カオスの弁当

中山研究所blog

レコード盤は祭壇の髑髏たり得るか

 レコード盤に対する若者と老人の価値観の違いについての、SNSへの投稿(主に老人によるもの)を見るにつけて、友人(多分まだ若者の部類に入る)の音声メディアに対する微妙な感想を思い出す。

 個人的には、音楽という「目には見えないもの」を記録したものは、それ自体が何かしらの操作を経て起鳴するのであれば、音楽であろうと考えている。

 例えば自分の体でさえ、そのアームの先端に付属する指が、寝ている間に何かと擦れている間にも、呼吸や脈拍による微弱な振動によって、人間の可聴域内にある調べを奏でていたりする。

 また、天文学者によっては、天体から種々の電磁波が発せられている事を以って、宇宙は音楽に満ちているーーと形容する人もいたりするらしい。(実際のところは、天文学者のフォロワーの中にそうした神秘趣味者がいるだけなのだろうが……)

 

 さて、そうした「天上の音楽」とかいう発想は、ケプラーとか、あの辺・あの時代の空気に満ち満ちていた観念の産物の様にも思われたりするものだが、それらは畢竟、時代の空気というよりも、当時の音楽のトレンドを反映したものであったのではないかーーと、ふと、寝入り端に思うと、何だか腑に落ちるものがあった。

 蓋し、シルクロードを通って、笙が巨大化してオルガンになり、大聖堂を振動させ、プロテスタント達を恐怖せしめる「異様な」カソリックの典礼を壮大に演出したり、片や、時代を経る毎に回転数が落ちて、のたり……のたり……と演奏される様になった雅楽の調べが、神秘的でありながら、その実は、祭囃子の低速度版である事なぞは、巨視的に見れば、人類の此処2000年のブームの「斑」(ムラ)の様に思えたりして来る。

 

 そうして、その巨大なブームの中で、音楽が文字通り刻まれたレコード盤が、或る年齢以上の人々にとっては、正に音楽そのものとして大切に飾られるものであるのに対して、或る年齢以下の人々にとっては、単なる音楽の「ガワ」に過ぎない様に感じられるたりする現象は、個人的には、何とはなしに、 元々先祖の髑髏を模ったものであった位牌の捉え方や、そもそも人間の遺骸に対する価値観に似たものがある様な気がして来るのである。

 

 音楽にせよ、霊魂にせよ、それらは何れも目には見えないものであり、捉え所のないものであるから、その「器」たるものの扱いや捉え方が似て来るのは自然な事なのかも知れない。

 ただ、レコード盤と髑髏には決定的な違いがあって、それは「作り方(出来方)」である。レコード盤は専ら型から作られた複製品であり、祀られる髑髏は基本的に原物である。そして、その違いは、それらを「再生」した時に生じるものの違いに直結して来る事だろう。

 その意味で、レコード盤は祭壇の髑髏たり得ないかもしれない。だが、世間には無数の、複製された「御神体」(聖物)が数多く存在する。だとすれば、原物たる髑髏を八多羅滅多羅有り難がるのも如何なものかーーという見方も出て来そうなものであるが……別にこの話には結論もなければオチもない。

 

(2026/08/22)

 

 

 

「青猫」から「ヤニ猫」へ

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  概して、漫画や絵本の中で描かれる擬人化された動物や「獣人」的なキャラクターは、古今東西、その社会に存在する多様なスティグマを反映するものであって、現代でもそうした文脈は変わらず存在する。

 

 1923年発表の『青猫』(萩原朔太郎)以降、日本のサブカルチャーにおいて、ネコーーもとい、ひとの言葉を発する「化けネコ」(擬人化されたネコ)が人間社会の暗部を告発する、という典型は脈々と受け継がれて来ている。

 その継承は、作家達の間では20世紀後半に於いてかなり自覚的に行われて来た。代表的な作家には、ますむらひろしとねこぢるが挙げられるが、特に現代(2020年代)の作家にあっては、1990年に雑誌『ガロ』で発表されたねこぢるの代表作『ねこぢるうどん』を含めた彼女の作品群の影響下にあるといえる。

 

 萩原朔太郎が『青猫』(1923)を通して描いたものは、貧困や病気や人間関係、アルコールや薬物の過剰摂取など、様々な事情から精神を病んで社会から落伍していく人間と、そんな彼らが見ている世界の姿であった。西洋では長らくーーそして、未だ現在でもーー伝統的に「悪魔の手先」として魔性の存在に位置付けられて来たネコであるが、平気で人間に祟る存在として恐れられて来た歴史が日本にもある。

 そんな「魔」に属するネコどもに人間の言葉を語らせ、何となれば人間批判を行わせる手法は、夏目漱石が『吾輩は猫である』(1905)によって確立された、と一般には考えられている。然し、後に歌われるあいみょんの『猫』(2018)に繋がるモチーフとしての「ネコ」は、ロマン主義より後の表現主義の時代に登場するネコにその原型を見る事が出来るものだろう。

 この点、『あいみょんは表現主義と合うね』と評し、同曲の替え歌『鬱』(エドヴァルド・ムンクの生涯を題材に作詞した曲)を作した山田五郎の慧眼は流石というべく他ないーー。

 

 漱石的「ネコ」の伝統を奉じた作家の中には、水木しげるが挙げられる所、前述のますむらもここに含まれる。だが、漱石のネコが「家ネコ」であり、知識階級の主人に可愛がられている飼いネコであるのに対して、不吉な要素を孕んだ朔太郎のネコは、容易に人間にまつろわない、怪異としてのネコである。

