カオスの弁当

中山研究所blog

直近アニメ電線・電柱事情

 2020年代に入って、と数えるよりも、“専門的”には「令和」と和暦を読む方が適当であろうが、兎も角、平成のアニメ作品ばかり取り扱っているのも稍、既にロートル染みている気がする。

 だが此処数年の作品について言及するのは、なまじフレッシュであるだけに口憚る所が少なくない。とはいえ、それは飽くまで狭い視野で生きてればこその自意識過剰であるーーと言えようものだから、自分でも少し反省の意味合いを込めて、少し書き出してみる事にする。

 

 順を追って書き出してみるが、別に筆者は兎に角アニメを必ず見て、その分析をする様な勤勉家ではない。其れ所か、リアルタイムで碌にアニメを見ない方である。だから「こんな事」をしている説明にもなるかも知れないが、ズラズラ書くだけの抽斗もない。

 

 『シン・エヴァンゲリオン 劇場版』(2021)は、最早電線・電柱アニメというか、太陽光パネル・アニメであった。とはいえそれは、嘗て2000年代頃まで未来社会を舞台にした作品に描かれた新しい魅力的な電源装置ではなく、一朝にして崩壊した世界の廃墟の中で、辛うじて露命を繋ぐ人々の小屋の上に据えられた「貧苦」のシンボルであった。

 『シン・エヴァ』の感想の中で多く見られた「落胆」と「失望」も、そうした太陽光パネルというモチーフの使用ひとつを取って見ても、宜なるかなーーと感じた次第である。

 それは確かに、旧時代の物語の終焉に相応しい、新しい使い方であり、それが如何にも居た堪れないーーと視えたとしたら、それは映画を観る人間が自身の現在的問題に向き合う場面に出会した、と受け止めるのが穏当だろう。

 

 発電装置でいえば、『アイの歌声を聴かせて』(2021)に登場した、海浜に建設されたダリウス風車群は、作品に相応しく、又『シン・エヴァ』とは好対照の「希望」のシンボルであったと言える。

 稍もすれば『エヴァ』は(こう言っては何だが)やたらと内容が深刻に過ぎる作品だという留保を、オタクはつい忘れてしまいがちである。道具や技術というのは人間が幸せになろうとして研鑽するものであるーーという前向きなテーマが終始一貫した作品は、(残念ながら)少ないのが現状である。

 電線・電柱も多数登場する『アイ歌』であるが、本作に於いてこれらは昭和のテレビアニメにありがちな、「昔ながら」の頼もしい存在である。ただ、その頼もしさは裏返せば主人公ら「子供」に対峙する「大人」の、世間のシンボルであり、その二面性も含めて非常にクラシカルーー懐かしい印象を受ける使用と言えた。

 

 「旧エヴァ」基「エヴァTVシリーズに於いても、此の電柱等のパターナリスティックな側面はあるにはあった訳だが、例によって「エヴァ」の中で描かれる親子関係は相当に拗れて破綻しているものであり、その“機能”が大分作品内で稀薄となっている。ハンモックの網の様に、あるのだかないのだか中途半端な感じを持たせる、或る意味で作中で描かれる親子関係・人間関係の象徴にピッタリな図像ではあるのだが、(くどい様だが)それは『エヴァ』の「個性」である。

 ポピュラーなのは『エヴァ』かも知れない。だが一般的なのは『アイ歌』の電線・電柱なのである。

 

 もう少しネタがあるかと思ったが、想定外にネタがなかった。致し方なく、Amazon プライムで観たテレビアニメも含めようとしたが、恐ろしい事に令和以降の作品は全然観ていなかった。猛省するべき点である。

 

 テレビアニメで最後に通しで観たのは如何やら、『恋は雨上がりのように』(2018)であった。電線・電柱が出て来そうだ、と見当を付けていたらドンピシャで、綺麗なシーンが幾つもある良作であった。

 今更調べると、知らない事ではあったが、物語完結直後に「炎上」した様であるが、その理由も方々に残った記事なぞ読むと、案の定の由からであった。

 強いて、前二者に寄せて語るなら、本作も一つの「典型」に則ったものであると言えるだろう。“あの”オチが果たして、何処までも中年男のロマンを体現したものであるーーという批判なら筆者も頻りに首肯するものである。……が、蓋を開けてみれば、何の事はない。何処までも「奥床しい」、読者・視聴者の悲愴慨嘆が縷々連なる有様は幾分筆者の目には奇妙に写った。

 

 これはアニメ作品に限らない話であるが、所謂、物語の結末に於いて主人公に「救いがない」と観客が口々に評する作品群の半分位は、「主人公に感情移入していた観客」が救われない物語の様である。詰まりは、主人公に成り切れなかった観客の鑑賞後のケアの問題と、物語内のケアの問題を区別していない、或いは意図的に混同して呈しているコメントが半分を占めている。そこから、物語内に於ける「論理の飛躍」を合意として共有出来る・出来ない同士はお互い観客の半分位だ、という事が言えるだろう。

 だからといって、何方が通であるとか、そもそも通であるか否かについて、映画を鑑賞するのに重要な事柄であるかは、甚だ疑わしいものである。映画鑑賞はスポーツではない。

 

 

 以上、筆者最近のアニメ鑑賞の記述から自身で言い得る事は、野次馬根性の露骨な奴である、という一事であろう。テレビやケータイ、スマートフォンのモニター・パネルの前で寛ぐ許りの、星新一が皮肉混じりにショート・ショートの中で描いた未来人の姿そのものとも言える。(但し、あれも仕事の前後に同時代の新聞とか雑誌ばかり読んでいる活字人間の風刺な訳であるが……)

  或いは又、理想主義的とも夢見がち、とも言える思考パターンの持ち主であるとも言い得るだろう。その様に安穏と寛いで作品を鑑賞する姿勢そのものが随分と時代がかった趣味である、とも思われる昨今である。とはいえ、これも強いて言うなら、“負け犬”の抵抗である。それは池に骨を落とした犬の強張り、とも言える。然り、中年男のロマンスも、昔ながらのポジティブな科学技術が切り拓く未来への憧憬も、古臭かろうが構わず現在に於いて享受する行為は、現状への抵抗と否定と映っても「致し方ない」。

 

 詰まる所が、人間を信じる事の象徴、人間性への信頼を鼓舞するアイコンであれかしーーというのが、個人的な表象への思い入れである。

 そういう偏見を持って見るものだから、自ずとそれに引き摺られて、作品の受け止め方も歪んで来る。

 『シン・エヴァ』に於いて破却され、宙空に投げ上げられ、クルクル回転するモービルと化した赤い鉄塔ーーこれを見た時、筆者はTV版のエンディング・ロールに映っていたアニメーションを思い出して震撼したーーは、或る意味で同作自体が作り上げた電線・電柱の「神話化」と、その「神話」の終焉を決定付ける画面であると判じた。それまで未来として語られていた時代は、現代にすっかり置き換わったのである。斯くなる上は、自身の立てた予想を踏まえて色々「覚悟」をせねばなるまいーーと筆者が思ったのは、丁度去年の今頃の事である。

 ただ、その予想について、わざわざ自身筆を割こうというつもりはない。何故なら予想は既にして眼前にあるからである。

 

(2022/05/05)