カオスの弁当

中山研究所blog

電話線の怪/『シェラ・デ・コブレの幽霊』

 大分昔にテレビ番組『探偵ナイトスクープ』で取材され、幻の恐怖映画として今日まで名前だけ本邦でも有名であった『シェラ・デ・コブレの幽霊』(1964)が、Amazonプライムで日本語字幕付きで配信されている。かと言って、この記事は別にステマでもない。

 期せずして、本作も電線・電柱映画だったので筆を執る事にした。これまでも、ホラー・スリラー作品で度々、シンボリカルに登場する電線・電柱はヒッチコックの『鳥』(1963)や、デヴィット・フィンチャーの『セブン』(1995)などを見て来た。

 

 『シェラ・デ・コブレの幽霊』は『鳥』と同時代の作品であるが、本作では『鳥』よりも露骨に、電線・電柱が恐怖を増幅する道具として登場している。

 死んだはずの母親から毎夜、電話が掛かってくるのに悩まされる男の元へ、ゴーストハンターが赴き事の真相を確かめる……というのがあらすじの『シェラ・デ・コブレの幽霊』であるが、電線・電柱はその母親が眠る墓所(冥界)と、男の住む屋敷(現世)を繋ぐ装置である。

 

 同作のオープニングは、墓場の風景が都市の風景に重なり、更にそこへ白波が押し寄せ、街を洗い流したかと思えば、浜辺の風景へと移り変わる。この辺りの表現は、恐らくはサルバトール・ダリの表現技法「ダブルイメージ」を意識したものであろうと推測されるーーその証拠というには弱いが、浜辺の構図はダリがよく描くカダケスの渚のそれに似ているーー。

 幼少期のトラウマやら神経衰弱やら何やらをふんだんに詰め込んだダリの創作活動は、そもそも彼のキャリアからして映画との親和性が高く、ヒッチコックが1945年に『白い恐怖』で彼を映画制作に招き入れるなど、後の映像作品に及ぼした影響は少なくない。

 『シェラ・デ・コブレの幽霊』もそんなダリやシュールレアリスムの影響を受けた映画の一つであろうが、故に他人によっては“難解”で退屈な表現が続く様にも感じられるであろう作品ではある。

 

 ところで、物語における表象としては、昔懐かしい黒電話の機械の方が、電線・電柱よりもずっと注目される。

 言うまでもなく、20世紀初頭から中期にかけての電話(固定電話)が芸術に与えた影響は広範に及ぶものであったが、中でもそれが一番、影響を与えたのは「人と人との心理的距離感」とその表現であった。

 ただ此処ではそれについて書くのは、筆者の能力が及ばないので割愛する。

 又、電話という装置の機能よりも、ここでは「モノ」としての電話について注目する動向について紹介したいと思っている。それは、受話器の形状と、専ら家庭でそれを使用する女性との関係云々について論じた大昔の文脈についての言及であって、そんなーー最近ではちっとも聞かなくなった(或いは、忘却刑に処されでもしたか)ーー言説の紹介でもある。

 

 テラテラ黒光りする受話器についての下世話な想像の文脈紹介はこれまでにして、今一つ、この電話機が『シェラ・デ・コブレの幽霊』で果たす役割について紹介したい。

 電話機のベルの音は、「早すぎた埋葬」によって、生きながらにして葬られた死者が、棺の中から鳴らす合図の音ーーベルの音ーーを想起させる。即身仏を目指す僧侶が生きながらにして棺桶の中に収まり、土中に埋まり、生きている間は鳴らしたという鈴の音と同じ様なものであるが、西洋の場合、その合図の信号は、火急的速やかに土中より生者を救出せんが為の合図の信号である。

 ウッカリ墓場で蘇生した人間が地上にその生存を知らせる信号を発する事が出来るような装置は、実際19世紀から20世紀にかけて措置されていたという。

 

 生きながらにして埋葬される恐怖に匹敵する話といえば、本邦では火葬場の窯の例が相当するだろうが、両者を比較するのは妥当ではないだろう。

 兎も角、そんな生き埋めの恐怖に応じて実際、地上との通信装置が設置されていた歴史がある西洋社会において、墓場から伸びた電話線によって伝えられた「死者からの電話」というのは、明らかに「現代化」された鈴の音に他ならない。

 

 死んだ筈の者の気配が地下から迫り来る恐怖は、ポーの『アッシャー家の崩壊』然り、古典的な恐怖の例といえる。

 そんな恐怖を、科学や工業の発達した現代文明社会のシンボルでもある電線と電柱が表象しているのは皮肉といえば皮肉である。

 それは何も、19世紀が今ほど身近だった1960年代だから成立した「設定」ではない。何ならその4、50年後にも「コードレス」になった電話でもって死者や悪霊の声が生者の耳朶を打つような映画が日本でも撮られたりしたのは、電話という通信手段そのものが持つ、人間に対して恐怖を抱かせる作用故にであろう。

 

 男は怪異に接して「生まれて初めて、目が見えないことに恐怖を感じた」ーーと語る場面が映画冒頭にみえる。

 ただ、考えてもみれば、誰しも電話で他人と交信する時は盲目である。最近は、コロナ禍の副反応で、漸く21世紀らしく「テレビ電話」を使った在宅勤務や授業も普及したきらいがあるが、それだけ技術的に進歩した社会では、アバターやディープ・フェイクといった方面の技術的進捗も目覚ましく、結句、「目に見えているありさまが本当ではない」という意味ではさして状態に変わりはないとも言える。

 寧ろ、この夥しい通信の絶えず交わされる状況にあっては、「幽霊」の存在はより身近になったとも言えよう。が、それに対する恐怖は今一、筆者には正直なところ、感じ取れないものである。

 というのも、矢張り先入観がそれを妨げるのである。

 幽霊は目に見えず、平凡な人間や特殊な状態にない人間には感知し得ないものだーーというのがそれである。又、そうした見聞きしたり、知り得ない事象を「幽霊」と呼ぶ事さえある位だから、全く旧弊な者である。

 

 「幽霊の正体見たり枯れ尾花」

と昔は言ったものだが、事今日に至っては

「正体見たり電線電柱」

と言うのが妥当かもしれない。

 

(2022/05/16)