 そして、漱石のネコから朔太郎のネコの出現の間に、それらが体現する事になった社会不安が醸成されるきっかけとなった出来事の中でも、特に注意するべきものは1910年の日韓併合と、1917年のロシア革命に端を発する社会主義思想の広まりであろう。

 

 戦後、「民主化」された日本に於いて、漱石的ネコの位置付けは相対的に保守的なものとなり、他方、“病める”朔太郎的ネコはポップカルチャーの中で反動的・革新的な表象の地位を占め続けている。 外見が人間そっくりの「獣人」に、現代の人間社会の“病理”を体現させている、にゃんにゃんファクトリーの『ヤニねこ』(2022〜)もその一例である。

 

 一方で、大島弓子の『綿の国星』(1978)を嚆矢とするネコ表象の系統も存在しており、これは漱石の小説は朔太郎の現代詩とも異なり、子供向けのお伽話、童話や児童文学を先祖に持つ寓意的存在である。ただ、現代の読者・視聴者にとっては、漱石的ネコも朔太郎的ネコも、この弓子的ネコの文脈に則って鑑賞されるのが専らである。そして作家や供給者側も、そうした傾向に乗じて利益を得る事に奔走していたりする。

 それは、何か作品が持つ社会性を虚仮にするとかいう意味合いを持つ努力ではなく、古くは明治時代のジャーナリズムに於ける「小新聞」(政論を中心とした「大新聞」に対して、より世俗的な話題や広告、娯楽的読み物を盛り込んだ、後のメジャーな日刊紙の起源)が取り組んだ販売戦略を踏襲するものである。そもそも、夏目漱石は新聞に小説を発表した事で大成した作家であり、『吾輩は猫である』も、そんな漱石の新聞小説の評判を受けて、文芸雑誌『ホトトギス』に掲載された作品である事は留意すべき点である。

 

 果たして、近現代日本の文学やポップカルチャーに於いて「ネコ」は、マスである自分達とは異なった身近な存在、社会的弱者やマイノリティーを、当たり障りなく、風刺的に描くのに便利な手法としてーー他の動物が表象として用いられなくなっていく中でもーー盛んに使用され続けている。それは、婉曲的に、現在存在する深刻な社会問題や、公言するのを憚られる様な揶揄や冗談を表現する手法として有用であるからであり、同時にネコという生き物自体が、比較的どの階級や社会に行っても存在している動物であった事がこれを可能ならしめているのである。

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(2026/07/17)

 

紫煙のノスタルジー(或いは電子化されなかったヤニについて)

 今どき、小道具としてタバコを用いているのは漫画やアニメくらいのものだろう。

 現実社会ではここ数年、電子タバコのプロモーションが盛んに行われている。普及や生活への浸透度合いも中々の速度である。

 コロナ禍の渦中から続く、フィクションに於ける紙巻きタバコの使い方は、差し詰め往年の時代劇におけるキセルの様な位置付けになっているーー。

 

 個人的に、小道具としての電子タバコの特徴は、それが電気で動くことにある。火ではなく電気で動く事が意味する事は、それまでタバコがキセルの時代から連綿と占めていた、火の性質を媒介するものであった象徴的地位から退く未来を示唆している。

 電子タバコは果たしてサブカルに起源を持つ小道具であり、その喫服文化は、ナス科の植物ではない他の植物由来の成分を喫煙する文化に遠因がある。

 

 可燃性の嗜好品でなくなった現代のタバコに対する無意識のアンチテーゼなのかは喫煙者でない自分にとって不明な領分ではあるが、電子タバコが、個人がよりその孤独を深めていく方向にシフトしていく環境を示唆する道具として「タバコ」を変化させていく過渡期に在って、個人的には、それが電気で稼働する事は、電線・電柱という大道具に関心を持つ身としては、頗る興味深い所である。

 電子タバコとは、果たして「吸うインターネット」である。乾電池や充電式のバッテリーによって動く他のデバイス同様、火という化学的媒介を用いずともよくなったタバコは、差し詰め「ワイヤレス」になったと形容する事も出来るだろう。

 その喫煙習慣は、ゲーム機やスマホのアプリ・ゲームで遊ぶのとパラレルな嗜好であり、その消費活動は「課金」という風に認識され、過去の時代の習慣よりか相当に抽象化されたものであると見られるものである。

 ただ、火をつけて、自分の指先に挟んだ持ち物を燃やすーーという行為と吸煙を「分煙」して、喫煙により重点を置いた電子タバコは、着火や燃焼という行為や現象は電子化出来たかも知れないが、それが有していた文化的・社会的な「お約束」迄は電子化し得なかったのではないかーーと、今期配信・放送されているアニメやその原作を観るうちに思った次第である。

 

(2026/07/13)

 

諫死する人・刑死する人:『三島由紀夫ーピエル・パオロ・パゾリーニ』感想

 

 先日、東京都千代田区にあるイタリア文化会館で開催中の展覧会『三島由紀夫 ― ピエル・パオロ・パゾリーニ 対峙の⼿がかり 沈黙せず、⽬をそらさずに』〔会期:2026年6⽉26⽇(⾦)~ 7⽉29⽇(⽔)、無料〕を見て来た。

三島由紀夫 ― ピエル・パオロ・パゾリーニ 対峙の⼿がかり 沈黙せず、⽬をそらさずに – Istituto Italiano di Cultura di Tokyo

