カオスの弁当

中山研究所blog

砂漠の太陽

 映画『オッペンハイマー』に便乗した、バービー人形のプロモーションが炎上しているニュースに接して一夜明け、果たして、その元となった二次創作作品の数々を見るうちに、これが(なんのかんのと言われようと)今日全地球上に覇を唱える国家とその国の人々のプライドのシンボルなのだという気がして来て、素直にそれに圧倒される気持ちになった。

 それはそれとして、その(本邦人には如何にも)“下世話”に映る絵面について、何が如何下世話に映るかを試みに記してみようと思う。

 まず、色彩であるが、これはピンクが先ずいけない。砂漠の大地と空の色彩に壊滅的な印象を与える。それが、原子爆弾のキノコ雲すら染め上げているのに嫌悪感を抱かない人は少なくないだろう。特に崇高さへの冒涜に映るのである。

 だが、この軽薄さこそが覇権国家の深底にあって、彼らが自らの頼みとする根源的暴力のシンボルに他ならないのだと筆者には看取される。

 

 だが、彼らは如何してそこまでの暴挙に出る事が出来るのか? 彼らをして、その畏怖と恐怖の念を乗り越えられる心性の極には何があるのかーー。これを考えるにつけ、今ひとつ示されてあるものが他ならぬバービー人形である。

 蓋し、それは自らが「愛されるもの」としての自信に満ち溢れた姿である。自分ならば、この地上で何をしようともそれら全てが、何もかも許される、という自信を体現した姿は、言い換えれば、それら一切に許可を出してくれる強大で(恐らくは唯一無二の)“超越者”の影のシンボルでもある。

 その超越者に対する絶対的服従と信頼の証として「無垢」であり続ける人形は、これに呼応するかの様に、破滅的な力の顕現に対して無邪気に笑みを浮かべるのである。それは紛れもなく、愚かで浅はかな笑い顔なのであるが、それが地上にあって降り掛かるありとあらゆる災難から免れる為の、彼ら最大の手段なのである。

 

 他の人々なら恐れ慄き、阿鼻叫喚の坩堝と化すところを、歓喜と興奮の絶頂に変化させられる無垢と、そんな無垢な彼らを保護するべく地上に顕現した強大な力とが邂逅した際、無垢な彼らが自らの無垢を表明するかの様に、恐るべきものにすらピンクのスプレーを塗布したところで、驚くに値しない。それは紛れもなく、その顕現に対して微塵の疑いもない事を表明する行為に他ならないからだ。「伏して惟る」様な、憚る様な邪な振る舞いはそこには認められない。

 ただ、その無垢も、可愛らしさも皆、生存に有利な方に「進化」した末に獲得した特徴なのだーーといえない事もない。だが、その様な説が仮に認められたとしても、正しくそれ故に彼らは自らの特徴を、造化の妙として受け止めて、その粋を凝らすべく努力するのは火を見るよりも明らかである。

 

 ここで目を転ずれば、本邦人士の中には大昔に流行った小説のタイトルにもなった、「火宅の人」という言葉が浮かぶ者も少なくないであろう。或いは、今年の全球的な酷暑の陽に炙られて、愈々、「茹でガエル」の気分を味わう中で、対岸の“火事”も今更の様に感じられる人もいないではあるまい。そして、そんな彼らの“愚かさ”を嘲弄するに何の遠慮もないと感じるものであろう。

 だが此処で翻って彼らがその様に思考し行動する、彼らの生存環境の有り様に目を向ければ、成程、自然の道理ではないか、とも筆者は思考するものである。

 勿論、こんな発想自体、今世紀に至って持ち出す事自体が無茶苦茶なのは百も承知である。が、果たして、その描かれた風景を見るにつけ、わたくしの目には、ものの譬えではなく、灼熱地獄とそこに生きる人々の姿がそこにあるのだと思われてならない。其処は最早到底、人の生きる世界ではない様に思われる、そんな世界で生きているのは鬼か邪だけではないかーーという懐疑がむくらむくらと入道雲の様に沸き上がって来るのを、彼らは忽ちに引っ捕らえて、ピンク色に染め上げてしまう。

 人々の記憶の中に鮮明に焼き付けられた白と黒のモノトーンの景色を打ち壊すかの様に、バービー人形のカラフルで、人為的な色彩は哄笑を伴って、遥か太平洋の彼方からこちら側まで渡り来たってなお止む所を知らない。それでも古来、「暑さ寒さも彼岸まで」とは俚諺に記された通りである。

 片や彼岸は、……。

 

(2023/07/31)