カオスの弁当

中山研究所blog

余は如何にしてギロチン台を免れ得るか?

 

 

 

 

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 母が言うには、世の中には文法を毛嫌いする悪人どもが少なくない。彼らは、自分の頭が鈍いために理解できない事を中傷の材料にするし、また法律を人に害悪を与えるものにしてしまう。そのような法律による宣告を受けてヘクラの淵に果てた人も少なくはないということであった。

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ーー(『夢』ヨハネス・ケプラー、1608年/渡辺正雄・榎本恵美子=訳、講談社学術文庫、1985年)
 

  

 

 フランス革命期に歴史の表舞台に華々しく登場したとある「機械」は、新しいもの好きでもあった機械好きのディレッタントな元・国王、ルイ16世の目にも止まり、彼直々の発案で、シンプルながらも大変実利的に優れた改良が施されたと伝わっている。

 その改良が施された機械によって彼自身もその胴体から速やかに素っ首が叩き落とされた、というーー嘗ては、その機械の採用を議会に提言した医師が歩んだ顛末として語られる事も多かったーー顛末は、今日、本邦でも知らぬ者はいない。

 この“改良”が機械に及ぼしたポジティブな影響は、その発案者とその家族、友人や仲間連中に対しては最もネガティブな形で作用した。

 

 古来、拷問器械や処刑道具に留まらず、技術に携わる人間の生命は、その仕事の完成と共に奪われる事は屡々であった。

 ファラリスの雄牛の例は、ギロチンの例と共に余りにも有名であるが、古今東西、世に「影響力のある仕事」の発注者は、注文した仕事が終わった後、仕事の対価を支払うといって職人達を呼び付けると、鏖殺するのが常である。というのも、仕事が終わって完成した代物と同じものを、他人が持つ事を発注者が許せないと考える場合、物とそれが齎らす利益とを独占する為に、それを作った者達を抹殺するのが、手取り早い方法だからである。

 善良な人物であったらしい、彼のフランス国王がそんなスマートなやり方に明るくなかったのかは不明だが、彼が折角機械に手を加えられる立場にありながら、その刃が自分に向けられた際に作動する安全装置の仕掛けを施さなかったのは、後世「暗愚」とも評せられたこの人物の、この点に限っては、明白な落ち度ではなかったかーーと思われてならない。(或いは、策士策に溺れた末かも知れないが……)

 これに対して、仕事を依頼された人間達の側で出来る、唯一にして最大の自己保身策ーー但し、それも完全ではないーーは、その技術や仕組み、理論等を公に開示し、普く世に宣伝してしまう事である。それも仕事の完了前に既に明らかな形にしてしまう事が賢明であるが、事は大抵そう上手くは運ばない。歴史を紐解くと、一矢報いたーーという場合に止まる事が殆どの様である。「星火燎原」の熟語は目にも煌びやかであるが、その実、勢いは忽ち尽き果てるものである。

 

 

 「機械」といえば、最近、画像生成AIの話になると忽ち絵描きがムキになるのは、先ず、これまで長い人類の歴史の中で延々と維持されて来た「絵描き」に対する侮蔑と屈辱に満ちた仕打ちが、今日も変わらず、人々の中で保たれ、その歴史の延長線上に自らも位置している事を自覚させられ、思わず感傷的になる為である。

 画家や歯医者、床屋、大工、職工といった、その他多くの手仕事に従事する者は、歴史的にその仕事に比して世間で軽んじられ、剰え用が済んだら処分される様な憂き目に会うリスクもある様な背景すらあるのは既に述べた。そうした手仕事に携わる者の中でも、取り分け今日もなおその歴史的評価が厳然と維持されて来ている「絵描き」に対して世間は、平然と「機械」を対置して何ら憚る所はない。この事は全く世間の人達に、人間を物と並列に扱って何ら痛む良心がない事を直ちに意味しない。が然し、現に、正に世間の人らは「機械」を手に入れて喜んでいる事実を絵描きは、難くとも悲しくも受け止めなければならない。その様子がもし、絵描き自らがその作品を「一の仕事の所産」として評価されるように期待して、作者である絵描き達自身についても、世間から真っ当な人の数に入れられるよう努めて来たにも拘らず、無碍にされたという風に感じられたとしても、それは世間の人の預かり知らぬ絵描き個人の問題である。

 そもそも、其処ーー世間ーーに絵描きの居場所はなく、例え世間で絵描きが声高に我が身の不幸を託った所で、聞く耳を持つ人は其処には居ないのである。

 

