カオスの弁当

中山研究所blog

成木責めについて

 小正月に果樹に対して行なわれる豊作祈願の儀式に「成木責め」というものがあるらしい。詳しくは地域や時代によって違いがあるそうだが、概ね、樹木を脅かして、その年の収穫を「約束させる」儀式であるそうだ。

 果たして、昔話の『猿かに合戦』冒頭に出てくる、柿に水を遣るかにの台詞も「成木責め」の一種といえるだろう。

 

  早く芽を出せ、柿の種。出ないとお前をほじくるぞ。

  早く実を成せ、柿の種。出ないとお前をチョンと切るぞ。

 

 この囃し言葉に含まれるエートスに対して、率直に「野蛮」と評し得るのが現代人の微細な肌感覚と言い得るであろう。

 だが、それが年中行事や慣行として行なわれ、尚且つ、地域や家庭、企業という「内輪」で行なわれる様になると、その特殊性を尊重するあまり、自身の平生有する「率直な肌感覚」に衣を被せてしまう傾向が巷ではいまだに散見される。

 果たしてこれに対して、否を唱える事による影響の甚大さを知る者は、その蛮習の根深さと悪影響の大きさとを熟知する者でもある。

 

 そもそも、この「責め」の儀式の質の悪さは、果樹が実をつける義務は誓約によって生じるーーという事を、儀式を行う人間側がよく理解している所にある。だからこそ、「なるか、ならないか」と木を鉈で斬り付けて脅すのである。

 果たして、こうした人間の悪知恵を物語る儀式は本邦のみならず世界各地に存在する。自身らの気に入る成果を挙げないものに対しては、脅迫し、罵倒し、暴力を振るう事に人間は躊躇ない。その思惑の根底には、単に相手を責めたて、萎縮させ、隷属・使役するだけでは思った成果はあがらないーーという、脈々受け継がれて知恵が垣間見えている。

 数え上げたらキリがないが、「成木責め」然り、それらは「自然相手に泣かされて来た人間の歴史の証左」というには、余りにも「不自然」な慣わしであり、“呪法”である。

 そこに完全に欠落しているのは、「教育」と「学習」の見地である。だが、この二語の意味する所もまた、今日、コンセンサスが形成された試しがない。

 

 責めたところで何になる、脅して約束させたところでその約束に意味はないーーという「感覚」が漸く形成されて来た所で、二十一世紀初頭の今日に於いて、それが「一般人」の「常識」になる気配は未だ見られない。寧ろ、今日日漸く、あるかなきか薄ら生えて来た、この「生毛」の感覚を大事に育てようとするだけの気概を、同時代人がどれ程持っているのか、甚だ疑わしいと感じずにはいられない。

 然し例え、そんな生毛が生え揃った所で、焼け火箸を押し付けられたら即座に爛れてしまうのが人間の弱い皮膚である。だからこそ、我が身可愛さで、思わず心にもない約束をしてしまい、そんな約束でも約束には違いないからーーと墨守せんとして、可惜心身財産を損なう例は古今あり触れた話である。

 

 新年に際して、旧習を顧みてこれを重んじるのは最もな話ではあるが、一方で、新年の節目はそれらの儀式の理を反省する機会でもある。

 ここで一度、責め苛む側に目を転じてみると、無情にも、焼け火箸のもう一方を掴む手は、未だ爛れず、完膚を保持している事が間々ある。

 その手もまた、我が身可愛さから用心するが故に全きを得ているに過ぎないのである。専ら、「見様見真似」でその術を知ればこそ、火箸を扱う人間の手には怪我もないのである。

 ただ、そうしてそれが決して獣の扱い、神霊の扱いに慣れている事を意味しないのにも拘らず、当人がそれに気が付いていない例は多々見られる。

 何となれば、自身の人望や才覚こそが、自身に富を齎しているのだと錯覚しさえするのである。

 にも拘わらず、その身体財産を損ねたりした場合、当人等は概ね、「道具」の使い方をし損じた、とばかり反省するのである。その矛盾に最後まで気付かず、またその時点から一歩の伸長もしない者だけが、果たして「豊作祈願」で得られた果実を享受し得る者なのであろう。

 

 

 年次ばかり新たまったとて、その中身が改まらないのであれば、なんぞ新年を賀ぐべき。

 

(2024/01/04)