カオスの弁当

中山研究所blog

ベイビーヤモリとアブダクション

 路端でヤモリを見つけた。小指の先から第二関節までの大きさしかないが、立派な爬虫類である。

 夜中、光に集まる習性を持った羽虫が狙いだったのだろうが、人通りの多い道路に現れたのが運の尽きである。あわや、踏み潰されかけた訳である。

 保護色が余計に禍したのである。手にした封筒に載せて一通り、観察した後で側の植え込みの土の上へ移した。ヤモリからしたら、堪ったものではなかっただろう。

 腹を空かせながら、漸く狩場まで来たと思ったら、自分の何百倍もの大きさのある何かに摘まれた挙句に、元居た暗黒裏に振り落とされたのであるからーー。

 その心労たるや、並一通りではない筈だが、得てして「冷血動物」「爬虫類」という揶揄が成立するように、ヤモリを含めた爬虫類というのは、見た目の上では相当に動じない、以て字の如く「クール」な連中である。

 

 人間で言えば、今夜、ヤモリの上に起こった出来事は、宇宙人に誘拐された様な事であったに違いない。

 ストレスにやられた人間が作り出した妄想かも知れないが、そうした誘拐事件ーーアブダクションーーを経験した人間というのは、後々相当に苦労する。宇宙人からに限らず、恐ろしい目に遭うと人間は疲弊する生き物なのだ。

 ヤモリも生き物である。生き物であれば疲弊するだろうが、果たして今夜の誘拐事件は、彼奴にとって恐ろしい出来事だったのか、それは分からない。

 しかし、思うに彼らの感情というのは、あったとしても人間程に己を疲弊させたりするものではないのではないか、と帰りの道すがら考えたものであった。

 彼等の生活を鑑みれば、斯様な出来事で一々精神を困憊している様では、とてもではないが生きていく事は困難であろう。

 無論、中には詩人や哲学者とか、爬虫類の中にもそんな感受性の高度な個体がいるのかも知れない。しかし、そんな個体が生き延びて寿命を全うする事は甚だ少ないように思われた。

 生き延びた末には、御伽噺に出て来るようなものにはなるのかも知れない。だが、それは結果として獲得するものであって、幼体の時分から懐胎するものではなかろう。大型の爬虫類は殊に長命であるから、初めは機械的でも、その内丈夫になっていくと、感情めいた思念も抱くかも知れない。だが、そんな連中でも巨大になるまでには、相当年数を生き存える必要がある訳である。

 ヤモリは、と言えば、寿命は大体五年から十年と存外長い。してみると、三、四年も生きる内には、何ぞ思う所も生じて来るのかも知れない。成長すればそこそこ大きくなりもするし、そしたら今日の様な事には、感嘆符の一つでも人知れず後で吐いたりするようになるかも知れぬ。

 

 とはいえ、そんな生き延びた末の感慨なんぞは、人間ですらお互い余り関心のないものである。実際、かくいう私もそんなヤモリの哀嘆には然程関心はないのである。そもそもが境遇に隔たりのある個体各自の感慨よりも、其々が生き延びた知恵の方がまだ価値がある、という話である。

 動じないヤモリの無い感情に私の関心は唆られた訳だった。

 今夜の様な出来事は、屹度ヤモリにとっても他愛のない思い出話となるであろう。結果として、彼奴はその時、踏み躙られて死なずに済んだ、という歴史だけが彼奴の生存という事実を以て、彼奴の上に遛まるのだ。

 片や、それを退かした私の上には、キュートなベイビーヤモリを拾った、というそこそこ良い思い出だけが留まるのである。

 そんな話はひとに話そうものなら、「ベイビー」は英語なのに、何故「ヤモリ」は日本語のまま言うのか、などと妙に納得させられてしまう揚げ足取りを返されるだけで終わってしまうだろう。

 そんなの知らぬからに決まっているだろうに、わざわざ言うのは、まさに「そんなの知らぬ」からに決まっているだろう。

 大体、「ベイビーゲッコー」なんて聞いて、両生類を思い浮かべない日本語話者がどれだけいるというのか?

 

 まあ、路端に落ちていたカエルを救った話なら、ヤモリよりかは耳を貸してくれるかもしれないが……。

 

 

(2020/04/29)