 当日中、移動中を含めて見たものの中で、二人を最も象徴している様に見えたものは、帰り道、地下鉄・半蔵門駅に向かって千鳥ヶ淵の交差点に進む道すがら、植え込みの中に見つけた真新しい切り株だった。

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 切り株には、碁盤の様に規則正しくチェーンソーで付けられたと思しき綺麗な溝が刻み付けられていた。これは切り株から再び芽ーー所謂「ひこばえ(蘖)」が出ない様にする為に施される処置である。

 この切り株の様に、伐採された後に切り刻まれたものは他所で間々見かけるものではあるが、ここまできちんと丁寧で入念に処置されたものは滅多に見かけない。流石は千代田区……といった所であろう。

 その程度の差こそあれ、果たして、こうでもしないと、樹木は、一見してその生命を絶たれたかの様に見えたとしても、しぶとく再生するのである。

 

 丸で「死体蹴り」の様にすら見えるこの処置は、或る意味で究極の「芯止め」とも言える。芯止めとは、樹木の芯(主幹)の成長をコントロールすべく、最も高い位置にある幹や枝の成長点を切断する処置である。成長点が切断されると、植物は縦方向への成長を止め、横方向へ広がる様に成長する様になる。

 不謹慎極まりない連想ではあるが、このーー何処となく、動物に対して行われる去勢を想起させるーー芯止めが施された切り株には、三島とパゾリーニ、それぞれの最期の姿が想起させられた。

 だが、七月の、カラッと晴れた午後の空の下で、真新しい断面を露わにしているそれは、血みどろの惨たらしさはなく、空気と同じ位、軽やかな快活さに満ちていた。寧ろ、その場に於いて、ドロドロとしたものに塗れているのは、これを切り刻んだ者達と、其の成れの果てを眺めている観衆達であった。方眼の切れ込みは隆々と迫り出して割れた腹筋の如く、日光浴でもするかの様に、これ見よがしに天を仰いで端然としていた。(“死体”なのだから、端然としていて当然ーーというのは、余りに無粋な話である。)

 

 

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【会場であるイタリア文化会館の正面玄関】

……モダンな佇まいが如何にも「イタリア風」に感じられる。

 

 会場は同会館のエントランスホールであり、来館者をすぐに展示が出迎える仕様になっている。扇の様に放射状に並べられた展示ケースの上には、白地の布に三島とパゾリーニの写真が彼等の語録と共に刷られた垂れ幕が天井より吊られており、入って左手の壁際にイントロダクションのパネルが設置されていた。右手の壁際には、図録など関連書籍の販売ブースがあり、この内、「たとう」は完売とのことであった。(この「たとう」が会場ではどんなものであるかピンと来なかったが、調べた所、紙製のクリアファイルみたいなものであろうーーと推測された)  なお、会場内は撮影禁止であった。

 会場の規模に比して、と書くと語弊があるが、展示ケースは、丸で回らない寿司屋のショーケースを覗く様なものであった。中でも三島が、太平洋戦争末期に徴兵検査を受けた際、死を覚悟して家族に宛てて認めた遺書が遺髪・遺爪(いそう)と共にしれっと置かれているのを目にした時にはーー文字通りーー思わず二度見してしまった。

 然し、会場内で目を惹いたものは、何といっても天井から吊り下げられた彼らのポートレートであった。それぞれのパブリック・イメージが同時代のメディア(写真)を通じてどの様に形成されていったか、を紹介する意図で以って掲示された写真は、どれもこれも「決まって」いた。(それらの画像や展示の様子を此処で共有出来ないのが、何とも残念でならないーー) その所為で、余計に会場内で「ホスト」として控える故人の印象が強化されている様にも初めは感じられたが、段々と見慣れて来ると、今度はその画を撮った写真家達の存在が意識され出した。すると、会場を後にする頃には、二人の写真は其々、彼ら自身のではなく、彼らの肖像を撮影した写真家の名刺であると感じられる様になっていた。

 

 解説の中で印象に残っている文章は、三島の自決を「諫死」と記していた一文である。

 先述した放射状に配置された展示は、正面入り口に立って左から順に、『文学』『芸術関連』『肉体』『責任』『社会』『映画』『劇場』ーーと並んでおり、これら七つのテーマ毎にパゾリーニと三島の生涯を対照的に紹介している。「諫死」という語が登場するのは、4番目のテーマ『社会』に於ける三島の解説の中である。該当箇所を解説から抜粋・紹介する。

  戦後の平和と繁栄を享受する日本人に、武士的な諫死によって伝統文化の復権を訴えた三島の死は、政治的な行動ではなかった。どちらかと言えば文化的な行動であったが、それ以上に本来の自己に還る精神の行動であった。それは、この世の存在も価値も認めない、三島的なニヒリズムの表れであったと考えられる。

 同解説は、三島が自身の本質的な脱社会性を自覚しながら、表面上は極真っ当な社会生活を過ごしている「エイリアン〔宇宙人、異星人〕としての自分」の生き方をよしとしていなかったであろうーーという仮定のもと、そんな「宇宙人」が宇宙人として、人間社会にどの様な社会貢献が出来るかを模索した末に導き出した結果が、あの有名な最期であった、と論じている。

 ただ、自分が関心を持ったのは、解説者が「諫死」という、現代では聞き馴染みの無くなった単語が用いられていた点であった。

 

 「諫死」ーーもとい「諌(いさ)める」という言葉は、最早、二十一世紀の今日の日本に於いて「取りなす」と並んで、すっかり死語となっている。

 そういえばそんな言葉や概念が世の中には嘗てあったものだったなーーと、解説を読んでいて思った瞬間、はたと三島とパゾリーニの一番の共通点を発見した気分になった。蓋し、その生や死が世の人々に対する諫言や戒めになる人々が「知識人」と呼べるものであろうーーと、その時になって漸くーー今更ーー得心した次第である。

