カオスの弁当

中山研究所blog

内田百閒『旅順入城式』『蘭陵王入陣曲』

 内田百閒の小説のタイトルは外連味のあるものばかりだが、全体作品は軒並み外連味しかない香辛料みたいなのばかりなのだから、却ってそれが正直であり、だからこそ受けるのだろう。

 コーヒーでいうとマンデリンのようなものだが、中でも、特に外連味の塊なのが表題に掲げた『旅順入城式』『蘭陵王入陣曲』である。

 完全に、劇場の表に掲げられた番組表からそっくり切り抜いて貼り付けただろうと思わないではいられない、人目を集めそうなタイトルである。

 両者に共通するのは、おそらく作者自身の投影であろう主人公が、タイトルに冠せられた映画なり舞台なりを観て陶酔している点であろう。が、いづれの百閒作品にも共通する不気味さだが、その陶酔する自分というのを主人公自身が幽霊の様に描写する。それが滑稽であると同時に薄気味悪い。

 何故に気味が悪いのか、といえば、正しく、意のままにならない自分自身というのがスルスルと手を抜けて動き出すからに他ならない。

 百閒と親交のあった、版画家・谷中安規に名付けた「風船画伯」という称も、果たして版画家の“繋留索の切れた風船”の如き生活態度を評してのものである。ネコにせよ、兎に角彼はヌルヌルと手から逃れようとするものを捕まえようとする。そして、どんどんその場から離れていってしまうのである。

 

「何処に行くのか、前に回ってコイツ聞いてくれ」

と、落語に出て来る鰻屋や素人ならまず、側にいる人間を捕まえて懇請するのであろうが、そこは憮然として訊かないのが百閒である。

 もっとも、彼自身は手綱を離しただけなので、その場に佇んでいるだけなので、「何処へ行くのか?」とは発せられようもない問いであろう。

 ただ、ここが恐ろしい所なのであるが、彼は彼自身、手放した手綱の先に繋がっているものがよく分からないでいるのである。要するに、彼が掴もうとしているか、或いは手放して漂流させたものというのが、鰻や風船の様な多愛ないものであるとは限らないのだ。

 なので、百閒を見ているだけなら未だ可笑しいばかりで済むのであるが、その視線の先、手の内、その先を見て仕舞おうとすると、読者は途端に容易ならざる状況に突入するのである。

 

 『旅順入城式』と『遊就館』は其々独立した作品であるが、これを対と見做して読書趣味者的には問題ないだろう。片や戦勝記念映画のスクリーンの前にあって泣いている男と、片や死者の顕彰記念館へ漂着してしまう男の話である。幽体離脱する百閒の事だから、前者はまだお笑い草で済むが、後者になると急に彼岸の住人に招き寄せられそうになってたじろいでしまう。

 『旅順入城式』が一転して不気味になるのは、単なる宣伝(記録)映画に感動してしまっている男のプリミティブさにある。幼稚さ、とか、野蛮さ、といってもいいのだが、ここではカタカナでプリミティブという語をそれらひっくるめた言葉として用いたい。

 さて、このプリミティブさが際立つ今一つの作品が『蘭陵王入陣曲』である。

 生徒の引率で観た舞楽に看過された男は、家に帰って居てもたっても居られずになり、「蘭陵王」を踊り出す。家の者が嗜めても耳を貸さず、暴れ踊った挙句に碁盤にだかに爪先を強かぶつけて我にかえるーーという筋の物語は、完全に笑い話であるが、矢張りそこにも、「取り憑かれた」話としての不気味さがはっきりと看取出来る。取り憑かれたもの、取り憑くものは『冥途』に代表される彼の作品のモチーフの一である。

 屡々、「怖くて、どこか懐かしい」と評される百閒作品の特徴は、蓋しこのプリミティブさに所以するものと思われる。だが、今一つ彼の作品が「マニア受け」に止まり、より広範な読者を得る迄に至らないのは、彼の幽体離脱癖に原因があるだろう。凧に掴まって、そのまま空を飛んだりするような、空想世界へのフライトに対して、彼は後僅かな所まで爪先立ちをして、ドスンと尻餅を搗く。その頃合いを見計らうのが、果たして巧みとも言えようが、それが小説家としてリーダーを獲得し辛いのかもしれない。随筆家としての彼の評価は、その錨の如き鈍重さが功を奏した結果かもしれない。

 果たして生活という生身の現場から離れようとしても離れられない不器用さが、物語としては中途半端な随筆ーー失敬ーーには向いていたのかも知れない。

 また、却ってその生身の不器用さが、彼岸の存在と好対照を為した面もあるかも知れない。

 話を戻す。『蘭陵王入陣曲』で主人公は、丁度戦隊モノのショーを観た子供の様に“ヒーローごっこ”に酔い痴れ暴れ回るのであるが、果たしてそんな男に対する周囲の眼差しというのは、完全に異常者を見るそれである。

 百閒のその他の作品『山高帽』などでは、周囲の人々の奇矯な振る舞いをする主人公に対する眼差しは描かれる。が、これは異常な心理に陥ってしまった人間の耳目を通じて歪んだ、半ば妄想的な描写になってしまっており、その評価は主人公の内心の表出と判別つき難くなっている。その点、『旅順入城式』『蘭陵王入陣曲』は、おかしくなっている自分自身の観察を中心とした上で、周囲の様子を付随的に観察するから却って、その断片から素に近い彼に対する反応が伺い知れるだろう。

 