 世間には「機械」の登場で、絵画が真に“民主化された”と唱える人達が存在する。その主張の意味する所を考えると、果たして、彼らの中では今日に至るまで絵画と絵描きとは一部の特権階級(歴史的には王侯貴族や有力者達)に独占的に「所有」されていたという考え方や、絵描き達がその技術や教養を余人に広めなかったが為に多くの人々が絵を描けなかったのだ、という考え等が共有されている様である。

 前者は兎も角、後者については、多くの絵描きには反駁の余地があるだろう。就中、本邦に於いては、二〇世紀後半の学校教育ーー特に義務教育に於ける教育内容ーーの弊害が、美術や芸術活動、それらに関する事柄に対して種々の負の感情と姿勢とを少なからず惹起させる風に社会・世間全般に及んだ結果、ガラスケースの中に収められた種々の文化財以外の文物の粗雑な取り扱い方や、絵描き等に対する風当たりに顕現する様になった。そして、言ってしまえば、図画工作や美術の時間に散々、嫌な思いをさせられ、恥辱を味わわせられた膨大な数の人達の憎悪を、教師や学校、或いはその人は育った家庭の保護者や地域のコミュニティに肩代わりさせられているのが、絵描きが置かれた現状なのである。

 

 また、“民主化”を唱える人達の中には、絵が描ける事自体を、余人と分かち難い資本(天稟)として捉えて、絵描きを「天からの贈り物」を独占している“特別な人間”(と、少なくとも絵描き自身も自惚れている者)だと見なして、あたかも王権神授説を信じる共和主義者(?)の様に、絵描きから「権利としての“絵画”(お絵描き)」を奪い取り、その化けの皮を剥いでやったのだーーと考えている人達もいる様である。

 流石に、こうした考えの人は極少数であろうが、その極少数の反応も、裏返せば、確かに絵描き自身の「驕り」を反省させる、いい教材であるといえる。自身の栄達や、悲願である社会的地位の向上の為に、世間に蔓延る“天才信仰”に乗じて、絵を描く技術やその為の教養、学習法の重要性を隠匿して来た嫌いが絵描きになかったかといえば、果たして嘘になる。

 又、絵描き自身も、世間に身を寄せる一人として、或いはそれ自体が一つの「狭い世間」を構成して、そこで程度の差こそあれ、個人の才能に過度の期待や信頼を措く様な事がなかったか?ーーという反省が、もし絵描きの中で促されないのであれば、絵描きは、世間の、一時の祭典的高揚の中で不当に過大評価されて、担ぎ挙げられた挙句、群衆によってその熱狂と興奮の絶頂を齎らす為の詰まらない犠牲となり果てる末路を免れ得ないだろう。

 

 では、具体的に絵描きが反省した上で、自らの詰まらない運命を回避し得るかを考えてみると、冒頭に掲げた、古の知恵が改めて思い出される次第である。

 即ち、絵描きは肩代わりさせられた教師の役割を自ら引き請ける事で、露命を繋ごうとする策である。

  絵を描く事、それ自体に対する模糊とした世間の印象が、絵描き自身に対する関心の希薄さを産み、それが絵描きを窮迫に追い込んでいるーーと仮定すれば、絵描きにより、万人が「絵描き」たり得る事を世に知らしめる事が、巡り巡って自身の絵描きとしての生命を保つ事に繋がろうものである。

 

 勿論、絵を描く事と絵の描き方を他人に教える事は全く異なる仕事と技術である。だが、絵描きが後世に遺せる作品は、絵描きの数やその作品の数に比して極僅かであるのに対して、その技術は「人伝て」に連綿と(その間に作品が介在する事も当然あり、それは大変に重要な事であるが)継承されるものである。

 そして、その伝播の過程に含まれる人口が多ければ多い程、それによって絵描きにとって好ましい影響が見込まれる。それは絵描きのみならず、何よりか、絵画を含む芸術ーー総じて人間の営為に対し、より熱心な関心と深い造詣とを持ち、尊敬と畏敬の念を忘れない人口の増加という結果を招来するのに有効手なのである。 

 それこそ、今、「機械」の製作者達が、どれだけ素晴らしい“教育”を機械に施し、その利用者が機械を使って如何に優れた作品を拵えた所で、果たして何か「絵」や「絵の描き方」を学んだ者がいたとすれば、それは「機械」に他ならず、利用者が如何にその機械で優れた絵を出力したとしても、それは飽くまで優れた機械の操縦に熟達した、というに過ぎないのだ。

 膨大なパターンを学習した機械の操作を通じて人間が「絵」を学習する事もあり得る話であろうが、それは飽くまでも、矢張り人が機械を介して人伝に学ぶ事に違いはない。絵描きが自身のカンバスに臨む時の心持ちや心構えを、「機械」の操縦者に伝える事が出来るのは、今、自身を自らの「機械」として道具として操縦する席に腰掛けている、絵描きに他ならないのだ。

