カオスの弁当

中山研究所blog

なんかでっかくてこわいやつ

 空想科学映画とパニック映画の違いについて考えていると、取り敢えず、「なんかでっかくてこわいやつ」を想定してみたくなる。

 この「なんかでっかくてこわいやつ」は、大抵、手に負えない災害級の代物であり、これに対する反応として描かれるのは二通りのエポケーである。

 一つは、兵士や消防士が日々の訓練を通じて体得するタイプのエポケーである。で、空想科学映画で描かれる人間の態度は、大体がこのタイプである。

 もう一つは、それがジャンルの名前の由来にもなっているパニック状態の人間が陥るタイプのエポケーである。前者が割合にエリートの態度として描かれるのに対して、後者は一般以下のその他大勢、群衆の態度として扱われている。

 

 そして、この「なんかでっかくてこわいやつ」に対する二通りの反応は、現実にあっては概ね観客の中に見出される。観客は鑑賞時にあって、個人であると同時に群衆でもある。それは別に、物語を鑑賞している際には有りふれた現象である。

 

 二つのエポケーに共通しているのは、いずれも人間が“火事場の馬鹿力”を発揮する際に到達する状態だという事であろう。だが、その“馬鹿力”の使い道は、前者と後者とでは丸で異なる。

 空想科学映画にあって、その力は「なんかでっかくてこわいやつ」と“闘争”に使用される。他方、パニック映画にあっては“逃走”に使用される。空想科学映画にあっても逃げ惑う群衆や、我が身可愛さに自分だけ助かろうと画策する個人は登場するし、パニック映画の中でも“英雄的人物”は割りかし主人公格に見られたりする。

 

 所で、パニック映画も空想科学映画も、大抵は悲劇である。

 共通しているのは、それぞれがそれぞれの“とうそう”の最中に、“忘れもの”をしてしまう事に起因している。そして、“忘れもの”をしたのを後で思い出すのがパニック映画であり、これを悼むのがパニック映画の醍醐味である。

 空想科学映画の場合は、必ずしもそれが“忘れもの”とばかり呼べず、寧ろ、捨てる行為に英雄的性格を見出す傾向が稍もすれば強い。そうして自身の性向に抗えない己に陶酔する経験を齎しさえもする。自己陶酔については、パニック映画にも、毛色は異なるものの、多分にその悼む行為に含まれている(ただ、次元の異なる両者の自己陶酔を並置するのは混同の因かもしれない)。

 

 然し空想科学映画であれ、パニック映画であれ、稍もすれば両者共に陥り易い隘路に、「なんかでっかくてこわいやつ」の忘却がある。

 なまじ、人間を描くのに気を使う許りに、「なんかでっかくてこわいやつ」が人間の目前に控えている事を描くのを失念するのである。

 その余りの巨大さに、梗概を把握する事さえ容易ならざる恐るべき対象に気圧されて、慌てふためく様子を描写するのは、飽く迄も、その「何か」の影を描いているのであって、それ自体を描いているものではない。

 

 極端にいえば、「なにかでっかくてこわいやつ」が出て来る映画・活動写真にあっては、空想科学映画であれ、パニック映画であれ、主人公は「なにかでっかくてこわいやつ」である。

 人間はその引き合いに出される、言うなれば“餌食”に過ぎず、その餌食の末路が物語全体を支配する“運命”と誤解される様では、怪獣映画としては微妙である。

 

 もし、映画を始め何か作品にA級とB級の区別が明確にあって、それが物語の有無にあるのだとしたら、その“物語”は「人間の“物語”」と断る必要があるだろう。

 或いはそれは、人間の“運命”と呼ぶべきものかも知れない。

 そう思うと、「なんかでっかくてこわいやつ」が出て来る怪獣映画の場合、観る側も撮る側も、これを“忘れもの”とするべきではないかーーとさえ思えて来る。

 というのも、どの道、空想科学映画でもパニック映画でも、登場人物はその“とうそう”の過程で一旦、普通の人である事を放棄しているからである。彼らの“忘れもの”は、そんな彼らの人としての普段の装いであり、蓋し、それを言い換えて“日常”と称しているのだろうと思われる。

 日常を喪失して“人”でなくなった人間達と、“非日常”の性格の「なんかでっかくてこわいやつ」が対峙する時、その舞台上には人間の運命は存在せず、然るに作品は自ずとB級の評が下されるだろう。

 だが、そうしてやっと、その作品の中で人間は単なる怪獣の餌食という立場から、今一つの「なんかでっかくてこわいやつ」として銀幕に映える事となるものであろう。そして、主人公たる「なんかでっかくてこわいやつ」も、初めてスクリーンの上に姿を現すものであろう。

 

 ただ、筆者自身は、そんなおっかない映画はとてもじゃないが観られる自信がない。観たいと思わない気持ちがある訳ではないが……。

 

(2023/07/12)