 『旅順入城式』では主人公は最後、側で見ていた客からクレームを言われる始末であるが、それはその客の方が冷静に映画を見ていた証拠にはならない。また、狭い家の中を所狭しと暴れた主人公が爪先をぶつけた程度で我にかえるのも、その陶酔の浅はかさ、感受性の幼稚さを示すものにもならない。

 客の悪態も爪先への一撃も、何方もとって付けたような卑近な刺激でありオチである。然しその如何にも卑俗的な一撃というのが、却って、人間が非俗的な境地へと簡単に落ち込んでしまう事を示す、好例となっている。そしてそれは、読者が屡々忘れがちな、物語の導入部分ーー主人公が幽冥の境に転がり込む切っ掛けが他愛無い事と対になっていると見て差し支えないだろう。

 

 二つの小品の完成度は、蓋しその顛末のバランスの良さにあるだろう。

 だらしなく映画を観て、思わず感動して嗜められる。なあなあで舞台を観て、思わず感動して、真似をして怪我をした……。

 これくらい、カッコ悪くて話し甲斐も乏しい話であるから、タイトル位、大仰にしないと仕方がないーーというのが、恐らくもっとも妥当な解釈であると思われるが、その幕間劇・狂言的な完成度は、結果として妙なリアリズムを湛えるに至ってしまっていて、これが自分なんかから観たら、とても面白く、流石だなあと(偉そうに)感じられてしまったりするのである。

 蓋し、だらしなく戦勝記念映画を観て感動する主人公の高揚した感情は、それが愛国心だろうと何だろうと、それはだらしない愛国心であって、感動であって、しょうのないものなのである。

 また、しょうもない感動で他愛のない遊戯に耽る男の狂態というのは、傍目から見ればおかしなものであるほか無いのであるが、それは何かに取り憑かれて、そういう病気の様に踊っている人間と、それに翻弄される人間の関係として見た時には、如何にも興醒めする事請け合いだろう。

 総じて、読者が苦笑するしてしまうのは、悲劇の喜劇の側面を観てというよりかは、「自分でもよくわかっているんだけども、ままならずにそうなってしまうこと」としてその物語に於ける事態を、我が事として見てしまう所為だろう。

 偏見ではあるが、大抵、百閒なんか読む人間というのは、批判的に、冷笑的に、そう抑制的にあろうとする時点で、最早、自身の内にあるどうしようもなく無分別で狂暴な感受性というものが手の付けられないもので、放っておいても碌な事をしでかさない事を分かっていて、だからこそ、常にその手綱を握っていなければならない煩わしさというものに疲れてしまっている人が殆どである。

 だからこそ、「うっかり」なのか、「わざと」なのか分からないが、時々は息抜きで綱を手から放してみるような事を体験してみたいと思うのであるが、そんな危なっかしい事はなまじっか出来な訳だから、そこで、この様な安全な、詰まり他愛のない話で精々が所、擬似体験してケラケラと笑いたいと思うのであろう。

 

 なまじ、世間に溢れる娯楽というものは、大概が羽目を外させるものばかりである。だから、そういうのに対して、如何にも羽目を外せない人間というのは、彼岸からの誘惑に対して愈々、手綱を強く引き締めて硬直する百閒の作品に退避する。夢オチ上等、寧ろだからこそ安心して読めるのである。

 蘭陵王が仮面を被ったのはその美貌故にだったそうだが、果たして凡人がマスクをするのは、感染症対策と花粉症対策と、不細工な顔を隠す為である。特に最後の、だらしない選択肢は、然しそのお陰で、剃刀や筆を当てずとも外に出歩ける気楽さを担保してくれるものなので、蔑ろには出来ない。

 何となれば、世間は美人の水準で出来てはいないのだから、それに合わせて生きたり、或いは娯楽であっても自分を投影するだなんて事は覆面でもしなけりゃやっていけないものだ。羽目を外させる娯楽は、そんなマスクも引っ剥がしてしまおうとするから、果たして厄介なのである。そんなのは煩わしくて仕方がない、という人間が居る一方で、それがなくては世間を交通出来ない、という人間だっているというのに、である。

 

 常に緊張して、ノイローゼ気味で、普段生活するのに塩梅がいい人間は一定数いるもので、果たしてそれが全ての百閒マニアに当て嵌まるかは不明であるが、少なからずそのうちに居る事は確かである。

 如何にも生き辛い人間の(勿論、人間どんな性質にしろ生き辛さはあるに違いないのであるが)面倒臭さを笑う作家は、その肩身の狭さを否定的に描く場合が少なくないが、それを百閒は別段何か上げるでもなく下げるでもない。それが彼の評価に繋がるものだろうが、意外とそういう作家というのは少ない。

 ただ、それに何か良し悪し判断をつけるのが、果たして普通の所謂小説家なり、就中それを生業として商売をしている人間であろう。その点、百閒は随分上手い事をやってのけていて、今回取り上げた『旅順入城式』『蘭陵王入陣曲』は、果たして彼なんかが評価しなくても、当時既に世間的な評価はすっかり出来上がってしまっていた、レディ・メイドな概念なのである。だから、彼はちゃっかりしているもので、それ故に作家としても生き残れたーーと言えるかも知れない。

 何かこの文章でも、最後に評価というか教訓めいたものを付せなければならない気がしているのだが、差し詰めーー前にも、別の文章でもこんな事を書いたかもような気がするがーー、百閒とこれらの作品から学ぶ点として強調すべきものとしては、何よりか、上に示したその世渡りの賢さ、強かさだろう。

 誰かの感受性なんかを真似た所で、果たして、他人に良い様に操られて馬鹿を見るのがオチである。世間は自分の目で見るのに越したことはないどころか、結局、それでしか見えないものだ。

 

(2020/11/10)