 

 

 絵描きは、つい、自身の負って来た苦渋の歴史と、その中で己が尊厳の拠として築き上げ、培って来た教養ーー経験から学び得たものも含むーーと技術に対する思いに沈降しがちである。そして、これ対する世間ーー絵描き以外の多くの人間ーーの無関心に対して怒り、然し、憤懣遣る方なく、一人相撲に陥って、ほとほと弱り果てて仕舞い勝ちである。視線を変えれば、それだけ絵画や絵を描く事に対する世間の関心や需要が高い事にも気付き得ず、又、自身が他人の最も憧れて、求めんと欲するものを持っていながら、それが他人に伝えられる可能性に気付き得ないのは、他人に教示する意思があるか否かは扨措き、惜しむべき話であろう。

  又、今次の世間の熱狂は、「“もの”が出来る過程」、或いは「見えて来る過程」を人々に知らせる事が肝要である事を示唆している。現に「機械」の開発者達が、自分達の営為を宣伝するのにそれを行って成功している訳であるから、絵描きもこれに学ばない手はない筈である。

 目下、絵描きが問題としている「機械」の開発者達による、機械に学習させる作品の取り扱い方についてもーー後手に回ってしまう形にはなるとはいえーー絵描きが世間の人に「どの様にして絵が描(えが)かれるのか」を示し、問題認識の素地をその裡に涵養・醸成する事が必要である。そうして初めて、絵描きにとっての事の深刻さが世間に認識される、という話である。

 

 そして、これが意外と障害となるやも知れないのだが、「絵描きはただ、素晴らしい作品を世に提供すればいい」ーーという絵描きの中に少なからず形成された或る種のプライドについては、この際、忘却される必要がある。それは果たして、画家を私物化し、独占し、時に殺害した有力者や、人間を「機械」と丸で区別しない一部の人達と同じスタンスであるし、結果的にそれは、人間を「絵が描ける」と「描けない」という、高々それだけの違いで区別する狭隘な視野の内に籠る事になりかねない。

 

 それでも、矢張り、絵描きの絵描きとしての生命は、新しい機械の登場により露と消えるやも知れない。それでも絵描きは、機械によってその生命を絶たれるのではないだろう。

 いっそ、絵描き自身が「機械」を操作する人間になるのも一つの選択肢である。ただ、あんまり機械弄りの趣味に没頭する様では、可惜自分の身も守れない。恐るべきは「機械」そのものではなく、一部の「機械」の開発者や自称・信奉者と、熱狂する群衆である。

 

 絵描きがその言動に腑を煮え繰り返しているのは、彼らが絵描きの技術と教養とを支える、更に根底にあるものに対して何らの敬意も抱かず、半ば冒涜的に振舞うからであり、その場の刹那的な享楽の為に、流行り物に飛び付いて、大騒ぎする口実を探しているだけの者と心底で見抜いているからである。絵描きの中にも紛れ込む、この手の舌先三寸の輩の言辞は軽薄であるが故に広まり易く、そうして広まった言説は決して元に戻せない。

 八多羅に一事を殊更に取沙汰して賞賛する者、或いは誹謗する者程、実際、それについて本気で重きを置いている訳ではない。所詮、人間だろうと機械だろうと「絵が描ける」だけの話なのである。それだけで渡っていける世間でもなければ世界でもないのだ。だが、そう取り沙汰す者は、兎に角、己が引く線に沿って物事を区別したいだけなのである。

 絵が描けるとか、高々そんな事を理由にーー言葉の綾だろうとーー“民主化”の敵役と目され、社会的に迫害される口実めいたものが用意される事態と、それを出来させる要因が存在する事が、真に絵描きにとって憂慮すべき現場としての事態である。

 「絵が描ける」、「メガネをかけている」、「文字が読める」、ーー……と、理由や切っ掛けなぞは些細な事項で十分なのであり、そうして取り敢えず、無数の人間を追い詰めるには、極簡単な「お遊戯」の支度さえ整っていれば十分な事は周知の通りである。「機械」が、絵と絵描きに対する世間の需要を反映しているーーと先に記したが、ここまで書いて置いて、筆者は最後にそれを翻意したくも思えて来た。だが、その翻意は今暫く保留としたいーー「今暫く」の留保は外せないが。

 

 それに、“本音”を申せば、絵を描く自分にとって、「絵を描く機械」も、それでかかれた絵について、真個の所、平生関心の埒外にある。それは自分がどこまでも単なる愛好家の地位に遛まるが為であり、それ故に自分は愛好家に遛まるのであろう、が……ーー。

 

 

(2024/03/27)

(2024/04/09=追記)