 自殺、もとい自死・自決という行為が、果たして、世間の人々に対して強烈な忠告として意味を持っていた時代が嘗てあった事を「諫死」という語は自分に思い出させてくれた。だが、その観点や概念が、自分の中からすっかり忘れられていたのは、今日ーーというか、三島が自決した時点で既に、その様な意味が通用する文脈が人々の間から失われていたであろう、という認識が強固にあったからである。

 その一方で、これも見方次第では「諫死」の一種といえるだろうパゾリーニの最期は、第三者による「見せしめ」としての殺人であったとする見解で概ね一致を見せている。「見せしめ」としての死ーー即ち「刑死」ーーこの場合、私刑による殺害も含むーーは古代から現代に至る迄、人間社会の中で忘れられた験しは一度もないが、他人から殺害される事で成立する刑死も、自らそれを招来する迄、諫言や忠告を止めなかった末のものであるならば、パゾリーニの解説文中で紹介されていた画家のジュゼッペ・ジガイーナの主張の通り、その死は「他者を介した自殺」ーーこの場合、「自殺」は即ち諫死の意味を持つーーと確かに呼べるものだろう。

 ジガイーナが説く「他者を介した自殺」は、殊に第二次世界大戦中のヨーロッパではよく見られた出来事であった事だろうし ーーそれは多分にイエス・キリストの受難を模倣する文脈を背景に持つものでもあるだろうーー、それらはパゾリーニ達にとって、同時代性を有するテーマであり続けた事だろう。恐らくはパゾリーニが感じていたであろう、戦時中、抵抗の末に「刑死」していった無数の人々に対する後ろめたさは、死場所を失った三島のそれに通ずるものがあるだろう。

 

 「刑死」の例には枚挙にいとまないが、諫死として有名な例はそれと比べたら少ない。中でも、三島の諫死に先立つ事、7年前の1963年6月に南ベトナムで焼身自殺を遂げたティック・クアン・ドックの事例は、世界中で「諫死」と認められた数少ないものだっただろう。

 これに限らず、少なくとも二十世紀の間には、ハンガー・ストライキを始め、死に至らずとも、抗議もとい忠告や告発の方法として、無数の自傷行為が広く社会の中で共有されていた。それはもう、今となっては「歴史的背景」と称すべき文脈である。だからこそ、今日、三島の自決を理解する上でそれは、看過してはならない大前提である。そして、その存在を「諫死」の一語で示唆した解説の今日的意義は非常に大きいものだろう。

 

 三島の自決は飽くまで「武士的な」ものであったが、諫死や諫言、諌める行為それ自体は長らく社会と歴史の中で存在して来た。だが、事今日に至って、諫死や諫言が有していた機能それ自体が世間から忘却され、現代にも記録が残る過去に於ける無数の出来事は、概ね「抗議」や「抵抗」といった言葉・概念で理解され、語られている。

 然し、諫言に込められた最も強いメッセージ(念もとい希望)は、如何にその論調が激しいものであったとしても、究極的には、彼の最後の演説の合間に叫んだ言葉に象徴される様な、遜譲を美徳とする価値観に基づく懇願である。

お前ら聞けェ! 聞けェ!

静かにせい、静聴せい!

話を聞けッ!

男一匹が命を懸けて諸君に訴えているんだぞ!

 無論、それは形ばかりのものである事が殆どではある。だが、その形式を取る事こそ、諫言が諫言たり得る所以であり、又、その様な方法によって自らの意思を通す事が出来る機能を有した社会の可能性を、三島は最後に示唆したのではないかーーというのが、個人的な自分の感想である。実際に、諫言や諫死が有効な手段として通用する社会が、三島の考えた「失われゆく伝統的な社会」であったかは定かでない。

 ただ、こうして「諫死」というフィルターを通じ、改めてその最後のフィルムを視聴してみると、『聞け』というのは命令形ではあっても、その用法は希求であったのだなーーと今更に実感されるものである。

 

表現だけが現実に現実らしさを与へることができるし、リアリティーは現実の中にはなく表現の中にだけある。現実は表現に比べればずっと抽象的だ。

ーー『禁色』(三島由紀夫)

(2026/07/11)

 

*パゾリーニについての感想が少ないのは、三島の展示に気を取られ、パゾリーニの展示を十分に見学出来なかったから。図録も買いそびれたのでこの入手も目的に含めて、会期中再訪出来たら追記予定。

蝶の如く、葉の如く

 服装ーー世は簡略化の方向に向かっています。

 ペデストリアンデッキに迫り出したカフェの展望席に陣取って、行き交う人の服装を眺めていると、今手許にある『やさしい国際儀礼ーープロトコールQ&A』(外務省外務報道官編集/(財)世界の動き社、1985年)の章題がしっくり胸に来た。

 外務省大臣官房儀典官室が雑誌『世界の動き』に連載した『やさしい国際儀礼』を纏めた同書の初版が刊行されてから既に40年以上ーー驚くべき事にーーが過ぎた訳だが、成る程、昔の雑誌やアルバムなんかを見ると、遡れば遡る程、世人の服装は派手になっていく。

