らくは、観察者の健康にも良いもののように思われるからであり、何より折角、今あるリソースを無駄にしない最善ではないにせよ、最良の方策だと考えるものであるからだ。
自分が飲んでいるコーヒーやチョコレートが不当な搾取の産物であるかも知れない事や、ネットで何かを注文して自宅まで配達させる事の業の深さやらを意識する事と、電柱や電線のある景色について考える事は、根本的に同一の煩悶を齎すものである。そしてそれは、出されたものを食わないーーというようなハンガーストライキで解消するものでもないのであるならば、霞を食って生きる仙人でもない以上は、清濁合わせ飲むより仕方なかろう。
結論というか、これが自身の論の出発点ともいうべきスタンスであり、果たしてそんな俗塵に塗れた心境に基づいて、あれこれ書いていく上では、例えどんなにか方法論に従って書こうとしても、その意に如何しても沿わない、或いは如何にかしても自身がその型を踏襲出来ないという事が予想される。
そういう場合には、此の“趣旨表明”を読めば明らかだーーというようなものを、自分自身何か書くにあたっては最初に提示する必要があると思って一稿を草した次第である。
そして、結論でも恐らくは書く事になるかも知れないが、自身のスタンスは飽くまでも冷笑や皮肉ではなく、賞賛と感嘆である。その事は先ず最初に明言しておきたいものである。
それはもう、そういう風に自己の弱さを空想で補って、先の知れない将来に向かって繁茂していく生物としてのヒトの生態に対して、畏敬の念を抱かずにはいられない一個の人間の素直な感想として、寛恕頂きたい所である。
「お前は一体何様なんだ」とはもうずっと言われ続けて来た文句の一である。
然し、それに何か気の利いた答えを考えて何様如何様になるより、自身としては、空に架かる大鋼線を指差して、こう叫ぶ方がずっと気分が良くなる。
「これが人間だ」
ーー取り敢えず、ここませ書いておけば後はいつからでも書き出せそうだと安堵している。
こういう文章は全て仕事を終えた後にひっそり寄せるのが行儀が良いものであるが、自分としては、先ず何より先に言わんとしたい事をひた隠しにして書く事が如何にも自他に対して不誠実に思われて、仕方なしに言明したものである。
であったとしても、こういうものは別に公にする必要はないかも知れないと思われる。ただ一方で、こういう事を言外の主張として仄めかしながら暗黙の了解を求めて文章を書いていく事には甚だ、私自身が作業に当たるに際して受け入れ難く感じられたので、無い恥を忍んで此処にアップした次第である。
ただ、実際の所、自身の企てが無事、実現する保証もない段階においては、その趣意書を事前にアップしておく事は、もしかしたら後々何か「保険」になるかも知れないと思っている。
何にせよ、これは特別意味のない文章である。然し、そんな文書を投げる所として、個人のブログというのは適切な場所に思われる。
(2021/03/05)