カオスの弁当

中山研究所blog

タイタニック号の楽士たち

 久々にーーというか、この間初めて『タイタニック』を観た。タイタニック号の沈没に纏わるエピソードは、驚嘆すべき事には、殆ど乗員一人ひとりに渡り蒐集され、記録・伝承されている。

 中でも事ある毎に紹介される話の一に、沈みゆく船の上で死を待つ人々の慰安に勤めた楽士たちの話がある。昔はその様な人たちのエピソードも「美しい話」として辛うじて聞かれたものであったが、改めて、その話と再現映像とを初めて接してから二十数年振りに観た感想は、なかなか昇華出来ないものであった。

 

 仮に彼らが演奏せずに自分の大事な楽器を抱えて救命ボートに乗ろうとしたならば、きっと疎ましく思われた事であろう。何なら、楽器の方は誰かが抱えて代わりに脱出してくれたかも知れないが、楽士は船上に取り残されたかも知れない。

 そういう風に色々想像される様になって、初めて、船上の彼らの演奏がデスパレートな旋律であった気がして来た。故人を蔑めるつもりは更にない。だが、それを聴いた人々が本当にそれを気休めとして、全く消化出来たと想像するのはかなり難しくなって来た。

 どのみち、それはどんなに美しかろうと、氷の海に投げ出されていく、死んでいく人間達の断末魔の叫びである。それを忘れて、どんな曲が演奏されたとか、それがどんな風に聴こえたとか、想像するのは大分見当違いな気がする。

 

 誰がそれを聞いているか、果たして確かめる術もない中で、誰かがそれを必要としているに違いないとか信じる余裕が果たしてあったか如何かは不明である。

 だが、沈みゆく船の上で、そんな期待よりも遥か間近に迫った終わりを前にして、演奏家の音楽は自分自身の気を紛らわせるものであった事は想像に難くない。

 彼らは彼らに与えられた「楽士」という立場を引き請けた事で、死後も長きにわたって今日まで、楽士として評価され続けている。然し、その最後の最後まで彼らは、彼らが引き請けた仕事を全うしなければならない。それは恐らく、この先、ずっと変わらない。

 

 それは、彼らが彼ら自身をして、楽士足り得た結果であろう。

 所で、後世に生きる我々に想像を許されたものは、彼らの取り得た選択肢ではなく、自らがこれから取り得る選択肢についてであろう。これについては、十中八九の了解が得られるものであろうが、船が沈んで百余年後に生きる人間たちには、楽士が楽士である以前に、一個の人間であった事実が、若しかしたら彼ら自身よりも強く意識されるものである。

 縦しんば彼らが楽器を捨て、如何にか斯うにか最後まで生きようとして敢えなく落命したとしても、彼らが最後まで楽士でなかったとは今次我々の中で、一人も認める者はいないだろう。

 又、彼らが船上で死にゆく人々の慰安に勤めると同時に、破れかぶれであった事を認めぬ者もないだろう。

 芸術家は無力である。それは別に芸術家だから、という訳ではなく、氷の海に沈みゆく船の上に残った者であるが故に、無力であるーーと言えるのである。

 

 それに対して、後世の人間が、「ならば、その船に乗らねば良かったであろう」とか、「乗ったからにはそのチケットの定めに従い粛々と結末を受け入れろ」というのは全くのお門違いである。

 それは既に終わった話なのである。楽士の演奏が絶えて、氷山に激突した船の上にあった人々が海中に没して、既に百年を閲したのは周知の事実である。我々の耳にその音楽が届く事ははなから決してあり得ないのである。

 彼らが如何に満足して、或いは後悔していたかは、はなから「我々」に係る問題ではない。問題は、現在を如何にして生き延びるか、であり、過去のある時点、ある時間に生き延びていた人々の余命を顧みて評価する事ではない。

 仮にその演奏が聞こえたとしても、それに耳を貸す猶予は「我々」にはない。その選択を「美談」として消費し得るのは、そもそも、船上に残った人々だけなのだ。

 

 或る時点から、楽士として、一個の人間として、その生存にピリオドを打つ決意をした人々の奏でる音楽を耳に出来るのは、彼らと同じタイミングでその決心をした者達だけだったーー。

 そう考える様になって、一つ、長い間、私自身を悩ませていた問題が消滅したのは何より幸いであった。

 船上で演奏していた彼らは、既に生ける楽士としての義務から解放されていたのである。偶々それが生者の耳に届いたとしても、元・楽士たちの演奏は、生前のそれと同じものではないのだった。

 

 彼らは彼らに与えられた「楽士」という立場を引き請けた事で、死後も長きにわたって今日まで、楽士として評価され続けている、と私は書いたが、世間では今でも概ねその様に受け止められているものだろう風にこの筆者は思考している。

 だが、個人的には、前述の通り、彼らが留まった船の上で演奏した音楽は、死後の音楽であった。繰り返すが、筆者には故人を冒涜する意図はない。その意思を批判するつもりもない。ただ自分には聞こえない音楽を、素晴らしいとか美しいとか評価し得ない、という事を言わんとするのみである。

 

 タイタニック号の楽士たちの音楽は、水底で、今も奄々ループし続けているかも知れない。だが、それに耳を貸すべきではない。現在の生存を選択し続ける人間には、死者の奏でる音楽は遥かに遠い。

 

(2023/07/13)