 時間帯にも依るのだろうが、駅前の雑踏を眺めていると、種々様々の様に見えて案外それらは同じ缶に入った色鉛筆のバリエーションの域を出ない。

 そこには確かに、一つひとつをよく見れば、明白な違いが存在する。然し、引きで眺めた時には、それらは皆、同じ一つの巨大な生地から切り出された端切れの様にも思えて来る。一頭の巨大な獣の革を切り分けて、皆で揃いの衣装を仕立てた一群の人々の様でもあり、また、大きな樹幹の枝葉末節に小波めく衣擦れの様にも聞こえる。

 

 別におかしな事でもないのだが、冬場の小枝を真似た様なシルエットや色彩の服もそうであろうが、人間の服装も概ね自然の擬態の範疇を出ない。動物界に於いて、この手の擬態の天才達といえば、昆虫ーー特に蝶や蛾の仲間なぞが白眉であろう。街中に棲む人間の場合、何の目を誤魔化す為に擬態するのかは普段、意識される事は稀であるが、その街並みに溶け込もうとする努力や工夫は、矢張り己が獲物や天敵を意識してのものであろう。そんな衣装に対して、 綺羅びやかな手荷物やアクセサリーの類は、人間が好んで獲物とする所の物の容姿や性質がどの様なものかをよく示している。

 

 日々、何かを稼ぎ、学び、作る人間の普段の服装が、これらを集合的に捉えて観察した場合に、終極的には光合成を行う木の葉の集合に見えるのは実に興味深い。晴れ着という物をとんと見かけなくなったーー抑も普段、滅多に見かける事のないものではあったがーー現代に於いて、群衆の中に、幾らか洒落た服装の人が居たとしても、それはそういう服装をする必要性がある仕事に就いている人が、これから出勤する途上なのだ、とか、或いは今まさに勤務中であるのだ、としか解釈されない。

 或いは、駅頭に“奇妙な”格好をしている人間がチラホラ居たりすれば、何某かの問題や不具合を抱えているのではないかーーと訝しみ、人波はこれを避けるか、当たり障りない態度で無視して横を通り過ぎる様にしたりしている。この泰然無関心といった態度は、人間が普段観察している他の動植物の姿に通ずるものでもあるが、兎も角、其れ等、虫食いや虫瘤が出来た葉の如き者が紛れていたとしても、遠目から見た時にその木は青々とした色素繁れる葉の塊に過ぎない。

 其の体色はーー毛皮の代わりに服を着る生き物の体色は、服の色とみて差し支えないだろうーー季節や気候、天気や時間帯によって変化し、その健康状態や精神状態によっても変化する。個々に、或いは集団単位で同調したり、対立したり、千変万化する様子は具に描写しようとすれば、忽ちコンピュータにエラーを吐き出させる事になるだろう。

 

 所で、そんな木の葉の中に蝶が紛れていないか、と探すのが今日の自分の一つの楽しみである。無論、仮にそんなものが紛れていたとして、自分に観察出来るか知れたものではない。

 ただ、耳を澄ましてみると、案外色んな話が聴こえて来るのが、カフェのテラス席という場所である。他愛無いカップルの会話の中に混じる医療用語や、檜皮色の声で交わされる不動産の話など、聞き耳頭巾はあらねども、人間の言葉ならまだ分かる。

 此方の葉擦れは、ガラス越しに見える彼方の無声映画の良き副音声である。但し、其れ等は飽くまで木の葉の小波めきであり、蝶の羽搏きなぞではない。

 

 蓋し、蝶とは恐らく、梢に生えた葉の見る夢であろう。ただそこを通るだけの「通行人」(モブ)とはこの世の何処にも存在せず、葉は各々其の目的に応じて色付き、変化して光合成を行っている。

 独立した一個の細胞の意志と、巨大な群体生物としての意志の間にどの様な交渉があるのかは定かでは無い。だが、その狭間にあるかも知れない自由な意志は、群体や細胞の前にどんな姿で現れるか想像するのは、無為ではあろうが、楽しい娯楽である。このーー詰まらない言い方をすれば、計算する為の記号を現実に探すーー遊びには、何の目的もなければ、獲る所のものもない。ただ、将棋や囲碁を指せない人間が、遊ぶ相手のいない休日にする事としては、比較的健康的な遊びには違いない。望遠鏡も顕微鏡も用いずに、肉眼で観察出来る此の「中宇宙」は、幸い、人並みの視力を持つ自分にとって、程々に神秘的で身近な驚異に満ち満ちている。

 

(2026/07/03)

 

 

手拭い擬き育成日記

 百均の手拭いを育て始めてもう三年くらいになる。

 はじめは、その生地の質感が既知の手拭いと丸で違うので、それを百均が手拭いとして売っているのが随分腹立たしく思うくらいであった。だが、何より安いのに加えて、次第に図柄の可愛らしいものが多く店頭に並ぶ様になって来て、うまうまとそれに釣られて幾つも買う様になってしまった。その内に、気が付けば箪笥の抽斗をそれなりに圧迫する様になって来たから、とうとう使わないではいられなくなってしまった。

 

 最初に買った切っ掛けは、コロナ禍の折、不織布の使い捨てマスクが手に入らない状況下で、在庫が切れる前に念の為に、と家族分の布製マスクを拵えるのに材料としてであった。その時でさえ、もう大分色々なパターンの布が取り揃えてあったから、かれにはあれ、これにはそれーーという様に選ぶ楽しみがあった。

 結局その布マスクは使わず仕舞いで何とか凌げたが、その時に余った布を含めて、幾つも手拭い(自分はそれを敢えて今でも「擬き」と呼んでいるが)が余る様になった。

 それ以前ーー詰まり、コロナ禍より前に集めた手拭いも、まあまあそれなりに抽斗の中にはあって、気に入ったものは結構な頻度で使い倒していたが、その所為で、色も褪せ、生地も随分と薄くなって来てしまった。一番古いのはもう二十年近く前に入手したもので、何処かの演芸場に家族と行った時に記念か何かで貰ったものである。吉原鎖の緑の手拭いで、生地が確りしているのか、まだまだ使えそうではある。

 それ以外にも、専ら幾何学的だったり抽象的な図柄のものを以前は使っていたものだが、例の布マスクを作ったりした頃から、図像を散りばめたものを積極的に使う様になっていった。

 

 詰まる所、それは百均の手拭い擬きを使い出した所為である。それまで使っていた手拭いの十分の一以下の値段で選べる其の布には、味気ない英語のタグがくっ付いていて、それも見苦しい事この上なく思えたものだったが、それも今では擬きの来歴を示すものだと思えて、切らずに残している。不思議なもので、生地がどんどんねびていくのに比して、このタグは殆ど劣化する事なくビロビロと端っこに垂れている。それは、大方生地の劣化が早く、相対的に丈夫に見えているだけの事なのだろうが。

 初め、ゴワゴワして使い心地も悪かった擬きは、縦型洗濯機の暴虐に耐え、天日にも晒され、揉みくちゃにされる内に、すっかり繊維が解れて柔らかくなり、今ではよく肌にも馴染む様になった。帽子やヘルメットを被る前に頭に巻くのは、決まってこのくたびれた擬きである。

 

 土台、最近の手拭いは、実用的な生活の道具というよりもちょっとしたお洒落な小道具であり、華美な趣があって、昔ながらの手拭い本来の使用にはやや不向きでもあった。染料が落ちたり移ったり、或いはその独特の匂いが漂って来たりする事もあった。

 そうした傾向が擬きには少なくて、洗って糊が落ちた後は、そこら辺の安い布地の様に縮む事はあっても、それを洗って、延ばして、干してを繰り返す内に、タランと鞣した様ないい塩梅になる。それでもボソボソと荒い質感はなおも健在ではあるが、その感じが何とはなしに「今どき」と感じられるのは、単に自分の近況と重なるからであろう。

 何せ、ここ数年の生活難はティッシュペーパーの質を一つとっても明白である。偶に押し入れの奥から出て来る箱ティッシュの中身は、厚みといい、柔らかさといい、質感といい、最近の一般的な価格帯のティッシュのそれと雲泥の差がある。

 それでも手拭い擬きは、ティッシュと比べたらまだ「成長の余地」がある分、うんとマシである。

 

 他にも、擬きには使い途が開かれている事にも希望が見出されるものである。

 例えば、余らせた擬きで枕カバーを作った折には、家族から「そんな生地で作ったら肌に悪い」と言われた。だが、そこは手拭い擬き育成を趣味とする自分の事であるからして、その意見を押し退けて、取り敢えず数ヶ月、其れ等を使い続けた結果、いい塩梅に擦れて、生地が柔らかくなり、使い易くなった。

 そうして一つの成功体験を得た後では、仕事中にも楽しみが増えたと言っても過言ではない。首に巻いた擬きは、使えば使う程にねびて、柔らかくなる。そうして古びた擬きは、後々他のものにも転用出来る事を自分は「発見」したのである。

 別にそれは、耳っちい廃物利用の例ではない。それとこれとは別物である。

 以前から針仕事は時折、頼まれてする位であったが、事此処に至っては、学生時分以来の作業に没頭する日々である。「没頭」と言っても、必要に応じて針でツンツク生地を繕うだけではあるが、直ぐに穴の空く靴下の寿命を延ばすだけでも幾分有意義な作業と言えよう。

 

 勿論、冷静に考えたら、そんな事する位だったら、内職でも何でもして稼いだ金で新しい(安い)靴下を買う方が今時、賢い選択である。飽くまで自分のそうした作業は、総じて旧懐的な営みの一部であり、何処までも趣味的な作業である事は偽らざる事実である。

 安物買いの銭失い、という言葉がある様に、それは裏返せば、端金で自分の人生を売り飛ばして生きている人間の生活を象徴する行為であり、今時、繕う程の価値のある靴下もなければ、育てる程の手拭いも身近にはないのが自分達を含めた大勢の人間の日常である。然し、そうして養生する甲斐すらないのは、持ち主たる人間自身の境遇の反映でもある。

 ハンカチやティッシュに限らず、日常のありとあらゆる物に関して、何処々々産だから大した事ない、とか、幾らでも替えはあるのだからーーと選り好みして、種々の物を使い捨てにしていった末に到った未来が果たして今なのだとしたら、甘んじてその新しい、来るべくして訪れた今日に粛々と適応するのが真っ当な人間のするべき事なのだろう。

 自分も一応は其の、クシャクシャのボロ布を人前では恥じる位の気持ちは未だ、完全には失っていない。服のポケットに押し込んで丸まったりした其の布を、駅や人通りの多い場所では極力目立たせない様にするだけの配慮をしようとするだけの社会性は持ち合わせているーーつもりである。

 そして、他人のボロ布に眉を顰めるだけの感性もーー自分の事は棚に上げてーー持ち合わせているつもりである。

 

 そうして、今、将来、自分に残りそうな途を不図考えると、先ず念頭に浮かぶ物は、クシャクシャのボロ布を後生大事に掴む姿と、他人に対する攻撃性のみを残した、憐れむべき余地も一切無い姿の二つである。何にせよ其れ等の途は醜いものに違いない。その何方も拒絶するのなら自分は、先ず百均から遠去かる努力をするべきなのだろう。だが、後もう少し、あの店先のチープでキッチュな佇まいを見て過ごしたいと願うものである。

 

(2026/06/26)

 

 

 

 

長谷川如是閑の「犬の家」

 

 大正デモクラシーを代表するジャーナリスト・長谷川如是閑(1875-1969)が東京で暮らした家が、かつて中野区東中野に存在した。現在、宗教団体「東京黎明教会」の事務所が建っている場所が、凡そ嘗て彼の家の在った場所である。

 俗に「東中野の家」と呼ばれる如是閑宅は近所からは「犬の家」とも呼ばれており、庭には常時十頭ほどの犬が飼育されていたという。

 

 如是閑が東中野で暮らしていたのは、大正時代中頃から昭和初期にかけての約二十年ほどの時間であり、その間、彼の肉親達は隣の新宿界隈に暮らしていた。父・山本金蔵と弟・大野静方らは大久保百人町に暮らし、兄・山本笑月は四谷大木戸跡の目の前である、四谷内藤町に暮らしていた。

 同時代に於いて、周囲からは「如是閑の趣味」といえば専ら弓術や登山などがいわれていたが、彼の犬道楽については、それが終生のものであったにも拘らず、意外と趣味としては語られる事の少ないものであった。

 そこから察するに、同時代の如是閑の取り巻き連にとって、如是閑の犬飼育は、如何やら些か触れたいとは思えないテーマであった様である。そして、その理由に関しては、蓋し如是閑自身が自分の犬への思い入れや溺愛ぶりについて、異常だと自嘲気味にエッセイに書いていたりする所から、取り巻き連の反応も何となくそんなものであったのだろう、と思料されるものではある。

 ただ、如是閑自身は自身の犬やその飼育を題材にしたエッセイはまあまあの数残しており、特に児童向けの雑誌に寄稿されたエッセイに関しては、文芸雑誌上で秀作であると記者から褒められる程ではあった。

 而して、そこからも果たして察せられるものだが、彼の犬の飼育とその拘りなどは、同時代に於いて、いい歳した大人がするにはやや子供じみたものであると見られていた様に本稿筆者には考えられてならない。それは丁度、一昔前ふた昔のオタクや「子供部屋おじさん」に対する世間のーーいや、今でも実際の所は大概そうなのであろうがーー評価にも通ずるものであろう。

 語弊を恐れずに書けば、それは如是閑の「女子供じみた」側面であり、彼の周囲に居た、社会的な地位も確りとした成人男性諸氏にとってみれば、何とも奇妙な、コメントし辛い奇癖の類でもあった事だろう。

 成る程、如是閑は愛犬家には違いなかったが、他の愛犬家と決定的に違った点は、犬の繁殖や血統に関心を示さなかった点にある。犬に限らず、凡そ動植物の飼育を趣味とする際に、繁殖と血統に関心を払わない事は、素人同然も良い所である。これは現代のコンピューター・ゲーム全盛時代にも引き継がれており、凡そ「育成ゲーム」にあって、血統と繁殖を要素に取り込んでいないものは皆無であろう。

 然し、流石は生涯独身を貫いた伝説的「ひとりもの」だけはあって、愛犬家であっても彼は、犬にも独身を強いた上で、その代わりに彼らの躾に拘った。それは同時代にあっても、些か酷である、とーーそれは今日的な価値観に基づく動物に対する憐憫ではなく、「動物は動物らしく過ごさせるのが動物にとってもいい」という、飽くまで人間本位のコンセプトである「動物」という概念に相応しい生き方を動物にさせる事が人間道徳に適っている、という価値観に基づく、動物に対する感情であるーー言われたものであったが、如是閑は飽くまで、犬を自分の「家族」として認めて、その家族に対してその家の「主人」として、家族の一員として見苦しくない生活態度を弁えさせ様として、躾を施すのに腐心していたのである。

 そんな躾は、果たして同時代の人々から、丸で犬を人間扱いしていると映っていた様で、その奇異の眼差しには如是閑も幾分気にはなっていた様で、稍もすれば、彼の犬の扱いは、人間を犬と同列に扱うかの様に受け止められる嫌いもあった。1914年に出た随筆集『犬・猫・人間』には、そんなご意見に対する彼の釈明なんかも冒頭に掲載されているが、兎も角、彼が“高が犬”にそうまで入れ込む事に、如是閑自身は「独り者のさが」的な自己分析を行っている。

 

 或意味、如是閑の生ける作品でもあった、東中野の家で飼育されていた犬たちは、果たして番犬でも猟犬でも闘犬でもなければ、コレクターズアイテムになる様な血統書付きの犬でもなければ、何か優れた因子を子孫に残す様な事もなく、歴史の彼方に忘却されたもの達である。それぞれにちゃんと名前のあった犬たちではあったが、彼の愛した「コレクション」もとい「家族」の存在は、今や殆ど誰からも顧みられる事はない。

 もしかしたら、今でも何処かの家に、ひょんな事から如是閑の家の犬の子孫が生きているかも知れないが、その様な由緒は決して伝世していないだろう。また、仮にその様な由緒が残っていたとしても、その犬の上に、如是閑の家の因子は遺伝してはいないだろう。ーーというのも、飽くまで後天的な教育と学習の産物である如是閑家の躾は、その犬ただ一代の上にのみ止まるものだからであって、且つ、犬自身がその躾を、主人亡き後に己が子孫に迄伝える事はあり得ないからである。

 

 そうした「虚しい」趣味に没頭していた如是閑を、当時周囲に居た彼の友人やフォロワーが如何思っていたかは想像に難くない。それは丁度、現代の欧米人が、チベット僧の修行の一環として行われる砂絵を見るが如き感想を抱いたかも知れないし、或いは、優れた知性を持つ老人が持つ奇っ怪な趣味ーーいつまでも子供じみたお飯事に戯れているーーと感じられたかも知れない。

 だが、それこそが、作家・芸術家としての如是閑叟の神髄であるーーと、本稿筆者自身は声高に主張したいものである。少年時代にーー特に男子が抱きがちなーー孤独と疎外感を終生大事にして手放さず、これを文藝作品で表現するだけに留まらず、犬という動物を愛玩する、という形式で“表現”し続けた彼・如是閑の「痛々しさ」こそが、彼の真骨頂である。

 それは、ホームレスが自分と同じ様に寄るべない野良犬をパートナーにする様なものであり、何となれば、「魂にないもの」に自己を投影して自らを慰撫する虚しい営みとも解釈される。今でも、「大の大人」足れば、動物に心やら魂があるという様なセンチメンタルな見方をするべきではない、というのが真っ当なスタンスであろう。

 だが、如是閑は、そんな卑しい動物(もとい畜生)“なんか”に対しても、そこには魂や心があるはずないーーと、 いい大人になっても居直る事が出来なかった訳である。

 その結果が、家族から一人、少し離れた郊外の家に「犬の家族」と暮らすーーという選択にも繋がったものであろう。彼の大きな財産は、概ね其の膨大な蔵書(これは1945年4月頃に行われた空襲によって焼失した)と言われて来たが、果たして彼の犬も、資産価値はなかったかも知れないが、彼の財産には違いなかったであろう。

 

 所で、昭和初期の少年の間で大流行した漫画『のらくろ』の主人公は、黒犬の野良犬(通称・のらくろ)であったが、その作者・田河水泡(1899-1989)は、当時の自作の人気について次の様に考察している。

 曰く、児童福祉法なんかなかった時代において、多くの子供達(主に男児)にとって、自分達より社会的に下にいる存在は野良犬位しか居らず、そんな野良犬であっても、社会の中で居場所を得て、出世していくーーという物語が子供達の心を掴んだのであろう、と。

 何より、田河自身も、両親を早くに亡くして孤児(みなしご)となった境遇から、のらくろを分身として捉えていた節もあるから、そうした作者の感情移入が読者にも伝染したとも考えれば、この作者自身の考察も強ちではないだろう。

 他方、如是閑の作品にも、度々のらくろ的な存在、即ち社会のはみ出し者的なキャラクターが登場するが、概ね彼らはのらくろの様に自身が活躍出来る居場所も栄達の道も得られず、社会の中で翻弄され、心身共に擦り切れていくだけである。

 それ故に如是閑の作品は余り人気を博す事はなかったが、蓋し、其の様に商業的な成功を得なくてもいい作品を如是閑が書き続けられたのは、何より、作家しての地位とは別に、ジャーナリストとしての確固とした地位を固めていた上に、両親や兄、盟友を始めとした支援者の存在があり、又、自身の身の回りの世話をしてくれる家族(義妹たち)の存在があったからであった。犬の餌やりも彼の家の女中の仕事であった。

 これに対して、漫画家である田河は、漫画を描く事で生計を立てていかねばならなかった事情が、作品の内容にも大きく寄与していた。のらくろは作者が生きていく為にも、何が何でも生き延びて昇進を続けなければならなかった訳である。

 他方、専業作家ではない如是閑の主人公達は、それで作者が食っていかなくてもいいので、散々な目に遭わされた訳である。その意味で、彼の作品である犬達も、彼の生計の範囲内で飼育された、特に何の役にも立たない動物達であった。

 然し、其の「無用の用」こそが、後年、評価される様になると、往時に於いて大人気であったのらくろは一転して「軍国主義の走狗」呼ばわりされ作者・田河が暫く日照りに苦しむ羽目に陥ったのは、蓋し戦後の如是閑の評価と好対照をなしており妙である。

 

 蓋し、寄るべない孤児であったのらくろが得た居場所が、所詮は誰かの「走狗」となる事であった事は、現代社会に於いても中々示唆に富んでいる一事である。他方、如是閑が其の処女作『ふたすじ道』で描いた孤児の顛末は、のらくろがしなかった今一つの選択であり、それは現代社会に置き換えてもなお、通用するものである。

 如是閑と水泡は共に東京の人であり、時代も少なからず重なる作家・著述家同士である為、比較するには中々打ってつけの人物であるが、既に本論から逸脱し過ぎている為、これ以上は割愛する。

 如是閑の話に戻せば、彼が失ったのは、言うなれば彼の生まれた時代と、そこに嘗て在った社会とそこで営まれていた「家」であり、「家族」であった。それを、彼自身の言葉で言い換えれば「秩序」となる。そして、その秩序を再現するのに適した身近な存在が犬達であった事は、彼の「犬の家」を考える上で重要なポイントである。

  今はなき「犬の家」ではあるが、そこで「主人」として君臨した彼が、家を治めるのにどの様に振る舞ったかは、ジャーナリストとして活躍した彼の思想を考える上でも幾らかの示唆を持つものだろう。

 

〈参考資料: 『私の犬の家族』(1951年4月、『婦人之友』掲載)他〉

(2026/06/19)